明史卷六十 志第三十六 禮十四(凶禮三)

本巻の項目

  • 本巻は謁祭陵廟・忌辰・受蕃國王訃奏儀・為王公大臣舉哀儀・臨王公大臣䘮儀・中宮為父祖䘮儀・遣使臨弔儀・遣使冊贈王公大臣儀・賜祭𦵏・䘮𦵏之禮・碑碣・賜諡・品官䘮禮・士庶人䘮禮・服紀の十五項を扱う。

謁祭陵廟――洪武年間

  • 洪武元年(1368年)三月、官を遣わして仁祖の陵に致祭した。二年(1369年)、英陵の号を加えるにあたって禮部尚書の崔亮が太常に下して祭告の禮を行うよう請うた。
  • 博士の孫吾與が言った。山陵の制は漢より備わったものはないが、当初は祭告の禮はなかった。そもそも廟号と陵号は異なる。廟号は大行の号を易えるものだから必ず冊諡を上って神明に告げる。陵号は後嗣の王が先後を識別するためのものにすぎない。英陵の祭告は罷めていただきたい、と。
  • 亮は言った。漢の光武は先の陵に昌の号を加え、宋の太祖は高祖・曾祖・祖考にもまた欽・康・定・安の号を加えた。そもそも祖考を尊べばその陵を尊び、陵を尊べば必ず告禮をもってする。人情に縁ってこれを告げるのが正しい、と。廷議はみな亮を是とし、その説に従った。
  • 熙祖の陵では毎年の正旦・清明・中元・冬至および毎月の朔望に、本署の官が供祭して行禮する。またその地で徳祖・懿祖を望祭する。
  • 洪武二年(1369年)、英陵(のちに皇陵と改称)では孟冬の一祭を加え、いずれも署の官が行禮し、朔望は中都留守司の官が行禮した。
  • 洪武八年(1375年)、詔して翰林院に陵寢の朔望・節序の祭祀の禮を議させた。学士の樂韶鳳らが言った。漢の諸廟の寢園には便殿があり、日祭は寢で、月祭は廟で、時祭は便殿で行った。後漢は洛陽に都したので関西の諸陵は遠く、ただ四時に特牲を用いて祀り、西に幸するたびに親しく詣でた。毎年正月に郊廟を祀り終えると順次に洛陽の諸陵に上った。唐の園陵の制では、皇祖より上の陵はみな朔望に上食し、元日・冬至・寒食・伏・臘・社に各一祭を行い、皇考の陵は朔望および節祭の日に進食し、また諸陵に薦新した。永徽二年には獻陵は朔望・冬至・夏至・伏・臘・清明・社などの節にみな上食すると定めた。開元年間には敕して獻・昭・乾・定・橋・恭の六陵は朔望に上食し、冬至・寒食に各一祭を設けるとした。宋は毎年春秋の仲月に太常卿・宗正卿を遣わして諸陵に朝した。我が朝の旧儀では毎年の元旦・清明・七月望・十月朔・冬至の日にいずれも太牢を用いて官を遣わして致祭し、白塔の二か所では少牢を用いて中官が行禮する。いま旧儀のとおりとしつつ夏至の日に太牢を増し、伏・臘・社および毎月の朔には特羊を用いて祠祭署の官が行禮し、節が朔望・伏・臘・社と同日になれば節の禮を用いるのがよい、と。これに従った。
  • 洪武十六年(1383年)、孝陵の殿が成り、皇太子に牲醴で致祭するよう命じた。清晨に祭儀を陳ね、終わると皇太子・親王が東門から入って殿中の拜位に就き、みな四拜する。皇太子はやや前に出て三たび上香し、酒を奠じ、祝を読んでいわく、「園陵を営みはじめたころは祭享の儀が備わっていなかった。いま禮殿がすでに成ったので、奏して神位を安んじ、謹んで祭告する」。そして亞獻・終獻の禮を行い、皇太子以下がみな四拜した。執事して行禮する者はみな内官である。
  • 洪武二十六年(1393年)、車馬が陵を過ぎるとき、および守陵の官民が陵に入るときは百歩の外で下馬するよう令じ、違反者は大不敬をもって論じることとした。

謁祭陵廟――建文から正統まで

  • 建文の初め、孝陵では毎年の正旦・孟冬・忌辰・聖節にはみな行香し、清明・中元・冬至にはみな祭祀することを定めた。勲旧の大臣が行禮し、文武官が陪祀する。親王が藩に赴く途中で京師を過ぎる者は陵に謁す。官員で公事のために至った者は、入城すれば謁陵し、出城すれば辞陵する。国に大事があれば官を遣わして祭告する。
  • 懿文太子の陵は孝陵の左にあり、四孟・清明・中元・冬至・歳暮および忌辰の合わせて九祭を行う。
  • 永樂元年(1403年)、工部が泗州の祖陵が黒瓦であることを言上した。帝は皇陵の制のとおり黄瓦に易えるよう命じた。
  • 宣宗は即位すると鄭王を遣わして孝陵に謁祭させた。
  • 正統二年(1437年)、天寿山の陵寢で樹木を剪伐する者は重罪とすると諭し、都察院が榜を出して禁じ、錦衣衛の官校が巡視し、工部・欽天監の官が山を環らせて界を立てた。
  • 正統十年(1445年)、三陵に謁するにあたり、洪武・永樂の例のとおり百官は淺色の衣服を具えるよう諭した。
  • 南京司禮太監の陳祖圭が、魏國公徐俌は孝陵を祭るたびに紅券門から真っすぐ入って殿内に至って行禮しており、僭妄だから改めるべきだと言った。俌は、紅券門から入るのは祖宗の祭を重んじ皇上の命を尊ぶためであり、出るとき小さな脇門からするのは臣下の分を守るためである。故事に循うことすでに百年近く、どうして擅に易えられよう、と言った。禮部に下して議させたところ、長陵および太廟に官を遣わして致祭するときに通る門も孝陵と事体は同じだから旧のとおりでよいとし、これに従った。

謁祭陵廟――𢎞治・正徳

  • 𢎞治元年(1488年)、内官を遣わして鳳陽の皇陵を監護させ、およそ官員で公事のために経過する者はみな謁陵することとした。
  • 𢎞治十七年(1504年)、裕陵の神座を改めた。初め孝肅太皇太后を裕陵に附葬する議があり、すでに官を遣わして諸陵および天寿山・后土に分けて告げていた。ところが欽天監が、歳の殺が北方にあって向きが不利だとし、内官監もまた英廟の陵寢は軽々しく動かしがたいと言ったので、別に廟を建てて神主を奉安する議となった。帝の心は満たされず、結局は英廟を中に移し、孝莊を左に、孝肅をその右に附することとしたという。
  • 正徳年間、長陵以下の諸陵に各々神官監ならびに衛および祠祭署を設けることを定めた。清明・中元・冬至にはみな駙馬都尉を分遣して行禮させ、文武官が陪祭する。忌辰および正旦・孟冬・聖節にもまた駙馬都尉を遣わして行禮させる。親王が藩に赴くときは諸陵に詣でて辞謁する。恭讓章皇后の陵では清明・中元・冬至・忌辰に内官が行禮し、西山の景皇帝の陵の祭期は上の儀のとおりで、儀賓が行禮する。

