明史卷七十四 志五十 職官三
本篇の篇目
- 本篇が扱う官署は次のとおり。太常寺(提督四夷館を附す)・光禄寺・太僕寺・鴻臚寺・尚寳司・六科・中書舍人・行人司・欽天監・太醫院・上林苑監・五城兵馬司・順天府(宛平・太興の二縣を附す)・武學・僧道録司・教坊司・宦官・女官。
- 順天府に附する縣を、この篇目の行は「太興」と書き、後の順天府の条では「大興」と書く。底本のまま両様を写す(太興は大興の誤りか)。
太常寺――官員と定数
- 卿一人(正三品)、少卿二人(正四品)、寺丞二人(正六品)。
- 属官は典簿㕔の典簿二人(正七品)、博士二人(正七品)、協律郎二人(正八品。嘉靖中に五人まで増員)、賛禮郎九人(正九品。嘉靖中に三十三人まで増員し、後に二人を革む)、司樂二十人(從九品。嘉靖中に三十九人まで増員し、後に五人を革む)。
- 天壇・地壇・朝日壇・夕月壇・先農壇・帝王廟・祈榖殿、および長陵・獻陵・景陵・裕陵・茂陵・泰陵・顯陵・康陵・永陵・昭陵の各祠祭署に、それぞれ奉祀一人(從七品)・祀丞二人(從八品)を置く。犧牲所に吏目一人(從九品)。
太常寺――職掌
- 祭祀と礼楽の事をつかさどり、属僚を統べ、政令を帳簿に記して礼部の指揮を受ける。
- 天地の神祇・鬼神の年ごとの祭には定まった日取りがある。冬に先立つ十二月朔日に翌年の祭日を奏進し、天子は奉天殿でこれを受けて諸司に頒つ。天子が親祭するときは儀礼を賛導し、大臣が代わって事に当たるときも同様。
- 国に冊立・冊封・冠婚・営繕・征討・大喪などの典礼があるとき、また年ごとの旱魃・長雨・大災変があるときは、宗廟社稷に告げることを請う。薦新については光禄寺に移牒してその季節の初物を供させる。
- 祭祀には期日前に省牲を請い、祝版と銅人を進め、殿に上って斎戒を奏請し、天子みずから御名を署す。省牲は光禄卿とともに行い、大祀のときだけ車駕が親しく省し、大臣は一日一度これを省する。
- 祭に際しては器を洗い、竈を整え、香燭・玉帛を扱い、神幄を整えて払い、必ず恭しく清潔にする。掌燎・看燎・讀祝・奏禮・對引・司香・進爼・舉麾・陳設・収支・導引・設位・典儀・通賛・奉帛・執爵・司樽・司罍洗の各役を、卿・次官・属官がそれぞれ分担して欠けるところがないようにする。
- 玉は四等。蒼璧(天を祀る)、黄琮(地を祀る)、赤璋と白琥(朝日・夕月を祀る)、兩圭有邸(大社・大稷を祭る)。
- 帛は五等。郊祀制帛(天地を祀る)、奉先制帛(旧の祖考に用いる)、禮神制帛(社稷・羣神・帝王・先師を祭る)、展親制帛(親王を祭享する)、報功制帛(功臣を祭享する)。
- 牲は四等。犢・牛・太牢・少牢。毛色は騂または黝を尊ぶ。大祀は三月、中祀は一月、小祀は一旬、滌に入れて養う。
- 楽は四等。九奏(天地を祀る)、八奏(神祇・太歳)、七奏(大明・大社・大稷・帝王)、六奏(夜明・帝社・帝稷・宗廟・先師)。舞は二つで文舞と武舞。楽器は移し用いない。陵園の祭には楽を用いない。
- 年の終わりに五祀の神を合祭するときは少卿が事に当たる。
太常寺――沿革
- 吴元年(1367年)、太常司を置き、卿(正三品)・少卿(正四品)・丞(正五品)・典簿・協律郎・博士(正七品)・賛禮郎(從八品)を設けた。
- 洪武初、各祠祭署に署令・署丞を置いた。
- 洪武十三年(1380年)、協律郎以下の品秩を改め定めた(協律郎は正八品、賛禮郎は正九品、司樂は從九品)。
- 洪武二十四年(1391年)、各署の署令を奉祀、署丞を祀丞と改めた。
- 洪武三十年(1397年)、司を寺と改め、官制は旧のままとした(二十五年にすでに司丞を正六品と定めていた)。
- 建文中、賛禮郎二人・太祝一人を増設し、あわせて各祭祀署にも改廃があった。天壇祠祭署を南郊祠祭署、泗州祠祭署を泗濵祠祭署、宿州祠祭署を新豐祠祭署とし、孝陵に鍾山祠祭署を置き、各司圃所に神樂觀知觀一人を増した。
- 成祖の初め、天壇を天地壇と改めただけで、他はすべて洪武年間の制に復した(建文のとき南郊祠祭署を郊壇祠祭署とし、さらに天地壇祠祭署と改めていた)。
- 洪熙元年(1425年)、犧牲所に吏目を置いて文書の授受をつかさどらせた(これより先、洪武元年に神牲所を置いて廩牲令・大使・副使らの官を設けたが、四年に廃していた)。
- 世宗が祀典を整理し、天地壇を天壇と地壇に分け、山川壇・耤田祠祭署を神祇壇とし、大祀殿を祈榖殿とし、朝日・夕月の二壇を増置してそれぞれ祠祭署を設け、さらに協律郎・賛禮郎・司樂などの員を増設した(隆慶三年に協律郎ら四十八員を革み、萬厯六年に嘉靖年間の制のとおり復設した)。
- 萬厯四年(1576年)、神祇壇を先農壇と改めた。
太常寺――提督四夷館
- 少卿一人(正四品)。訳書の事をつかさどる。
- 永樂五年(1407年)、外国の朝貢に応じて䝉古・女直・西番・西天・囘囘・百夷・髙昌・緬甸の八館を特設し、譯字生と通事を置いて言語文字を通訳させた(通事は当初は通政使司に属していた)。
- 正徳中に八百館を増設した(八百国の蘭者哥が進貢したため)。萬厯中にはさらに暹羅館を増設した。
- 当初、四夷館は翰林院に属し、国子監生を選んで訳を習わせた。宣徳元年(1426年)、官民の子弟をも選び、官を委ねて教習させ、学士が課業を検査した。𢎞治七年(1494年)、太常寺卿・少卿各一員を増設して提督とし、そのまま太常寺の所属に改めた。嘉靖中に卿を裁し、少卿一人だけとなった。
- 割注に言う。南京の太常寺卿は科挙出身者が多いが、北の寺は永樂年間から楽舞生が年功を積んで寺卿にまで昇り、はなはだしくは礼部侍郎・尚書を加えて寺を掌るに至り、後もその慣例が続いた。隆慶の初めになってようやく科甲出身者を重んじて補任するようになった。譯字生は明初には重んじられ、試験を受ける者は郷試・会試の定員に加えられて科甲と同じ出身とされたが、後にはただの雑流の扱いにとどまり、館に在る者の昇進はすべて鴻臚寺のうちで行われた。
光禄寺――官員と定数
- 卿一人(從三品)、少卿二人(正五品)、寺丞二人(從六品)。
- 属官は典簿㕔の典簿二人(從七品)、録事一人(從八品)。大官・□羞・良醖・掌醢の四署にそれぞれ署正一人(從六品)・署丞四人(從七品)・監事四人(正八品)。司牲司に大使一人(從九品)・副使一人(後に革む)。司牧局に大使一人(從九品。「革靖七年に革む」とあるが嘉靖七年の誤りか。後文に嘉靖七年に司牧局を革んだとある)。銀庫に大使一人。
光禄寺――職掌
- 卿は祭享・宴労・酒醴・膳羞の事をつかさどり、少卿・寺丞と属官を率いてその品目と数を弁別し、出納を集計し、多寡を量って礼部の指揮を受ける。
- 祭祀にあたっては太常寺とともに省牲する。天子が親祭するときは飲福・受胙を進める。薦新は月令に従ってその季節の品物を献ずる。喪葬の奠饌に用いる牲・果・菜の類は上林苑から取り、民間で買わない。市価を見て一割を上乗せして支給し、その代金は季節ごとに天財庫から支出する。四方から貢献される果物・鮮魚や厨房の材料は、慎重に検査して納める。器皿は工部に移して作らせ、あわせて工匠を募って作らせ、年ごとにその出来不出来を検査する。
- 筵宴の酒食、および外国使節や降人への供給は、みなその等級を分けて行う。天子の内旨による調達の申し付けは帳簿に記して覆奏する。監察には科道官一員をあて、出入りを検察して不正を糾し禁ずる。毎年四月から九月まで、御用の物および祭祀の品にはすべて氷を用いる。
- 大官署は祭品・官膳・節令の筵席・蕃使への宴犒の事、□羞署は宮中の膳の肴核の事、良醖署は酒醴の事、掌醢署は餳・油・醯・醤・梅・塩の事をつかさどる。司牲司は牲を養ってその肥痩を見、清掃し、司牧司も同様である。
光禄寺――沿革
- 吴元年(1367年)、宣徽院を置き、院使(正三品)・同知(正四品)・院判(正五品)・典簿(正七品)を設け、尚食・尚醴の二局をこれに属させた(局には大使 從六品・副使 從七品を設けた)。
- 洪武元年(1368年)、光禄寺と改め、光禄卿(正四品)・少卿(正五品)・寺丞(正六品)・主簿(正八品)を設け、所属の尚食等の局を置き、また太常司の供需庫を移してこれに属させた(局と庫の官の品はもとのままとした。底本は「局庫官品仍」で「舊」字を欠くか)。
- 洪武二年(1369年)、直長四人を設け、百官が御前で食を賜るときの供事にあたらせた。
- 洪武四年(1371年)、法酒庫を置いた(内酒坊大使 從八品・副使 從九品を設けた)。
- 洪武八年(1375年)、寺を司と改め、卿の秩を上げ(卿は從三品、少卿は從四品)、寺丞を司丞とし(從六品)、主簿を典簿とし(從七品)、録事を増設した(從八品)。また所属に大官・珍羞・良醖・掌醢の四署を置き、署ごとに署令一人(從六品)・丞一人(從七品)・監事一人(從八品)を置き、孳牧所に大使一人(從九品)・副使一人(未入流)を置いた。
- 洪武十年(1377年)、光禄司の散官の品秩を定めた。当時、光禄司の官には内官・流官・庖人と出身が異なる者が同じ散官を授けられていたので、ここに至って、内官から除授された者は内官の散官により、流官から除授された者は文官の散官により、庖人から除授された者は、卿(從三品)に尚膳大夫、少卿(正五品)に奉膳六夫(大夫の誤りか)、司丞(從六品)に司膳郎、各署丞(從七品)に掌膳郎、監事(從八品)に執膳郎を授けると定めた。まもなく各局・庫を廃して司牲司を置き、また孳牧所を司牧司と改めた(後に司牧局となる)。
