凶禮の構成
- 五禮の五番目が凶禮である。山陵・寝廟と喪𦵏・服紀、および士庶の喪制を、いずれも類ごとに編次する。謁陵・忌辰の禮もあわせて付載する。
祖陵と皇陵
- 太祖は即位すると四世に帝号を追上した。皇祖考の熙祖の墓は鳳陽府泗州の蠙城の北にあり、祖陵の号を薦めた。祠祭署を設け、奉祀一員を置き、陵戸は二百九十三である。
- 皇考の仁祖の墓は鳳陽府太平鄉にある。太祖は濠に至ったとき改𦵏を議したが実現せず、土を増して封を培い、陵の傍らの旧知である汪文・劉英ら二十家に守視させた。洪武二年(1369年)に英陵の号を薦め、のちに皇陵と改称した。皇陵衛および祠祭署を設け、奉祀一員・祀丞三員を置き、いずれも勲旧の家が世襲した。陵戸は三千三百四十二、直宿・灑掃の禮生は二十四人である。
- 洪武四年(1371年)、祖陵の廟を建てた。唐宋の同堂異室の制に倣い、前殿・寝殿はともに十五楹、東西の傍らに各二楹の夾室を置いた。これは晉の王肅が議したところに従ったものである。中央の三楹を通じて一室とし、徳祖の神位を奉じて祫祭に備え、東の一楹に懿祖、西の一楹に熙祖を奉じた。
- 洪武十九年(1386年)、皇太子に命じて泗州に赴き祖陵を修繕させ、三祖の帝后の冠服を𦵏らせた。
太祖の喪禮と孝陵
- 洪武三十一年(1398年)、太祖が崩じた。禮部が定めた議は次のとおり。京官は喪を聞いた翌日、素服・烏紗帽・黒角帯で内府に赴いて遺詔を聴き、本署に斎宿し、朝夕に几筵に詣でて哭す。三日を越えて成服し、朝夕に哭臨して𦵏に至って止める。成服の日から数えて二十七日で除く。命婦は孝服を着け首飾を去り、西華門から入って哭臨する。諸王・世子・王妃・郡主・内使・宮人はみな斬衰三年、二十七月で除く。
- 臨朝・視事のときは素服・烏紗帽・黒角帯、退朝すれば衰服とする。群臣は麻布の員領衫・麻布の冠・麻絰・麻鞋、命婦は麻布の大袖長衫・麻布の蓋頭とする。明器は鹵簿に倣い、神主は栗を用い、制度は家禮に依る。
- 行人が遺詔を天下に頒つ。在外の百官は詔書の到着した日に素服・烏紗帽・黒角帯で四拜して宣読を聴き、終えて哀を挙げ、また四拜する。三日で成服し、毎朝香案を設けて哭臨し、三日で除く。それぞれ官を遣わして京に赴いて致祭させ、祭物は禮部が備える。
- 孝陵には神宮監ならびに孝陵衛および祠祭署を設けた。
建文帝
- 建文帝は詔して三年の喪を行った。事は本紀にある。革除に遭ったため、その喪𦵏の制はいずれも伝わらない。
成祖の喪禮(一)――発喪から成服まで
- 文帝(成祖)が榆木川で崩じた。遺詔には一切を太祖の遺制に従えとあった。京師で訃を聞くと、皇太子以下はみな服を易え、宮中に几筵を設けて朝夕に哭奠し、百官は素服で思善門外に朝夕哭臨した。
- 禮部が定めた喪禮は次のとおり。宮中では皇太子以下および諸王・公主は成服の日を始まりとして斬衰三年、二十七月で除く。服喪の間は音楽と嫁娶を停め、祭祀は百日だけ停める。
- 文武官は喪を聞いた翌日に思善門外に詣でて哭し、五拜三叩頭する。本署に宿し、酒を飲まず肉を食わない。四日目に衰服して朝夕に哭臨すること三日、さらに朝臨すること十日、衰服は二十七日。入朝および視事のときは白布で紗帽を裹み、帯を垂らし、素服・腰絰・麻鞋とする。退朝すれば哀服とし、二十七日を過ぎれば素服・烏紗帽・黒角帯とし、二十七月で除く。
