明史卷六十八 志第四十四 輿服
- この巻は輿服志の末巻で、冒頭に「皇帝寳璽/皇后册寳」「皇妃以下册印/皇太子册寳」「皇太子妃册寳/親王以下册寳册印」「鐡劵/印信」「符節/宫室制度」「臣庶室屋制度/器用」という項目立てが掲げられている。
皇帝の宝璽
- 明初の宝璽は十七あった。その大きなものは、皇帝奉天之寳、皇帝之寳、皇帝行寳、皇帝信寳、天子之寳、天子行寳、天子信寳、制誥之寳、敕命之寳、廣運之寳、皇帝尊親之寳、皇帝親親之寳、敬天勤民之寳。さらに御前之寳、表章經史之寳および欽文之璽があり、丹符は四方に出して検証に用いた。
- 洪武元年(1368年)、宝璽を作ろうとしたとき、海を渡ってきた胡商が美玉を献じ、これは于闐から出たもので祖父から伝えられ、帝王の宝璽となるべきものだと言った。そこで宝を作らせたが、十七宝のうちどれがこの玉で作られたものかは分からない。
- 成祖はさらに皇帝親親之寳、皇帝奉天之寳、誥命之寳、敕命之寳を作った。
- 𢎞治十三年(1500年)、鄠県の民である毛志学が泥河のほとりで玉璽を得た。その文は「受命於天 既壽永昌」で、色は白くわずかに青みを帯び、螭の紐が付いていた。陝西巡撫の熊翀は秦の璽が再び世に出たとして人を遣わして献上させた。
- 礼部尚書の傳瀚が言った。秦の璽ができて以来、歴代の得失と真偽の跡は史籍に載っている。いま進められた篆文は『輟耕録』などの書が模写して載せる魚鳥の篆文と異なる。その螭の紐も、史伝が記す「文は五龍を盤らせ、螭は一角を欠き、傍らに魏録を刻む」というものと類似しない。そもそも秦の璽が失われて久しく、いま進められたものも宋や元が得たものも、いずれも後世に秦の璽を模して刻んだものであろう。
- 思うに璽の用途は文書を識別して詐偽を防ぐことにあり、宝玩とするためではない。秦の始皇が藍田の玉を得て璽とし、漢以後これを伝え用いた。それ以来、巧みに争い力ずくで奪い、これを得てこそ天命を受けたと言えると考えたが、天命は徳によって受けるもので璽によるのではないことを知らなかった。だから求めて得られなければ偽造して人を欺き、得れば君臣が喜色を浮かべて天下に誇示する。いずれも千年の笑いものである。
- わが高皇帝は自ら一代の璽を制し、その文にはそれぞれ意味があり事に応じて用いる。まことに一代の受命の符となり万世に法を垂れるもので、この璽になど頼る必要はない、と。
- 帝はその言に従い、これを退けて用いなかった。
- 嘉靖十八年(1539年)、新たに七宝を作った。奉天承運大明天子寳、大明受命之寳、巡狩天下之寳、垂訓之寳、命徳之寳、討罪安民之寳、敕正萬民之寳である。国初の宝璽とあわせて御宝二十四となり、尚宝司の官がこれを掌った。
皇后の冊宝
- 冊は金の板二片。周尺で長さ一尺二寸、幅五寸、厚さ二分五釐。字は字数に応じて行を分け、真書で鐫る。上下に孔があり紅の縧で連ね、書帙のように開閉する。紅錦の褥を敷く。
- 冊盝は木で作り、渾金と瀝粉の蟠龍で飾り、紅の紵絲を裏に張る。内側は紅羅の銷金の小さな袱で冊を包み、外側は紅羅の銷金の夾袱で包み、五色の小絛を外に巻く。
- 宝は金で亀の紐、篆文は「皇后之寳」。周尺で方五寸九分、厚さ一寸七分。宝池は金で、宝が収まる広さに作る。
- 宝篋は二副で、一つに宝を、一つに宝池を納める。副ごとに三重で、外篋は木に渾金・瀝粉の蟠龍を飾り紅の紵絲を裏に張る。中篋は金に蟠龍を鏨る。内の小篋の飾りは外篋と同じ。内に宝座を置き、四隅に蟠龍を雕り渾金で飾る。座の上には錦の褥を用い、銷金の紅羅の小さな夾袱で宝を包む。その篋の外はそれぞれ紅羅の銷金の大きな夾袱で覆う。
- 冊立の日には、冊も宝もともに紅漆の輿の案に置く。案の頂には紅羅の瀝水があり、担牀でこれを担ぐ。
皇妃以下の冊印