- 洪武三十年(1397年)、ふたたび光禄寺と改め、官制は旧のままとした(少卿はすでに正五品と定まっていた)。
- 建文中、少卿・寺丞の品秩を上げ(少卿は四品、寺丞は五品に昇せた)、司圃所を増設し、司牲司を孳牲所と改めてその品級を上げた。成祖は旧制に復した。
- 正統六年(1441年)、四署の冗員を裁いた。これより先、光禄卿の奈亨が供応の事務が繁多であるとして各署の官の増員を奏請していたが、ここに至ってふたたび奏して裁減し、署正四人・署丞五人・監事七人を減らした。
- 嘉靖七年(1528年)、司牧局を革んだ。萬厯二年(1574年)、銀庫大使一人を添え設けた。
太僕寺――官員と定数
- 卿一人(從三品)、少卿二人(正四品。正徳十一年に一人増設)、寺丞四人(正六品)。
- 属官は主簿㕔の主簿一人(從七品)、常盈庫大使一人。所轄の各牧監に監正一人(正九品)・監副一人(從九品)・録事一人(後に監正・監副・録事はいずれも革む)、各羣に羣長一人(後に革む)。
太僕寺――職掌
- 卿は牧馬の政令をつかさどり、兵部の指揮を受ける。少卿は一人が寺の事務を補佐し、一人が営馬をつかさどり、一人が畿内の馬を監督する。寺丞は畿内の衛・京師内および山東・河南の六郡(濟南・兖州・東昌・開封・彰徳・衛輝)の孳牧・寄牧の馬匹を分担して管理する。
- 軍民の孳牧については丁数と資産を見て種馬を授け、牡十分の二、牝十分の八を一羣とする(南方では牝四に牡一を一羣とする)。毎年その駒を徴して備用馬と呼ぶ。馬の力を揃えて将士に給し、将士に足りればその余りを畿内の府州縣に寄せて牧させる。肥痩と増減は毛色と歯齢を帳簿に記して随時検閲し、三年ごとに御史一人とともに焼印を押し、健良な馬を選んで羸劣な馬を汰する。
- 草場のうちすでに開墾されて田となったものは毎年その租金を徴収し、災害の年にはこれを出して馬の購入を助ける。賠償の折納には馬金を徴して兵部に納める。主簿は文書の照合と処理をつかさどり、大使は庫の馬金の貯蔵をつかさどる。
太僕寺――沿革
- 洪武四年(1371年)、答答失里營に羣牧監を置き、水草の便に随って官署を立て、もっぱら牧養をつかさどらせた。
- 洪武六年(1373年)、あらためて滁州に羣牧監を置き、まもなく太僕寺と改めて秩を從三品とし、卿・少卿・寺丞を設け、さらに首領官として知事・主簿各一人を設けた。
- 洪武七年(1374年)、牧監と羣の官を二十七か所に増設し、太僕寺に属させた。まもなく羣牧監の品秩を定めた(令は正五品、丞は正六品、鎮撫は從六品、羣頭十人、吏目一人を置いた)。
- 洪武十年(1377年)、滁陽等の各牧監および所属の各羣を増置し、牧監の令・丞を監正・監副と改めた(監正は從八品、監副は正九品、御良は從九品。後にまた監正を正九品と定めた)。
- 洪武二十二年(1389年)、滁陽等十二牧監を定め、監ごとに監正一人・監副二人・録事一人を置き、來安等百二十七羣に、羣ごとに羣長一人を置いた(初めは副二人を設けていたが、ここで革んだ)。
- 洪武二十三年(1390年)、江東・當塗の二か所に牧監と所属の各羣を増置し、また烏衣等五十四羣を廃して永安等七羣を置き改め、牧監を十四と定めた。すなわち滁陽・大興・香泉・儀徵・定逺・天長・長淮・江都・句容・溧陽・江東・溧水・當塗・舒城である。羣は九十七あり、内訳は次のとおり。
- 滁陽監に属するのは大勝關・栢子・騮興・保寧・草堂の五羣。
- 大興監に属するのは永安・如臯・沿海・保全・朝陽・永昌・安定の七羣。
- 香泉監に属するのは大錢・銅城・永豊・龍勝・龍山・永寧・新安・慶安・襄安の九羣。
- 儀真監(前の一覧では儀徵。底本のまま両様を写す)に属するのは華陽・夀寧・廣應・善應の四羣。
- 定逺監に属するのは龍江・龍安・萬勝・龍泉の四羣。
- 天長監に属するのは天長・懐徳・招信・得勝・武安の五羣。
- 長淮監に属するのは長安・白石・荆山・南山・團山・草平の六羣。
- 江都監に属するのは萬寧・廣生・萬驥・順徳・大興・驥寧・崇徳の七羣。
- 句容監に属するのは句容・易風・仍信・福胙・通徳・承仙・上容・政仁・練塘・夀安の十羣。
- 溧陽監に属するのは舉福・從山・明義・永定・福賢・崇來・永城・永泰・奉安の九羣。
- 江東監に属するのは開寧・泉水・惟政・清化・神泉・新亭・長泰・光澤の八羣。
- 溧水監に属するのは儀鳳・仙壇・立信・歸政・豊慶・安興・遊山・永寧の八羣。
- 當塗監に属するのは石城・永保・化洽・姑熟・繁昌・多福・丹陽・徳政の八羣。
- 舒城監に属するのは棗林・海亭・伏龍・龍河・㑹龍・九龍・萬龍の七羣。
- 洪武二十八年(1395年)、羣牧監をことごとく廃し、その馬を有司に属させて牧養させた。
- 洪武三十年(1397年)、北平に行太僕寺を置き、秩は太僕寺と同じとした。
- 建文中、寺丞の品秩を上げ(旧は六品、五品に昇せた)、またその首領官の職名を改め、録事および典厩・典牧の二署、驌騻等十八羣、滁陽等八牧監、龍山等九十二羣を増設した。成祖は旧制に復した。
- 永樂元年(1403年)、北平行太僕寺を北京行太僕寺と改めた。十八年(1420年)、北京に都を定め、行太僕寺をそのまま太僕寺とした。洪熙元年(1425年)、ふたたび北京行太僕寺と称した。
- 正統六年(1441年)、太僕寺と定め、旧来の滁州にあるものを南京太僕寺と改めた。
- 割注に言う。寺丞は初め四人を置いたが、正統中にさらに八人を増して計十二人とし、一人が京衛を、一人が順徳・廣平の二府を、一人が開封・衛輝・彰徳の三府を、九人が順天・保定・真定・河間・永平・大名・濟南・兖州・東昌の九府の孳牧・寄牧の馬匹を分担した。𢎞治二年に四人を革み、正徳九年に一人を増して専ら寄牧の事にあたらせた。嘉靖八年にまた三人を革んで計六人とし、三路を分担させて三年で交代させ、寄牧については府州縣に兼務させた。隆慶三年にさらに三人を革んで三人だけとし、一人が庫蔵を提督して京師・辺境の事を協理し、二人が東西二路の馬政を分担した。
鴻臚寺――官員と定数
- 卿一人(正四品)、左右少卿各一人(從五品)、左右寺丞各一人(從六品)。
- 属官は主簿㕔の主簿一人(從八品)、司儀・司賔の二署にそれぞれ署丞一人(正九品)、鳴賛四人(從九品。後に五人を増設)、序班五十人(從九品。嘉靖三十六年に八人を革み、萬厯十一年に六人を復設)。
鴻臚寺――職掌
- 朝会・賓客・吉凶の儀礼の事をつかさどる。国家の大典礼、郊廟の祭祀、朝会、宴饗、経筵、冊封、進厯、進春、伝旨、奏㨗には、それぞれの役を供する。
- 地方官の朝覲、諸蕃の入貢、百官・使臣の復命・謝恩・拝謁・辞見は、すべて鴻臚寺が引き入れて奏聞する。
- 年中行事では、正旦・上元・重午・重九・長至に縀と宴を賜い、四月に字扇と夀縷を賜い、十一月に戴煖耳を賜い、陪祀の後に胙を頒ち賜うが、いずれも百官の行礼を賛導する。
- 司儀署は陳設と、地方官が来朝したさいの引見・奏上をつかさどり、来朝の者には必ずまず寺で儀礼を演習させる。司賔署は外国の朝貢使をつかさどり、その等級を弁じて拝跪の儀節を教える。鳴賛は儀礼の賛唱をつかさどり、内賛・通賛・對賛・接賛・伝賛はみなその職掌である。序班は侍班・齊班・糾儀および伝賛をつかさどる。
鴻臚寺――沿革
- 吴元年(1367年)、侍儀司を置き、秩を從五品とした。
- 洪武四年(1371年)、侍儀使(從七品)・引進使(正八品)・奉班都知(正九品)・通賛および通事舍人(從九品)を定め、いずれも七品以下の官とした。
- 洪武九年(1376年)、殿廷儀禮司と改め、使一人(正七品)・副三人(正八品)・承奉一人(從八品)・鳴賛二人(正九品)・序班十六人(從九品)・九關通事使一人(正八品)・副六人(從八品)を設けた。
- 洪武十三年(1380年)、使を司正と改め、左右の司副各一人を分置し、序班を四十四人に増やし、承奉を革んで司儀四人を増設した。
- 洪武二十二年(1389年)、左右司丞四人(正九品)を増設した。
- 洪武三十年(1397年)、はじめて鴻臚寺と改め、秩を正四品に昇せ、官六十二員を設けた(卿以下の員数と品級は前に列するとおり)。また外夷通事を設けてこれに属させた。
- 建文中、少卿以下の品秩を上げた(少卿は正五品、寺丞は正六品に昇せ、またその首領官の職名を改め、鳴賛・序班もみな品級を上げた)。司儀・司賔の二署を廃し、行人を鴻臚寺に属させた。成祖の初め、ことごとく旧制に復した。
尚寳司――官員と宝璽
- 卿一人(正五品)、少卿一人(從五品)、司丞三人(正六品。吴元年には一人だけ置き、後に二人を増した)。
- 宝璽・符牌・印章をつかさどり、その用途を弁別する。宝は二十四。旧来の宝が十七、嘉靖十八年(1539年)に増製したものが七である。
- 皇帝奉天之寶は唐宋以来の伝国の璽で、天地を祀るときに用いる。詔と赦には皇帝之寳、冊封と賜労には皇帝行寳、親王・大臣への詔および兵の調発には皇帝信寳、尊号を上るには皇帝尊親之寳、親王への諭には皇帝親親之寳を用いる。