- 選を聴く官や辧事の官は衰服、監生・吏典・僧道は素服で順天府に赴き、朝夕に哭臨すること三日、さらに朝臨すること十日。命婦は四日目に西華門から入って哭臨すること三日、いずれも素服で二十七日で除く。
- 音楽と祭祀はいずれも百日輟める。婚嫁は官は百日、軍民は一月停める。軍民は素服、婦人は素服で化粧・装飾をせず、いずれも二十七日とする。
- 在外では喪を聞いた日を始まりとし、三日を越えて成服し、本署で哭臨する。あとは京官と同じ。命婦は素服で哀を挙げること三日、二十七日で除く。軍民の男女はみな素服十三日、あとはすべて京師と同じ。
- 京官の服には麻布一疋を給して自製させる。四夷の使臣の分は工部が造って与える。諸王・公主が官を遣わし、また内外の文武官が几筵に詣でて祭祀するときは、光禄寺が物を備え、翰林院が文を撰し、禮部が思善門外に引いて行禮させる。
- 京城では喪を聞いた日を始まりとして、寺観がそれぞれ鐘を三万杵鳴らし、屠宰を四十九日禁じる。
- 喪が近づくと、文武官は衰服、軍民は素服で居庸関に赴いて哭迎した。皇太子・親王および群臣はみな衰服で郊外に哭迎し、大内に至って仁智殿に奉安し、加斂して梓宮に納めた。中官を遣わして大行皇帝の遺衣冠を奉じ、書を作って漢王・趙王に賜った。
- 禮臣が、喪服はすでに二十七日を過ぎたので遺命どおり日をもって月に易えるよう請うたが、帝は梓宮がまだ殯にあるので忍びないとして、素冠・麻衣・麻絰で朝に臨み、退けばなお衰服とし、群臣にはその便に任せた。
成祖の喪禮(二)――発引と𦵏儀
- 十二月、禮部が𦵏祭の儀を進めた。発引の三日前に百官が斎戒し、官を遣わして𦵏期を天地・宗社に告げる。皇帝は衰服で几筵に告げ、皇太子以下はみな衰服で班に随って行禮する。百官は衰服で朝に一度哭臨し、発引に至って止める。
- 前日、官を遣わして金水橋・午門・端門・承天門・大明門・徳勝門ならびに通過する河橋、京都で祀るべき神祇、経過する路上の祀るべき神祠を祭る。儀には酒・果・肴饌を用いる。
- その夕、辞奠を設ける。帝・后・太子以下はみな衰服で順に致祭する。司禮監・禮部・錦衣衛が執事者に命じて大昇轝を設け、𦵏儀を午門外ならびに大明門外に陳ねる。
- 発するにあたって啓奠を設ける。皇帝および皇太子以下は衰服で四拜し、幣を奠じ、酒を献じ、祝を読み、四拜して哀を挙げ、哀が止んで望瘞する。執事者が帷幕を撤して梓宮を拭い、龍輴を几筵殿の下に進め、神亭・神帛輿・諡冊宝輿を丹陛の上に設ける。祖奠を啓奠の儀のように設ける。
- 皇帝は梓宮の前に詣でて西向して立ち、皇太子・親王が順に侍立する。内侍が梓宮の前で霊駕の進発を奏請し、冊宝と神帛を捧げて輿の中に置き、次に銘旌が出る。執事官が梓宮を昇げ、内執事が翣を持って左右を蔽い、殿を降りる。内侍官が梓宮を龍輴に升せるよう請い、執事官が綵で梓宮を帷幕し、内侍が繖扇を持ち、侍衛は儀のとおりにする。旧御の儀仗が前を行き、冊宝・神帛・神亭・銘旌が順に続く。
- 皇帝は殿の左門から出、后妃・皇太子・親王および宮妃が後に随う。午門内に至って遣奠を祖奠の儀のように設ける。内侍が霊駕の進発を請い、皇帝以下は哭して哀を尽くし、みな宮に還る。
- 梓宮が午門外に至ると、禮官が梓宮を大昇轝に升せるよう請い、執事官が升せ終えると、禮官が霊駕の進発を請う。皇太子・親王以下は哭送して端門外に出、辞祖の禮を行う。
