明史卷六十七 志第四十三 輿服三

  • この巻は輿服志の第三で、冒頭に「文武官冠服/命婦冠服」「内外官親屬冠服/内使冠服」「侍儀以下冠服/士庶冠服」「樂工冠服/軍隸冠服」「外蕃冠服/僧道服色」という項目立てが掲げられている。

群臣の冠服(服色の基準)

  • 洪武元年(1368年)、公服・朝服を作らせて百官に賜った。このとき礼部が言った。各官はさきに授かった散官と現任の職事とで高下が一致しない。たとえば御史の董希哲はさきに朝列大夫・灃州知州を授かりながら七品の職事に任じ、省司郎中の宋冕はさきに亞中大夫・黄州知府を授かりながら五品の職事に任じている。散官と現任の職が異なる以上、服色に違いが生じざるをえないから、その制を定めてほしい、と。
  • そこで省・部の臣に議定を詔した。礼部は重ねて、唐の制では服色はすべて散官を基準とし、元の制では散官と職事のうち高い方に従い服色もそれによった、国初の服色は散官による点で唐制と同じである、と述べた。そこで服色は散官を基準とし現職は計算しないと定め、賜った袍と帯もこれに準じた。
  • 洪武三年(1370年)、礼部が言った。歴代で尚ぶ色は異なり、夏は黒、商は白、周は赤、秦は黒、漢は赤、唐は服色が黄で旗幟が赤であった。いま国家は元の後を承け、周・漢・唐・宋に法を取るのだから、服色は赤を尚ぶのがよい、と。これに従った。

文武官の朝服

  • 洪武二十六年(1393年)に定めた。大祀の慶成、正旦、冬至、聖節、および詔を頒つ開読、表を進めるとき、制を伝えるときは、いずれも梁冠・赤羅の衣・白紗の中単(領と縁を青で飾る)・赤羅の裳(青の縁)・赤羅の蔽膝・大帯(赤と白の二色の絹)・革帯・佩・綬・白の韈・黒の履を用いる。一品から九品まで、冠の梁の数で差を付ける。
  • 公は八梁の冠に籠巾・貂蟬を加え、立筆は五折、四柱、香草五段、前後に玉の蟬。
  • 侯は七梁、籠巾・貂蟬、立筆は四折、四柱、香草四段、前後に金の蟬。
  • 伯は七梁、籠巾・貂蟬、立筆は二折、四柱、香草二段、前後に玳瑁の蟬。いずれも雉の尾を挿す。
  • 駙馬は侯と同じだが雉の尾は用いない。
  • 一品は七梁の冠で籠巾・貂蟬は用いない。革帯も佩もいずれも玉。綬は黄・緑・赤・紫で雲鳳の四色花錦を織り出し、下に青絲の網を結び、玉の綬環二つ。
  • 二品は六梁、革帯と綬環は犀。ほかは一品と同じ。
  • 三品は五梁、革帯は金、佩は玉。綬は黄・緑・赤・紫で雲鶴の花錦を織り出し、下に青絲の網を結び、金の綬環二つ。
  • 四品は四梁、革帯は金、佩は薬玉。ほかは三品と同じ。
  • 五品は三梁、革帯は銀の鏨花、佩は薬玉。綬は黄・緑・赤・紫で盤鵰の花錦を織り出し、下に青絲の網を結び、銀に金鍍金した綬環二つ。
  • 一品から五品までの笏はいずれも象牙。
  • 六品・七品は二梁、革帯は銀、佩は薬玉。綬は黄・緑・赤で練鵲の三色花錦を織り出し、下に青絲の網を結び、銀の綬環二つ。ただし御史だけは獬廌を服する。
  • 八品・九品は一梁、革帯は烏角、佩は薬玉。環は黄・緑で鸂鶒の二色花錦を織り出し、下に青絲の網を結び、銅の綬環二つ。
  • 六品から九品までの笏はいずれも槐木。
  • 武官で当直・守衛にあたる者には別の服色がある。
  • 雑職で未だ流品に入らない者は、大朝賀や進表の行礼には公服だけを用いた。洪武三十年(1397年)、九品官に準じて朝服を用いさせた。
  • 嘉靖八年(1529年)、朝服の制を改めて定めた。
  • 梁冠は旧式どおり。上衣は赤羅に青の縁、丈は腰を七寸ほど過ぎるまでとし、下裳を覆わない。中単は白紗に青の縁。
  • 下裳は七幅で前三幅・後四幅、幅ごとに三つの襞をとる。赤羅に青の縁。蔽膝は革帯に綴じる。
  • 綬はそれぞれ品級の花様に従う。革帯の後ろに佩と綬を繋いで覆い隠す。環もそれぞれ品級に従って玉・犀・金・銀・銅を用い、綬に織り込むことはしない。
  • 大帯は表裏とも素とし、両耳と下に垂れる部分だけ緑で縁取り、さらに青の組で括る。革帯はいずれも旧式どおり。
  • 佩玉は一律に『詩伝』の制にならい、双滴と二珩を除く。三品以上は玉、四品以下は薬玉。韈と履はいずれも旧式どおり。
  • 萬厯五年(1577年)、百官が正旦の朝賀に僭って朱の履を履くことを禁じた。旧例では十一月に百官は煖耳を着けたが、この年、朝覲の外官および挙人・監生が煖耳を着けて入朝することを許さなかった。

文武官の祭服

  • 郊廟・社稷を親祀するとき、文武官が分献・陪祀するときは祭服を着る。
  • 洪武二十六年(1393年)に定めた。一品から九品まで、青羅の衣、白紗の中単(いずれも皁の領と縁)、赤羅の裳(皁の縁)、赤羅の蔽膝、方心曲領。冠・帯・佩・綬などの等差はすべて朝服と同じ。
  • また品官が家で用いる祭服を定め、三品以上は方心曲領を除き、四品以下はあわせて佩と綬を除くこととした。
  • 嘉靖八年(1529年)、百官の祭服を改めて定めた。上衣は青羅に皁の縁で朝服と同じ、下裳は赤羅に皁の縁で朝服と同じ。蔽膝・綬・環・大帯・革帯・佩玉・韈・履はいずれも朝服と同じ。
  • 視牲・朝日・夕月・耕耤・歴代帝王の祭のとき、錦衣衛の堂上官だけは大紅の蟒衣あるいは飛魚、烏紗帽、鸞帯、繡春刀を佩びる。太廟・社稷を祀るときは大紅の便服。