- 天子之寳は山川・鬼神を祀るのに、天子行寳は外国を封じ賜労するのに、天子信寳は外服を招き徴発するのに用いる。詔には制誥之寳、敇には敇命之寳、臣下の奨励には廣運之寳、朝覲の官への敕諭には敬天勤民之寳を用いる。御前之寳・表章經史之寳・欽文之寳は図書・文史などに用いる。
- 世宗が増製したのは、奉天承運大明天子寳・大明受命之寳・巡狩天下之寳・垂訓之寳・命徳之寳・討罪安民之寳・敕正萬民之寳である。太子の宝は一つで、皇太子之寳という。
- 宝を用いるときは必ず奏請して発出を待つ。大朝会ごとに本司の官二員が宝を捧げて駕を導き、天子が座に着くのを待ってそれぞれ宝を案上に置き、殿中に立って侍する。礼が終われば宝を捧げて分かれ進み、中極殿に至って案に置いて退出する。天子が行幸するときは宝を奉じて随行する。年の終わりには欽天監に移して日を択び、香物を和した水で皇極門において宝を洗い、一年に宝を用いた回数を帳簿にして奏する。宝を請う・用いる・捧げる・随う・洗う・返納するの一切は、みな内官の尚寳監と共同で行う。
尚寳司――牌・符・驗の制
- 金牌の号は五つ。勲戚・侍衛のうち扈従する者、班直の者、巡朝の者、夜に宿衛する者に給する。仁は龍の形で公・侯・伯・駙馬都尉が佩び、義は虎の形で勲衛・指揮が佩び、禮は麟の形で千戸が佩び、智は獅の形で百戸が佩び、信は祥雲の形で將軍が佩びる。
- 半字銅符の号は四つ。巡城の侍衛官に給する。承・東・西・北といい、巡る者が左半、守る者が右半を持ち、符を合わせて点検する。
- 令牌の号は六つ。申は金吾の諸衛で夜警する者に、木・金・土・火・水は五城で夜警する者に給する。
- 銅牌の号は一つ。勇といい、守卒を検査する。
- 牙牌の号は五つ。朝参を検察するためのもので、公・侯・伯は勲、駙馬都尉は親、文官は文、武官は武、教坊司は樂という。嘉靖中に「官字某号」と総括して編号した。朝参にはこれを佩びて出入りし、佩びていなければ門者が止める。私に貸し借りした者は律のとおりに処罰し、事故があれば内府に納める。
- 察牌の号は三つ。陪祀官は陪、供事官は供、執事人は執という。
- 雙魚銅牌の号は二つ。嚴は錦衣校尉のうち直を止める者を粛すのに、善は光禄の胥役で供事する者を戒めるのに用いる。
- 符驗の号は五つ。馬・水・逹・通・信という(符驗の制は、上に船や馬の姿を織り込む。馬を起こすには馬の字、馬二頭には逹の字、馬一頭には通の字、船を起こすには水の字、船を並べるには信の字を用いる)。親王が藩に赴くとき、文武の官が出鎮・撫行して使命を通ずるときにこれを給し、御史が出て巡察するときは印を給する。事が終わればみな検証して返納させる。出入りの令を検査してその数を弁別する。その職は至って身近であり、その事は至って重い。
尚寳司――沿革
- 太祖は初め符璽郎を置き、秩を正七品とした。吴元年(1367年)に尚寳司卿と改め、秩を正五品とし、侍従の儒臣や勲衛にこれを領させた(耿瑄は散騎舍人から、黄觀は侍中から、楊榮は庶子から卿となった)。
- 才能のある者でなければ任じられなかった。勲衛や大臣の子弟は旨を奉じてなお丞に補されることができた。その後は恩廕による寄録が多くなり、定員がなくなった。
六科――官員と定数
- 吏・戸・禮・兵・刑・工の六科に、それぞれ都給事中一人(正七品)、左右給事中各一人(從七品)を置く。
- 給事中は吏科四人、戸科八人、禮科六人、兵科十人、刑科八人、工科四人(いずれも從七品)。後の増減は一定せず、萬厯九年に兵科五人、戸・刑の二科各四人、禮科二人を裁し、十一年に戸・兵・刑の三科各二人、禮科一人を復設した。
六科――職掌
- 侍従・規諫・補闕・拾遺と、六部および百司を検察することをつかさどる。制敇が宣行されるとき、大事は覆奏し、小事は署名して頒つ。誤りがあれば封じ返して執奏する。内外から上る章疏が下されると、分類して抄出し、参署して部に付し、その違誤を正させる。
- 吏科。吏部の引選には掌科(都給事中が本科の印を掌るのでこう呼ぶ。六科みな同じ)が御前に同行して旨を請う。地方官が文凴を受けるには、みなまず科に赴いて署名する。内外の官の考察と自陳の後には、各科とともに具奏して拾遺し、職に堪えない者を糾弾する。
- 戸科。光禄寺の年間の金榖収入、甲字等十庫の錢鈔・雜物を監督する。各科とともにこれに臨み、いずれも三か月で交代する。内外に田土の隠占・侵奪を願い出る者があれば糾弾する。
- 禮科。礼部の儀制を検訂する。大臣で糾劾・削奪を経て士人の評判を汚した者を記録し、贈諡の典を検討する。
- 兵科。武臣の貼黄・誥敕は本科の一人が監視する。引選と畫慿の制は吏科と同じ。
- 刑科。毎年二月下旬に前年の南北の罪囚の数を上申し、年の終わりに一年の断獄の数をまとめて上申し、十日ごとに現在の罪囚の数を上申する。いずれも法司からの移報にもとづいて奏上する。
- 工科。軍器局を検閲・試験し、御史とともに節慎庫を巡視し、各科とともに寳源局を検査する。
- 君主の徳の欠け、朝政の得失、百官の賢愚については、各科が単独の疏で直接に達し、あるいは連名の疏に署して奏聞する(六科に分属していても、事が重大であれば各科いずれも通じて奏することができる。ただしある科に属する事はその科を筆頭に列する)。
- 日朝には六科が輪番で一人、殿の左右に立ち、筆を耳に挟んで旨を記録する。題奏は日ごとに科籍に付し、五日に一度、内閣に送って編纂に備える。諸司が旨を奉じて処分した事項は五日に一度、註銷して怠慢を検査する。内官が旨を伝えたときは必ず覆奏し、あらためて旨を得てから施行する。
- 郷試には考試官、会試には同考官、殿試には受卷官を務める。宗室・諸蕃の冊封や外国への告諭には正副の使を務める。朝参の門籍は六科が順番で掌る。登聞鼓樓には日ごとに一人が出て、いずれも錦衣衛の官が監臨する(洪武元年には監察御史一人が登聞鼓を監したが、後に六科と錦衣衛が輪番で直することとした)。牒を受ければ題本を作って封じて上る。処刑にあたって牒を投じて冤を訴える者があれば、刑を停める判断をして旨を請う。
- 大事の廷議、大臣の廷推、大獄の廷鞫には、六科の掌科がみな参加する。
六科――沿革
- 明初は給事中を一括して設け、正五品としたが、後に何度もその秩を改めた(起居注と同じ扱い)。
- 洪武六年(1373年)、給事中十二人を設けて秩を正七品とし、はじめて六科に分けて科ごとに二人とし、給事中の印一つを鋳して、年長の一人を推してこれを掌らせた。
- 洪武九年(1376年)、給事中を十人と定めた。十年(1377年)、承敕監に属させた。十二年(1379年)、通政司に改属させた。
- 洪武十三年(1380年)、諫院を置き、左右司諫各一人(正七品)、左右正言各二人(從七品)を設けた。十五年(1382年)にはさらに諫議大夫を置いた(兵部尚書の唐鐸をこれに充てた)が、まもなくみな廃した。
- 洪武二十二年(1389年)、給事中を源士と改め、八十一人に増した(初め魏敏・卓敬ら計八十一人が給事中となり、主上はその数が古の元士の数に合うとして元士と改め、ここに至って六科は政事の本源であるとして源士と改めた)。まもなく給事中に戻した。
- 洪武二十四年(1391年)、科員を改め定め、科ごとに都給事中一人 正八品、左右給事中二人 從八品、給事中は合わせて四十人 正九品とした(各科の分置の員数は前に列するとおり)。
- 建文中、都給事中を正七品、給事中を從七品と改め、左右給事中を置かず、拾遺・補闕を増設した。成祖の初め、拾遺・補闕を革んでもとどおり左右給事中を置き、これも從七品とした。まもなく六科を午門外の直房に置いて事に臨ませた(六科の衙門はもとは磚門内の尚寳司の西にあったが、永樂中の火災で午門外の東西に移り、毎夜一科が宿直した)。
- 宣徳八年(1433年)、戸科給事中を増し、専ら黄冊を管理させた。
中書科・中書舍人――官員と職掌
- 中書科の中書舍人二十人(從七品)。ほかに文華殿東房に直する中書舍人、武英殿西房に直する中書舍人、内閣誥敕房の中書舍人、制敕房の中書舍人がある(いずれも從七品で定員なし)。
- 中書科の舍人は誥敕・制詔・銀册・鐵劵などの書写をつかさどる。草案は翰林に請い、宝は内府に請う。左劵および勘籍は古今通集庫に納める。
- 誥敇は公・侯・伯および一品から五品までが誥命、六品から九品までが敇命である。その勘合籍の号は初め二十八宿を用い、後に急就章を用いた。誥敇の号は、仁・義・禮・智を公・侯・伯・蕃王および一品二品が用い、十二支と文・行・忠・信を文官三品以下が用い、千字文を武官の續誥に用いる。いずれも千号を満とし、満ちればまた初めから繰り返す。王府および駙馬都尉には号を編せず、土官は文武で類別して編する。
- 大朝会には侍班し、東宮の令節の朝賀には駕を導いて文華殿で侍班し、宗室の冊封には副使を務める(郷試・会試・殿試には時に差遣・充授があり、いずれも科員と同じ扱い)。大祀の南郊には随駕して供事する。員に正副の別はなく、印は在任の長い者が掌る。
- 文華殿舍人は旨を奉じて書籍を書写することを職掌とする。武英殿舍人は旨を奉じて冊寳・圖書・冊頁を篆書することを職掌とする。内閣誥敕房の舍人は文官の誥敇、番訳の敕書ならびに外国文書・掲帖、兵部の紀功勘合の底簿を書辦する。制敕房の舍人は制敕・詔書・誥命・冊表・寳文・玉牒・講章・碑額・題奏・掲帖、一切の機密文書、各王府の敕符の底簿を書辦する。