- 皇貴妃以下は冊があって宝はなく、印がある。妃の冊は鍍金した銀の板二片で、幅と長さは皇后の冊と同じ。冊盝は渾金・瀝粉の蟠鳳で飾る。その印は金で亀の紐、寸法は諸王の宝と同じ、文は「皇妃之印」。篋は蟠鳳で飾る。
- 宣徳元年(1426年)、帝は貴妃の孫氏に容徳があるとして、特に皇太后に請うて金宝を作って賜った。まもなく皇嗣を生んだ。これ以来、貴妃に宝を授けることが故事となった。
- 嘉靖十年(1531年)、九嬪を立てたとき、冊は銀を用い皇妃の五分の一を減らし、金で飾った。
皇太子の冊宝
- 冊は金の板二片。その制および盝・篋の飾りは皇后の冊と同じ。
- 宝は金で亀の紐、篆書で「皇太子寳」。その制および池・篋の飾りは皇后の宝と同じ。
皇太子妃の冊宝
- 冊は金の板二葉で重さ百両。葉ごとに高さ一尺二寸、幅五寸。冊を錦に敷き、紅の絲絛で連ね、錦の褥を敷き、紅羅の銷金の袱で包む。
- その盝は渾金・瀝粉の雲鳳で飾り、内には花銀の釘鉸と金絲を嵌めた鉄の筦籥があり、外は紅羅の銷金の袱で覆う。
- その金宝の制は詳らかでない。洪武二十八年(1395年)に改め定め、金冊を授けるだけとし宝は用いないこととした。
親王の冊宝
- 冊の制は皇太子と同じ。その宝は金で亀の紐、周尺で方五寸二分、厚さ一寸五分、文は「某王之寳」。池と篋の飾りは皇太子の宝と同じ。宝盝の飾りは蟠螭を雕る。
親王妃の冊印
- その金冊は高さが皇太子妃の冊より一寸少ない。他の制はすべて同じ。冊文は親王に準ずる。その金印の制は詳らかでない。洪武二十八年(1395年)に改め定め、金冊を授けるだけとした。
公主の冊印
- 銀の板二片に字を鐫って鍍金し、紅錦の褥を敷く。冊盝は渾金・瀝粉の蟠螭で飾る。
- その印は宋の制と同じく金で亀の紐、文は「某國公主之印」、方五寸二分、厚さ一寸五分。印池は金で、印が収まる広さに作る。印の外篋は木に渾金・瀝粉の盤鳳を飾る。中篋は金に蟠鳳を鏨る。内の小篋の飾りは外篋と同じ。
親王世子・世子妃・郡王の冊宝
- 親王世子は金冊と金宝。襲封のときは金冊を授けるだけで、金宝は伝えて用いる。
- 世子妃も金冊を用いる。洪武二十三年(1390年)、世子妃の印を鋳た。制は王妃に準じ、金印に亀の紐、篆文は「某世子妃印」。
- 郡王は鍍金した銀の冊と鍍金した銀の印。冊文は世子に準ずる。その妃は鍍金した銀の冊だけ。
功臣の鉄券
- 洪武二年(1369年)、太祖が功臣を封じようとして鉄券を作ることを議したが、まだ定まった制がなかった。台州の民の錢允一の家に呉越王の錢鏐が唐から賜った鉄券が蔵されていると言う者があり、使者を遣わして取り寄せ、その様式に損益を加えた。
- その制は瓦のような形で、七等に分ける。
- 公は二等。一つは高さ一尺・幅一尺六寸五分、一つは高さ九寸五分・幅一尺六寸。
- 侯は三等。一つは高さ九寸・幅一尺五寸五分、一つは高さ八寸五分・幅一尺五寸、一つは高さ八寸・幅一尺四寸五分。
- 伯は二等。一つは高さ七寸五分・幅一尺三寸五分、一つは高さ六寸五分・幅一尺二寸五分。
- 外面には経歴と恩数の詳細を刻んでその功を記し、中には罪を免じ禄を減ずる数を鐫ってその過ちに備える。字には金を嵌める。全部で九十七副あり、それぞれ左右に分け、左を功臣に頒ち、右を内府に蔵し、事があれば合わせて信とした。
- 洪武三年(1370年)、大いに功臣を封じ、公六人・侯二十八人にあわせて鉄券を賜った。
- 公は、李善長・徐達・李文忠・馮勝・鄧愈・常茂。
- 侯は、湯和・唐勝宗・陸仲亨・周徳興・華雲龍・顧時・耿炳文・陳徳・郭子興・王志・鄭遇春・費聚・吳良・吳楨・趙庸・廖永忠・俞通源・華髙・楊璟・康鐸・朱亮祖・傳友徳・胡美・韓政・黄彬・曹良臣・梅思祖・陸聚。