文武官の公服

  • 洪武二十六年(1393年)に定めた。毎日の早朝・晩朝の奏事、および侍班・謝恩・見辞のときに着る。在外の文武官は毎日の公座に着る。
  • その制。盤領・右袵の袍で、紵絲または紗・羅・絹を用い、袖幅は三尺。
  • 一品から四品は緋の袍、五品から七品は青の袍、八品・九品は緑の袍。未入流の雑職官の袍・笏・帯は八品以下と同じ。
  • 公服の花様は、一品が大独科花で径五寸、二品が小独科花で径三寸、三品が枝葉のない散荅花で径二寸、四品・五品が小雑花紋で径一寸五分、六品・七品が小雑花で径一寸、八品以下は無紋。
  • 幞頭は漆紗の二等で、展角の長さは一尺二寸。雑職官の幞頭は垂帯だったが、のちに展角として垂帯を用いず、流品に入る官と同じにさせた。
  • 笏は朝服に準じて作る。腰帯は一品が玉(花または素)、二品が犀、三品・四品が金の茘枝、五品以下は烏角。鞓には青革を用い、なお撻尾を下に垂らす。鞾は皁。
  • その後、朝や常のときはただ便服とし、朔望にだけ公服で朝参するようになった。武官で当直・守衛にあたる者には別の服色があり、この制に拘らない。
  • 公・侯・駙馬・伯の服色・花様・腰帯は一品と同じ。文武官の花様は、織造できないときは素を用いる。
  • 百官が入朝するとき、雨や雪のときは雨衣を着ることを許した。奉天・華蓋・武英の諸殿で奏事するときは必ず履を履くこととし、違反する者は御史が糾弾した。
  • 萬厯五年(1577年)、常朝にはいずれも本等の錦繡の服色を着るよう命じた。朝覲の官が見辞・謝恩するときは、流品に入っているか否かを問わず公服で行礼することとした。

文武官の常服

  • 洪武三年(1370年)に定めた。常朝の視事には烏紗帽・団領衫・束帯を公服とする。
  • 帯は一品が玉、二品が花犀、三品が金の鏨花、四品が素の金、五品が銀の鏨花、六品・七品が素の銀、八品・九品が烏角。
  • 致仕した者、親に侍して辞し閑になった官は、紗帽と束帯。事のために黜降された者は庶人と同じ服。
  • 洪武二十四年(1391年)、さらに公・侯・伯・駙馬の束帯は一品と同じ、雑職官は八品・九品と同じと定めた。
  • 朝官の常服の礼鞵は洪武六年(1373年)に定めた。これより先、百官が入朝して雨に遇うとみな釘鞾を履き、その音が殿の階まで響いたので、侍儀司がこれを禁じるよう請うた。太祖は、古くは入朝には履を用い、唐から鞾を用いるようになったのだ、として、朝官に軟底の皮鞵を作らせて鞾の外にかぶせ、朝を退いたら脱ぐことにさせた。
  • 礼部が近ごろ奢侈が制を越えていると言上し、詔してこれを禁じ、なお漢・唐の制を参酌して頒行し遵守させた。
  • 職官の一品・二品は雑色の文綺・綾羅・彩繡を用い、帽の頂と帽の珠には玉を用いる。
  • 三品から五品は雑色の文綺・綾羅を用い、帽の頂には金、帽の珠は玉を除き随意。
  • 六品から九品は雑色の文綺・綾羅を用い、帽の頂には銀、帽の珠は瑪瑙・水晶・香木。
  • 一品から六品は四爪の龍を着け、金の繡で作ることを許した。
  • 礼部はまた、品官が尊長に見えるのに君に朝する公服を用いるのは理として穏当でない、別に梁冠・絳衣・絳裳・革帯・大帯・大白の襪・烏の舄・佩・綬を作るべきだ、その衣裳は縁と襈を除き、三品以上は佩と綬を用い三品以下は用いない、と議した。これに従った。
  • 洪武二十二年(1389年)、文武官は雨に遇えば雨帽を着けてよいが、公差で外に出て帽子を着けたまま城に入ることは許さないと命じた。
  • 洪武二十三年(1390年)、制を定めた。文官の衣は領から裔まで地上一寸のところまでとし、袖の長さは手を過ぎて折り返して肘に至る。公・侯・駙馬は文官と同じ。武官は地上五寸、袖の長さは手を過ぎること七寸。
  • 洪武二十四年(1391年)、補の文様を定めた。
  • 公・侯・駙馬・伯は麒麟・白澤を繡う。
  • 文官は一品が仙鶴、二品が錦雞、三品が孔雀、四品が雲雁、五品が白鷴、六品が鷺鷥、七品が鸂鶒、八品が黄鸝、九品が鵪鶉、雑職が練鵲、風憲官が獬廌。
  • 武官は一品・二品が獅子、三品・四品が虎豹、五品が熊羆、六品・七品が彪、八品が犀牛、九品が海馬。
  • また品官の常服には雑色の紵絲・綾羅・彩繡を用いさせた。官吏の衣服や帳幔に玄(元)・黄・紫の三色を用いること、および龍鳳文を織り繡うことを禁じ、違反する者は染造した者まで罪した。朝見する人員は四季とも色物の衣を用い、純素は許さないこととした。
  • 洪武三十年(1397年)、致仕の官の服色は現任と同じとし、朝賀・謝恩・見辞のときは一様に服を具えるよう命じた。
  • 景泰四年(1453年)、錦衣衛の指揮で侍衛する者は麒麟を着てよいとした。
  • 天順二年(1458年)、官民の衣服に蟒・龍・飛魚・斗牛・大鵬・像生の獅子・四宝相花・大西番蓮・大雲の花様、および玄(元)・黄・紫ならびに玄色・黒・緑・柳黄・薑黄・明黄の諸色を用いてはならないと定めた。
  • 宏治十三年(1500年)、公・侯・伯・文武の大臣および鎮守・守備が、例に違えて蟒衣・飛魚の衣服を奏請した場合は、科道が糾弾して重罪に処すと奏定した。
  • 正徳十一年(1516年)、東西の両官庁を設け、将士にみな黄の罩甲を着せた。中外がこれに倣い、金や緋の盛装の者もその上に必ずこれを重ねた。都督の江彬らは日を承けて紅の笠の上に藍で染めた天鵝の翎を綴り、これを貴い飾りとした。貴い者は三英を飄し、次の者は二英であった。兵部尚書の王瓊は一英を賜り、それを冠して教場に下り、格別の待遇だと自ら誇った。その後は巡狩の経る所で、督餉の侍郎も巡撫の都御史も、罩甲を着て上に見えない者はなかった。
  • 正徳十三年(1518年)、車駕が京に還るとき、迎候する者は曳撒・大帽・鸞帯を用いよと伝旨した。ほどなく群臣に大紅の紵絲・羅・紗を各一つずつ賜った。その服色は一品が斗牛、二品が飛魚、三品が蟒、四品が麒麟、六品・七品が虎彪で、翰林・科道は品級に関わらずみな与った。ただ部曹の五品以下は与らなかった。このとき文臣の服色も走獣となり、しかも麒麟の服が四品にまで及んだのは、とりわけ異例のことであった。
  • 正徳十八年(実際には嘉靖元年にあたる。世宗の即位は正徳十六年、1521年)、世宗の登極の詔に、近ごろ玉帯・蟒龍・飛魚・斗牛の服色を冒濫し、みな庶官や雑流ならびに各地の将領が縁故を頼って奏乞したものである、いま一切許さない、武職の卑官で公侯の服色を僭用する者もあわせて禁絶する、とあった。
  • 嘉靖六年(1527年)、重ねて中外の官が五彩の装花や織造の禁色を濫りに着ることを禁じた。
  • 嘉靖七年(1528年)、燕居の法服の制を定めたのを受け、閣臣の張璁が言った。品官の燕居の服にはまだ明確な制がなく、詭異の徒が競って奇服を作り典章を乱している、古の玄端に法り改めて簡易の制を定め天下に昭示し、貴賤に等級があるようにしてほしい、と。
  • 帝はそこで忠靜の冠服を作り、図を礼部に頒って勅諭した。祖宗は古を稽えて制を定め、品官の朝服・祭服にはそれぞれ等差がある。ただ常人の情は明らかな場では謹むが幽独の場では怠りがちである。古の聖王はこれを慎み、玄端を制して燕居の服とした。近ごろ衣服が詭異で上下の別がなく、民の志はどうして定まろうか。朕は古の玄端の制を酌み、名を忠靜と改めた。進んでは忠を尽くすことを思い、退いては過ちを補うことを思うようにとの意である。すでに図説を作らせたから、その様式どおりに製造せよ。京では七品以上の官、および八品以上の翰林院・国子監・行人司に許し、外では方面の官および各府の堂官・州県の正堂・儒学の教官に着ることを許す。武官は都督以上に限る。その他は濫りに着てはならない、と。礼部は図説を天下に頒布し、勅のとおり奉行した。
  • 忠靜冠は古の玄冠に倣う。冠の匡は制のとおりで烏紗をかぶせ、両山をともに後ろに列ねる。冠の頂はなお方形で、中がわずかに起きて三梁を成し、それぞれ金線で押さえ、縁は金で縁取る。四品以上は金線を除き、淡い色の絲線を用いる。
  • 忠靜服は古の玄端に倣い、色は深青。紵絲・紗・羅で作る。三品以上は雲文、四品以上は素。縁は藍青とし、前後にそれぞれの品等の花様の補子を飾る。深衣は玉色を用いる。素の帯は古の大夫の帯の制のようにし、青の表に緑の縁、および素の裏。履は青と緑の絛の結び、白の襪。
  • 嘉靖十六年(1537年)、群臣が駐蹕の所で朝したとき、兵部尚書の張瓚が蟒を着ていた。帝は怒り、閣臣の夏言に「尚書は二品なのに、なぜ自ら蟒を着るのか」と諭した。言は「瓚が着ているのは欽賜の飛魚服で、鮮明なので蟒に似て見えるだけです」と答えた。帝は「飛魚がなぜ両角を組むのか。厳しく禁じよ」と言った。
  • そこで礼部が奏定した。文武官は蟒衣・飛魚・斗牛など制を犯す華美・異様の服色を擅に用いてはならない。大紅の紵絲・紗・羅の服は四品以上の官、および在京の五品堂上官・経筵の講官にだけ着ることを許す。五品官および経筵の講官でない者はいずれも青・緑の錦繡を着る。吉礼に遇っても紅の布・絨・褐を着るにとどめる。品官の花様はすべて品級による。錦衣衛の指揮で侍衛する者はなお麒麟を着てよいが、俸を帯びて侍衛でない者、および千戸・百戸は侍衛であっても僭用を許さない。