中書科・中書舍人――沿革
- 洪武七年(1374年)、はじめて直省舍人十人を設け、秩を從八品として中書省に属させた。九年(1376年)、中書舍人として正七品に改め、まもなくまた從七品に改めた。十年(1377年)、給事中とともにみな承敕監に属させた。
- 建文中、中書舍人を革んで侍書と改め、正七品に昇せ、文翰館に入れて翰林院に属させた。成祖は旧制に復した。まもなく中書科の署を午門外に設け、中書舍人二十人と定めた(恩廕によって俸を帯びる者は定員に含めない)。
- 宣徳の間、内閣に誥敇房・制敕房の両房を置き、いずれも中書舍人を設けた。嘉靖二十年(1541年)、各部の主事・大理寺の評事を選び、もとの官銜のままで誥敕・制敕の両房に直させた。四十四年(1565年)、両房に欠員が生じたので、吏部に考選させて挙人を中書舍人とした。隆慶元年(1567年)、両房の辦事官は九卿に列することを得ないと令した。
- 按ずるに、洪武の間には承敇監・司文監・考功監を置いて、誥敕の給授の事を参掌させた。承敇監は洪武九年に置き、令一人 正六品・丞二人 從六品を設け、まもなく令を正七品・丞を正八品に改めた。十年に令・丞を承敕郎と改めて二人 從七品とし、給事中・中書舍人をみなこれに属させ、後に廃した。司文監は洪武九年に置き、令一人 正六品・丞二人 從六品を設け、まもなく令を正七品・丞を正八品に改め、十年に廃した。考功監は洪武八年に置いて令・丞を設け、九年に令一人 正六品・丞二人 從六品と定め、まもなく令を正七品・丞を正八品に改め、十八年に廃した。
- 永樂の初め、内閣学士に機務をつかさどらせ、詔冊・制誥はみなこれに属し、副本を謄写し正本を清書するのはみな中書舍人が入って行い、終われば退出した。
- 宣徳の初め、はじめて書に巧みな者を選んで閣の西の小房に置き、これを西制敇房と呼び、誥敕を掌る諸学士は閣の東に居て、稿を作って中書に付して清書させ、これを東誥敕房と呼んだ(これは辦事の話であって、知制誥の官銜は大学士と諸学士だけが帯びられた)。
- 正統の後、学士が誥敕を見なくなり、内閣はことごとくこれを中書・序班・譯字などの官に委ねた。こうして内閣にもまた東誥敕房ができた(劉鉉が輔臣と会食しなかったことに始まる。嘉靖の末にはふたたび翰林の史官に外制を掌らせたが、武官の誥敕はなおその属官が行った。誥赦・敕革の類は必ず閣臣を経るもので、翰林の諸臣は関与できなかった)。
- 文華・武英の両殿に直して御用の筆札を供する者は、初めは内官の職であったが、続いて中書が分けて直し、後にはもっぱら書に巧みな者を挙げるようになった。
- おおよそ舍人には二つの道があった。進士から部選される者は科道・部属に遷ることができ、両殿および両傍の舍人となる。両傍の舍人は部選による必要がなく、甲科・監生・生儒・布衣の別なく書に巧みな者はみななれた。科甲によらない者は初め序班および試中書舍人を授けられ、科道・部属に遷ることができず、後に官銜を九卿の列に加えられても、なお銜を帯びたまま辦事した(楷書出身の者には太常卿の銜を加えられる者があり、沈度・沈粲・潘辰らのように翰林学士・礼部尚書にまで加えられた者もあった)。
- 洪武の初めにはまた承天門待詔一人・閤門使四人・觀察使十人があったが、後にみな革んだ。
行人司
- 司正一人(正七品)、左右司副各一人(從七品)、行人三十七人(正八品)。
- 職は専ら節を捧げて使に奉ずる事である。詔赦の頒行、宗室の冊封、諸蕃の撫諭、賢才の徴聘、および賞賜・慰問・賑濟・軍旅・祭祀には、みな差遣を割り当てる。毎年の朝審には行人が節をもって旨を伝える。法司が囚徒を戍に遣るときは五府に送って精㣲册に記入させ、内府に返送する。
- 洪武十三年(1380年)、はじめて行人司を置き、行人(秩 正九品)・左右行人(從九品)を設けた。まもなく行人を司正、左右行人を左右司副と改め、あらためて行人三百四十五人を設けた。
- 洪武二十七年(1394年)、品秩を上げた。任じられた行人に孝廉・人材出身の者が多く、奉使がおおむね旨に称わなかったので、行人司の官を四十員と定め、みな進士をもってこれに充て、旨を奉じなければ勝手に遣ることができないとした。行人の職はここから重んじられるようになった。
- 建文中、行人司を廃して行人を鴻臚寺に属させた。成祖は旧制に復した。
欽天監――官員と定数
- 監正一人(底本は「五五品」に作る。正五品の誤りか)、監副二人(正六品)。
- 属官は主簿㕔の主簿一人(正八品)、春・夏・中・秋・冬の官正各一人(正六品)、五官靈臺郎八人(從七品。後に四人を革む)、五官保章正二人(正八品。後に一人を革む)、五官挈壺正二人(從八品。後に一人を革む)、五官監候三人(正九品。後に一人を革む)、五官司厯二人(正九品)、五官司晨八人(從九品。後に二人を革む)、漏刻博士六人(從九品。後に五人を革む)。
欽天監――職掌
- 監正・監副は天文を観察し、厯数を定め、占候・推歩の事をつかさどる。日月星辰・風雲気色は属官を率いて測候し、異変があれば密疏で奏聞する。
- 習業は四科に分かれる。天文・漏刻・囘囘・厯である。五官正から下は天文生・陰陽人に至るまで、それぞれ科を分けて業に従事する。
- 毎年、冬至の日に翌年の大統厯を呈奏し(成化十五年に、翌年の厯を十月朔日に頒つと改めた)、礼部に移送して頒行させる。御覧の月令厯、七政躔度厯、六壬遁甲厯、四季天象録は、いずれも期日前に進呈する。
- 厯註は、御用の厯には三十事(祭祀・頒詔・行幸などの類)、民間の厯には三十二事、壬遁厯には七十二事を註する。
- 祭日は前年に会選して進め、太常に通知する。営建・征討・冠婚・山陵の事には土地を選び日を択ぶ。立春には東郊で予め候気する。大朝賀には文樓に定時鼓を設ける。漏刻の報時、司晨の鶏唱はそれぞれの役が供する。
- 日月の交食は期日前にその分秒・時刻・起復・方位を算して奏聞し、礼部に下して内外の諸司に移し救日月の儀を行わせ、なお占書に照らして条奏する(食が一分に及ばない場合、および囘囘厯によって一分以上食する場合は、奏するだけで救わない)。
- 監官は他の官に転じてはならず、その子孫も他の職業に移ってはならない。人が足りなければ礼部に移して人を探させ、試用する。
- 五官正は厯法を推して四時を定め、司厯と監候がこれを補佐する。靈臺郎は日月星辰の躔次と分野を弁じて天文の変を候する。観象台は四面あり、面ごとに四人の天文生が輪番で測候をつかさどる。保章正は専ら天文の変を記し、その吉凶の占を定める。挈壺正は刻漏をつかさどり、壺に孔をあけて漏とし、箭を浮かべて刻とし、中星と昏旦の順序を考える。漏刻博士は時を定め、漏によって時を換え、牌によって更を報じ、鼓によって晨昏を定める。鐘鼓と司晨がこれを補佐する。
欽天監――沿革
- 明初、太史監を置き、太史令・通判太史監事・僉判太史監事・校事郎・五官正・靈臺郎・保章正副・挈壺正・掌厯・管勾などの官を設け、劉基を太史令とした。
- 吴元年(1367年)、監を院と改め、秩を正三品とした(院使は正三品、同知は正四品、院判は正五品。五官正・正官・典簿・兩暘司・時叙郎・紀候郎は正七品、靈臺郎および保章正は正八品、その副は從八品、掌厯・管勾は從九品)。
- 洪武元年(1368年)、元の太史であった張佑・張沂ら十四人を徴し、太史院を司天監と改め、監令一人(正三品)・少監二人(正四品)・監丞一人(正六品)・主簿一人(正七品)・主事一人(正八品)・五官正五人(正五品)・五官副五人(正六品)・靈臺郎二人(正七品)・保章正二人(從七品)・監候三人(正八品)・司辰八人(正九品)・漏刻博士六人(正五品)を設けた。また囘囘司天監を置き、監令一人(正四品)・少監二人(正五品)・監丞二人(正六品)を設け、元の囘囘司天監であった鄭阿里らを徴して厯を議論させた。
- 洪武三年(1370年)、司天監を欽天監と改めた。
- 洪武四年(1371年)、監官の職は専ら天をつかさどるものであり、特旨がなければ昇進・転任を得ないと詔した。また監官の散官を定めた(監令は正議大夫、少監は分朔大夫、五官司は司元大夫、監丞は靈臺郎、五官保章正は平秩郎、五官靈臺郎は司正郎、五官挈壺正は挈壺郎)。
- 洪武十四年(1381年)、欽天監を正五品に改め、令一人・丞一人を設けた(属官の五官正以下の員数は前に列するとおり)。いずれも品級に応じて文職の散官を授けた。
- 洪武二十二年(1389年)、令を監正、丞を監副と改めた。三十一年(1398年)、囘囘欽天監を廃し、その厯法を本監に属させた。
- 明初にはまた稽疑司を置いて卜筮をつかさどらせたが、まもなく廃した(洪武十七年に稽疑司を置き、司令一人 正六品、左右丞各一人 從六品を設け、属官の司筮は正九品で定員なし。まもなく廃した)。
太醫院――官員と職掌
- 院使一人(正五品)、院判二人(正六品)。属官は御醫四人(正八品。後に十八人まで増員し、隆慶五年に十人と定めた)、吏目一人(從九品。隆慶五年に十人と定めた)、生藥庫と恵民藥局にそれぞれ大使一人・副使一人。