- 洪武二十五年(1392年)、鉄券を作り直し、公の傳友得、侯の王弼・耿炳文・郭英、および故公の徐達・李文忠、侯の吳傑・沐英の、あわせて八家に賜った。
- 永樂の初め、靖難の功臣にも賜った者があった。
百官の印信
- 洪武の初め、鋳印局が中外の諸司の印信を鋳た。
- 正一品は銀印で三台、方三寸四分、厚さ一寸。
- 六部・都察院ならびに在外の各都司はいずれも正二品で銀印の二台、方三寸二分、厚さ八分。
- その他の正二品・従二品の官は銀印の二台、方三寸一分、厚さ七分。ただし衍聖公は正二品でありながら三台の銀印を用いるが、これは景泰三年(1452年)に賜ったものである。
- 順天・応天の二府はいずれも正三品で銀印、方二寸九分、厚さ六分五釐。
- その他の正三品・従三品の官はいずれも銅印、方二寸七分、厚さ六分。ただし太僕寺・光禄寺ならびに在外の塩運司はいずれも従三品で銅印だが、方は一分減じ厚さは五釐減ずる。
- 正四品・従四品はいずれも銅印、方二寸五分、厚さ五分。
- 正五品・従五品はいずれも銅印、方二寸四分、厚さ四分五釐。ただし在外の各州は従五品の銅印で、方は一分減じ厚さは五釐減ずる。
- 正六品・従六品はいずれも銅印、方二寸二分、厚さ三分五釐。
- 正七品・従七品は銅印、方二寸一分、厚さ三分。
- 正八品・従八品はいずれも銅印、方二寸、厚さ二分五釐。
- 正九品・従九品はいずれも銅印、方一寸九分、厚さ二分二釐。
- 未入流の者は銅の条記で、幅一寸三分、長さ二寸五分、厚さ二分一釐。
- 以上はいずれも直の紐、九畳の篆文。当初は雑職も方印だったが、洪武十三年(1380年)にはじめて条記に改めた。
- 百官の印のうち文淵閣の印だけは銀印の直紐、方一寸七分、厚さ六分、玉箸の篆文である。これを重んじたためである。
- 武臣で重任を受けた者、征西・鎮朔・平蛮などの諸将軍は銀印の虎の紐、方三寸三分、厚さ九分、柳葉の篆文。
- 洪武年間には上公に将軍の印を佩びさせたことがあった。のちに公・侯・伯および都督を総兵官に充て、掛印将軍と名づけた。征伐の事があれば総兵に印を佩びて赴かせ、師を還せば佩びた印を朝廷に返上した。このほかは漕運総兵の印だけが将軍と同じである。
- 在外の鎮守総兵・参将が印を掛けるのは洪熙元年(1425年)に始まる。
- 文臣で将軍の印を掛けた者もある。王驥は兵部尚書として湖広・貴州の苗を征し征蛮将軍の印を掛け、王越は左都御史として大同を守り征西将軍の印を掛けた。
- その他の文武の大臣で勅を領して権が重い者には、銅の関防を給うことがある。直の紐、幅一寸九分五釐、長さ二寸九分、厚さ三分、九畳の篆文。宰相が辺を巡るときでも部曹と変わらない。ただ正徳のとき張永が安化王を征するのに金で鋳たもの、嘉靖のとき顧鼎臣が居守するのに牙で鏤ったものだけは、いずれも特賜であった。
- はじめ太祖は御史の職を重んじ、河南など十三道に分け、道ごとに印二つを鋳た。文は「繩愆糾繆」。守院の御史がその一つを掌り、一つは内府に蔵して、事があれば受けて出、復命すればこれを納めた。
- 洪武二十三年(1390年)、都御史の袁泰が各道の印の篆が互いに似ていると言上したので、「某道監察御史」と改鋳するよう命じた。差を奉じる者は「巡按某處監察御史」とし、銅印の直紐で眼があり、方一寸五分、厚さ三分、八畳の篆文。
- 成祖がはじめて北京に幸したとき、一つの官署で二つ三つの印を持つ者があった。夏原吉に至っては九卿の印を兼ね掌り、諸曹はみな朝房で裁決を仰いだ。その任は重かった。
外国に賜った印
- 明初、高麗に金印の亀の紐、方三寸、文は「髙麗國王之印」を賜った。
- 安南には鍍金した銀印の駝の紐、方三寸、文は「安南國王之印」を賜った。
- 占城には鍍金した銀印の駝の紐、方三寸、文は「占城國王之印」を賜った。
