明史卷五十三 志第二十九 禮七

嘉禮の総説

  • 五禮の第二は嘉禮である。朝廷で行うものに朝会・宴饗・上尊號徽號・冊命・經筵・表箋があり、辟雍で行うものに視學があり、天子から庶人にまで及ぶものに冠と婚があり、天下に行うものに巡狩・詔赦・鄉飲酒がある。ここではその大きなものを挙げて記し、儀のうち同種のものはそれぞれの類に附した。
  • 本巻は嘉禮の一にあたり、登極儀・大朝儀・常朝儀・皇太子親王朝儀・諸王來朝儀・諸司朝覲儀・中宮受朝儀・朝賀東宮儀・大宴儀・上尊號徽號儀の十目を扱う。

登極儀

  • 漢の髙帝は汜水の北で即位したが、当時はまだ緜蕞の禮が備わっていなかった。魏晉以降は多くが受禪によって號を改めた。元の世祖は尊位に即いてから久しく、天下統一の後にはただ朝賀を挙げただけであった。
  • 明が興ると、太祖は吳元年(1367年)十二月、即位しようとして左相國李善長らに儀を具えるよう命じた。善長は禮官を率いて、即位の日はまず天地に告祀し、禮が成れば南郊で帝位に即き、丞相が百官以下および都の民・耆老を率いて拜賀し、舞蹈して万歳を三たび呼び、鹵簿を具えて導従し太廟に詣で、四世を追尊する冊寶を上り、社稷に告祀し、還って衮冕を着けて奉天殿に御し、百官が表を上って賀する、と奏した。
  • 前もって侍儀司が丹墀の内道の西北に表案を設け、丞相以下の拜位を内道の東西に、等級ごとに位を分けて幾重にも北面させて設ける。捧表・展表・宣表の官の位は表案の西で東向き、糾儀御史二人は表案の南で東西向き、宿衛鎮撫二人は東西の陛下、護衛百戸二十四人はその南のやや後ろ、知班二人は文武官の拜位の北で東西向き、通贊・贊禮の二人は知班の北で通贊が西・贊禮が東、引文武班四人は文武官の拜位の北のやや後ろで東西向き、引殿前班二人は引文武班の南、舉表案二人は引文武班の北、舉殿上表案二人は西陛の下で東向きとする。
  • 丹陛の上には殿前班指揮司の官三人を東向き、宣徽院の官二人を西向き、儀鸞司の官を殿の中門の左右、護衛千戸八人を殿の東西門に、いずれも東西向きに置く。鳴鞭四人は殿前班の南で北向き、將軍六人は殿門の左右、天武將軍四人は陛上の四隅に、いずれも東西向きとする。
  • 殿上では尚寶司が正中に寶案を設け、侍儀司が寶案の南に表案を設ける。文武の侍従の両班は殿上の東西で、文は起居注・給事中・殿中侍御史・尚寶卿、武は懸刀指揮が東西向きとなる。受表官は文侍従班の南で西向き、内贊二人は受表官の南、捲簾將軍二人は簾の前で、いずれも東西向きとする。