- 医療の法をつかさどる。医術は十三科に分かれ、医官・医士・医生は科を専らにして学ぶ。すなわち大方脉・小方脉・婦人・瘡瘍・鍼炙・眼・口齒・接骨・傷寒・咽喉・金鏃・按摩・祝由である。
- 医家の子弟には師を択んで教え、三年・五年ごとに試験し、再試・三試を経て昇降を定める。
- 薬はその土地の適否を弁じ、良否を択び、慎重に処置して用いる。四方から解送される薬は品を検めて納め、院官が生藥庫に収蔵し、随時その乾湿を調える。礼部が官一員を委ねてこれを検察する。
- 御脈を診るには院使・院判・御醫が立ち会って診察し、内臣とともに内局に赴いて薬を選び、連名で封印する。薬剤には本を作って薬性と証治の法を書き出して奏する。御薬の調理には院官と内臣が監視し、二剤ずつを合わせて一剤とし、煮えるのを待って二器に分け、一つは御醫と内臣がまず嘗め、一つを進御する。なお帳簿を置いて内印を押し、年月と経緯を詳しく記して後の考察に備える。
- 王府が医を請えば、本院が旨を奉じて官または医士を遣る。文武の大臣および外国の君長が病めば、やはり旨を奉じて赴いて診る。その治療の可否はいずれも本を具えて覆奏する。
- 地方の府州縣には恵民藥局を置き、辺関・衛所および人の集まる所にはそれぞれ医生・医士あるいは医官を設け、いずれも本院が試験して遣る。年の終わりにその功過を検査して優劣を定め、昇降の根拠とする。
太醫院――沿革
- 太祖は初め醫學提舉司を置き、提舉(從五品)・同提舉(從六品)・副提舉(從七品)・醫學教授(正九品)・學正・官醫提領(從九品)を設けた。まもなく太醫監とし、少監(正四品)・監丞(正六品)を設けた。
- 吴元年(1367年)、監を院と改め、院使を設けて秩を正三品とし、同知は正四品、院判は正五品、典簿は正七品とした。
- 洪武三年(1370年)、恵民藥局を置き、府には提領、州縣には官醫を設け、軍民の貧しい病者に医薬を給した。
- 洪武六年(1373年)、内府に御藥局を置き、はじめて御醫を設けた(御醫局は秩 正八品。尚藥奉御二人・直長二人・藥童十人を設け、いずれも内官・内使を充てた。御醫四人は太醫院の醫士を充てた。四方から貢献される名薬の受け入れおよび薬品の貯蔵は奉御一人が掌り、御用の薬餌を供するには医官が内局で調製し、太醫院の官が診視した)。
- 洪武十四年(1381年)、太醫院を正五品に改め、令一人・丞一人・吏目一人を設け、属官として御醫四人を置き、いずれも文職と同じく散官を授けた。二十二年(1389年)、あらためて令を院使、丞を院判と改めた。
- 嘉靖十五年(1536年)、御藥房を聖濟殿と改め、また御藥庫を設け、御醫に輪番で直して供事するよう詔した。
上林苑監
- 左右監正各一人(正五品)、左右監副各一人(正六品。監正・監副は後には常設せず、監丞が職務を代行した)、左右監丞各一人(正七品)。属官は典簿㕔の典簿一人(正九品)、良牧・蕃育・林衡・嘉蔬の四署にそれぞれ典署一人(正七品)・署丞一人(正八品)・録事一人(正九品)。
- 監正は苑囿・園池・牧畜・樹種の事をつかさどる。禽獣・草木・蔬果については属官を率い、養戸・栽戸を監督し、時に応じてその養地・栽地を経営して家畜を飼い作物を植え、祭祀・賓客・宮府の膳羞に供する。
- 苑地は東は白河、西は西山、南は武清、北は居庸關、西南は渾河に至り、いずれも囲猟を禁ずる。
- 良牧署は牛を牧し豚を養い、蕃育署は鵞・鴨・鶏を育て、いずれも牝牡の数を帳簿に記して産卵・繁殖の課をおこなう。林衡署は果実と花木、嘉蔬署は瓜菜の栽培をつかさどり、いずれも畝と植樹の数を計算し、時に応じて包んで進める。
- 洪武二十五年(1392年)、上林苑を開くことを議し、城南に土地を測量したが(牛首山から方山に接し、西は河岸に沿う)、図を比べて上ったところ、太祖は民の生業を妨げるとして取りやめた。
- 永樂五年(1407年)、はじめて上林苑監を置き、良牧・蕃育・嘉疏・林衡・川衡・氷鑑および典察の左・右・前・後の、あわせて十の属署を設けた。
- 洪熙中、蕃育・嘉蔬の二署に統合した(良牧・川衡を蕃育に、氷鑑・林衡を嘉蔬に併せ、典察の四署を分けて併入した)。宣徳十年(1435年)、はじめて四署と定めた。
- 正徳の間、監督の内臣を増設して計九十九員となった。嘉靖元年(1522年)、八十員を裁汰し、蕃育・嘉蔬の二署の典署、林衡・嘉蔬の二署の録事を革んだ。
五城兵馬指揮司
- 中・東・西・南・北の五城兵馬指揮司にそれぞれ指揮一人(正六品)、副指揮四人(正七品)、吏目一人。
- 指揮は盗賊の巡捕、街道・溝渠の疏理、および囚犯・火禁の事をつかさどる。京城の内外はそれぞれ境界を画して分担し、境内に遊民・奸民があれば逮捕して処断する。車駕が親しく郊祀するときは人夫と里の者を率いて供事する。
- 割注に言う。親王・郡王の妃の父で官のない者には、親王のばあいは兵馬指揮、郡王のばあいは副指揮を授けるが、実務は管掌させない。
- 明初、兵馬指揮司を置き、都指揮・副都指揮・知事を設け、後に指揮使・副指揮使に改設し、各城門に兵馬を設けた。
- 洪武元年(1368年)、在京の兵馬指揮司に市司を兼管させ、三日に一度、街市の斛斗・秤尺を検査し、仲買人の姓名を調べ、物価を定めさせた。
- 洪武五年(1372年)、さらに中都に兵馬指揮司の分司を設けた。十年(1377年)、京城および中都の兵馬指揮司の秩をともに正六品と定め(これより前は正四品)、指揮・副指揮と改め、京城の巡捕などの事を専職として知事を革んだ。
- 洪武二十三年(1390年)、五城兵馬指揮司と定めた(ただし中城だけは中兵馬指揮司と称した)。いずれも吏目を増設した。
- 建文中、兵馬司と改め、指揮・副指揮を兵馬・副兵馬と改めた。永樂元年(1403年)、旧に復した。二年(1404年)、北京兵馬指揮司を設けた。
- 嘉靖四十一年(1562年)、五城を巡視する御史が毎年の終わりに各城の兵馬指揮について会本して挙劾するよう詔した。
- 隆慶の間、御史の趙可懐が、五城兵馬司の官は科挙・貢挙の正途から採るべきであり、死傷の検験、刑名、盗賊の処理は両京の知縣と同様にし、職に堪えない者は巡城御史が糾劾すべきである、と述べた。
順天府(宛平・大興の二縣を附す)
- 府尹一人(正三品)、府丞一人(正四品)、治中一人(正五品)、通判六人(正六品。嘉靖以後に三人を革む)、推官一人(從六品)、儒學教授一人(從九品)、訓導一人。
- 属官は經厯司の經厯一人(從七品)、知事一人(從八品)、照磨所の照磨一人(從九品)、檢校一人。
- 所轄の宛平・大興の二縣にそれぞれ知縣一人(正六品)、縣丞二人(正七品)、主簿は定員なし(正八品)、典史一人、司獄司の司獄一人(從九品)、都稅司大使一人(從九品)・副使一人。宣課司は四つ(正陽門外・正陽門・張家灣・蘆溝橋)、稅課司は二つ(安定門外・安定門)で、それぞれ大使一人(從九品)。稅課分司は二つ(崇文門・徳勝門)で、それぞれ副使一人。遞軍所・批驗所にそれぞれ大使一人。
- 府尹は京府の政令をつかさどり、教化を宣べ人を和し、農を勧め俗を問い、貢賦を均しくし征徭を節し、祭祀を謹み、戸口を検査し、豪強を糾治し、窮困を憐れみ恤み、獄訟を処理し、百姓の疾苦を知ることに努める。
- 毎年、立春には春を迎え春を進め、先農の神を祭る。月の朔望の早朝には老人・坊廂の者を奏して宣諭を聴かせる。孟春と孟冬には僚属を率いて郷飲酒礼を行う。勲戚の家人の文引は三か月に一度奏する。市場の取引ではその物価を平準にする。内官監が物料を徴発するときは、印信の掲帖があっても必ず文書を補って面奏する。天子が耤田を耕して三推の礼を行うときは、青箱を奉じて後ろで播種し、礼が終われば庶人を率いて畝を終える。
- 府丞は京府の次官で学校を兼領する。治中は府の事に参与して尹・丞を助ける。通判は糧儲・馬政・軍匠・薪炭・河渠・堤塗の事を分担する。推官は刑名を処理し属吏を検察する。二縣の職掌は地方の縣と同じであるが、天子の膝下に近いため品秩がとくに優遇されている。
- 順天府は旧の北平府である。洪武二年(1369年)に北平行省を置き、九年(1376年)に北平布政司と改め、いずれも北平を会府とした。永樂の初め、順天府と改め、十年(1412年)に府尹に昇せて秩を正三品とし、官を設けることは應天府と同じにした。
- 割注に言う。順天府の通判はもと六人で、うち一人が管糧、一人が管馬、一人が清軍、一人が管匠、一人が管河、一人が管柴炭であった。嘉靖八年に管河・管柴炭の二人を革み、萬厯九年に清軍・管匠の二人を革み、十一年に一人を復して軍匠を兼管させた。
武學
- 京衛武學に教授一人(從九品)・訓導一人。衛武學に教授一人・訓導二人あるいは一人。
- 京衛および各衛の幼官、応襲の舍人と武生を教え、科挙・武挙の会挙に備えさせ、兵部の指揮を受ける。武学のない所では諸武生は儒學に属する。
- 建文四年(1402年)、はじめて京衛武學を置き、教授一人を設け、啟忠等の十斎にそれぞれ訓導二人を設けた。永樂中に廃したが、正統六年(1441年)に復設した。後にしだいに各衛に武學を置き、官を設けることは儒學の制と同じにした。
僧録司・道録司ほか