歴朝の賜服

  • 文臣で一品に至らないのに玉帯を賜った例は、洪武年間の学士羅復仁に始まる。
  • 衍聖公は秩は正二品だが、織金の麒麟袍と玉帯は、景泰年間に入朝して拝賜されて以来、常例となった。
  • 内閣に蟒衣を賜ったのは、宏治年間の劉健・李東陽に始まる。
  • 麒麟はもと公・侯の服だが、内閣がこれを着たのは嘉靖年間で、厳嵩・徐階がみな賜っている。
  • 仙鶴は文臣一品の服である。嘉靖年間、成国公の朱希忠、都督の陸炳がこれを着たが、いずれも玄壇(元壇)に供事したためであった。学士の厳訥・李春芳・董份は五品でありながら青詞を撰したことで仙鶴を賜った。ほどなく「壇中に供事する者にだけ用いる」と諭され、そこで尚書たちもみな鶴を着る勇気がなくなった。
  • のち南京に閃黄の地に麒麟・仙鶴の補を織らせて厳嵩に賜った。閃黄は本来上(天子)が用いる服色である。
  • また徐階には「教子升天」の蟒を賜った。萬厯年間には張居正に坐蟒を賜り、武清侯の李偉も太后の父であるゆえに賜った。

儀賓の冠服

  • 朝服・公服・常服はいずれも品級に準じ、文武官と同じ。ただし笏はみな象牙。常服の花様は武官に準ずる。
  • 𢎞治十三年(1500年)に定めた。郡主の儀賓は鏨花の金帯、胸背は獅子。県主の儀賓は鏨花の金帯。郡君の儀賓は光素の金帯で、胸背はいずれも虎豹。県君の儀賓は鏨花の銀帯。郷君の儀賓は光素の銀帯で、胸背はいずれも彪。僭用する者があれば冠帯を取り上げ、平頭巾をかぶらせて儒学で三年間読書・習礼させる。

状元および諸進士の冠服

  • 状元は二梁の冠、緋羅の円領、白絹の中単、錦の綬、蔽膝、紗帽、槐木の笏、光銀の帯、薬玉の佩、朝鞾、氊の襪。いずれも御前で頒賜され、上表して謝恩する日に着る。
  • 進士の巾は烏紗帽のようだが頂がやや平らで、展角は幅一寸あまり・長さ五寸ほど、垂帯を付け、皁紗で作る。深藍羅の袍で青羅の縁、袖は広く裁ち詰めない。槐木の笏、革帯は青の鞓に黒角を飾り、撻尾を後ろに垂らす。廷試ののち国子監に頒ち、伝臚の日に着る。上表して謝恩したのち先師に謁して釈菜の礼を行い、それが終わってはじめて常服に改める。その巾と袍はなお国子監に送って収蔵する。