謁祭陵廟――嘉靖の改定

  • はじめ成祖が黄土山を天寿山と改名した。嘉靖十年(1531年)、祖陵の山を基運山、皇陵の山を翌聖山、孝陵の山を神烈山、顯陵の山を純徳山と名づけ、天寿山とあわせて方澤に準じて事を行い、所在の有司が各陵の山祗に祭告することとした。禮官はそこで、神祗壇の毎年の秋祭には鍾山・天寿山の神があるので、いま基運山などを増すべきだと奏し、従われた。
  • 嘉靖十四年(1535年)、禮部尚書の夏言に、清明節にすでに官を遣わして上陵しているのに内殿でまた祭るのは煩複に過ぎるようだ、と諭した。
  • 言はそこで言った。我が朝の祀典は特享・時享・祫祭・禘祭のように経義に応じて世の法とするに足るものだが、ただ上陵および奉先殿は多く前代の故事に沿っている。上陵の祀は毎年清明・中元・冬至の三度あるが、中元は俗節で事はもと経に本づかない。かつては郊祀が年の初めにあったので冬至に上陵し、一気の始まりを重んじて報本の義を伸べたのである。いま冬至にはすでに大報配天の禮を行っているのだから陵の事は軽い。まして南郊に事あるときに陪祀の臣僚を止めて遠く山陵に出すのでは、尊祖配天の誠が尽くされまい。冬至の上陵を罷め、中元を霜降に移し、ただ清明だけを旧のとおりとすべきである。清明の禮を春に行うのは「雨露すでに濡い、君子これを履めば怵惕の心あり」というものであり、霜降の禮を秋に行うのは「霜露すでに降り、君子これを履めば悽愴の心あり」というものである。この二節に官を遣わして上陵する以上、内殿の祭はまことに重ねるべきでない、と。そこでこれを令として著した。
  • 嘉靖十五年(1536年)、言に諭していわく、廟は陵より重く、その禮は厳しい。ゆえに廟中は一帝一后だが、陵には二后三后を配𦵏する。いま別に奉慈殿を建てるより、神主を陵に奉じるほうがよい。かつ梓宮を配𦵏しながら神主だけを別に置くのは黜けるに近く、親しむ道ではない、と。そこで孝肅・孝穆・孝惠の三后の神主を陵殿に遷した。
  • また言に諭していわく、三后の神主に皇太后・太皇太后と称するのは子孫が奉じた尊称である。いますでに陵殿に遷したのだから名実が合わない、と。言らは議していわく、三后の神主は禮として廟に祔せず、義として祧に従うべきもので、陵殿に遷奉するのは深く典禮に合う。皇太后・太皇太后と称するのは子孫が上った尊号だから、すでに陵に遷奉した以上は夫婦の義に従って改題すべきで、孝肅の神主には睿の字を用いず、孝穆・孝惠の神主にはいずれも純の字を用いなければ、嫡庶に別があって尊親がともに隆んになる、と。擬のとおり行うよう命じた。
  • また、長陵など七陵への祭告にはみな躬ら叩拜し、恭讓章皇后と景皇帝の陵にも一度展拜して追感の情を慰めると諭した。
  • 嘉靖十七年(1538年)、陵殿を祾恩殿、門を祾恩門と改めた。また成祖の聖蹟亭を平臺山に建て、従官を率いて祭禮を行った。
  • 嘉靖二十一年(1542年)、工部尚書の顧璘が、帝が顯陵に上った聖製の歌詩を楽章に作って獻陵の廟に享獻することを請うたが、禮部は天寿山の諸陵の歳祀にはみな楽を用いないと言った。やがて承天府守備太監の傅霖が顯陵に歳暮の祭を増すよう乞うたが、部議は諸陵にはみな歳暮の祀典がないとし、詔していずれも部議に従った。

謁祭陵廟――隆慶・萬厯

  • 隆慶二年(1568年)、帝は天寿山に詣でて春祭を行った。前日に世宗の几筵および奉先殿・𢎞孝殿・神霄殿に告げた。駕が天寿山の紅門に至ると輿を降り、左門から入って輿に升り、感思殿に駐驆した。二日を越えて夜明けに行禮した。帝は青袍で板輿に乗って長陵の門外の東に至って輿を降り、殿の左門から入って拜位に至り、上香して四拜し、神御の前に至って帛を献じ爵を献じ、終えて位に復した。亞獻・終獻は爵を執る者に代行させ、また四拜した。あとは常祭の儀のとおり。降って永陵に詣でて行禮した。この日、官六員を遣わし、青服で六陵を分けて祭らせた。
  • 萬厯八年(1580年)の謁陵の禮は旧のとおり。萬厯十一年(1583年)にまた謁陵したとき、禮部が世宗の彞憲に遵って二日に酌み分け、順次に展拜すべきだと言った。そこで長陵・永陵・昭陵の三陵では上香八拜し、自ら帛を奠じ初献することとし、六陵と二寢では上香四拜、帛を奠じ三献するのはいずれも執事官が代行することと定めた。
  • 萬厯十四年(1586年)、禮部が言った。諸妃で金山などの地に𦵏られた者は嘉靖年間にみな各陵の殿に配享させて本墳の祭を罷めた。いま世廟の諸妃で西山に安厝されている者もその例に従うべきである。また陵祭の品物について、九陵と恭讓・恭仁の陵は酒果にとどまるのに、越王・靖王ら諸王および諸王の妃にはさらに牲・果・祝文があり、かえって手厚いほうに従っている。これは九陵の帝后は歳暮にすでに廟で祫祭され、旬日のうちにまた孟春の享があるので、元旦の陵殿では酒果だけを用いるのであって倹約ではない。諸王・諸妃は祫祭にも春祭にもあずからず元旦の一祭だけだから簡略にすべきでなく、牲帛と祝文を用いるのであって豊かなのではない。ただ恭讓・恭仁は廟の祫享にあずからないうえ陵にも牲帛を設けないので、これは礼文の欠けたところであり、備わらぬところを増すべきである。また諸王・諸妃の祝文はなお安厝のときのものを用いているので、歳時に官を遣わす意に改めて叙すべきである。そうすれば情も順い禮も安らかになる、と。許された。

山陵の規制

  • およそ山陵の規制では、宝城の中で長陵が最も大きく、径は一百一丈八尺。次に永陵が径八十一丈。各陵の深広の丈尺には差がある。
  • 真正面が明樓で、樓の中に帝の廟諡を刻んだ石碑を立て、下が靈寢門である。ただ永陵だけは中央を券門とし、左右に墻門各一と樓一を置く。明樓の前が石の几筵、さらに前が祾恩殿である。
  • 祾恩の前殿は、長陵だけが重簷九間で左右の配殿各十五間、永陵は重簷七間で配殿各九間、諸陵はいずれも殿五間・配殿五間である。門外には神庫が一または二、神厨・宰牲亭があり、聖蹟碑亭がある。諸陵の碑はみな門外に設けられ、おおむね無字である。
  • 長陵の南寄りに総神道があり、石橋があり、石像の人物十八対、擎天柱四、石望柱二がある。長陵には神功聖徳碑があり、仁宗の御撰で神道の正南、紅門の外にある。石碑坊が一つ。門内には時陟殿があり、車駕の更衣の所である。永陵のやや東に感思殿があり、駐蹕の所である。殿の東が神馬厰である。