- 僧録司に左右善世二人(正六品)、左右闡教二人(從六品)、左右講經二人(正八品)、左右覺義二人(從八品)。
- 道録司に左右正一二人(正六品)、左右演法二人(從六品)、左右至靈二人(正八品)、左右元義二人(從八品)。
- 神樂觀に提㸃一人(正六品)、知觀一人(從八品。嘉靖中に革む)。
- 龍虎山正一真人一人(正二品。洪武元年に張正常が入朝し、天師の号を去って真人に封じ、世襲とした。隆慶の間に真人の号を革んで提㸃と称するだけにしたが、萬厯の初めに復した)。法官・賛教・掌書各二人。閣皁山・三茅山にそれぞれ靈官一人(正八品)。太和山に提㸃一人。
- 僧録司・道録司は天下の僧道をつかさどる。地方の府州縣には僧綱司・道紀司などがあってその事を分掌する。いずれも経典に精通し戒行の潔い者を選んで任じる。
- 神樂觀は楽舞をつかさどり、天地の神祇の大祀および宗廟社稷の祭に備える。太常寺に属し、道録司との統属関係はない。
- 洪武元年(1368年)、善世・元教の二院を立てたが、四年(1371年)に革んだ。五年(1372年)、僧道に度牒を給した。
- 洪武十一年(1378年)、郊祀壇の西に神樂觀を建て、提㸃・知觀を設けた(初め提㸃は從六品、知觀は從九品。洪武十五年に提㸃を正六品、知觀を從八品に昇せた。朝会にあたっては提㸃は僧録司の左善世の下、道録司の左正一の上に列した)。
- 洪武十五年(1382年)、はじめて僧録司・道録司を置いた(それぞれ官を設けることは前に列するとおり)。僧は三等で禪・講・教といい、道は二等で全真・正一という。官を置くが俸は給せず、礼部に属させた。
- 洪武二十四年(1391年)、釈道の二教を整理し、僧には三年に一度だけ度牒を給すと限った。各府州縣の寺観は広くて大きいもの一か所だけを残して合併して住まわせ、僧道は府では四十人、州では三十人、縣では二十人を超えてはならないとし、民は年四十以上、女は年五十以上でなければ出家できないとした。
- 洪武二十八年(1395年)、天下の僧道を京に赴かせて考試して度牒を給し、経典に通じない者は退けさせた。
- その後、釈氏には法王・佛子・大國師などの封号、道士には大真人・髙士・髙士(底本は髙士を重ねて書く)などの封号があり、銀印を賜い、蟒玉を加え、太常卿・礼部尚書および宮保の官銜を加え、伯爵に封じられる者まであった。いずれも一時の寵幸によるもので、制度ではない。
教坊司
- 奉鑾一人(正九品)、左右韶舞各一人、左右司樂各一人(いずれも從九品)。
- 楽舞の承応をつかさどり、楽戸をもってこれに充て、礼部に属する(嘉靖中にはさらに顯陵供祀教坊司を設け、左右司樂各一人を置いた)。
宦官――二十四衙門(十二監)
- 十二監。監ごとに太監一員 正四品、左右少監各一員 從四品、左右監丞各一員 正五品、典簿一員 正六品、長随・奉御は定員なし 從六品。これは洪武の旧制であって、後にしだいに改廃された。詳細は各条の下に記す。
- 司禮監。提督太監一員、掌印太監一員、秉筆太監、随堂太監、書籍名畫等庫の掌司、内書堂の掌司、六科廊の掌司、典簿は定員なし。提督は皇城内の一切の儀礼・刑名、および長随・當差・聴事の各役の統制、闗防・門禁、光禄の供応の催促などを督理する。掌印は内外の章奏および御前の勘合を掌理する。秉筆・随堂は章奏文書を掌り、閣票に照らして朱で批する。掌司はそれぞれの担当を掌り、典簿は奏章および諸出納の号簿を記録する。
- 内官監。掌印太監一員、縂理・管理・僉書・典簿・掌司・寫字・監工は定員なし。木・石・瓦・土・塔材・東行・西行・油漆・婚禮・火藥の十作および米塩庫・營造庫・皇壇庫をつかさどる。国家の宮室・陵墓の営造ならびに鋼錫・粧奩・器用、氷室の諸事を扱う。
- 御用監。掌印太監一員、裏外監把縂二員、典簿・掌司・寫字・監工は定員なし。御前で用いる圍屏・牀榻などの木器および紫檀・象牙・烏木・螺鈿の諸玩器をみな製作する。また仁智殿監工一員があり、武英殿の中書が旨を受けて書写した書籍・画冊などを御前に奏進することをつかさどる。
- 司設監。員数は内官監と同じ。鹵簿・儀仗・帷幙の事をつかさどる。
- 御馬監。掌印・監督・提督の太監各一員。騰驤四衛營にそれぞれ監官・掌司・典簿・寫字・拏馬などの員を設ける。象房に掌司などの員がある。
- 神宫監。掌印太監一員、僉書・掌司・管理は定員なし。太廟および各廟の洒掃・香燈などの事をつかさどる。
- 尚膳監。掌印太監一員、提督光禄太監一員、縂理一員、管理・僉書・掌書・寫字・監工および各牛羊等房厰の監工は定員なし。御膳および宮内の食用ならびに筵宴の諸事をつかさどる。
- 尚寳監。掌印一員、僉書・掌司は定員なし。寳璽・敕符・将軍印信をつかさどる。宝を用いるときは、外の尚寳司が掲帖をもって監に赴いて旨を請い、女官の尚寳司に至って領取して監視する。外司が用い終われば号簿に記して返納する。
- 印綬監。員数は尚寳監と同じ。古今通籍庫ならびに鐡券・誥敕・貼黄・印信・勘合・符驗・信符の事をつかさどる。
- 直殿監。員数は上と同じ。各殿および廊廡の掃除の事をつかさどる。
- 尚衣監。掌印太監一員、管理・僉書・掌司・監工は定員なし。御用の冠冕・袍服および屨舄・靴韈の事をつかさどる。
- 都知監。掌印太監一員、僉書・掌司・長随・奉御は定員なし。旧は各監の行移・闗知・勘合の事をつかさどったが、後にはもっぱら随駕の前導と警蹕にあたった。
宦官――二十四衙門(四司・八局)
- 四司。旧制では司ごとに司正一人 正五品、左右司副各一人 從五品。後にしだいに改められた。詳細は下に記す。
- 惜薪司。掌印太監一員、總理・僉書・掌道・掌司・寫字・監工、および外厰・北厰・南厰・新南厰・新西厰にそれぞれ僉書・監工を設け、いずれも定員なし。用いる薪炭の事をつかさどる。
- 鐘鼓司。掌印太監一員、僉書・司房・學藝官は定員なし。出朝の鐘鼓および内楽・傳竒・過錦・打稻などの雑戯を掌管する。
- 寳鈔司。掌印太監一員、僉書・管理・監工は定員なし。粗細の草紙の製造をつかさどる。
- 混堂司。掌印太監一員、僉事・監工は定員なし。沐浴の事をつかさどる。
- 八局。旧制では局ごとに大使一人 正五品、左右副使各一人 從五品。
- 兵仗局。掌印太監一員、提督軍器庫太監一員、管理・僉書・掌司・寫字・監工は定員なし。軍器・火薬の製造をつかさどり、司がこれに属する。
- 銀作局。掌印太監一員、管理・僉書・寫字・監工は定員なし。金銀の器飾の製作をつかさどる。
- 浣衣局。掌印太監一員、僉書・監工は定員なし。宮人で年老いた者および罷免・廃された者はこの局に送って住まわせる。この局だけは皇城内にない。
- 巾㡌局。掌印太掌一員(太監の誤りか)、管理・僉書・掌司・監工は定員なし。宮内の使者の㡌・靴、駙馬の冠・靴および藩王が国に赴くさいの諸旗尉の帽・靴をつかさどる。
- 鍼工局。員数は巾帽局と同じ。宮中の衣服の製造をつかさどる。
- 内職染局。員数は上と同じ。御用および宮内で用いる縀匹の染造をつかさどる。城西の藍靛厰がこの局の外署である。
- 酒醋麵局。員数は上と同じ。宮内で食用とする酒・醋・糖・醬・麵・豆などの物をつかさどる。御酒房とは統轄関係にない。
- 司苑局。員数は上と同じ。蔬菜・瓜果をつかさどる。
- 以上の十二監・四司・八局が、いわゆる二十四衙門である。
宦官――二十四衙門の外の庫・房・厰
- 内府供用庫。掌印太監一員、總理・管理・掌司・寫字・監工は定員なし。宮内および山陵などの内官の食米、および御用の黄蠟・白蠟・沉香などの香をつかさどる。油蠟などの庫はみなこれに属する。旧制では各庫の官を設けることは八局と同じであった。
- 司鑰庫。員数は上と同じ。制錢を収蔵して賞賜に給することをつかさどる。
- 内承運庫。掌印太監一員、近侍僉書太監十員、掌司・寫字・監工(底本は「監二」に作る。監工の誤りか)は定員なし。大内の庫蔵をつかさどり、金銀および諸宝貨はすべてこれに属する。
- 十庫(底本は十庫と称するが、以下に挙げるのは九つ)。甲字は銀硃・黄丹・烏梅・藤黄・水銀などの物、乙字は奏本などの紙および各省から解送される胖襖、丙字は絲綿・布匹、丁字は生漆・桐油などの物、戊字は解送される弓箭・盔甲などの物、承運は黄白の生絹、廣盈は紗羅の諸帛匹、廣恵は巾帕・梳籠・刷抿・錢貫・鈔錠の類の製造と貯蔵、贓罰は官に没収した物をつかさどる。以上、それぞれ掌庫一員、貼庫・僉書は定員なし。
- 御酒房。提督太監一員、僉書は定員なし。御用の酒の製造をつかさどる。
- 御藥房。提督太監は正副二員で二班に分かれる。近侍・醫官は定員なし。御用の薬餌を職掌し、太醫院の官と表裏をなす。
- 御茶房。提督太監は正副二員で二班に分かれる。近侍は定員なし。茶・酒・瓜果の供奉および御膳を進めることをつかさどる。
- 牲口房。提督太監一員、僉書は定員なし。珍しい獣や鳥を養う。
- 刻漏房。掌房一員、僉書は定員なし。毎日の時刻を掌管し、一時ごとに直殿監の官を宮に入れて牌を換えさせ、夜は刻水を報ずる。
- 更鼔房。罪のある内官がこれをつかさどる。
- 甜食房。掌房一員、協同は定員なし。虎眼・窩絲などの糖および諸種の甘味の製造をつかさどり、御用監に属する。
- 彈子房。掌房一員、僉書数員。もっぱら泥彈を備える。