命婦の冠服

  • 洪武元年(1368年)に定めた。
  • 一品は冠に花釵九樹、両博鬢、九鈿。服は翟衣で翟を九重に繡う。素紗の中単に黼の領、朱縠の褾・襈・裾。蔽膝は裳の色に合わせ、緅を領縁とし、文繡を加えて重翟を二等の章とする。玉の帯、青の襪と舄、佩と綬。
  • 二品は冠に花釵八樹、両博鬢、八鈿。翟衣は八等。犀の帯。ほかは一品と同じ。
  • 三品は冠に花釵七樹、両博鬢、七鈿。翟衣は七等。金の革帯。ほかは二品と同じ。
  • 四品は冠に花釵六樹、両博鬢、六鈿。翟衣は六等。金の革帯。ほかは三品と同じ。
  • 五品は冠に花釵五樹、両博鬢、五鈿。翟衣は五等。烏角の帯。ほかは四品と同じ。
  • 六品は冠に花釵四樹、両博鬢、四鈿。翟衣は四等。烏角の帯。ほかは五品と同じ。
  • 七品は冠に花釵三樹、両博鬢、三鈿。翟衣は三等。烏角の帯。ほかは六品と同じ。
  • 一品から五品までは衣の色は夫に従って紫、六品・七品は夫に従って緋。大帯は衣の色に合わせる。
  • 洪武四年(1371年)、古の天子・諸侯は袞冕を着、后と夫人も禕・翟を着たが、いま群臣が梁冠・絳衣を朝服として冕を用いない以上、外命婦も翟衣で朝すべきでない、として礼部に議させ、奏定した。
  • 命婦は山松の特髻、假鬢の花鈿、真紅の大袖衣、珠翠と蹙金の霞帔を朝服とし、朱翠の角冠、金珠の花釵、闊袖で雑色の緑縁の衣を燕居の服とする。
  • 一品は衣に金繡文、霞帔は金・珠・翠の粧飾、玉の墜子。
  • 二品は衣に金繡の雲肩と大雑花、霞帔は金・珠・翠の粧飾、金の墜子。
  • 三品は衣に金繡の大雑花、霞帔は珠・翠の粧飾、金の墜子。
  • 四品は衣に繡の小雑花、霞帔は翠の粧飾、金の墜子。
  • 五品は衣に銷金の大雑花、霞帔は生色の画絹に起花の粧飾、金の墜子。
  • 六品・七品は衣に銷金の小雑花、霞帔は生色の画絹に起花の粧飾、鍍金の銀の墜子。
  • 八品・九品は衣は大紅の素羅、霞帔は生色の画絹の粧飾、銀の墜子。
  • 首飾りは一品・二品が金・玉・珠・翠、三品・四品が金・珠・翠、五品が金・翠、六品以下が金鍍金の銀に珠を交える。
  • 洪武五年(1372年)、品官の命婦の冠服を改めて定めた。
  • 一品の礼服は山松の特髻に、翠の松五株、金翠八つが口に珠の結びをくわえる。正面に珠翠の翟一、珠翠の花四朶、珠翠の雲喜花三朶。後鬢に珠の梭毬一、珠翠の飛翟一、珠翠の梳四、金の雲頭連三釵一、珠簾の梳一、金の簪二、珠の梭環一双。大袖衫は真紅色、霞帔と褙子はいずれも深青色で紵絲・綾・羅・紗を随意に用いる。霞帔には蹙金で雲霞翟文を繡い、鏨花の金の墜子。褙子には金で雲霞翟文を繡う。
  • 一品の常服は珠翠の慶雲冠に、珠翠の翟三、金の翟一が口に珠の結びをくわえる。鬢のあたりに珠翠の花二、小さな珠翠の梳一双、金の雲頭連三釵一、金の圧鬢双頭釵二、金の腦梳一、金の簪二、金脚の珠翠佛面環一双。鐲と釧はみな金。長襖と長裙は各色の紵絲・綾・羅・紗を随意に用いる。長襖の縁と襈は紫または緑で、蹙金で雲霞翟文を繡う。看帯は紅・緑・紫を用い、蹙金で雲霞帔文を繡う。長裙は縦横に金で纏枝花文を繡う。
  • 二品は特髻の上に金の翟七つが口に珠の結びをくわえる。ほかは一品と同じ。常服も一品と同じ。
  • 三品は特髻の上に金の孔雀六つが口に珠の結びをくわえる。正面に珠翠の孔雀一、後鬢に翠の孔雀二。霞帔には蹙金で雲霞孔雀文を繡い、鏨花の金の墜子。褙子には金で雲霞孔雀文を繡う。ほかは二品と同じ。常服は冠の上に珠翠の孔雀三、金の孔雀二が口に珠の結びをくわえる。長襖の縁と襈、看帯は紫または緑で、あわせて雲霞孔雀文を繡う。長裙は縦横の襴にあわせて纏枝花文を繡う。ほかは二品と同じ。
  • 四品は特髻の上に金の孔雀五つが口に珠の結びをくわえる。ほかは三品と同じ。常服も三品と同じ。
  • 五品は特髻の上に銀鍍金の鴛鴦四つが口に珠の結びをくわえる。正面に珠翠の鴛鴦一、小さな珠に翠を敷いた雲喜花三朶、後鬢に翠の鴛鴦二、銀鍍金の雲頭連三釵一、小さな珠簾の梳一、鍍金した銀の簪二、小さな珠の梳環一双。霞帔には雲霞鴛鴦文を繡い、鍍金した銀の鏨花の墜子。褙子には雲霞鴛鴦文を施す。ほかは四品と同じ。常服は冠の上に小さな珠翠の鴛鴦三、鍍金した銀の鴛鴦二に珠の牌を挑げ、鬢のあたりに小さな珠翠の花二朶、雲頭連三釵一、梳一、圧鬢双頭釵二、鍍金の簪二、銀脚の珠翠佛面環一双。鐲と釧はみな銀鍍金。長襖の縁と襈には雲霞鴛鴦文を繡い、長裙は縦横の襴に纏枝花文を繡う。ほかは四品と同じ。
  • 六品は特髻の上に翠の松三枝、銀鍍金の練鵲四つが口に珠の結びをくわえる。正面に銀鍍金の練鵲一、小さな珠翠の花四朶、後鬢に翠の梭毬一、翠の練鵲二、翠の梳四、銀の雲頭連三釵一、珠で縁取った翠の簾梳一、銀の簪二。大袖衫は綾・羅・紬・絹を随意に用いる。霞帔には雲霞練鵲文を繡い、鏨花の銀の墜子。褙子には雲霞練鵲文を施す。ほかは五品と同じ。常服は冠の上に鍍金した銀の練鵲三、さらに鍍金した銀の練鵲二に小さな珠の牌を挑げる。鐲と釧はみな銀。長襖の緑の襈、看帯は紫または緑で雲霞練鵲文を繡い、長裙は縦横の襴に纏枝花文を繡う。ほかは五品と同じ。
  • 七品は礼服も常服もいずれも六品と同じ。
  • 八品・九品の礼服は大袖衫・霞帔・褙子だけを用いる。大衫は七品と同じ。霞帔には纏枝花を繡い、鏨花の銀の墜子。褙子には摘枝の団花を繡う。通じて小さな珠の慶雲冠を用いる。常服も小さな珠の慶雲冠を用い、銀に金鍍金を交えた練鵲三、さらに銀に金鍍金を交えた練鵲二に小さな珠の牌を挑げ、銀に金鍍金を交えた雲頭連三釵一、同じく圧鬢双頭釵二、同じく腦梳一、同じく簪二。長襖の縁と襈、看帯にはあわせて纏枝花を繡う。ほかは七品と同じ。
  • また命婦の団衫の制を定めた。紅羅で作り、重雉を繡って等第とする。一品が九等、二品が八等、三品が七等、四品が六等、五品が五等、六品が四等、七品が三等。それ以外は繡の雉を用いない。
  • 洪武二十四年(1391年)に制を定めた。命婦が君・后に朝見するとき、家で舅姑および夫に見えるとき、ならびに祭祀のときは礼服を着る。公・侯・伯の夫人は一品と同じ。
  • 大袖衫は真紅色。一品から五品は紵絲・綾・羅、六品から九品は綾・羅・紬・絹。霞帔と褙子はみな深青の段。
  • 公・侯および一品・二品は金で雲霞翟文を繡い、三品・四品は金で雲霞孔雀文を繡い、五品は雲霞鴛鴦文を繡い、六品・七品は雲霞練鵲文を繡う。
  • 大袖衫は領の幅三寸、両領のまっすぐ下一尺の間に紐子三つを綴じ、末に紐子二つを綴じる。紐は掩紐の下にあり、拝するときはこれを放つ。
  • 霞帔は二条で、それぞれ禽七つを繡い、品級に従って前四つ・後三つとする。墜子には中に鏨花の禽一つ、四面に雲霞文。禽は霞帔と同じく品級に従う。笏は象牙で作る。
  • 洪武二十六年(1393年)に定めた。
  • 一品の冠は金の金具、珠の翟五、珠の牡丹の開頭二、珠の半開二、翠の雲二十四片、翠の牡丹の葉十八片、翠の口圏一副、上に金の宝鈿花八、金の翟二が口に珠の結び二つをくわえる。
  • 二品から四品の冠は金の金具、珠の翟四、珠の牡丹の開頭二、珠の半開四、翠の雲二十四片、翠の牡丹の葉十八片、翠の口圏一副、上に金の宝鈿花八、金の翟二が口に珠の結び二つをくわえる。
  • 一品・二品の霞帔と褙子はいずれも雲霞翟文、鏨花の金の墜子。三品・四品の霞帔と褙子はいずれも雲霞孔雀文、鏨花の金の墜子。
  • 五品・六品の冠は抹金の銀の金具、珠の翟三、珠の牡丹の開頭二、珠の半開五、翠の雲二十四片、翠の牡丹の葉十八片、翠の口圏一副、上に抹金の銀の宝鈿花八、抹金の銀の翟二が口に珠の結び二つをくわえる。五品の霞帔と褙子はいずれも雲霞鴛鴦文、鍍金の鏨花の銀の墜子。六品の霞帔と褙子はいずれも雲霞練鵲文、鏨花の銀の墜子。
  • 七品から九品の冠は抹金の銀の金具、珠の翟二、珠の月桂の開頭二、珠の半開六、翠の雲二十四片、翠の月桂の葉十八片、翠の口圏一副、上に抹金の銀の宝鈿花八、抹金の銀の翟二が口に珠の結び二つをくわえる。七品の霞帔・墜子・褙子は六品と同じ。八品・九品の霞帔には纏枝花を繡い、墜子は七品と同じ、褙子には摘枝の団花を繡う。