- 土蕃には金印の駝の紐、方五寸、文は「白蘭王印」を賜った。
符牌
- 親王を宣召するときは必ず官を遣わして金符を持たせて赴かせる。親王が藩に就くとき、および鎮守・巡撫の諸官が符験を奏請するときは、いずれも兵部から奏行し、尚宝司がこれを領する。
- 洪武二十六年(1393年)に制を定めた。公差で軍情の重務にあたる者、および旨を奉じて差遣され駅を給される者は、兵部が勘合を給したうえで内府に赴いて符験を関領し、駅を給されて発つ。事が終われば返納する。
- 嘉靖三十七年(1558年)に制を定めた。南京・鳳陽の守備の内外官、ならびに各処の鎮守総兵・巡撫、および各々一方を守って鎮守の節制を受けない内外の守備は、あわせて符験を領して奏事してよい。監鎗・整飭兵備、ならびに一城一堡の守備官は符験の関領を許さない。
- その制は上に船と馬の形を織る。馬を起こす者は「馬」の字号、船を起こす者は「水」の字号、双馬を起こす者は「達」の字号、単馬を起こす者は「通」の字号、站船を起こす者は「信」の字号を用いる。
- 洪武四年(1371年)、はじめて用宝の金牌を作った。軍機の文書は都督府と中書省の長官のほかは擅に奏することを許さない。詔があって軍を調える場合は、中書省が都督府とともに覆奏し、それぞれ蔵する金牌を出して用宝を請う。
- また軍中の調発の符牌を造った。鉄を用い、長さ五寸、幅はその半分。上に二匹の飛龍を鏨り、下に二匹の麒麟を鏨る。首に円い孔を作り紅の絲絛を通す。
- かつて官を遣わして金牌の信符を持たせ西蕃に赴かせ、茶と馬を交易させた。その牌は四十一。上号は内府に蔵し、下号は各蕃に降す。篆文は「皇帝聖旨」、左は「合當差發」、右は「不信者斬」。
- 洪武二十二年(1389年)、さらに西蕃に金牌の信符を頒った。その後、蕃官が塞に款じて来るときはみな元の降した牌符を携えて来た。
- 永樂二年(1404年)、信符の金字の紅牌を作り、雲南の諸蛮に給した。歴代の改元があれば、外国に頒った信符・金牌は必ず新しい年号を鋳直して給した。これが符信の四裔に及んだものである。
- 武臣が懸帯する金牌は洪武四年(1371年)に造ったもので、幅二寸、長さ一尺。上に双龍を鏨り、下に二匹の伏虎を鏨り、牌の首尾に円い孔を作って紅の絲絛を通す。指揮は金牌で双雲龍・双虎の符、千戸は鍍金した銀牌で独雲龍・独虎の符、百戸は素の雲の銀牌の符。太祖が自ら文を作って鏨らせた。曰く、「上天が民を祐け、朕はこれを率いて撫し、威を華夏に加えたが、実に虎臣に憑るところである。爾に金符を賜い、永く後嗣に伝えよ」と。
- 天子が郊廟を祀るとき、視学・耤田のとき、勲衛の扈従、および公・侯・駙馬と五府の都督の日直、錦衣衛の当直、および都督が諸衛の千戸・百戸を率いて夜に内皇城を巡るとき、金吾など諸衛が各々官を輪番で朝に随い巡綽するときは、いずれも金牌を給する。龍のもの、虎のもの、麒麟のもの、獅のもの、雲のものがあり、官によって差を付ける。
- 扈駕の金字銀牌は洪武六年(1373年)に造ったもので、ほどなく守衛金牌に改めた。銅で作り金を塗り、高さ一尺、幅三寸。字号を五つに分ける。
- 仁の字号は上に独龍と蟠雲花を鏨り、公・侯・伯・都督が佩びる。
- 義の字号は伏虎と盤雲花を鏨り、指揮が佩びる。
- 礼の字号は獬豸と蟠雲花を鏨り、千戸・衛鎮撫が佩びる。
- 智の字号は獅子と蟠雲花を鏨り、百戸・所鎮撫が佩びる。
- 信の字号は蟠雲花を鏨り、将軍が佩びる。
- 牌の下に「守衛」の二篆字を鋳、背に「凡守衛官軍懸帯此牌……」の二十四字を鋳る。牌の首の孔に青い絲を通す。鎮撫および将軍で駕に随い宿衛に直する者が佩び、直を下りれば返納する。