忌辰

  • 洪武八年(1375年)四月、仁祖の忌日に太祖が自ら皇陵に詣でて致祭した。
  • 永樂元年(1403年)、禮部尚書の李至剛らが奏定した。高皇帝の忌辰の二日前から、帝は淺淡色の衣を服して西角門に御して視事し、鐘鼓を鳴らさず、賞罰を行わず、音楽と屠宰を挙げない。百官は淺淡色の衣・黒角帯で朝参する。当日に至ると奏先殿で親祀し、なお百官を率いて孝陵に詣でて致祭する。高皇后の忌辰も同様とする。
  • 宣徳四年(1429年)、忌辰に遇えば通政司・禮科・兵馬司は囚を引かず奏事しないよう令じた。五年(1430年)、敕して百官の朝参では奏事の儀を輟めさせた。
  • 英宗が即位すると禮臣および翰林院を召して忌辰の禮を議させた。大学士の楊士竒・楊榮、学士の楊溥が議して、毎年の高廟の帝后、文廟の帝后、仁宗の忌辰には淺深色の服を服して鐘鼓を鳴らさず奉天門で視事し、宣宗の忌辰と小祥の日には西角門で視事するとし、従われた。
  • 𢎞治十四年(1501年)、忌辰に遇えば朝参の官は紵絲・紗・羅の衣を着てはならないと令じた。景皇帝と恭讓皇后の忌辰が節令に遇えば青の絲の花様を服し、宣宗の忌辰が祭祀に遇えば紅を服する。
  • 𢎞治十六年(1503年)八月、吏部尚書の馬文升が言った。宣徳年間には仁宗の忌辰に諸司はことごとく奏事を免じ、太宗から仁宗までの生忌にはみな朝を輟めた。その後いつからか仁宗の忌辰に以前どおり奏事するようになり、太宗から憲宗までの忌辰にだけ百官が淺淡色の服・黒色の帯とし、朝廷もまた出御して視朝し、鐘鼓を鳴らして奏事している。臣が思うに仁宗から憲宗まで世に遠近があり、服にも隆殺があるべきだ。仁宗の忌辰と英宗の生忌の日には視朝して鐘鼓を鳴らし、孝宗および孝穆皇太后の忌日に遇えば視朝せず淺淡の服を着て御膳を進め、他事に遇わぬようにする。あるいは宣宗のときの例に遵い、太宗から憲宗までの生忌にはみな朝を一日輟め、憲宗と孝穆の忌日は臣の擬したとおりにする、と。
  • これを禮部に下して議させた。部臣は、経𫝊に載る忌日とは親の死んだ日のことで、死んだ日が忌なのであって生辰をいうのではない。「忌日は用いず」とはこの日を他事に用いないということであり、「忌日には楽しまず」とは吉事を挙げてはならないということである。この日は専ら父母を哀しみ思うべきで、他の事はみな挙げない。ただ先朝の事例が今日まで行われているので軽々に更易するのは憚られる、と言った。帝はそこで酌み定めて、淺淡の服色で視事することとした。
  • 嘉靖七年(1528年)、忌辰にはその本位だけを祭るよう令じた。十八年(1539年)、高廟の帝后の忌辰は景神殿で祭り、列聖の帝后の忌辰は永思殿で祭るよう令じた。二十四年(1545年)、なお奉先殿で祭るよう令じた。

乗輿受蕃國王訃奏儀

  • およそ蕃国の王が薨じて使者が訃を奏しに来ると、西華門内の壬の地に御幄を設ける。皇帝は素服で輿に乗って幄に詣で、太常卿が「某国の世子が陪臣某官某を遣わし、某国王臣某の薨去を奏す」と奏す。承制官が使者の前に至って制を宣していわく、「皇帝、問いを致す。なんじの某国王某は何の疾を得て逝ったのか」。使者が理由を答える。その儀はおおむね王公大臣の喪に臨む儀と同じだが、挙哀はしない。
  • およそ塞外の都督などの官の訃が至った場合、永樂年間には官を遣わして香と鈔を賫して諭祭した。のちに定例として、その奏請に応じて表裏と祭文を与え、持ち帰って自ら祭らせることとした。京に来て病没した者には官を遣わして諭祭し、あるいは棺を賜い𦵏を賜う。のちに年末にまとめて奏し、官を遣わして祭ることと定めた。辺境で戦陣に没した者はこの例にかかわらない。
  • およそ外国の使臣で病没した者には、所在の官司に棺および祭を賜わせ、帰𦵏を望む者があればそれを許す。

乘輿為王公大臣舉哀儀

  • 洪武二年(1369年)、開平王常遇春が軍中で卒し、訃が至った。禮官が宋の太宗が趙普のために挙哀した故事のとおりにするよう請い、そこで制を定めた。
  • およそ王公が薨じて訃が報じられると、太常司が百官に示し、西華門内の壬の地に御幄を設け、御座を陳ねて素の褥を置く。訃を告げる者の位を前に設け、百官の陪哭の位を東西向に、奉慰の位を訃者の位の北に北向に設ける。贊禮二人の位を訃者の位の北に、引訃者二人の位を贊禮の南に、引百官四人の位を陪位の北に設け、みな東西向とする。
  • 当日、儀仗を奉天門に備えて駕を迎える。皇帝は素服で輿に乗って幄に詣でる。楽は幄の南に陳ねるが奏さない。太常卿が「某官が来たって訃を告げるに、某年月日、臣某官が某の疾で薨じたと。挙哀を請う」と奏す。皇帝が哭し、百官もみな哭す。太常卿が哭を止めるよう奏し、百官が奉慰して終えると班を分けて立つ。訃者が四拜して退く。太常卿が禮畢を奏し、輿に乗って宮に還り、百官が退出する。
  • 東宮が王公のために挙哀する儀も同じだが、幄を東宮の西門外に設け、陪哭する者はみな東宮の属官とする。

乗輿臨王公大臣䘮儀

  • およそ王公大臣の訃が奏されると、太史監が皇帝の臨喪の日を択ぶ。拱衛司が喪家の大門外に大次を設け、正㕔の中に御座を設ける。有司が百官の次を大次の左右に設け、侍儀司が百官の陪立の位を㕔前の左右に設け、引禮四人の位を百官の北に東西向に設ける。喪主以下の拜位を㕔前に、主婦以下の哭位を殯の北の幔の中に設ける。
  • 当日、鑾駕が大次に至ると輅を降りて輿に升り、入って素服に易える。百官もみな服を易え、先に入って㕔前に班を分けて侍立する。御輿が次を出ると、喪主以下は絰を免き杖を去り、衰服のまま大門外に出迎え、乗輿を望み見ると哭を止めて再拜し、門内の西に入る。乗輿が門に入ると將軍四人が前導し、四人が後に従う。正㕔に至って輿を降り、升って靈座の前に詣でる。百官はその後ろに班する。皇帝が哭し、百官もみな哭す。太常卿が哭を止めるよう奏し、三たび上香し三たび酒を祭る。出て正㕔の御座に至ると、喪を主る者以下はみな跪き、制を宣し終えるとみな再拜して退き、㕔の西に立つ。太常卿が禮畢を奏す。
  • 皇帝は輿に升って出て大次に就いて服を易える。御輿が出ると喪主以下が前に詣でて再拜して退く。皇帝は輿を降りて輅に升り、喪主は杖をついて哭しながら入る。諸々の儀衛と贊唱はおおむね常のとおりである。
  • 公侯が卒し𦵏るときの輟朝の禮は、洪武二十三年(1390年)に定めた。およそ公侯が家で卒した場合、喪を聞いて朝を三日輟め、下𦵏に一日。外で卒した場合は、喪を聞いて一日、柩が京に至って三日、下𦵏になお一日。およそ輟朝の日は鐘鼓を鳴らさず、各官は淺淡色の衣服で参する。初めの制では都督から都指揮までが卒すれば朝を二日輟めたが、永樂ののちに改めて、ただ公・侯・駙馬・伯および一品官だけ朝を一日輟めることとした。