  • 当日は拱衛司が鹵簿を陳ね、甲士を午門外に列し、旗仗を列し、五輅を奉天門外に設ける。侍儀舍人二人が表案を挙げて入る。鼓が初嚴になると百官が朝服で午門外に立ち、通贊・贊禮・宿衛官・諸侍衛および尚寶卿・侍従官が入る。次嚴で丞相以下が入る。皇帝が衮冕で御座に升ると、大樂と鼓吹が振い起こり、樂が止むと將軍が簾を捲き、尚寶卿が寶を案に置き、拱衛司が鞭を鳴らす。引班が百官を導いて丹墀の拜位に入り、歩き出すと樂が奏され、位に至ると樂が止む。知班が班を賛し、贊禮が拜を賛し、樂が奏される中で四拜して起ち、樂が止む。
  • 捧表以下の官が殿の西門から入る。内贊が「進表」と賛すると捧表官が跪いて捧げ、受表官が笏を搢んで跪いて受け、案に置き、笏を出して起ち退いて東向きに立つ。内贊が「宣表」と賛すると宣表官が前に出て笏を搢んで跪き、展表官も笏を搢んで同じく跪く。宣し終えると展表官は笏を出して表を案に復し、ともに退く。宣表官は俯伏して起ち、ともに殿の西門から出て位に復す。贊禮が拜を賛し、樂が奏される中で四拜し、樂が止む。笏を搢んで三たび舞蹈し、拱手して額に加え、万歳を三たび呼び、笏を出して俯伏して起ち、樂が奏される中で四拜して賀を終える。
  • そのうえで官を遣わして皇后を冊拜し、皇太子を冊立し、即位の詔をもって天下に告げた。
  • 成祖の即位は倉猝の間のことで、その議は詳らかでない。
  • 仁宗の即位では、前もって司設監が奉天門に御座を陳ね、欽天監が定時鼓を設け、尚寶司が寶案を設け、教坊司が中和韶樂を設けるが奏さない。当日の早朝、官を遣わして天地・宗社に告げ、皇帝は孝服で几筵に告げる。時刻になると鐘鼓を鳴らし鹵簿を設け、皇帝は衮冕で奉天門に御し、百官が朝服で午門から入る。鴻臚寺が執事官を導いて行禮させ、御座に升るよう請う。皇帝は中門から出て座に升り、鞭を鳴らし、百官が表を上って行禮し、詔を頒つ。いずれも儀のとおりである。宣宗以後、儲宮から嗣立した者はみな同じであった。
  • 正徳十六年(1521年)、世宗が大統を承けて入るにあたっては、前もって宣武門外に行殿を南向きに造り、帷幄・御座を設け、翼善冠服および鹵簿・大駕を備えて待った。時期が来ると百官が郊で迎え、駕は行殿に入って四拜の禮を行う。翌日、大明門から入って詔の草案を省み、年號を改め、素服で大行の几筵に詣でて謁告する。終わると奉天殿の丹陛上に香案を設け、皇帝は衮冕で天地に告げる禮を行い、奉先殿・奉慈殿に詣でて謁告し、さらに大行の几筵、慈壽皇太后、莊肅皇后の前でそれぞれ行禮する。そのうえで華蓋殿に御し、百官が朝服で入る。旨を伝えて賀を免じ、五拜三稽首する。鴻臚寺の官が殿に升るよう請い、帝は午門から出て奉天殿に御し、鞭を鳴らし拜を賛し、制のとおり詔を頒った。