- 夜巡の官は尚宝司で令牌を領する。禁城の各門は金吾など衛の指揮・千戸が分かれて「申」の字号の牌を領する。午門は一から四まで、長安の左右門と東華門は五から八まで、西華門は九から十二まで、元武門は十三から十六まで。
- 五城の兵馬指揮も日ごとに令牌を領する。東・西・南・北・中城が「木・金・火・水・土」の五字号を分け領する。
- 留守五衛の巡城官ならびに金吾など衛の守衛官はいずれも銅符を領する。留守衛の指揮が領する「承」の字および東・西・北の字号の牌はいずれも左半分の字で陽文、左を照合に用いる。金吾など衛の端門・承天門・東安門・西安門・北安門の指揮・千戸が領する「承」の字および東・西・北の字号はいずれも右半分の字で陰文、右を照合に用いる。銅符の字号を突き合わせて一致してはじめて巡行を許す。内官・内使が出るときも、守門の官がこれと銅符を突き合わせたのちに通す。
- 皇城の九門の守衛軍と囲子手はそれぞれ「勇」の字号の銅牌を領する。錦衣の校尉が上直するとき、および光禄寺の吏典・厨役が大祀に遇うときは、いずれも双魚の銅牌を佩びる。
- 永樂六年(1408年)、駕が北京に幸したとき、扈従の官はみな牙牌を帯びた。五府・六部・都察院・大理寺・錦衣衛はそれぞれ印信を鋳、通政司・鴻臚寺はそれぞれ関防を鋳た。これを行在衙門の印信・関防と呼ぶ。のちに内府の印綬監に収蔵させ、嘉靖十八年(1539年)の南巡のとき、礼部が受け出して扈従の者に給した。
- 郊廟の諸祭の陪祀・供事の官および執事の者が壇に入るときは、いずれも牙牌を領する。洪武八年(1375年)に始まる。円い花牌は陪祀の官が領し、長い花牌は供事の官が領し、長い素牌は執事の人が領する。これを祀牌ともいう。
- 駕が陵寝に詣でるとき、扈従の官はいずれも尚宝司で小さな牙牌を領する。
- 嘉靖九年(1530年)、皇后が親蚕の礼を行ったとき、文官四品以上・武官三品以上の命婦および使いの人はいずれも尚宝司で牙牌を領した。雲花の円牌と鳥形の長牌の別があった。
- 文武の朝参官、錦衣衛の当駕官も牙牌を領して姦偽を防ぐ。洪武十一年(1378年)に始まる。その制は象牙で作り、官職を上に刻む。佩びていなければ門番が退ける。私に貸し借りした者は律のとおりに論ずる。
- 牙牌の字号は、公・侯・伯は「勲」の字、駙馬都尉は「親」の字、文官は「文」の字、武官は「武」の字、教坊の官は「樂」の字、内に入る官は「官」の字。
- 正徳十六年(1521年)、礼科の邢寰が言った。牙牌は常朝の職官だけが懸けられるものなのに、近ごろ権姦が柄を侵し、旨を伝えて陞官した者までがすぐ牙牌を佩びている。清査して名器を重んじるべきだ、と。そこで朝参しない文職には濫りに牙牌を給してはならず、武官で御に進んで侍班し刀を佩び金炉を執る者には給すると命じた。
- 嘉靖二十八年(1549年)、内府で供事する匠作や武職の官がみな朝参の牙牌を帯びていた。かつて旨を奉じて剥奪したがすぐまた給されたので、給事中の陳邦修がこれを言上した。
- 礼部が覆奏した。『会典』に載るところでは、文武官が禁門を出入りするのに帯びる牙牌には執事・供事・朝参の別がある。執事・供事の者はみな期日に領して期日どおりに返納する。ただ朝参の牙牌だけは朝夕懸けることができ、単に関防の具であるだけでなく等威の別を示すものである。虚銜で俸を帯び供事・執事する者に一律に領させるべきではない。ただ禁闥を出入りするのに一切を剥奪しては、どうやって譏察するのか。尚宝司に貯えてある旧牌数百に「入内府」の字号があるので、これを給していただきたい。衛所の武官については、掌印・僉書・侍衛のほかで朝参に属さず役に供する者は、ことごとく剥奪すべきである。粟を納めて填注した者や冒って牙牌を賜った者、および罷退・閑住の官が旧に領したまま返納しない者は、いずれも逮捕して問うべきである、と。裁可された。