- 辞祖の禮では、執事官が太廟の香案の前に褥位を設ける。皇太子は常服に易え、神帛を捧げて左門から入り、褥位に至って跪き、神帛を褥に置き、起って神帛の後ろに正しく立ち、跪く。禮官が左に跪いて「太宗體天𢎞道髙明廣運聖武神功純仁至孝文皇帝、謁辞したまう」と奏す。皇太子は俯伏して起ち、贊に従って五拜三叩頭する。終わると皇太子は神帛を捧げて起ち、禮官に授ける。禮官が輿の中に安置し、霊駕の進発を請う。
- 皇太子はもとの喪服に戻り、親王以下が随行する。梓宮は大明中門から出、皇太子以下は左門から出て歩いて徳勝門外まで送り、そこから馬に乗って陵に至る。途中も朝夕に哭奠・哭臨する。諸王以下および百官・軍民・耆老、四品以上の命婦が順に沿道で祭を設ける。山陵の執事に当たらない文武官はみな還る。
- 陵に至ると、執事官があらかじめ龍輴を献殿の門外に陳ね、大昇轝の到着を待つ。禮官が霊駕を轝から降ろして龍輴に升せて献殿に詣でるよう請い、執事官が梓宮を奉じて入る。皇太子・親王は左門から入る。安奉が終わると安神の禮を行う。皇太子が四拜して起ち、酒を奠じ、祝を読み、起って四拜して哀を挙げ、親王以下は常儀のとおり陪拜する。官を遣わして后土ならびに天寿山に祝告させる。遷奠を設け、禮は上の儀のとおり。
- 元宮を掩じようとするとき、皇太子以下は梓宮の前に詣でて跪く。内侍が霊駕の元宮に赴くことを請い、執事官が梓宮を奉じて皇堂に入れ、内侍が冊宝を捧げてその前に置き、明器を陳ねて贈禮を行う。皇太子は四拜して起ち、酒を奠じて贈を進める。執事官が玉帛を捧げて右から進め、皇太子が受けて献じ、内執事に授けて皇堂に捧げ入れて安置させ、俯伏して起ち、四拜して哀を挙げる。そして元宮を掩じ、饗禮を遷奠の儀のように行い、官を遣わして后土および天寿山に祀謝する。
- 元宮の門外に香案を設け、題主の案をその前に西向して設け、皇太子の拜位を前に北向して設ける。内侍が手を洗って神主を奉じ案上に置き、題主官が手を洗って西向して題する。終わると内侍が神主を奉じて神座に安んじ、帛を箱の中に蔵める。内侍が「太宗文皇帝の神霊、神主に上りたまえ」と奏請し、贊に従って四拜して起ち、酒を献じ、祝を読み、俯伏して起ち、四拜して哀を挙げる。
- 内侍が櫝を啓いて神主を受け、神主を座から降ろして輿に升せるよう請い、献殿に至って神主を輿から降ろして座に升せるよう奏請し、初虞の禮を行う。皇太子が四拜し、初献で帛と酒を奠じ、祝を読み、俯伏して起ち、亞献・終献し、四拜して哀を挙げ、望瘞する。内官が神帛の箱を捧げて殿前に埋め、凶器を野で焚く。
- 𦵏の日に初虞、柔日に再虞、剛日に三虞、その後は一日おきに一虞し、九虞に至って止める。途中は皇太子が行禮し、京に還ってからは皇帝が行禮する。
成祖の喪禮(三)――神主の還京と祔饗
- 神主が還ろうとするとき、内侍が神主を座から降ろして輿に升せるよう請う。儀仗・侍衛は儀のとおり。皇太子が随い、なお朝夕に奠する。
- 京に至ると、まず城外に幄次を置き、儀衛と鼓吹を列し、備えるだけで奏さない。百官は衰服で城外に候つ。神主が幄次に入ると百官は序列して五拜三叩首し、神主が行くと百官が従って午門外に至る。皇帝は衰服で午門内に迎えて哀を挙げ、歩いて導いて神主を几筵殿に升せる。