中宫為父祖䘮儀

  • およそ中宮の父母が薨じて訃が報じられると、太常寺が内使監に転報する。あらかじめ別殿の東の壁の下に薦を設け、皇后の挙哀の位および内命婦以下の哭位とする。
  • 皇后が出て別殿に詣でると、内使監の令が「考某官、某月某日をもって薨ず」と奏す。母であれば「妣某夫人」と言い、祖考・祖妣も同じ。皇后が哭し、内命婦以下もみな哭して哀を尽くす。皇后が理由を問い、また哭して哀を尽くし、そこで素服とする。内命婦もみな素服とし、哭を止めて宮に還る。
  • 内使監の令が奏聞し、旨を得れば皇后が奔喪する。喪家では薦席を喪寢の東に設け、従臨する内命婦の哭位をその下に、喪を主る者以下の哭位を喪寢の西に、主婦以下の哭位を喪寢の北の幔の下に設ける。
  • 当日、内使監が堊車を進め、儀仗を備えて導引する。皇后は素服で宮を出て輿に升り、三面を白布の行帷とする。閤の外に至って輿を降り堊車に升り、喪家の大門内に至って車を降り、哭しながら入る。なお行帷で囲い護る。従臨する者はみな哭しながら入る。喪主以下は降って西階の下に詣でて立って哭す。皇后は東階から升り、進んで尸の東に至り、尸に憑って哭す。従臨する者はみな哭す。喪主は西階から升り、ともに柩の西で哭す。皇后が哭位に至ると、内使監の令が跪いて哭を止めるよう請い、奉慰すべき者が皇后の前に詣でて常禮のとおり奉慰する。
  • もし皇后が成服を待つ場合は、従臨の命婦で還るべき者が先に還る。もし当日ただちに奔喪しない場合は、日の晡に別殿でまた哭す。尚服が皇后の齊衰および従臨の命婦の孝服を製し、喪家の成服の日を俟ってこれを進め、靈前に詣でて再拜し、上香して位に復し、再拜する。
  • 諸王・外戚のために挙哀する場合は、なお別殿で南向し、薦を設けずに位を設ける。

遣使臨弔儀

  • 太常司が旨を奉じて弔問の使を遣わす。あらかじめ宣制の位を喪家の正㕔の北に南向に設け、喪主の受弔の位を南に北向に設け、婦人の立哭の位を殯の北の幕の下に設ける。
  • 当日、使者が至ると喪主は杖を去り絰を免き、衰服のまま哭を止めて中門外に出迎え、また先に入って㕔前の拜位に就く。内外は哭を止める。使者が入って位に就き「制あり」と称すると、喪主以下は再拜して跪く。制を宣していわく、「皇考、某官の薨去を聞き、臣某を遣わして弔せしむ」。喪主以下はまた再拜する。禮が畢わると内外はみな哭す。使者が出ると喪主は中門外に至って拜送し、杖をついて哭しながら入る。宮からの使であれば「令あり」と称する。
  • 使を遣わして賻贈および致奠する場合も、その儀節はこれに倣うという。
  • 賻贈の典は、一品には米六十石・麻布六十匹、二品には五十、三品・四品には四十、五品・六品には三十、公侯には百とする。永樂ののちの定制では、公・侯・駙馬・伯はみな上裁を取る。およそ陣没した者には全額を支給し、辺遠の守禦・出征および出海して糧を運んで病没した者には半額を支給する。
  • 百官を遣わして王公大臣の喪に会する儀は、あらかじめ有司が喪家に位次を設け、当日、会弔すべき百官が素服で立ち、喪主以下は東階の哭位に就き、主婦以下は殯の北の哭位に就く。百官が入って殯前の位に就いて哭し、喪を主る者・主婦以下もみな哭す。哭を止めて再拜し、喪を主る者以下が答拜する。班首が喪主の前に詣でて慰めを述べ、終わって百官が退出し、喪主が拜送して杖をついて哭しながら入る。会𦵏の儀も同じである。

遣使冊贈王公大臣儀

  • あらかじめ禮部が奏請して冊を製し、翰林院が旨を取って文を製し、中書省・禮部が某官を使とするよう奏請する。
  • 当日、祠祭司が龍亭と香亭を午門前の正中に設け、執事が冊を受ける者の家に、宣制官の位を正㕔の東北に南向に、喪主で冊命を代受する者の位を㕔前に北向に設ける。
  • 禮部の官が冊文を封じ、盝匣に納めて黄の袱で包み、龍亭の中に置く。儀仗と鼓楽が前導してその家に至ると、代受冊者が大門外に出迎え、執事が龍亭を舁いで㕔上の正中に置く。使者が入って東北に立ち、代受冊者が拜位に就いて再拜する。使者がやや前に出て「制あり」と称すると代受冊者は跪く。制を宣していわく、「皇帝、臣某を遣わし、故某官某を冊贈して某勲某爵と為す」。宣し終えると代受冊者はまた再拜し、使者は冊を取ってこれに授ける。代受冊者は捧げて靈座の前に置く。使者が出ると代受冊者が大門外まで送る。
  • 冊を用いない場合は吏部が誥命を用いる。喪家は冊文を録黄し、祭儀を靈前に設け、代受冊者が再拜し、執事者が黄を展べて左に立って読み、喪主以下がみな再拜して焚黄する。