大朝儀

  • 漢の正会の禮では、夜漏が尽きるまで七刻のところで鐘が鳴って賀を受け、公卿以下が贄を執って庭に来り、二千石以上は殿に升って万歳を称し、そののち宴饗した。晉の咸寧の注には昼会の分けがある。唐制では正旦・冬至・五月朔・千秋節にみな朝賀を受け、宋もこれに従った。
  • 明の太祖は洪武元年(1368年)九月に正旦の朝会の儀を定めたが、登極の儀とおおむね似ている。その後たびたび詔して改め定め、中制として立てた。
  • 正旦と冬至には、前日に尚寶司が奉天殿に御座を設け、寶案を御座の東、香案を丹陛の南に設ける。教坊司は中和韶樂を殿内の東西に北向きに設ける。翌朝、錦衣衛が鹵簿・儀仗を丹陛と丹墀に陳ね、明扇を殿内に設け、車輅を丹墀に列する。鳴鞭四人は左右で北向き、教坊司は大樂を丹陛の東西に北向きに陳ね、儀禮司は同文・玉帛の両案を丹陛の東に設ける。金吾衛は護衛官を殿内および丹陛に置き、甲士を丹墀から午門外まで陳ね、錦衣衛は將軍を丹陛から奉天門外まで置き、旗幟を奉天門外に陳ね、いずれも東西に列する。典牧所は仗馬と犀・象を文樓・武樓の南に東西向きに陳ねる。司晨郎の報時の位は内道の東の北寄り、糾儀御史二位は丹墀の北、内贊二位は殿内、外贊二位は丹墀の北、傳制・宣表などの官の位は殿内で、いずれも東西向きとする。
  • 鼓が初嚴になると百官が朝服で午門外に班を作り、次嚴で左右の掖門から入って丹墀の東西に北向きに立ち、三嚴で執事官が華蓋殿に詣でる。帝が衮冕で座に升ると鐘の声が止む。儀禮司が執事官の行禮を奏し、五拜を賛して終わると殿に升るよう奏請する。駕が起ち、中和樂が奏され、尚寶司が寶を捧げて前を行き、導駕官が前導する。扇を開き簾を捲き、寶を案に置くと樂が止み、鞭を鳴らし時を報ずる。
  • 對贊が「排班」と唱え、班がそろうと贊禮が「鞠躬」と唱え、大樂が奏される中で四拜して起ち、樂が止む。典儀が「進表」と唱えると樂が奏され、給事中二人が同文案の前に詣でて導引し、序班が案を挙げて東門から入って殿中に置き、樂が止む。内贊が「宣表目」と唱えると宣表目官が跪いて宣し、終わると俯伏して起つ。「宣表」と唱えると展表官が表を取り、宣表官が簾の前に至る。外贊が「衆官皆跪」と唱え、宣表が終わると内外ともに「俯伏興」と唱え、序班が表案を殿の東に挙げる。
  • 外贊が「衆官皆跪」と唱えると、代致詞官が丹陛の中央で跪いて致詞する。正旦は「具官臣某、いま正旦に遇い、三陽開泰、万物みな新たなり。恭しく惟うに皇帝陛下、乾を膺け祐を納れ、天を奉じて永く昌えん」、冬至は「律は黄鐘に応じ、日は長至に当たる」と言う。賀が終わると外贊が「衆官皆俯伏興」と唱え、樂が奏される中で四拜して起ち、樂が止む。
  • 傳制官が跪いて制を伝えることを奏し、東門から出て丹陛に至り東向きに立って「制あり」と称する。贊禮が「跪」と唱え、制を宣する。正旦は「履端の慶、卿らと之を同じくす」、冬至は「履長の慶、卿らと之を同じくす」と言う。萬壽聖節の場合は「具官臣某、欽んで皇帝陛下の聖誕の辰に遇い、謹んで文武官僚を率いて敬みて万歳の壽を祝す」と致詞し、制は伝えない。
  • 贊禮が「俯伏興」と唱えると樂が止む。笏を搢んで鞠躬し三たび舞蹈するよう賛し、跪くよう賛して「山呼」と唱えると、百官が拱手して額に加え「万歳」と言う。「山呼」と唱えるとまた「万歳」、「再山呼」と唱えると「万万歳」と言う。万歳を呼ぶたびに楽工と軍校が声をそろえて応ずる。笏を出して俯伏して起つよう賛し、樂が奏される中で四拜して起ち、樂が止む。儀禮司が禮の終わりを奏すると中和樂が奏され、鞭を鳴らして駕が起つ。尚寶官が寶を捧げ、導駕官が前導して華蓋殿に至り、樂が止み、百官が順次退出する。
  • 洪武三十年(1397年)、同文・玉帛の案をいずれも殿中に進め置き、宣表が終わると寶案の南に挙げ置くよう改め定めた。
  • 嘉靖十六年(1537年)、蕃國の貢いだ方物の案を丹陛の中道の左右に入れ、定時鼓を文樓の上に設け、大樂を奉天門内の東西に北向きに陳ねるよう改め定めた。他の儀にもやや増減があった。
  • 立春の日に春を進めるときは、都城の府県が春案を挙げ、東階から升って跪いて丹陛の中道に置き、俯伏して起つ。拜を賛し、樂が奏される中で四拜して起ち、樂が止む。文武官が北向きに立ち、致詞官が中道の東に詣でて跪き「新春の吉辰、禮として慶賀すべし」と奏す。拜を賛し、樂が奏される中で五拜三叩頭して起ち、樂が止み、儀禮司が禮の終わりを奏する。
  • 正統十一年(1446年)、正旦が立春にあたったので、禮部は順天府の官が春を進めたのち百官がただちに班に詣でて正旦を賀する禮を行うよう議した。
  • 旧制では冬至の日に賀の禮を行っていたが、嘉靖九年(1530年)に二郊を分けて祀ることとし、冬至は大報にあたるので、この日には慶成の禮を行い、翌日に帝が内殿に詣でて節祭の禮を行い、さらに母后の前で賀の禮を行ってから、はじめて奉天殿に御して賀を受けることとした。