- 靈臺。掌印太監一員、僉書・近侍・看時近侍は定員なし。星気・雲物を観察し、災祥を測候することをつかさどる。
- 絛作。掌作一員、協同は定員なし。各色の兜羅絨および諸種の絛綬の製造をつかさどり、御用監に属する。
- 盔甲厰。旧の鞍轡局である。軍器の製造をつかさどる。
- 安民厰。旧名は王恭厰。それぞれ掌厰太監一員、貼厰・僉書は定員なし。銃砲・火薬の類の製造をつかさどる。
- 諸門。午門・東華門・西華門・奉天門・元武門・左右順門・左右紅門・皇宫門・坤寧門・宫左右門・東宫春和門・後門・左右門、および皇城・京城の内外の諸門(各門に正一員、管事は定員なし。晨昏の開閉、闗防と出入りをつかさどる。旧は門正・門副各一員を設けた)。
- 提督東厰。掌印太監一員、掌班・領班・司房は定員なし、貼刑二員。密偵と刑獄の事をつかさどる。旧は各監のうちから一人を選んで提督としたが、後にはもっぱら司禮の秉筆の第二人あるいは第三人をこれに充てた。貼刑官には錦衣衛の千戸・百戸を用いた。内官のうち司禮監の掌印の権勢は外朝の首輔のごとく、東厰を掌る者の権勢は総憲のごとく、秉筆・随堂は諸輔臣に比せられた。それぞれ私臣として掌家・掌班・司房などの員を置いた。
- 提督西厰。常設ではなく、汪直と谷大用だけがこれを置いた。劉瑾はまた西内厰を設けたが、まもなくいずれも廃された。
- 提督京營。提督太監・坐營太監・監鎗・掌司・僉書はいずれも定員なし。景泰元年(1450年)に始まる。
- 文書房。掌房十員。通政司が毎日封じて進める本章、ならびに会極門で京官および各藩が上る封本、外にあっては閣票、内にあっては搭票、一切の聖諭・旨意・御批を受け取り、いずれも文書房で底簿に控えて発することをつかさどる。司禮に昇る者は必ず文書房から出るのであって、外朝の詹事府・翰林院のようなものである。
- 禮儀房。提督太監一員は司禮の掌印または秉筆が兼摂する。掌司・寫字・管事・長随は定員なし。一切の選婚・駙馬の選定、皇太子・皇女の誕生に際しての乳母の選択など、諸吉礼をつかさどる。
- 中書房。掌房一員、散官は定員なし。文華殿の中書が書写した書籍・對聨・扇柄などの品を掌管し、旨を受けて書かせ、完成した日に奏進する。
- 御前近侍。乾清宫管事は御用の諸事を督理する。打夘牌子は随朝の捧劍をつかさどる。いずれも位次は司禮・東厰提督・守備の次にある。ほかに御前牌子・煖殿・管櫃子・賛禮・荅應長随・當差聴事・拏馬・尚冠・尚衣・尚履がおり、みな近侍である。
- 南京守備。正副の守備太監各一員、闗防一顆。留都を護衛し、司禮監の外差である。
- 天夀山守備。太監一員。各陵の守陵大監を統轄し、護衛をつかさどる。
- 湖廣承天府守備。太監一員。承徳・荊襄の地方を統轄し、興寧を護衛する。
- 織造。提督太監は南京一員・蘇州一員・杭州一員。御用の龍衣の織造をつかさどる。
- 鎮守。鎮守太監は洪熙に始まり、正統に至って遍く設けられ、各省・各鎮に鎮守太監のない所はなかった。嘉靖八年(1529年)以後になってようやく廃された。
- 市舶。廣東・福建・浙江の三市舶司にそれぞれ太監を置いて提督させたが、後に浙江・福建の二司を廃し、ただ廣東司だけを残した。
- 監督倉場。各倉・各場にいずれも監督太監を置いた。
- 諸陵神宫監。各陵にいずれも神宫監太監を置いて陵を守らせた。
- このほか監軍・採辦・糧稅・礦關などの使で常設でないものは、数えあげることができない。
宦官――沿革
- 吴元年(1367年)、内史監を置き、監令(正四品)・丞(正五品)・奉御(從五品)・内史(正七品)・典簿(正八品)を設けた。皇門官には皇門使(正五品)・副(從五品)を設けた。後に内使監・御用監を置き改め、それぞれ令一人(正三品)・丞二人(從三品)・奉御(正六品)・典簿(正七品)を設け、皇門官には門正(正四品)・副(從四品)、春宫門官には正(正五品)・副(從五品)、御馬司には司正(正五品)・副(從五品)を設け、尚寳兼守殿・尚冠・尚衣・尚佩・尚履・尚藥・紀事などの奉御(いずれも正六品)を置いた。
- 洪武二年(1369年)、内使監に奉御六十人、尚寳一人、尚冠七人、尚衣十人、尚佩九人、尚藥七人、紀事二人、執膳四人、司脯二人、司香四人、太廟司香四人、㳙潔二人を定置した。尚酒・尚醋・尚麵・尚染の四局を置き、局ごとに正一人・副二人を設けた。御馬・御用の二司を置き、司ごとに正一人・副二人を設けた。内府庫に大使一人・副使二人、内倉監に令一人・丞二人を設けた。および東宮に典璽・典翰・典膳・典服・典藥・典乗兵の六局を置き、局ごとに局郎一人・丞一人を設けた。また門官を置き、午門など十三門にそれぞれ門正一人・副一人、東宮門官として春和門など四門にそれぞれ門正一人・副一人を設けた。
- 洪武三年(1370年)、王府承奉司を置いた(承奉一人・承奉副二人、典寳・典服・典膳の三所にそれぞれ正一人・副一人、門官に門正一人・副一人を設けた)。内使監・御用監の秩をいずれも從三品に改めた(令は從三品、丞は正四品)。皇門官の秩は從四品とした(門正は從四品、副は正五品。春宫門官の正副も同じ)。
- 洪武四年(1371年)、あらためてすべてその品秩に差をつけて散官を授け、内使監を正五品、皇門官を正六品と改めた。割注に言う。洪武四年に内官の散官を定めた。正四品は中正大夫、從四品は中侍大夫、正五品は中衛大夫、從五品は侍直大夫、正六品は内侍郎、從六品は内直郎、正七品は正奉郎、從七品は正衛郎、正八品は司奉郎、從八品は司直郎。まもなく、内使監(正五品)には中衛大夫、丞(從五品)には侍直大夫を授けると定めた。また皇門正・局正・司正・東宫門正・局正はいずれも正六品で内侍郎を授け、尚寳奉御・皇門副・局副・使副・東宫門副・局丞・王府丞奉・門正・所正はいずれも從六品で内直郎を授け、尚冠などの奉御・内府庫大使・内倉監令・王府丞奉副・門副・所副はいずれも正七品で正奉郎を授け、庫副使・倉丞はいずれも從七品で正衛郎を授けた。
- 洪武六年(1373年)、御用監を供奉司と改め(秩は從七品、官五人を設けた)、内倉監を内府倉とし(監令を大使、監丞を副使とした)、内府庫を承運庫とした(なお大使・副使を設けた)。まもなく紀事司を置き、宦者の張翊を司正とした(秩は正七品)。また前代の内官糾劾の法を調べて内正司を置き、司正一人(正七品)・司副一人(從七品)を設け、専ら内官の失儀および不法を糾させた。まもなく典禮司と改め、さらに典禮紀察司と改めてその品秩を上げた(司正を正六品、司副を從六品に昇せた)。
- 洪武十年(1377年)、神宫内使監を置き、監令(正五品)・丞(從五品)・司香奉御(正七品)・典簿(從九品)を設けた。天地壇・神壇の各祠察署に署令(正七品)・丞(從七品)・司香奉御(正八品)を設けた。甲・乙・丙・丁・戊の五庫にそれぞれ大使(正七品)・副(從七品)を設けた。および皇城門官として端門など十六門にそれぞれ門正(正七品)・副(從七品)を設けた。
- 洪武十二年(1379年)、尚衣・尚冠・尚履の三監、針工・皮作・巾㡌の三局を置き改め、尚佩局を尚佩監と改めた。
- 洪武十六年(1383年)、内府の寳鈔廣源・廣恵の二庫を置き、楮幣の出納を職掌させた。入るときは廣源庫が、出るときは廣恵庫が掌る(寳鈔廣源庫には大使一人 正九品を置いて流官を用い、副使一人 從九品を置いて内官を用いた。寳鈔廣恵庫には大使二人 正九品・副使二人 從九品を置き、いずれも流官と内官を兼ね用いた)。
- 洪武十七年(1384年)、内官の諸監・庫・局の品職を改め定めた。内官監に令一人(正六品)・丞二人(從六品)・典簿一人(正九品)。神宫監に令一人(正七品)・丞一人(從七品)・奉御一人(正八品)。尚寳監に令一人(正七品)・丞一人(從七品)。尚衣監に令一人(正七品)・丞一人(從七品)・奉御四人(正八品)。尚膳監に令一人(正七品)・丞一人(從七品)。司設監に令一人(正七品)・丞一人(從七品)・奉御四人(正八品)。司禮監に令一人(正七品)・丞一人(從七品)。御馬監に令一人(正七品)・丞一人(從七品)。直殿監に令一人(正七品)・丞四人(從七品)・小内使十五人。宫門承制に奉御五人(正八品)。宫門守門官に門正一人(正八品)・副四人(從八品)。内丞運庫に大使一人(正九品)・副使二人(從九品)。司鑰庫に大使一人(正九品)・副使四人(從九品)。巾㡌局に大使一人(正九品)・副使一人(從九品)。針工局に大使一人(正九品)・副使一人(從九品)。織染局に大使一人(正九品)・副使一人(從九品)。顔料局に大使一人(正九品)。司苑局に大使一人(正九品)。司牧局に大使一人(正九品)。いずれも内官の中から選んで用いた。
- 洪武二十八年(1395年)、内官の監・司・庫・局と諸門官、ならびに東宮六局・王府丞奉などの官の職秩を重ねて定めた。
- 内官監は十一。神宫監・尚寳監・孝陵神宫監・尚膳監・尚衣監・司設監・内官監・司禮監・御馬監・印綬監・直殿監。いずれも太監一人(正四品)・左右少監各一人(從四品)・左右監丞各一人(正五品)・典簿一人(正六品)を設け、また長随奉御(正六品)を設けた。
- 門官は七。午門・東華門・西華門・元武門・奉天門・左順門・右順門。いずれも門正一人(正四品)・門副一人(從四品)を設けた。