賜祭𦵏

  • 洪武十四年(1381年)九月、衍聖公孔希学が卒し、官を遣わして致祭した。その後、群臣の祭𦵏にはみな定制ができた。太祖が群臣を諭祭する文は多く御筆から出た。嘉靖年間、世宗は禮部尚書の席書、兵部尚書の李承勛のために自ら祭文を製した。いずれも特典であって常制ではない。
  • 隆慶元年(1567年)十二月、禮部が䘏典の条例を議して上った。およそ官員の祭𦵏に隆殺の等があるか否かはことごとく会典に遵う。その特恩については、侍従は必ず日々講読に侍した者、軍功は必ず躬ら行陣を履んだ者、東宮の官は必ず出閣して講授して労のあった者とし、嘉靖年間の事例に拠って祭𦵏を一等加える。祭のない者には祭一壇を与え、𦵏のない者には半𦵏を給し、半𦵏の者には全𦵏を給する。
  • 講読の官は五品なら本人に祭があり、四品なら父母にも、三品なら妻にも及ぶ。軍功は四品で祭𦵏を得る。三品に満たない者およびその父母でも、講読が年久しく啓沃の功が多い者、軍旅に身を殲し勲労の著しい者には恩䘏を厚く加え、その時に臨んで旨を請う。
  • 会典では、およそ一品官の祭は九壇。父母・妻に加える祭は二壇のことも一壇のことも、妻だけ一壇のこともあり、恩はあらかじめ擬しがたいので、陳乞があれば酌み擬して上請する。
  • 二品は二壇。東宮の三少を加えられた者、あるいは大学士を兼ね一品を贈られた者は四壇に至る。父母・妻はみな一壇。致仕して三品を加えられた者は一壇を加え、太子太保を加えられた者は三壇を加える。妻がまだ夫人に封じられていない者は祭らない。
  • 三品の祭𦵏は在任・致仕ともに一壇。学士を兼ね尚書を贈られた者は二壇。考満に及ばず病没した者は一壇で、𦵏を半分に減じる。造𦵏はことごとく旧例のとおり。
  • 四品・五品の官は重ねて封じられないので、四品官が六品・七品から陞った者は父母に祭があるが、五品から陞った者は例として重ねて封じられないため祭一壇を得られない。四品以上の官は本人および父母がたとえ五品の封を授けられただけであっても祭一壇を与える。
  • 四品以上の官の本人および父母の恩典は必ず考満を経てのちに得られる。しかし二品・三品を合わせて四、五年を歴ながら父母がまだ三品の封を授けられず、ついに一祭にも霑えない者がある。年資を併せて叙すべきである。二品・三品を合わせて三年以上歴た者は、三品の考満を経ていなくとも本人および父母にみな三品の祭𦵏を与える。三品・四品を合わせて三年以上歴た者は、四品の考満を経ていなくとも本人は三品の未考満の例を用いて祭一壇・半𦵏とし、父母は祭一壇とする。
  • およそ弾劾されて閒住となった者は、覃恩に遇ってふたたび致仕となっても祭𦵏を給さない。
  • 勲臣の祭𦵏と皇親については上裁から出る。駙馬都尉は祭十五壇。公・侯・伯で在内では府事を掌り営に坐し、在外では総兵として殊勲があり太子太保以上を加えられた者は会典に遵い、公侯は十六壇、伯は十五壇。掌府・坐営・総兵で勲労のある者は七壇、掌府・坐営で年労の者は五壇、掌府・坐営で政蹟の著しくない者は四壇、事を管して弾劾され勘明のうえ閒住となった者は二壇、弾劾されてまだ勘実を経ない者は一壇、勘実して罪の重い者はその本爵で得べき祭𦵏も削る。
  • また正徳年間には公・侯・伯の本祭はいずれも三壇、嘉靖年間には二壇であったが、いま嘉靖の例に増して会典の旧に復する。
  • 武臣の祭𦵏は正徳・嘉靖の例に遵い、都督同知・僉事および錦衣衛指揮は祭三壇、署都督同知・僉事は一壇、あとは類推して行う、と。帝はその議に従った。
  • 萬厯六年(1578年)に改め定めて、およそ致仕・養病・終聴用などの官の祭𦵏はみな現任の官と同じとした。萬厯二十二年(1594年)に続けて定め、弾劾されて自ら陳べて致仕した官でも、日が久しく論が定まってもともと議すべきところのない者にはなお祭𦵏を給し、父母・妻は本人に準じて差等をつけることとした。

䘮𦵏之制

  • 洪武五年(1372年)に定めた。およそ襲衣は三品以上は三領、四品・五品は二領、六品以下は一領。飯含は五品以上は稷を飯とし珠を含ませ、九品以上は梁を飯とし小珠を含ませる。
  • 銘旌は降帛を用い、広さ一幅。四品以上は長さ九尺、六品以上は八尺、九品以上は七尺。
  • 斂衣は品官の朝服一襲、常服十襲、衾十番。靈座は柩の前に設け、帛絹で魂帛を結んで神に依らせる。
  • 棺槨は、品官の棺は油杉を用いて朱漆とし、槨は土杉を用いる。
  • 墻翣は公侯は六、三品以上は四、五品以上は二。明器は公侯は九十事、一品・二品は八十事、三品・四品は七十事、五品は六十事、六品・七品・八品は三十事、九品は二十事。
  • 引とは車を引く紼である。披とは纁で作り、輀車の四柱に繋いで傍らでこれを執り、傾覆に備えるものである。鐸とは銅で作り、挽歌の節を取るものである。公侯は四引・六披・左右各八鐸、一品・二品は三引・四披・左右各六鐸、三品・四品は二引・三披・左右各四鐸、五品以下は二引・二披・左右各二鐸。
  • 羽旛は竿の長さ九尺で、五品以上は一人がこれを執って柩を引き、六品以下は用いない。功布は品官が用い、長さ三尺。方相は四品以上は四つ目、七品以上は両目、八品以下は用いない。
  • 柳車は上に竹の格を用いて綵で結び、傍らに帷幔を施し、四隅に流蘇を重ねる。
  • 誌石は二片で品官はみな用いる。一つは蓋として某官の墓と書き、一つは底として姓名・郷里・三代・生年・卒𦵏の月日および子孫・𦵏地を書く。婦人は夫と子孫の封贈に随う。二石を向かい合わせ、鉄で束ねて墓中に埋める。
  • 祭物は四品以上は羊と豕、九品以上は豕。
  • はじめ洪武二年(1369年)、開平王常遇春を鍾山の北に𦵏るよう敕し、明器九十事を給して墓中に納めた。その内訳は、鉦二・鼓四、紅旗と拂子各二、紅羅の蓋と鞍籠各一、弓二・箭三、竈・釡・火爐各一(いずれも木で作る)、水罐・甲・頭盔・臺盞・杓・壺・瓶・酒甕・唾壺・水盆・香爐各一、燭臺二、香盒・香匙各一、香筯二、香匙筯瓶・茶鍾・茶盞各一、筯二・匙二、匙筯瓶一、椀二、楪十二、槖二(いずれも錫で造り金で裹む)、班劍・牙仗各一、金裹の立爪・骨朶・㦸・響節各二、交椅・脚踏・馬杌各一、誕馬六、槍・劍・斧・弩・食桌・牀・屏風・拄杖・箱・交牀・香桌各一、櫈二(いずれも木で作る)、楽工十六、執儀仗二十四、控士六、女使十、青龍・白虎・朱雀・元武の神四、門神二、武士十(いずれも木で造り各々高さ一丈)、雑物として翣六・璧一・筐笥・楎椸・衿盤各一・笣二・筲二・糧漿瓶二・油瓶一・紗厨・煖帳各一、束帛は青三段・纁二段で各段の長さ一丈八尺である。
  • のちの定制では、公侯の九十事はこれに準じて行い、あとは順次に減殺した。