常朝儀

  • 古禮では天子に外朝・内朝・燕朝があった。漢の宣帝は五日に一度朝した。唐制では天子が日ごとに紫宸殿に御して群臣に会うのを常參といい、朔望に宣政殿に御して群臣に会うのを入閣といった。宋では侍従官が日ごとに垂拱殿に朝するのを常參といい、百司が五日に一度紫宸殿に朝するのを六參といい、在京の朝官が朔望に紫宸殿に朝するのを朔參・望參といった。
  • 明は洪武三年(1370年)に制を定めた。朔望の日、帝は皮弁服で奉天殿に御し、百官は朝服で丹墀の東西において再拜し、班首が前に詣でて百官とともに鞠躬し「聖躬万福」と称して位に復し、みな再拜し、班を分けて向かい合って立つ。省・府・臺・部の官に奏事があれば西階から殿に升って奏し、終われば階を降り、百官が退出する。
  • 洪武十七年(1384年)、朔望の起居の禮を罷めた。のちに改め定め、朔望に奉天殿に御し、常朝官は丹墀に東西向きに序列し、謝恩・見辞の官は奉天門外に北向きに序列する。座に升って樂を奏し、常朝官が一拜三叩頭すると樂が止み、班に復す。謝恩・見辞の官は奉天門外で五拜三叩頭し、終わると駕が起つ。
  • また早朝に華蓋殿に御するときは、文武官が鹿頂の外の東西に立ち、鞭を鳴らして順に行禮し、終わると四品以上の官が殿内に入って侍り、五品以下は前のとおり北向きに立つ。奏事のある者は班を出て奏し、終わると鞭を鳴らして順に退出する。奉天殿に御するときは、まず華蓋殿で行禮して奏事し、終わると五品以下は丹墀に詣でて北向きに立ち、五品以上および翰林院・給事中・御史は中左門・中右門で鞭が鳴るのを待って殿内に詣でて序列し、朝が退けば退出する。
  • 百官が御前に侍坐するとき、奏事する官があれば必ず起立し、奏し終えれば再び坐る。皇帝に従うとき、丹墀では常に北面して南向きにならず、左右に周旋しても北に背を向けない。皇帝が奉天門および丹陛に升るとき、随従の官は中道と王道をまっすぐ通ってはならない。
  • 洪武二十四年(1391年)、侍班の官を定めた。東は六部・都察院の堂上官、十三道の掌印御史、通政司・大理寺・太常寺・太僕寺・應天府・翰林院・春坊・光禄寺・欽天監・尚寶司・太醫院・五軍斷事および京縣の官。西は五軍都督、錦衣衛指揮、各衛の掌印指揮、給事中、中書舍人である。また禮部に命じて百官の朝牌を作り、品級を大書して丹墀の左右の木柵の上に序に従って並べ立てさせた。
  • 洪武二十六年(1393年)、殿に入るときは必ず履鞵を着けるよう命じた。
  • 永樂の初め、内閣の官は朝に侍して金臺の東に立ち、錦衣衛は西に立つよう命じ、のちに御道の東西に移して向かい合わせに立たせた。
  • 永樂四年(1406年)、六部および近侍の官に諭して言った――早朝は四方から奏する事が多いが、午後は事が簡略で君臣の間で従容と論じ合える。今後、商確すべき事があればみな晩朝で行え、と。
  • 永樂七年(1409年)、行在の禮部に諭して言った――北京は冬の気が厳しく凝る。群臣が早朝に奏事するのに長く立っていては堪えられない。今後は朝が終われば右順門内の便殿で奏事せよ、と。
  • 景泰の初め、午朝の儀を定めた。午朝では左順門に御し、寶案を設ける。執事・奏事の官は左掖門外で待ち、駕が出ると順に入る。内閣・五府・六部の奏事の官と六科の侍班の官は案の西に序列し、侍班御史二人・序班二人・將軍四人は案の南で北に向いて立つ。鳴贊一人は案の東で西向きに立ち、錦衣衛と鴻臚寺は東向きに立ち、管將軍官と侍衛官は將軍の西に立つ。府・部の奏事が終わると案を撤し、各官が退く。密事があれば御前に赴いて奏する。
  • 嘉靖九年(1530年)、常朝の禮が終わると内閣官は東陛から、錦衣衛官は西陛から升って寶座の東西に立つよう命じた。欽差の官および外國人に敕を領させる場合は、坊局の官一人が敕を奉じて内閣の後ろのやや上に立って待ち、領敕の官が辞すると、奉敕の官が旨を承けて左陛から降り、御道に沿ってこれを授ける。
  • 隆慶六年(1572年)、三・六・九の日に視朝すると詔した。
  • 萬暦三年(1575年)、常朝の日には記注起居の官四人を東班の給事中の上のやや前に列して観聴しやすくし、午朝では御座の西のやや南に列するよう命じた。
  • 入朝の次第は、洪武二十四年(1391年)に、朝参には將軍がまず入り、次に近侍、次に公・侯・駙馬・伯、次に五府・六部、次に應天府および在京の雑職官員とするよう命じた。
  • 成化十四年(1478年)、進士は事務を執る衙門の次第に照らして現任官の後ろに立つよう命じた。