内外官の親属の冠服

  • 洪武元年(1368年)、礼部尚書の崔亮が詔を奉じて議定した。内外官の父・兄・伯・叔・子・孫・弟・姪は烏紗帽(軟脚に垂帯)、円領の衣、烏角の帯を用いる。
  • 品官の祖母および母、ならびに子孫と同居する近親の弟・姪の婦女の礼服は、当該の官の官職の品級に従い、通じて漆紗の珠翠慶雲冠、その品の衫、霞帔、褙子、縁と襈のある襖・裙を用いる。ただし山松の特髻子だけは、封の誥勅を受けた者にのみ用いることを許す。
  • 品官の次妻には、その品の珠翠慶雲冠と褙子を礼服とし、銷金の闊領の長襖と長裙を常服とすることを許した。
  • 洪武二十五年(1392年)、文武官の父・兄・伯・叔・弟・姪・子・壻はみな鞾を履いてよいと命じた。

内使の冠服

  • 明初、内使監を置き、冠は烏紗に金で描いた曲脚の帽、衣は胸背に花のある盤領・窄袖の衫、烏角の帯、鞾は紅の扇面に黒の下樁を用いた。各官の火者の服は庶人と同じ。
  • 洪武三年(1370年)、宰臣に、内使監でまだ職名のない者には別に冠を作って監の官と区別せよと諭した。礼部が奏定した。内使監は朝会に遇えば品に従って朝服・公服を具えて行礼する。その常服は葵花の胸背のある団領衫で色は問わず、烏紗帽、犀角の帯。品のない従者の常服は胸背の花のない団領衫で色は問わず、烏角の帯、烏紗帽に軟帯を垂らす。十五歳以下の者は烏紗の小頂帽だけをかぶる。
  • 『大政記』によれば、永楽以後、宦官は帝の左右にあっては必ず蟒服を着た。仕立ては曳撒のようで、左右に蟒を繡い、鸞帯を締める。これは燕閑の服である。次が飛魚で、入侍のときにだけ用いた。貴くて事に用いられる者に蟒を賜るのは、文武一品の官でも容易に得られないことであった。単蟒は顔がみな斜めを向き、坐蟒は顔が正面を向いてとりわけ貴い。また膝襴のあるものは、やはり曳撒のようで上に蟒の補があり、膝のあたりに横に細かい雲と蟒を織る。これは南郊や山陵の扈従のとき馬に乗るのに便利だからである。あるいは召対・燕見のときは君臣ともに袍を用いずこれを用いた。ただ蟒には五爪と四爪の別があり、襴には紅と黄の別があるだけである。
  • 𢎞治元年(1488年)、都御史の邊鏞が言った。本朝の品官に蟒衣の制はない。そもそも蟒には角も足もないのに、いま内官の多くが蟒衣を乞い、はなはだ龍の形に類している。制ではない、と。そこで詔を下してこれを禁じた。
  • 𢎞治十七年(1504年)、閣臣の劉健に、内臣の僭妄がとりわけ多いと諭し、禁ずべき服色について言った。蟒・龍・飛魚・斗牛はもとより禁ずるところで、私に織ってはならない。賜わった者があっても、久しくて敝れたら勝手に織って用いてはならない。玄(元)・黄・紫・皁は正しく禁色に属し、柳黄・明黄・薑黄の諸色も禁ずべきだ、と。孝宗は意を用いて引き締めたので、申し飭すことが再度に及んだ。しかし内官の驕恣は久しく、積習が相い沿って止められなかった。
  • はじめ太祖が内臣の服を定めたとき、その紗帽は群臣と異なり、しかも朝冠も幞頭もなく、祭服もなかった。萬厯の初め、穆宗の主を太廟に入れるとき、大璫(有力宦官)が進賢冠をかぶり祭服を着て従った。内府では中霤・竈・井の神を祀るのに例として中官を遣わしたので、そこから自ら祭服を作ったのであって、廷議によったものではない。