碑碣

  • 明初、文武の大臣が薨逝すると、例により上に請うて翰林の官に文を製させ、神道碑を立てた。ただ太祖のときの中山王徐達、成祖のときの榮國公姚廣孝、および𢎞治年間の昌國公張巒が先塋を治めたときのものは、いずれも御筆から出た。
  • その制は洪武三年(1370年)に定まり、五品以上は龜の趺に螭の首の碑を用い、六品以下は方の趺に円い首の碣を用いる。
  • 洪武五年(1372年)にさらに詳しく定めた。功臣で歿後に王に封じられた者は、螭首の高さ三尺二寸、碑身の高さ九尺・広さ三尺六寸、龜趺の高さ三尺八寸。一品は螭首、二品は麟鳳の蓋、三品は天禄辟邪の蓋、四品から七品は方趺。首は功臣で歿して王に封じられた者から順に二寸ずつ減らし、一尺八寸に至って止める。碑身は五寸ずつ減らし、五尺五寸に至って止める。その広さは二寸ずつ減らし、二尺二寸に至って止める。趺は二寸ずつ減らし、二尺四寸に至って止める。
  • 墳塋の制もまた洪武三年(1370年)に定めた。一品は塋地の周囲九十歩、墳の高さ一丈八尺。二品は八十歩、高さ一丈四尺。三品は七十歩、高さ一丈二尺。以上は石獣各六。四品は四十歩、七品以下は二十歩で高さ六尺。
  • 洪武五年(1372年)に重ねて定めた。功臣で歿後に王に封じられた者は塋地の周囲一百歩、墳の高さ二丈、四囲の墳墻の高さ一丈、石人四(文武各二)、石虎・羊・馬・石望柱各二。一品から六品までの塋地は旧制のとおりで、七品は十歩を加える。一品の墳の高さ一丈八尺、二品から七品までは二尺ずつ減らす。一品の墳墻の高さ九尺、二品から四品までは一尺ずつ減らし、五品は四尺。一品・二品は石人二(文武各一)、虎・羊・馬・望石各二。三品・四品は石人なし、五品は石虎なし、六品以下はない。
  • 太祖のとき、盱眙の楊王の墳に守戸二百一十、宿州の徐王の墳に墳戸九十三を置き、滁州の滁陽王の墳にも墳戸を置いた。洪武四年(1371年)にはまた功臣の李善長・徐達・常茂・馮勝に墳戸百五十を賜い、鄧愈・唐勝宗・陸仲亨・華雲龍・顧時・陳徳・耿炳文・呉楨・孫恪・郭興に墳戸百を賜った。
  • 成化十五年(1479年)、南京禮部が、常遇春・李文忠ら十四人の勲臣の墳墓はみな南京城外にあり、文忠の曾孫の蕚らが年久しく頽壊していると言上しているとして、工に命じて修治させるよう請うた。帝はその奏を可とし、かつ子のない者にはまた墓の傍らに一人を置いて守護させるよう令じた。

賜諡

  • 親王は例として一字、郡王は二字を用いる。文武の大臣に諡を与えるかどうかは上裁による。官品はまだ高くなくとも侍従に労があり、あるいは死をもって事に勤めた者には特に諡を賜うが、常例ではない。
  • 洪武の初め、諡を得べき者があれば禮部が旨を請い、禮部から翰林院に行して擬して奏させた。𢎞治十五年(1502年)の定制では、およそ親王が薨じれば撫按に行し、郡王が病没すれば本府の親王および承奉・長史に行して覈勘させて奏し、そこで諡を議する。文武の大臣が諡を請う場合は、禮部が旨を取り、吏部・兵部に行して実蹟を考えさせ、禮部が三等に定める。行と業がともに優れた者を上、まずまずの者を中、行実に取るところのない者を下とし、翰林院に送って諡を擬させる。諡を与えるべきでまだ得ていない者があれば、撫按・科道の官が言上する。
  • 明初の旧制を按ずるに、諡法は十七字から一字までそれぞれ等差があった。しかし高帝の世を通じて文臣は諡を得たことがなく、武臣も侯伯を贈られた者でなければ得られなかった。魯王・秦王の二王が荒・愍と諡されたのがその例である。建文が王禕に諡し、成祖が胡廣に諡すに至って、文臣にはじめて諡が生じた。世宗の代になると濫れて方士にまで及び、しかも四字を加えるようになった。
  • 定例では三品で諡を得、詞臣は文の字を諡とする。しかし諡を得る者が三品にとどまらず、文の諡が詞臣に限られない場合もある。あるいは勲労により、あるいは節義により、あるいは望実によって破格に崇め褒めて激励を示すのであり、その冒濫の例もときにはあった。
  • 萬厯元年(1573年)、禮臣が、大臣で諡を得べき者は広く諮り厳しく覈べ、諡すべきでまだ請われていない者は遠近を問わず撫按・科道が挙奏し、酌議して補い咨するよう言上した。萬厯十二年(1584年)には、大臣の諡号は必ず公論が承服し毫も瑕疵のない者を具して上裁を請い、行業が平凡であれば官品が高くとも一概に与えてはならないと言上した。帝はみなこれに従った。
  • 萬厯三十一年(1603年)、禮部侍郎の郭正域が諡典を厳しくするよう請うた。奪うべきだと議したのは四人、許論・黄光昇・呂本・范謙。奪って改めるべき者が一人、陳瓉。補うべき者が七人、伍文定・呉悌・魯穆・楊繼宗・鄒智・楊源・陳有年である。閣臣の沈一貫・朱賡が力を尽くして呂本を庇い、その議には従われなかった。
  • ほどなく御史の張邦俊が呂柟を孔廟に従祀させるよう請い、あわせて諡を補うべき者として雍泰・魏学曽ら十四人を論じた。部議は久しくかかり、あわせて先後七十四人を彙めて題したが、留中されて下されなかった。天啟元年(1621年)にはじめて旨が降って許され、また続けて請われた十人を増した。ただし邦俊がもと請うた九人はあずからず、正域の請うた伍文定らもここに至ってはじめて定まり、合わせて八十四人となった。
  • そのうち官位が低くて諡を得た者は、鄒智・劉臺・魏良弼・周天佐・楊允繩・沈錬・楊源・黄鞏・楊慎・周怡・莊㫤・馮應京でみな直諌により、孟秋・張元忭・曹端・賀欽・陳茂烈・馬理・陶望齡でみな学行により、張銓は忠義により、李夢陽は文章により、魯穆・楊繼宗・張朝端・朱冠・傅新徳・張允濟でみな清節による。楊慎の文憲、莊㫤の文節は、さらに文学をも兼ねて論じたものだという。
  • 天啟三年(1623年)、禮部尚書の林堯俞が、諡典は五年に一度挙げるものだとして、萬厯四十五年から今に至るまで恤を蒙りながらまだ諡されていない者について、九卿・臺省が会議し、臣の部が酌議することを言上した。帝はこれを可としたが、このころ遅速は定まらなかった。
  • 天啟六年(1626年)、禮科給事中の彭汝南が、耳目が近ければ見聞も真実だとして五年の限を越えるべきでないと言い、また三品以上には諡を与えるべきであり、建文の諸臣の忠義、陶安らの帷幄への参画、葉琛らの行間での殉死はみな諡を補うべきだと言った。事は禮部に下されたが、建文の諸臣は軽々に擬しがたいとして実行されなかった。
  • 福王のときに至り、工科給事中の李清の言に従って、開国の功臣李善長ら十四人、正徳の諫臣蔣欽ら十四人、天啟に惨死した諸臣左光斗ら九人に追諡した。建文帝の弟の允熥・允熞・允熙、子の文奎もまた清の疏によって追補された。