- 司は二。鐘鼓司・惜薪司。いずれも司正一人(正五品)・左右司副各一人(從五品)を設けた。
- 局と庫は九。兵仗局・内織染局・針工局・巾㡌局・司苑局・酒醋麵局・内承運庫・司鑰庫・内府供用庫。局庫ごとにそれぞれ大使一人(正五品)・左右副使各一人(從五品)を設けた。
- 東宮の典璽・典藥・典膳・典服・典兵・典乗の六局にそれぞれ局郎一人(正五品)・局丞二人(從五品)を設けた。ただし典璽局にだけ紀事奉御(正六品)を増設した。
- 親王府の丞奉司に丞奉正(正六品)・承奉副(從六品)を設けた。所は三つで、典寳所に典寳正一人(正六品)・副一人(從六品)、典膳所に典膳正一人(正六品)・副一人(從六品)、典服所に典服正一人(正六品)・副一人(從六品)を設け、門官に門正一人(正六品)・門副一人(從六品)を設けた。また内使十人を設けた(司冠一人・司衣三人・司佩一人・司履一人・司藥二人・司矢二人)。各公主の位下に中使司を設け、司正・司副各一人を置いた。
- 洪武三十年(1397年)、都知監を置き、太監一人(正四品)・左右少監各一人(從四品)・左右監丞各一人(正五品)・典簿一人(正六品)を設けた。また銀作局を置き、大使一人(正五品)・副使一人(從五品)を設けた。
宦官――太祖の戒めとその後の推移
- 太祖はかつて侍臣に言った。周礼を見るに奄寺は百人にも及ばないのに、後世は数千を超え、それが乱の階梯となった。この輩は洒掃と使い走りに供するだけでよく、格別の任務がなければ数を多くさせてはならない、と。
- また言った。この輩は善良な者は千百人のうち一二人にすぎず、悪しき者が常に千百人である。耳目に用いれば耳目が塞がれ、腹心に用いれば腹心が病む。これを馭する道は法を畏れさせることにあり、功を持たせてはならない。法を畏れれば身を慎み、功があれば驕り恣にする、と。
- ある内侍が帝に仕えて最も久しく、ひそかに政事に言及したので、たちどころに斥け、生涯召さなかった。よって内侍に識字を許さぬ制を定めた。洪武十七年(1384年)、鉄牌を置き「内臣は政事に干預することを得ず、犯す者は斬」と刻んで宮門の中に立てた。また諸司には内官監と文書を往来させてはならないと敕した。
- しかし洪武二十五年(1392年)、聶慶童を河州に遣って茶馬の事を敕諭させた。中官が使を奉じて事を行うのはここに始まった。
- 成祖もまた「朕は太祖の訓えに一に従う。御宝の文書がなければ、たとえ一軍一民のことでも中官が勝手に調発することはできない」と言い、應天の工匠を私用に使役した者があると、ただちに錦衣衛に逮捕・処断を命じた。しかし中官が四方に出ることは、実は永樂の時に始まる。
- 永樂元年(1403年)、李興らが敇を齎して暹羅国王を労った。これが外国に奉使する始めである。三年(1405年)、鄭和らに兵二万を率いさせ、西洋の古里・満刺の諸国に賞を行わせた。これが兵を将いる始めである。八年(1410年)、王安らに都督の譚青らの軍を監させ、馬靖に甘肅を巡視させた。これが監軍・巡視の始めである。
- 洪熙元年(1425年)に至って、鄭和に下番の官軍を領して南京を守備させ、そのまま踏襲されて改まらなかった。王安に甘肅を鎮守するよう敕し、各省・各鎮にみな鎮守が置かれることとなった。
- 宣徳四年(1429年)、特に文書房を設け、大学士の陳山に小内史へ専ら書を授けるよう命じた。太祖が識字読書を許さなかった制は、これによって廃れた。
- 王瑾・金英に金の印記を賜うのは諸々の機密に与る大臣と同じであり、金英・范𢎞らに免死の詔文を賜うのは勲臣の鉄券と変わらなかった。
- 英宗の王振、憲宗の汪直、武宗の劉瑾、熹宗の魏忠賢に至っては、太阿の剣を逆さに握らせたようなもので、威福の権が下に移った。神宗の礦税の使は、一つの地方として害を蒙らぬ所がなかった。そのほか権勢を頼んで焼けつくばかりに振る舞った者は数えきれず、弟や甥に廕を与えて伯に封じ公に封じたのは、官制を歪めた大きなものである。
- 荘烈帝は初め大悪人を除いて内外が聖徳を称えたが、やがて鎮守・出征・督餉・坐営などの事は一つとして中官に命じないものがなくなり、明もついに亡んだ。
女官――六局一司の官員と職掌
- 尚宫局。尚宫二人 正五品(六尚はいずれも同じ)。尚宫は中宮の導引をつかさどり、六局が出納する文籍にはみな印を押して署名する。外に徴発・調達するときはそのために旨を請い、牒を内官監に付し、監が牒を受けて外に移送する。司四を統べる。
- 司記。司記二人 正六品、典記二人 正七品、掌記二人 正八品。宮内の諸司の簿書の出入りの記録目録をつかさどり、順に署名し印を加えたうえで施行を認める。女史六人が文書の管掌にあたる。二十四司・二十四典・二十四掌の品秩はいずれも同じ。
- 司言。司言二人・典言二人・掌言二人・女史四人。宣伝と啓奏をつかさどる。令節に外命婦が朝賀するときは、司言が旨を伝える。
- 司簿。司簿二人・典簿二人・掌簿二人・女史六人。宮人の名籍および廩賜・賞の事をつかさどる。
- 司闈。司闈六人・典闈六人・掌闈六人・女史四人。宮闈の鍵の管理をつかさどる。
- 尚儀局。尚儀二人。礼儀と起居の事をつかさどる。司四を統べる。
- 司籍。司籍二人・典籍二人・掌籍二人・女史十人。経籍・図書・筆札・几案の事。
- 司樂。司樂四人・典樂四人・掌樂四人・女史二人。音楽の事。
- 司賔。司賔二人・典賔二人・掌賔二人・女史二人。朝見・宴会・賜与の事。
- 司贊。司賛二人・典賛二人・掌賛二人・女史二人。朝見・宴会の賛導の事。
- 彤史。彤史二人 正六品。宴見・進御の事をつかさどる。后妃や君の妾が君所に侍するとき、彤史はその日月を謹んで記す。
- 尚服局。尚服二人。服用と采章の数を供することをつかさどる。司四を統べる。
- 司寳。司寳二人・典寳二人・掌寳二人・女史四人。寳璽・符契。
- 司衣。司衣二人・典衣二人・掌衣二人・女史四人。衣服・首飾の事。
- 司飾。司飾二人・典飾二人・掌飾二人・女史二人。巾櫛・膏沐の事。
- 司仗。司仗二人・典仗二人・掌仗二人・女史二人。朝賀には女官を率いて儀仗を捧げ持つ。
- 尚食局。尚食二人。膳羞と品齋の数をつかさどる。飲食を進御するときは尚食が先に味見する。司四を統べる。
- 司膳。司膳四人・典膳四人・掌膳四人・女史四人。割烹・煎和の事。
- 司醖。司醖二人・典醖二人・掌醖二人・女史二人。酒醴・酏飲の事。
- 司藥。司藥二人・典藥二人・掌藥二人・女史四人。医方・薬物。
- 司饎。司饎二人・典饎二人・掌饎二人。廩餼・薪炭の事。
- 尚寝局。尚寝二人。天子の宴寝をつかさどる。司四を統べる。
- 司設。司設二人・典設二人・掌設二人・女史四人。牀帷・茵席・清掃・張設の事。
- 司輿。司輿二人・典輿二人・掌輿二人・女史二人。輿輦・繖扇の事。
- 司苑。司苑二人・典苑二人・掌苑二人・女史四人。園囿の種植と花果。
- 司燈。司燈二人・典燈二人・掌燈二人・女史二人。燈燭の事。
- 尚功局。尚功二人。女紅の課業を督することをつかさどる。司四を統べる。
- 司製。司製二人・典製二人・掌製二人・女史四人。衣服の裁製・縫紉の事。
- 司珍。司珍二人・典珍二人・掌珍二人・女史六人。金玉・宝貨。
- 司綵。司綵二人・典綵二人・掌綵二人・女史六人。繪綿・絲絮の事。
- 司計。司計二人・典計二人・掌計二人・女史四人。度支・衣服・飲食・柴炭の事。
- 宫正司。宫正一人 正五品、司正二人 正六品、典正二人 正七品。宮闈の戒令と謫罰を糾察することをつかさどり、大事は奏聞する。女史四人が功過を記す。
女官――沿革
- 吴元年(1367年)、内職の六尚局を置いた。
- 洪武五年(1372年)、六局一司と定めた。局は尚宫・尚儀・尚食・尚服・尚寝・尚功、司は宫正である(尚宫二人、尚儀・尚服・尚食・尚寝・尚功各一人、宫正二人、いずれも正六品)。六局は二十四司を分け領し、司ごとに二人または四人を置いた。すなわち司記・司言・司簿・司樂・司賔・司衣・司飾・司醖・司藥・司供・司輿・司苑・司軫・司彩・司記が各二人、司闈・司籍・司賔・司賛・司仗・司饌・司設・司燈・司製が各四人である(この一覧は司記と司賔がそれぞれ二度出る。底本のまま写す)。女史は十八人(尚功局が六人、他の五局および宫正司は各二人)。
- 洪武十七年(1384年)、品秩を改め定めた(尚宫・尚儀・尚服・尚食・尚寝・尚功・宫正を各一人とし、いずれも正五品に改めた。二十四司は正六品。二十四掌を増設して正七品。宫正司に司正を増設して正六品とした)。
- 洪武二十二年(1389年)、宮官に敕を授け、勤務の長い者は五年・六年で父母のもとへ帰ることを許して婚嫁を認め、年の高い者には帰ることを許し、留まることを願う者はその意に任せ、現に職を授かる者にはその家に禄を給した。
- 洪武二十七年(1394年)、また品職を重ねて定めた(二十四典を増設して正七品、二十四掌を正八品に改め、尚儀局に彤史を増設して正六品、宫正司に典正を増設して正七品とした。六尚以下の員数はいずれも前に列するとおり。宮官は合わせて百八十七人、女史は九十六人)。六局にはそれぞれ印を鋳して給した。
- 永樂の後、その職務はことごとく宦官に移り、宮官として残ったのは尚寳の四司だけとなった。