侍儀舎人の冠服

  • 洪武二年(1369年)、礼官が議定した。侍儀舎人が礼を導くときは元の制に依り、展脚の幞頭、窄袖の紫衫、塗金の束帯、皁紋の鞾。常服は烏紗の唐帽、諸色の盤領衫、烏角の束帯。衫に黄は用いない。
  • 洪武四年(1371年)、中書省が議定した。侍儀舎人ならびに御史台の知班・引礼・執事は進賢冠(梁なし)をかぶり、絳色の衣を着る。その蔽膝・履・襪・帯・笏は九品と同じ。ただし中単は用いない。

校尉の冠服

  • 洪武三年(1370年)に制を定めた。仗を執る士の首服はみな縷金の額の交脚幞頭。その服には諸色の辟邪・宝相花の裙と襖、銅の葵花の束帯、皁紋の鞾がある。
  • 洪武六年(1373年)、校尉に只孫の衣・束帯・幞頭・鞾鞵を着させた。只孫は質孫とも書き、もと元の制で、一色の衣のことである。
  • 洪武十四年(1381年)、金の鵝帽に改め、黒漆に戧金の荔枝、銅釘の様式で、五釘ごとに集めて四面をやや起こし、縁と襴に青の鞓をきつく締めさせた。
  • 洪武二十二年(1389年)、将軍・力士・校尉・旗軍は常に頭巾または榼腦をかぶらせた。
  • 洪武二十五年(1392年)、校尉・力士は上直のときに鞾を履いてよいが、外に出るときは許さないと命じた。

刻期の冠服

  • 宋には快行親従官があり、明初にはこれを刻期と呼んだ。冠は方頂の巾、衣は胸背に鷹・鷂の花のある腰線の襖子、諸色の闊く扁い絲絛、大きな象牙の雕花の環、行縢、八帯の鞵。
  • 洪武六年(1373年)、雕刻した象牙の絛環だけを用い、ほかは庶民と同じとした。

儒士・生員・監生の巾服

  • 洪武三年(1370年)、士人に四方平定巾をかぶらせた。
  • 洪武二十三年(1390年)、儒士・生員の衣は領から裳まで地上一寸のところまでとし、袖の長さは手を過ぎて折り返し肘に三寸足りないところまでと定めた。
  • 洪武二十四年(1391年)、士子の巾服が吏胥と変わらないので区別すべきだとして、工部に様式を作らせて進めさせた。太祖が自ら見て三度改めさせ、ようやく定まった。生員の襴衫は玉色の布・絹で作り、寛袖に皁の縁、皁の絛、軟巾に垂帯。貢挙されて国子監に入る者はその服を変えない。
  • 洪武の末に遮陽帽をかぶることを許し、のちに私にこれをかぶるようになった。
  • 洪熙年間、帝が藍を着ている者は何者かと問い、左右が監生だと答えると、帝は「青の衣の方がよい」と言い、そこで青の円領に改めた。
  • 嘉靖二十二年(1543年)、礼部が、士子の冠服が詭異で凌雲巾などがあり、はなはだ礼制に背いていると言上し、詔して所司に禁じさせた。
  • 萬厯二年(1574年)、挙人・監生・生儒が忠靜の冠巾・錦綺・鑲履を僭用すること、および繖蓋を張り煖耳をかぶることを禁じ、違反する者は五城の御史が送って糾問することとした。

庶人の冠服

  • 明初、庶人は婚礼に九品の服を借りることを許した。
  • 洪武三年(1370年)、庶人ははじめ四帯巾をかぶっていたのを四方平定巾に改め、雑色の盤領衣とし、黄は用いさせなかった。また男女の衣服に金繡・錦綺・紵絲・綾羅を僭用することを許さず、紬・絹・素紗だけを許した。鞾には花様を裁ち込んだり金線で装飾したりすることを許さず、首飾りの釵・鐲には金・玉・珠・翠を許さず銀だけを用いさせた。
  • 洪武六年(1373年)、庶人の巾の環に金・玉・瑪瑙・珊瑚・琥珀を用いてはならないとした。未だ流品に入らない者も庶人と同じ。帽には頂を用いてはならず、帽の珠は水晶と香木だけを許した。
  • 洪武十四年(1381年)、農は紬・紗・絹・布を着てよいが、商賈は絹と布だけとした。農家に一人でも商賈となった者があれば、やはり紬・紗を着てはならないとした。
  • 洪武二十二年(1389年)、農夫は斗笠・蒲笠をかぶって市井に出入りしてよいが、農業に従事しない者は許さないとした。
  • 洪武二十三年(1390年)、耆民の衣の制は袖の長さが手を過ぎて折り返し肘に三寸足りないところまで、庶人の衣の丈は地上五寸、袖の長さは手を過ぎること六寸、袖樁の幅は一尺、袖口は五寸と定めた。
  • 洪武二十五年(1392年)、民間が禁を犯した鞾に巧みに花様を裁ち込み金線・藍条を嵌めているとして、礼部に厳禁を詔した。庶人は鞾を履いてはならず、皮の札䩺だけを許した。ただし北方の苦寒の地では牛皮の直縫の鞾を用いることを許した。
  • 正徳元年(1506年)、商販・僕役・倡優など下賤の者が貂裘を用いることを禁じた。
  • 正徳十六年(1521年)、軍民が紫花の罩甲を着ること、および禁門や四方を遊び歩くことを禁じ、緝事の人にこれを捕らえさせた。

士庶の妻の冠服

  • 洪武三年(1370年)に制を定めた。士庶の妻の首飾りは銀鍍金、耳環は金珠、釧と鐲は銀を用い、淡い色の団衫を着て紵絲・綾・羅・紬・絹を用いる。
  • 洪武五年(1372年)、民間の婦人の礼服は紫の絁だけとし金繡は用いない、袍衫は紫・緑・桃紅および諸々の淡い色にとどめ、大紅・鴉青・黄色は許さない、帯は藍の絹布を用いる、と命じた。
  • 未婚の女子は三つの小髻を作り、金の釵、珠の頭□(底本欠字)、窄袖の褙子とする。
  • 婢使はみな高い頂の髻、絹布の狭い領の長襖、長裙。小婢使は双髻、長袖の短い衣、長裙。
  • 成化十年(1474年)、官民の婦女が渾金の衣服や宝石の首飾りを僭用することを禁じた。
  • 正徳元年(1506年)、軍民の婦女が銷金の衣服・帳幔、宝石の首飾り、鐲・釧を用いることを許さないと命じた。