使節の制
- 洪武十五年(1382年)、使節を作った。黄色で三重の簷の宝蓋、長さ二尺、黄紗の袋でこれを籠める。また丹漆の架を一つ作り、節をその上に置く。使者が命を受ければこれを戴いて行き、使いから帰ればこれを持って復命する。
- 洪武二十三年(1390年)、使節の制を考定するよう詔した。礼部が奏した。漢の光武のときは竹を節とし、柄の長さは八尺、その毛は三重であった。しかし黄公紹の『韻会』の注では、漢の節は柄の長さ三尺、毛は三重で旄牛の毛で作るとある、と。詔して三尺の制に従った。
宮室の制度
- 呉元年(1367年)、新たに内裏を作った。正殿を奉天殿、その後ろを華蓋殿、さらに後ろを謹身殿といい、いずれも廊廡を翼とした。奉天殿の前を奉天門、殿の左を文楼、右を武楼という。謹身殿の後ろが宮で、前を乾清、後ろを坤寧といい、六宮が順に列なる。宮殿の外を皇城が周る。城の門は南を午門、東を東華、西を西華、北を元武という。
- このとき瑞州の文石で地を敷けると言う者があった。太祖は「倹朴を敦く崇んでもなお奢華に習うことを恐れているのに、おまえは予を奢麗に導くのか」と言い、言った者は恥じて退いた。
- 洪武八年(1375年)、大内の宮殿を改建し、洪武十年(1377年)に完成した。
- 闕門を午門といい、両観を翼とする。中央に三門、東西を左右の掖門とする。
- 午門の内を奉天門といい、門の内が奉天殿で、かつて臨御して朝賀を受けた所である。門の左右を東西の角門とする。
- 奉天殿の左右の門は、左を中左門、右を中右門といい、両廡の間は左を文楼、右を武楼という。
- 奉天殿の後ろを華蓋殿、華蓋殿の後ろを謹身殿といい、殿の後ろが乾清宮の正門である。
- 奉天門の外の両廡の間に門があり、左を左順門、右を右順門という。左順門の外に文華殿があり、東宮が事を視る所である。右順門の外に武英殿があり、皇帝が斎戒するときに居る所である。
- 制度は旧に同じだが規模はいっそう宏大であった。
- 洪武二十五年(1392年)、大内の金水橋を改建し、また端門・承天門の楼を各五間、および長安の東西二門を建てた。
- 永樂十五年(1417年)、北京に西宮を作った。中央を奉天殿とし、側に左右の二殿、南を奉天門、左右を東西の角門とし、その南を午門、さらに南を承天門とする。殿の北に後殿・涼殿・煖殿および仁壽・景福・仁和・萬春・永壽・長春などの宮があり、あわせて千六百三十余楹の屋であった。
- 永樂十八年(1420年)、北京を建てた。宮殿・門闕の規制はことごとく南京のとおりで、壮麗さはそれを上回った。
- 中朝を奉天殿といい、通じて八千三百五十楹の屋であった。殿の左を中左門、右を中右門という。
- 丹墀の東を文楼、西を武楼、南を奉天門といい、常朝に臨御する所である。左を東角門、右を西角門といい、東廡を左順門、西廡を右順門という。
- 正南を午門といい、中央に三門、両観を翼とし、観にはそれぞれ楼がある。左を左掖門、右を右掖門という。
- 午門の左のやや南を闕左門、神厨門といい、内が太廟。右のやや南を闕右門、社左門といい、内が太社稷。
- さらに正南を端門といい、東を廟街門(すなわち太廟の右門)、西を社街門(すなわち太社稷壇の南の左門)という。
- さらに正南を承天門といい、折れて東を長安左門、折れて西を長安右門という。東の後ろを東安門、西の後ろを西安門、北の後ろを北安門といい、正南を大明門という。中央が馳道で、東西の長廊はそれぞれ千歩ある。
- 奉天殿の後ろを華蓋殿、さらに後ろを謹身殿といい、謹身殿の左を後左門、右を後右門、正北を乾清門といい、内が乾清宮で、これが正寝である。後ろを交泰殿、さらに後ろを坤寧宮といい、中宮の居る所である。東を仁壽宮、西を清寧宮といい、太后を奉ずる。