皇太子親王朝儀

  • 前代の史書には多く載っていない。明は洪武元年(1368年)九月に制を定めた。
  • 正旦などの大朝で皇帝が奉天殿に御するとき、あらかじめ皇太子と親王の次を文樓に設け、拜位と拜褥を丹陛上の正中に設ける。皇帝が座に升り、殿前の執事の班が起居を終えると、引進が皇太子および親王を導いて奉天の東門から入れ、百官もそろって入る。樂が奏される中、皇太子と親王は東階から升って丹陛の拜位に至り、樂が止む。四拜を賛し、樂が奏される中で起ち、樂が止む。引進が導いて殿の東門から入り、樂が奏され、内贊が御座の前の位まで引くと樂が止む。「跪」と唱えると皇太子が跪いて賀を称し、「長子某、いま履端の節に遇い(冬至には履長という)、謹んで諸弟某らを率い、欽んで父皇陛下に詣でて賀を称す」と言う。制を伝えるのは前と同じである。俯伏して起つよう賛し、皇太子と諸王は東門から出る。樂が奏される中、引進が導いて丹陛の位に復させ、樂が止む。四拜を賛し、樂が奏される中で起ち、樂が止み、東階から降りる。樂が奏される中で文樓に至り、樂が止む。百官が随って入って賀す。
  • 皇后に朝するときは坤寧宮で行い、おおむね皇帝に朝する儀に準ずる。
  • 洪武二十六年(1393年)、朝賀を乾清宮で行うよう改め定めた。その日、皇帝と皇后が座に升り、侍従が儀のとおり導引する。引禮が皇太子および妃、親王および妃を導いて上位の前に詣でさせ、贊禮が四拜して起つよう賛す。贊禮が皇太子を導いて前に詣でさせ、跪くよう賛し、引禮が太子妃・諸王および妃にみな跪くよう賛す。皇太子の致詞は前と同じで、制は伝えない。贊禮が皇太子に俯伏して起つよう賛し、引禮が諸王に俯伏して起つよう賛し、太子妃・諸王妃もみな起つ。贊禮が皇太子を導いて位に復させ、拜を賛し、皇太子以下がみな四拜して禮を終える。引禮が導いて皇后の前に至らせ、その前後の贊拜はみな皇帝に朝する儀のとおりで、致詞では「母后殿下」と称する。禮が終わると退出する。
  • 七年、致賀の辞を述べず八拜の禮だけを行うよう改め定めた。皇太后に朝賀する禮もみな同じである。

諸王來朝儀

  • 古は六年に五服が一度朝した。漢の法には四見の儀があり、魏制では藩王は入覲できなかった。晉の泰始年間には、王公以下で入朝する者は四方を合わせて二番に分けるよう命じた。唐以後は親藩の多くが国に就かなかった。明代は古の封建にならい、親王は藩に就いて常には入朝せず、朝すれば賜与がきわめて厚かった。
  • 明初、来朝のさいは前もって奉天殿に御座を陳ねること常儀のとおりとし、諸王の次を奉天門外の東耳房に設ける。鼓が三嚴になると百官が入って侍立の位に就く。引禮が王を導き、衮冕を着けて東門から入り東陛を升って位に就かせ、王府の従官は丹墀の位に就く。拜を賛し、樂が奏される中で王と従官がみな四拜して起ち、樂が止む。王は殿の東門から入り、樂が奏される中、内贊が御前まで導くと樂が止む。王が跪き、王府の官もみな跪く。王は「第幾子某王某、いま某の時に遇い、入覲して欽んで父皇陛下に詣で朝拜す」と致辞する。俯伏して起つよう賛し、王は東門から出て、樂が奏される中で拜位に復し、樂が止む。拜を賛して王が起ち、従官もみな四拜して起ち、樂が奏される中で駕が起ち、王および各官が順次退出する。
  • 洪武二十六年(1393年)、諸王は大朝では八拜の禮を行い、常朝では一拜とすると定めた。
  • 伯・叔・兄が天子に見えるときは、朝では君臣の禮を行い、便殿では家人の禮を行う。伯・叔・兄が西向きに坐って天子の四拜を受け、天子は中央に南面して坐る。親を親しむ義を尚びつつ君臣の禮を存するためである。
  • 外戚の朝見では、皇后の父母が帝に見えるときは君臣の禮を行い、后が父母に見えるときは家人の禮を行う。皇太子が皇后の父母に見えるときは、皇后の父母が西向きに立ち、皇太子が東向きに四拜の禮を行い、皇后の父母は立って二拜を受け、二拜を答える。