協律郎・楽舞生の冠服

  • 明初、郊社・宗廟には雅楽を用い、協律郎は幞頭・紫羅の袍・荔枝の帯、楽生は緋の袍・展脚の幞頭、舞士は幞頭・紅羅の袍・荔枝の帯・皁の鞾、文舞生は紅の袍、武舞生は緋の袍で、いずれも展脚の幞頭・革帯・皁の鞾。
  • 朝会の大楽九奏の歌工は中華一統巾、紅羅の生色の大袖衫に黄鶯・鸚鵡の花様を描き、紅の生絹の襯衫に錦の領、杏紅の絹の裙、白絹の大口袴、青絲の絛、白絹の襪、茶褐の鞵。
  • 和声郎で楽を押さえる者は皁羅の闊帯巾、青羅の大袖衫、紅の生絹の襯衫に錦の領、塗金の束帯、皁の鞾。
  • 三舞のうち一つの武舞は「平定天下之舞」という。舞士はみな黄金の束髪冠、紫絲の纓、青羅の生色に舞鶴の花様を描いた窄袖衫、白の生絹の襯衫に錦の領、紅羅の銷金の大袖罩袍、紅羅の銷金の裙、皁の生色に花を描いた縁と襈、白羅の銷金の汗袴、藍青羅の銷金の縁、紅絹の擁項、紅の結子、紅絹の束腰、塗金の束帯、青絲の大絛、錦の臂韝、緑の雲頭、皁の鞾。舞師は黄金の束髪冠、紫絲の纓、青羅の大袖衫、白絹の襯衫に錦の領、塗金の束帯、緑の雲頭、皁の鞾。
  • 一つの文舞は「車書會同之舞」という。舞士はみな黒光に金を描いた方山冠、青絲の纓、青紅羅の大袖衫、紅の生絹の襯衫に錦の領、紅羅の擁項、紅の結子、塗金の束帯、白絹の大口袴、白絹の襪、茶褐の鞵。舞師の冠服は舞士と同じだが、大袖衫は青羅を用い、紅羅の擁項と紅の結子は用いない。
  • 一つの文舞は「撫安四夷之舞」という。
  • 東夷は四人。髻を後ろに椎のように結び、紅の銷金の頭繩を繋ぎ、紅羅の銷金の抹額の中に塗金の博山を綴じ、両傍に塗金の巾環を綴じる。明金の耳環、青羅の生色に花を描いた大袖衫、紅の生色の領と袖、紅羅の銷金の裙、青の銷金の裙の縁、紅の生絹の襯衫に錦の領、塗金の束帯、烏皮の鞾。
  • 西戎は四人。間道の錦の纏頭、明金の耳環、紅の紵絲の細摺の襖子、大紅羅の生色の雲肩、緑の生色の縁、藍青羅の銷金の汗袴、紅の銷金の縁、繋腰の合鉢、十字の泥金の数珠、五色の銷金の羅の香囊、紅絹の擁項、紅の結子、赤皮の鞾。
  • 南蛮は四人。朝天髻を綰い、紅羅の生色の銀錠を繋ぎ、紅の銷金の抹額、明金の耳環、紅の織金の短い襖子、緑の織金の細摺の短い裙、絨錦の袴、間道の紵絲の手巾、泥金の頂牌、金珠の瓔珞に小さな金の鈴を綴じ、錦の行纏、泥金の獅蠻帯、緑の銷金の擁項、紅の結子、赤皮の鞾。
  • 北狄は四人。単于冠に貂鼠皮の簷をかぶり、双垂の髻、紅の銷金の頭繩、紅羅の銷金の抹額、諸色の細摺の襖子、藍青の生色の雲肩、紅の結子、紅の銷金の汗袴、繋腰の合鉢、皁皮の鞾。
  • その舞師はみな白の巻簷の氊帽に塗金の帽頂、一撒の紅纓、紫羅の帽襻、紅緑の金繡の襖子、白の銷金の汗袴、藍青の銷金の縁、塗金の束帯、緑の擁項、紅の結子、赤皮の鞾。
  • 大楽の楽工および文武二舞の楽工はみな曲脚の幞頭、紅羅の生色に花を描いた大袖衫、塗金の束帯、紅絹の擁項、紅の結子、皁皮の鞾。四夷の楽工はみな蓮花帽、諸色の細摺の襖子、白の銷金の汗袴、紅の銷金の縁、紅緑の絹の束帯、紅羅の擁項、紅の結子、花の鞾。
  • 永樂年間、殿内の侑食の楽を定めた。
  • 「平定天下之舞」を奏するとき、引舞の楽工はみな青羅の包巾、青・紅・緑・玉色の羅の銷金の胸背の襖子、渾金の銅帯、紅羅の褡䙏、雲頭の皁の鞾、青緑羅の銷金の包臀。舞人の服色もこれに同じ。
  • 「撫安四夷之舞」を奏するとき、高麗の舞は四人でみな笠子、青羅の銷金の胸背の襖子、銅帯、皁の鞾。琉球の舞は四人でみな棉布の花手巾、青羅の大袖の襖子、銅帯、白の碾光絹の間道の踢袴、皁皮の鞾。北番の舞は四人でみな狐帽、青紅の紵絲の銷金の襖子、銅帯。伍魯速回回の舞は四人でみな青羅の帽、比里罕、棉布の花手巾、銅帯、皁の鞾。
  • 「車書會同之舞」を奏するとき、舞人はみな皁羅の頭巾、青・緑・玉色の皁で縁取った襴、茶褐の線絛、皁皮の四縫の鞾。
  • 「表正萬邦之舞」を奏するとき、引舞二人は青羅の包巾、紅羅の銷金の項帕、紅の生絹に錦の領の中単、紅の生絹の銷金の通袖の襖子、青の線絛、銅帯、織錦の臂韝、雲頭の皁の鞾、各色の銷金の包臀、紅絹の褡䙏。舞人と楽工の服色は引舞と同じ。
  • 「天命有徳之舞」を奏するとき、引舞二人は青の幪紗の如意冠、紅の生絹に錦の領の中単、紅の生絹の大袖袍、各色の絹に彩色で描いた直纏、黒角の偏帯、藍絹の彩の雲頭の皁の鞾、白布の襪。舞人と楽工の服色は引舞と同じ。
  • 洪武五年(1372年)、斎郎・楽生・文武舞生の冠服を定めた。
  • 斎郎は黒の介幘(漆布で作り花様なし)、紅絹の窄袖衫(紅の生絹を裏とする)、皁皮の四縫の鞾、黒角の帯。
  • 文舞生および楽生は黒の介幘(漆布で作り、上に金で蟬を描く)、紅絹の大紬の袍(胸背に纏枝の方葵花を描き、紅の生絹を裏とする)、錦の臂韝二つ、皁皮の四縫の鞾、黒角の帯。
  • 武舞生は武弁(漆布で作り、上に金で蟬を描く)。服・飾り・鞾・帯はすべて文舞生と同じ。
  • 嘉靖九年(1530年)、文武舞生の服制を定めた。圜丘では青の紵絲、方澤では黒緑の紗、朝日壇では赤羅、夕月壇では玉色の羅。