- 左順門の東を文華殿、右順門の西を武英殿という。文華殿の東南を東華門、武英殿の西南を西華門という。坤寧宮の後ろを坤寧門、門の後ろを元武門という。
- その他の宮殿の名称は繁多で列挙しきれない。いわゆる千門万戸である。
- 皇城の内・宮城の外にはあわせて十二の門があり、東上門・東上北門・東上南門・東中門・西上門・西上北門・西上南門・西中門・北上門・北上東門・北上西門・北中門という。
- さらに皇城の東南に皇太孫の宮を建て、東安門の外の東南に十王街を建てた。
- 宣宗は文雅に意を留め、廣寒・清暑の二殿および東西の瓊島を建て、遊観の至る所にことごとく経籍を置いた。
- 正統六年(1441年)、三殿を重建した。
- 嘉靖年間、清寧宮の後ろの地に慈慶宮を建て、仁壽宮の旧基に慈寧宮を建てた。
- 嘉靖三十六年(1557年)、三殿と門楼が火災に遭った。帝は殿の名を「奉天」とするのは扁額に用いるべきものではないとして、礼部に議させた。部臣が会議して言った。皇祖が創業の初めに「奉天」と名づけたのは、掲げて敬虔を示したまでである。すでに名としたからには昊天が監臨して厳然と上にあることになり、臨御の際にそこに坐して朝を視るのは穏当でないように思われる。いま修復の始めにあたり、改め定めて天の恵みに応えるべきである、と。
- 翌年、奉天門を重建して大朝門と改名した。
- 嘉靖四十一年(1562年)、奉天殿を皇極、華蓋殿を中極、謹身殿を建極、文楼を文昭閣、武楼を武成閣、左順門を會極、右順門を歸極、大朝門を皇極、東角門を宏政、西角門を宣治と改名した。また乾清宮の右の小閣を道心と改名し、その傍らの左門を仁蕩、右門を義平とした。
- 世宗ははじめ西苑の空き地を墾いて田とし、殿を建てて無逸といい、亭を豳風といった。また亭を建てて省耕・省斂といい、毎年の耕作と収穫のたびに帝は臨んで観た。
- 嘉靖十三年(1534年)、西苑の河東の亭榭が完成し、自ら名を定めた。天鵞房といい、北を飛靄亭、迎翠殿の前を浮香亭、宝月亭の前を秋輝亭、昭和殿の前を澄淵亭、後ろを□臺坡、臨漪亭の前を水雲榭という。西苑門の外の二亭を左臨海亭・右臨海亭、北の閘口を湧玉亭、河の東を聚景亭という。呂梁洪の亭を呂梁と改め、その前を檥金亭、翠玉館の前を擷秀亭とした。
親王府の制
- 洪武四年(1371年)に定めた。城の高さ二丈九尺、正殿の基の高さ六尺九寸。正門・前後の殿・四門の城楼は青緑に点金で飾り、廊房は青黛で飾る。四城の正門は丹漆に金を塗った銅釘。宮殿の窠栱・攢頂には中に蟠螭を画き金で飾り、縁に八吉祥の花を画く。前後の殿の座は紅漆に金の蟠螭、帳は紅の銷金の蟠螭、座の後ろの壁には蟠螭と彩雲を画く。のちに龍に改めた。山川・社稷・宗廟を王城の内に立てる。
- 洪武七年(1374年)に定めた。親王の居る殿は前を承運、中を圜殿、後ろを存心という。四城の門は南を端礼、北を廣智、東を礼仁、西を遵義という。太祖は「諸王に名を見て義を思わせ、帝室の藩屏とするのだ」と言った。
- 洪武九年(1376年)、親王の宮殿・門廡および城門の楼はみな青色の琉璃瓦で覆うと定めた。また中書省の臣に、親王の宮だけが朱紅と大青緑で飾ることができ、その他の居室は丹碧で飾るにとどめると命じた。
- 洪武十二年(1379年)、諸王府が完成した。その制は、中央を承運殿といい十一間、後ろを圜殿、次を存心殿といいそれぞれ九間。承運殿の両廡を左右の二殿とする。存心・承運から周りの両廡を回って承運門に至るまで百三十八間の屋。殿の後ろに前・中・後の三宮があり、それぞれ九間。宮門と両廂などの室が九十九間。王城の外は周囲の垣に四門があり、堂や庫などの室がその間にある。あわせて宮殿・室屋は八百間あまりであった。