- 皇帝が殿上に立ち、内侍が神主を輿から降ろして座に升せるよう請い、安神の禮を行う。皇帝は四拜して起ち、酒を奠じ、祝を読み、起って四拜して哀を挙げる。皇太子以下が陪拜し、百官は思善門外で儀のとおり行禮する。翌日、百官が奉慰の禮を行う。
- 卒哭は虞祭の後の剛日を用い、禮は虞祭と同じ。これより朝夕の奠を罷める。
- 祔饗は卒哭の翌日に行う。太常寺が太廟に醴饌を設けること時饗の儀のようにし、楽は設けるが奏さない。儀衛と□扇を午門外に設け、内侍が御輦を几筵殿の前に進める。皇帝は衰服で四拜して哀を挙げ、起って哀が止むと拜位の東に立って西向する。内侍が神主を座から降ろして輦に升せ、太廟に詣でて祔饗するよう請う。
- 思善門外に至ると皇帝は祭服に易えて輅に升り、随って午門外に至り、御輦の前に詣でて跪く。太常卿が神主を輦から降ろすよう奏請し、皇帝は俯伏して起ち、神主を捧げて左門から入り、丹陛の上に至る。典儀が「太宗文皇帝、廟に謁したまう」と唱える。廟前に至ると内侍が神主を捧げて褥位に至り、皇帝はその後ろで八拜の禮を行う。廟ごとにみな同じである。
- 内侍が神主を捧げて北向し、太常卿が壇の東に立って西向し、「坐を賜う」と唱える。皇帝は圭を搢み、神主を奉じて座に安んじ、拜位に詣でて祭禮を行うこと時饗の儀のとおり。太常卿が神主を几筵に還すよう奏請し、皇帝は神主を捧げて廟の左門から出て御輦に安奉する。皇帝は輅に升って随い、思善門に至って輅を降り、衰服に易えて随って几筵殿の前に至る。内侍が神主を輦から降ろして座に升せるよう請い、皇帝は殿の左門から入って安神の禮を行い、畢わって服を釈いて宮に還る。翌日、百官が素服で奉慰の禮を行う。
- 大祥に神主を太廟に安んじる禮を奏し、祥廟の制とした。皇帝が几筵殿で祭告し、皇太后・皇后以下は各々一壇を祭り、王府は官を遣わして共に一壇を祭り、在京の文武官が一壇を祭る。神主が几筵殿を出ると、内侍はただちに几筵の帷幄を撤して思善門外で焚く。禫祭には親王を遣わして陵に詣でて行禮させる。
仁宗の喪禮と獻陵
- 洪熙元年(1425年)、仁宗が崩じた。皇太子が南京から還って良鄉に至ったところで、宮中はようやく発喪した。遺詔を宣し、文武官は常服で午門外に四拜し、宣し終えて哀を挙げ、また四拜して素服に易え、盧溝橋に皇太子を迎えた。
- 橋の南に幕次と香案を設け、皇太子は至ると常服で次に詣でて四拜し、遺詔の宣読を聴き、また四拜して哭し、哀を尽くして素服に易えた。長安右門に至って馬を下り、歩いて哭しながら宮門外に至り、冠服を釈いて髪を披き、梓宮の前に詣でて五拜三叩首し、哭して哀を尽くした。宮中では皇后以下みな髪を披いて哭した。皇太子は喪次に就き、東に母后を見、親王が順に皇太子に見え、終わって各々喪次に居り、祭告の禮を行った。
- 喪の儀はすべて旧のとおりとしたが、在京では朝夕の哭臨三日ののち、さらに朝臨を七日で止め、在外は朝夕の哭臨三日だけで朝臨の禮を置かないことに改めた。文武官の一品から四品までの命婦が入って哭臨し、服を除いた。
- 禮臣が、帝は淺淡色の衣・烏紗翼善冠・黒角帯で奉天門に御して視事し、百官もみな淺淡色の衣・烏紗帽・黒角帯で常儀のとおり朝参し、退朝すればなお太宗の服制を全うすることを請うた。帝は「朕の心がどうして忍びえよう。一日でも加えるのが自分にとってましなのだ」と言い、なお素服で西角門に坐し、鐘鼓を鳴らさず、百日ののちに再議せよと令じた。
- 百日が過ぎて禮臣がふたたび奉天門に御することを請うたが、帝は山陵の事が畢わるのを待てと命じた。