宮中の女楽の冠服

  • 洪武三年(1370年)に制を定めた。中宮に供奉する女楽のうち、奉鑾等の官の妻は本色の䯼髻、青羅の円領。提調の女楽は黒漆の唐巾、大紅羅の銷金の花の円領、鍍金の花帯、皁の鞾。歌章の女楽は黒漆の唐巾、大紅羅の銷金の裙と襖、胸帯、大紅羅の抹額、青緑羅に彩色で描いた雲肩に金で牡丹花を描き、皁の鞾。奏楽の女楽の服色は歌章と同じ。
  • 嘉靖九年(1530年)、先蠶を祀るにあたり楽女生の冠服を定めた。黒の縐紗に金で蟬を描いた冠、黒絲の纓、黒の素羅に銷金の葵花の胸背のある大袖の女袍、黒の生絹の襯衫に錦の領、塗金の束帯、白の襪、黒の鞵。

教坊司の冠服

  • 洪武三年(1370年)に定めた。教坊司の楽芸は青の卍字の頂巾、紅緑の褡䙏を締める。楽妓は明角の冠、皁の褙子で、民の妻と同じにすることを許さない。
  • 御前に供奉する俳長は鼓吹冠、紅羅の胸背のある小袖の袍、紅絹の褡䙏、皁の鞾。色長は鼓吹冠、紅青羅の紵絲に彩色で百花を描いた袍、紅絹の褡䙏。歌工は弁冠、紅羅の織金の胸背のある大袖の袍、紅の生絹に錦の領の中単、黒角の帯、紅の熟絹の錦脚の袴、皁皮の琴鞵、白の棉布の夾襪。楽工の服色は歌工と同じ。
  • 教坊司の官の常服・冠帯は百官と同じ。ただし御前に供奉して粉漆を執るときは着てはならず、黒漆の幞頭、黒緑羅の大袖の襴袍、黒角の偏帯、皁の鞾とする。
  • 教坊司の伶人の常服は緑色の巾として士庶の服と区別する。楽人はみな鼓吹冠をかぶり、錦の絛は用いず、紅の褡䙏だけとし、服色は紅・緑に拘らない。教坊司の婦人は冠をかぶり褙子を着ることを許さない。楽人の衣服は明緑・桃紅・玉色・水紅・茶褐色にとどめる。俳の色長と楽工はいずれも皁の頭巾、雑色の絛。

王府の楽工の冠服

  • 洪武十五年(1382年)に定めた。朝賀には大楽を用い、宴礼には七奏の楽を用いる。楽工はいずれも紅絹に彩色で胸背に方花を描いた小袖の単袍、花のある鼓吹冠、錦の臂韝、皁の鞾。抹額は紅羅の彩色で、束腰は紅絹。その他の楽工は緑絹に彩色で胸背に方花を描いた小袖の単袍、花のない鼓吹冠、抹額は紅絹の彩色、束腰は紅絹。

軍士の服

  • 洪武元年(1368年)、衣の表裏を異なる色に作らせ、これを鴛鴦戦襖と呼び、新たな軍号とした。
  • 洪武二十一年(1388年)、旗手衛の軍士と力士はいずれも紅の絆襖とし、その他の衛所の袢襖もこれに準ずると定めた。袢襖はいずれも丈が膝までで窄袖、中に棉花を詰める。
  • 洪武二十六年(1393年)、騎士には対襟の衣を着させた。馬に乗るのに便利だからである。着るべきでないのに着た者は罪した。

皁隷・公人の冠服

  • 洪武三年(1370年)、皁隷は円頂の巾、皁の衣と定めた。
  • 洪武四年(1371年)、皁隷・公使人は皁の盤領衫、平頂の巾、白の褡䙏、帯に錫の牌と定めた。
  • 洪武十四年(1381年)、各衙門の祗禁はもと皁の衣だったのを淡青に改めさせた。
  • 洪武二十五年(1392年)、皁隷・伴当は鞾を履くことを許さず、皮の札䩺だけとした。

外国の君臣の冠服

  • 洪武二年(1369年)、高麗が入朝して祭服の制度を請い、作って給うよう命じた。
  • 洪武二十七年(1394年)、蕃国の朝貢の儀を定めた。国王が来朝したとき、かつて朝服を賜っていればそれを着て朝する。
  • 洪武三十一年(1398年)、琉球国王ならびにその臣下に冠服を賜った。
  • 永樂年間、琉球の中山王に皮弁・玉圭・麟袍・犀帯を賜り、二品の秩に準じた。
  • 宣徳三年(1428年)、朝鮮国王の李裪が言った。洪武年間に国王の冕服九章を賜り、陪臣の冠服は朝廷より二等ずつ降ると賜った。ゆえに陪臣の一等は朝臣の第三等に当たり、五梁の冠服を得た。永楽の初め、先臣の芳遠が世子の禔を遣わして入朝させたとき、五梁の冠服を賜った。しかし世子の冠服が陪臣の一等と同じでよいはずがない。制を定めていただきたい、と。そこで六梁の冠を作って賜るよう命じた。
  • 嘉靖六年(1527年)、外国の朝貢の人が制に違う衣服を擅に用いることを許さず、違反すれば売った者も買った者も同罪とした。

僧道の服

  • 洪武十四年(1381年)に定めた。
  • 禅僧は茶褐の常服、青の絛、玉色の袈裟。
  • 講僧は玉色の常服、緑の絛、淺紅の袈裟。
  • 教僧は皁の常服、黒の絛、淺紅の袈裟。僧官もこれに準ずるが、僧録司の官だけは袈裟の緑の文と環をみな金で飾る。
  • 道士は青の常服、法服と朝衣はみな赤。道官もこれに準ずるが、道録司の官だけは法服・朝服の緑の文を金で飾る。
  • 在京の道官は紅の道衣に金襴の木簡、在外の道官は紅の道衣に木簡で金襴は用いない。道士は青の道服に木簡。