品官䘮禮

  • 集禮・会典に載る品官の喪禮は、儀禮の士喪禮に本づき、唐の典を稽え、さらに朱子家禮の編を参酌して、通行して共に解しうるようにしたものである。ここではその大要を挙げ、儀節は具さに録さない。
  • 初終の禮では、疾病が篤くなれば正寢に遷し、纊を属して絶気を俟ってのち哭す。喪主・主婦・護喪は子弟のうち賢能な者を用いる。棺を治め、訃を告げ、尸牀を設け、堂に帷をめぐらし、坎を掘り、沐具を設ける。沐する者は四人、六品以下は三人。そして含を行い、虚座を置き、魂帛を結び、銘旌を立てる。
  • 喪の翌日に小斂し、その翌日に大斂して棺を蓋い、靈牀を柩の東に設ける。さらに翌日、五服の人が各々その服を服し、そののち朝哭・相弔する。成服ののちは朝夕に奠し、百日にして卒哭する。
  • 力めて地を択び、三月にして𦵏る。后土に告げ、そこで壙を穿ち、誌石を刻み、明器を造り、大轝を備え、神主を作る。発引して墓所に至ると窆し、銘旌と誌石を壙内に施し、壙を掩じて復土し、そこで墓で后土を祠り、題主して奉安し、車に升って反哭する。
  • 虞祭は、𦵏の日の日中に虞し、柔日に再虞、剛日に三虞する。もし家を去って一泊以上する場合は初虞を墓所で行う。墓が遠く途中で柔日に遇えばやはり宿館で行う。三虞は必ず家に至ってのちに行う。三虞ののち剛日に遇って卒哭し、その翌日に家廟に祔する。
  • 一周年で小祥。喪はここに至って十三月(閏は数えない)。古くは日を卜して祭ったが、いまは初忌だけを用いる。喪主はそこで練服に易える。
  • 再周年で大祥。喪はここに至って二十五月。これも第二の忌日だけを用いて祭る。□の服を陳ね、祠堂に遷を告げ、神主を改題して順次に西へ遷し、神主を奉じて祠堂に入れ、靈座を撤し、遷す主を奉じて墓の側に埋める。
  • 大祥ののち一月を間して禫。喪はここに至って通算二十七月。日を卜し、喪主は禫服で祠堂に詣でて禫の事を祗み薦める。
  • 遠方で喪を聞いた者は、初めて聞いたとき服を易え、哭して出発し、家に至って殯に憑って哭し、四日にして成服する。行けない場合は位を設け、四日にして服を変える。すでに𦵏られていれば、まず墓で哭し、帰って靈座の前に詣でて哭し、四日にして成服する。
  • 齊衰以下の者が喪を聞いたときは位を設けて哭す。奔喪するなら家に至って成服し、奔喪しないなら四日にして成服する。
  • およそ改𦵏する者は、孝子以下および妻妾・女子・子はみな緦麻を服し、周親以下は素服とする。祖奠を設けず、反哭もなく、方相・魌頭も用いない。あとは常の𦵏の儀と同じ。𦵏が終われば吉に就く。ただ靈座の前で一虞し、孝子以下は別の所に出て緦服を釈き、素服にして還る。
  • 洪武二十六年(1393年)四月、期服の奔喪の制を除いた。これより先、百官は祖父母・伯叔・兄弟の喪を聞けばみな奔赴できた。ここに至って吏部が言った。祖父母・伯叔・兄弟はみな期年の服である。もしみな奔喪して制を守らせれば、ある者は連続して五、六度の期喪に遭い、あるいは道が数千里に及ぶので、官に居る日が少なく更迭が繁くなって、官を曠しくし事を廃することになる。今後は父母および祖父母の承重の者が丁憂するほかは、その他の期喪では奔ることを許さず、ただ人を遣わして致祭させるべきである、と。これに従った。

士庶人䘮禮

  • 集禮および会典に載るところは、おおむね品官の制に倣い、やや損益がある。
  • 洪武元年(1368年)、御史の高元侃が言った。京師の人民は旧俗に循い習い、喪𦵏があると宴を設けて親友を会し、楽を作して尸を娯しませ、ついに哀戚の情がない。治の道にはなはだ反する。禁止して風俗を厚くするよう乞う、と。そこで禮官に民の喪服の制を定めさせた。
  • 洪武五年(1372年)、詔して定めた。庶民の襲衣は一称、深衣一・大帯一・履一双を用い、裙・褲・衫・襪は用いるところに随う。飯は梁を用い、含は銭三。銘旌は紅絹五尺。斂は用いるところの衣衾に随い、親戚の襚儀も用いるところに随う。棺は堅木を用い、油杉を上とし、柏がこれに次ぎ、土杉・松がさらに次ぐ。黒漆・金漆を用い、朱紅を用いてはならない。明器は一事、功布は白布三尺。柩を引くのは柳車で、衾で棺を覆う。誌石二片は官の儀のとおり。塋地は囲い十八歩。祭には豕を用いるが、家にあるかどうかに随う。
  • また詔していわく、古の喪禮は哀戚を本とし、喪を治める道具は家の有無に称った。近代以来、富める者は奢侈で分を犯し、力の足りない者は財物を借りて殯送を誇り耀かし、また風水に惑って柩を停めること年を経て安𦵏を行わない者がある。中書省の臣に集議して制を定め、頒行して遵守させよ。違う者は罪を論ぜよ、と。
  • また禮部に諭していわく、古には骸を掩い胔を埋める令があった。近世は元の俗に狃れ、死者を火で焼いてその骨を水に投じる者があり、恩を傷つけ俗を敗ること、これより甚だしいものはない。これを禁止せよ。もし貧しくて地のない者があれば、所在の官司が広い土地を択んで義塚とし、𦵏埋させよ。また遠方に宦遊して帰𦵏できない者があれば、官が費用を給して帰らせよ、と。