- 𢎞治八年(1495年)、王府の制を改め定め、増減するところが少なくなかった。
- 郡王府の制は天順四年(1460年)に定めた。門楼・庁・廂・厨・庫・米倉など、あわせて数十間にすぎない。
公主の府第
- 洪武五年(1372年)、礼部が言った。唐・宋の公主は正一品に準じ、府第もあわせて正一品の制度を用いた。いま公主の第は庁堂九間・十一架とし、花様の獣脊、梁・棟・斗栱・簷・桷は彩色で絵飾するが、ただ金は用いない。正門は五間・七架、大門は緑の油に銅の環、石の礎、牆の甎には玲瓏の花様を鐫り彫る、と。これに従った。
百官の第宅
- 明初、官民の房屋に、古の帝后・聖賢の人物および日月・龍鳳・狻猊・麒麟・犀・象の形を雕刻することを許さなかった。
- 官員は任期を満たして致仕しても現任と同じとする。その父祖に官の身分があって歿した場合、子孫は父祖の房舎に居ることを許す。
- 洪武二十六年(1393年)に制を定めた。官員が房屋を営造するのに、歇山・転角・重簷・重栱および藻井を絵くことを許さない。ただし楼居の重簷は禁じない。
- 公・侯は前庁七間・両厦九架、中堂七間九架、後堂七間七架、門三間五架で金漆および獣面の錫の環を用いる。家廟は三間五架で黒板瓦で覆い、脊は花様の瓦と獣を用い、梁・棟・斗栱・簷・桷は彩絵で飾り、門・窓・枋・柱は金漆で飾る。廊廡・庖・庫などの従屋は五間七架を超えてはならない。
- 一品・二品は庁堂五間九架、屋の脊に瓦の獣を用い、梁・棟・斗栱・簷・桷は青碧で絵飾する。門は三間五架で緑の油、獣面の錫の環。
- 三品から五品は庁堂五間七架、屋の脊に瓦の獣を用い、梁・棟・簷・桷は青碧で絵飾する。門は三間三架で黒の油、錫の環。
- 六品から九品は庁堂三間七架、梁・棟は土黄で飾る。門は一間三架で黒の門、鉄の環。
- 品官の房舎の門・窓・戸・牖に丹漆を用いてはならない。
- 功臣の宅舎の後ろには空き地十丈、左右にはそれぞれ五丈を残し、軍民の居所を移させてはならず、さらに宅の前後左右に多くの地を占めて亭館を構え池塘を開き遊眺に供することを許さない。
- 洪武三十五年(1402年)、禁制を申し明らかにした。一品から三品は庁堂を各七間、六品から九品は庁堂の梁・棟をただ粉青で飾るだけとする。
庶民の廬舎
- 洪武二十六年(1393年)に制を定めた。三間五架を超えず、斗栱を用いたり彩色で飾ったりすることを許さない。
- 洪武三十五年(1402年)、重ねて禁を申し飭した。九・五の間数の房屋を造ることを許さない。屋が一二十所に及んでも、その物力に応じてよいが、ただ三間を超えることは許さない。
- 正統十二年(1447年)、これをやや融通させ、庶民の房屋で架が多く間の少ないものは禁の限りでないとした。
器用の禁
- 洪武二十六年(1393年)に定めた。
- 公・侯および一品・二品は酒注と酒盞に金を用い、その他は銀を用いる。
- 三品から五品は酒注に銀、酒盞に金を用いる。
- 六品から九品は酒注と酒盞に銀を用い、その他はみな磁器・漆器・木器とする。朱紅および抹金・描金、龍鳳文の雕琢は許さない。
- 庶民は酒注に錫、酒盞に銀を用い、その他は磁器・漆器を用いる。
- 百官の牀の面・屏風・槅子は雑色の漆で飾り、龍文の雕刻ならびに金飾・朱漆は許さない。
- 軍官・軍士の弓矢は黒漆、弓袋・箭嚢に朱漆や描金の装飾を用いることを許さない。
- 建文四年(1402年)、官民が金の酒爵を僭用することを許さず、その椅・棹などの木器にも朱紅や金飾を許さないと申し飭した。
- 正徳十六年(1521年)に定めた。一品・二品の器皿には玉を用いず、金を用いることだけを許す。商賈・技芸の家の器皿には銀を許さず、その他は庶民と同じとする。