- これより先、獻陵の営建を詔した。帝は尚書の蹇義・夏原吉を召して議していわく、国家は四海の富をもって親を𦵏るのだから労費を惜しむわけではないが、古の聖帝明王はみな倹約の制に従った。孝子が親の体魄を永久に保とうと思えば、やはり厚𦵏は望まない。まして皇考の遺詔は天下の共に知るところである。先志に遵うべきだ、と。
- そこで寝殿五楹、左右の廡と神厨各五楹、門樓三楹を建てた。その規模は長陵よりはるかに減じたもので、いずれも帝が自ら規画したものである。
- 吏部尚書の蹇義らが、祔廟ののちは素服で西角門に御して視事し、孟冬・歳暮に至って時饗の禮を行い、鐘鼓を鳴らして黄袍で奉天門に御して視朝し、禫祭ののちにはじめて素服を釈くよう請い、これに従った。
宣宗以後の喪禮
- 宣宗が崩じたときの喪𦵏は獻陵の故事のとおりとしたが、命婦の哭臨を三品以上に改めた。
- 英宗が崩じたとき、遺命で東宮は百日を過ぎたら成婚してよいとし、宮妃を殉𦵏させてはならないとした。憲宗は即位して百日で奉天門に御して視朝し、禮儀はすべて吉典を用いた。
- 憲宗が崩じたとき、孝宗は服を除いたのちもなお素の翼善冠・麻衣・腰絰で視朝し、鐘鼓を鳴らさなかった。百官は素服で朝参し、百日ののちに常に復した。𢎞治元年(1488年)の正旦はまだ小祥に及ばなかったが、帝は黄袍で殿に御して朝を受け、翌日にはまた黒の翼善冠・淺淡服・犀帯とした。大祥に至って神主を太廟および奉先殿に奉安し、禫祭には朝を免じ、日を択んで官を遣わして陵に詣でて致祭させた。
- 孝宗が崩じたとき、工部が、大行の遺詔は懇ろに節用愛民を本としているとして、内府の諸司に敕して𦵏儀・冥器ならびに山陵の殿宇はつとめて減省するよう乞うた。禮部は、百日で例により服を変えるべきだが梓宮がまだ山陵に入っていないとして、なお素の翼善冠・麻布の袍服・腰絰で西角門に御して視事し、鐘鼓を鳴らさず、百官もなお素服で朝参することを請い、これに従った。
- 辞霊から虞・祔に至るまで榮王はみな陪列していたが、やがて王が病を理由に免を奏した。禮部が駙馬らの官に帛を捧げて朝祖させることを請うたところ、帝は「朝祖と捧帛は朕が自ら行う。発引には親王は大明門外まで送るにとどめ、途中および陵に至ってからの臨奠はいずれも護喪官が行禮せよ」と言った。のちにこれが例となった。
- 世宗が崩じたとき、令旨で命婦の哭臨を免じた。隆慶元年(1567年)正月、まだ二十七日に及ばないうちに帝は衰服で宣治門に御し、百官は素服・腰絰で奉慰した。発引には帝が遣奠の禮を行い、朝祖については官を遣わして帛を捧げて行禮させた。梓宮が順天府に至ると、皇親の命婦および三品以上の命婦が祭り、あとは旧制のとおりとした。
- 光宗が即位したとき、禮部が言った。喪服は歴代いずれも制度があるが、断じて孝宗に拠るべきである。孝宗は親の喪に篤く、禮が詳しく備わっていたので、武宗・世宗・穆宗の三廟もみなこれを宗とした。いま旧制に遵い、衰服で文華門に御して視事し、百官は素服で朝参し、梓宮の発引を待って除くべきだ、と。これに従った。
- 明は仁宗の獻陵以後、規制が倹約であったが、世宗を永陵に𦵏るに及んでその制ははじめて奢侈になった。神宗を定陵に𦵏るときには、給事中の恵世揚と御史の薛貞が陵工を巡視したが、費用は八百余万に至ったという。