服紀

  • 明初に頒った大明令では、およそ喪服の等差は多く前代の旧に因った。洪武七年(1374年)に孝慈録が成り、あらためて図にして大明令に列し、中外に刊示した。
  • これより先、貴妃孫氏が薨じ、禮官に敕して服制を定めさせた。禮部尚書の牛諒らが、周の儀禮では父の存命中は母のために期年を服し、庶母であれば服がないと奏した。太祖は「父母の恩は一つである。しかるに軽重がこのようであるのは、はなはだ情に反する」と言った。
  • そこで翰林院学士の宋濂らに敕していわく、生を養い死を送るのは聖王の大政であり、亡を諱み疾を忌むのは衰世の陋俗である。三代の喪禮は衰えた周で散失し、暴秦で厄に遭い、漢唐以来これを議しえた者はない。そもそも人情は無窮であって禮は宜しきに適うものであり、人心の安んずるところがすなわち天理の在るところである。なんじらは喪禮を考定せよ、と。
  • そこで濂らは、古人で母の喪の服を論じた者は合わせて四十二人、三年を服することを願う者が二十八人、期年を服する者が十四人であると考え得た。太祖は「三年の喪は天下に通じる喪である。三年を服することを願う者が期年を願う者の倍であるのを見れば、これこそ天理人情の安んずるところではないか」と言った。
  • そこで定制を立てた。子が父母のため、庶子がその母のためにはみな斬衰三年。嫡子・衆子が庶母のためにはみな齊衰杖期。なお五服の喪制をあわせて書に著し、内外に遵守させた。
  • その服の制は五つである。斬衰は最も粗い麻布で作り下の縁を縫わない。齊衰はやや粗い麻布で作り下の縁を縫う。大功は粗い熟布で作る。小功はやや粗い熟布で作る。緦麻はやや細い熟布で作る。
  • その服の叙は八つである。
  • 斬衰三年の者は次のとおり。
  • 子が父母のため。庶子が生みの母のため。子が継母のため。子が慈母のため(母が亡くなり父が他の妾に自分を養わせた場合をいう)。子が養母のため(幼くして他家に過房した場合をいう)。
  • 女が在室で父母のため。女が嫁して出されて在室に戻り父母のため。
  • 嫡孫が祖父母のため承重する場合、および曾祖父母・高祖父母のため承重する場合。
  • 人の後となった者が後を継いだ先の父母のため、および後を継いだ先の祖父母のため承重する場合(夫が後となれば妻も従って服する)。
  • 婦が舅姑のため。庶子の妻が夫の生みの母のため。妻妾が夫のため。
  • 齊衰杖期の者は次のとおり。
  • 嫡子・衆子が庶母のため。嫡子・衆子の妻が夫の庶母のため。嫁母・出母のため。父が亡くなり継母が改嫁して自分がそれに従った場合。夫が妻のため。
  • 齊衰不杖期の者は次のとおり。
  • 父母が嫡長子および衆子のため。父母が在室の女のため。継母が長子および衆子のため。慈母が長子および衆子のため。
  • 孫が祖父母のため(孫女は人に嫁しても降さず、高祖・曾祖もみな同じ)。伯叔父母のため。
  • 妾が夫の長子および衆子のため。生んだ子のため。兄弟のため。兄弟の子および在室の兄弟の女のため。姑および在室の姉妹のため。妾が嫡妻のため。
  • 嫁母・出母がその子と在室の女、および人に嫁していても夫と子のない女のため。その兄弟および兄弟の子のため。
  • 継母が改嫁して、自分に従った前夫の子のため。継父と同居して双方に大功の親がない場合。
  • 婦人が夫の実の兄弟の子のため。婦人が夫の実の兄弟の子で在室の女のため。
  • 女が嫁して父母のため。妾がその父母のため。人の後となった者がその実の父母のため。女が人に嫁して、父の後を継いだ兄弟のため。祖が嫡孫のため。父母が長子の婦のため。
  • 齊衰五月の者は、曾祖父母のため。
  • 齊衰三月の者は、高祖父母のため。継父で昔は同居したが今は同居しない場合。継父で同居していても双方に大功以上の親がある場合。
  • 大功九月の者は次のとおり。
  • 同室の兄弟および在室の姉妹のため。姑および姉妹および兄弟の女で嫁した者のため。父母が衆子の婦のため。嫁した女のため。祖が衆孫のため。兄弟の子の婦のため。
  • 婦人が夫の祖父母のため。夫の伯叔父母のため。夫の兄弟の子の婦のため。夫の兄弟の女で人に嫁した者のため。
  • 女が嫁して本宗の伯叔父母のため、および兄弟と兄弟の子のため。姑・姉妹および在室の兄弟の女のため。
  • 人の後となった者がその実の兄弟および在室の姑・姉妹のため。妻が夫の実の父母のため。兄弟の子で人の後となった者のため。
  • 小功五月の者は次のとおり。
  • 伯叔祖父母のため。同室の伯叔父母のため。再従兄弟および在室の再従姉妹のため。同堂兄弟の子のため。在室の祖姑のため。在室の従祖姑のため。在室の同堂兄弟の女のため。兄弟の妻のため。
  • 人の後となった者がその姑・姉妹で人に嫁した者のため。嫡孫の婦のため。同堂姉妹で嫁した者のため。孫女で人に嫁した者のため。兄弟の孫および在室の兄弟の女孫のため。
  • 外祖父母のため。母の兄弟姉妹のため。同母異父の兄弟姉妹のため。姉妹の子のため。
  • 婦人が夫の姑および夫の姉妹のため。夫の兄弟および夫の兄弟の妻のため。夫の兄弟の孫および在室の夫の兄弟の女孫のため。夫の同堂兄弟の子および在室の同堂兄弟の女のため。
  • 緦麻三月の者は次のとおり。
  • 族曾祖父母のため。族伯叔祖父母のため。族父母のため。族兄弟および在室の族姉妹のため。在室の族曾祖姑のため。族祖姑および在室の族姑のため。
  • 兄弟の曾孫で在室の女のため(曾孫も同じ)。曾孫・元孫のため。同堂の弟の孫で在室の女のため(同じ)。再従兄弟の子で在室の女のため(同じ)。
  • 祖姑・従祖姑および従祖姉妹で嫁した者のため。兄弟の孫女で嫁した者のため。同堂兄弟の女で嫁した者のため。
  • 乳母のため。舅の子のため。姑の子のため。姨の子のため。外孫のため。壻のため。妻の父母のため。兄弟の孫の婦のため。同堂兄弟の子の婦のため。同堂兄弟の妻のため。外孫の婦のため。甥の婦のため。
  • 婦人が夫の曾祖父母・高祖父母のため。夫の叔伯祖父母のため。夫の同堂伯叔父母のため。夫の兄弟の曾孫のため。夫の同堂兄弟のため。夫の同堂兄弟の孫のため(孫女も同じ)。夫の再従兄弟の子のため。夫の兄弟の孫の婦のため。夫の同堂兄弟の子の婦のため。夫の同堂兄弟の妻のため。夫の同堂姉妹のため。夫の外祖父母のため。夫の舅および姨のため。夫の祖姑および在室の従祖姑のため。
  • 女が嫁して本宗の叔伯祖父母のため。本宗の同堂叔伯父母のため。本宗の同堂兄弟の子女のため。本宗の祖姑および在室の従祖姑のため。本宗の同堂姉妹で嫁した者のため。人の後となった者が実の外祖父母のため。
  • 嘉靖十八年(1539年)正月、輔臣に諭していわく、先ごろ喪に居って病を療しながら禮記の檀弓などの篇を閲したが、そこに著される禮儀制度はいずれも一つに帰さず、また天子の全儀を載せていない。三年の喪は上下に通ずるとはいうものの、今昔で大いに異なるところもある。皇祖の定めたものにも全文がなく、帝后の喪に遇うたびに従来のままを踏襲して禮とすることを免れなかった。冠裳・衰絰に至っては所司の製もまちまちである。禮官とともにこれを考定し、初喪から除服まで冠裳の軽重の製を具さに儀節として、至当に帰させよ、と。
  • そこで禮部が喪服の諸制を議して奏した。帝はさらに考訂を加え、図を画いて注釈し、あわせて祭𦵏の全儀を編輯して書に成し、備覧に供させた。