諸司朝覲儀

  • 明制では天下の官が三年に一度入朝し、十二月十六日から始めて鴻臚寺が順に引見した。二十五日の後は毎日、方面官が常朝官に随って奉天門に入って行禮し、府州縣の官および諸司の首領官吏・土官吏はみな午門外で行禮した。正旦の大朝の後は、方面官は奉天殿の前に序列し、知府以下は奉天門の金水橋の南に序列すること常朝の儀のとおりとした。
  • 天順三年(1459年)、方面官が入朝するときは京官より一等下げるよう命じた。
  • 萬暦五年(1577年)、朝覲について次のように命じた。南京の府尹・行太僕寺卿・苑馬寺卿・布政使司と按察使司の二司はいずれも十二月十六日に朝見し、外班で行禮して右掖門から衛の前に至り、鴻臚寺の官が順に引見する。鹽運司および知府以下の官吏は、浙江・江西が十七日、山東・山西が十八日、河南・陝西が十九日、湖廣・南直隸が二十日、福建・四川が二十一日、廣東・廣西が二十二日、雲南・貴州が二十三日、北直隸が二十四日として、それぞれ外班で行禮し御前に至って引見される。朝を免ずるときは中止し、なお御朝の日を待って引見する。正旦の朝賀ではいずれも殿前に入って行禮する。
  • 朝覲の官が見辞・謝恩するときは公服を着け、正旦には朝服を着けて朱履は履かず、常朝ではみな錦繡を用いた。

中宮受朝儀

  • ただ唐の『開元禮』にだけ、皇太后に朝する儀、皇后が群臣の賀を受ける儀、皇后が外命婦に会う諸儀がある。明制には皇后が群臣の賀を受ける儀はなく、皇妃以下が正旦・冬至に朝賀する儀は洪武元年(1368年)九月の詔によって定められた。
  • 中宮の朝賀では、内使監が坤寧宮に皇后の寶座を設け、丹陛の儀仗は内使が執り、殿上の儀仗は女使が執る。女樂を宮門外に陳ね、皇貴妃の幄次を宮門外の西の北寄り、公主の幄次を宮門外の東のやや南、外命婦の幄次を門外の南に東西向きに設ける。
  • 皇后が禕衣を着けて閤を出ると、仗が動き樂が奏され、座に升ると樂が止む。司賓が外命婦を導いて東門から入れ、内道の東西に班を作って侍立させる。次に皇貴妃と衆妃を東門から入れて陛上の拜位に至らせ、拜を賛し、樂が奏される中で四拜して起ち、樂が止む。導いて殿の東門から入れ、樂が奏される中、内贊が受け継いで殿上の拜位まで引くと樂が止む。跪くよう賛して妃がみな跪き、皇貴妃が「妾某氏ら、いま履端の節に遇い(冬至には履長という)、恭しく皇后殿下に詣でて賀を称す」と致詞する。終わるとみな俯伏して起ち、樂が奏される中で位に復し、樂が止む。拜を賛し、樂が奏される中で四拜して起ち、樂が止み、東階から降りて出る。
  • 司賓が公主を導いて東門から入れ、陛上の拜位に至って順に立たせ、行禮は皇妃の儀のとおりとする。司賓が外命婦を導いて殿前の中道の拜位に入れ、拜を賛すること儀のとおりとする。班首は西陛から升って殿の西門に入り、樂が奏される中、内贊が受け継いで殿上の拜位まで引くと樂が止む。班首および諸命婦がみな跪き、班首が「某國夫人妾某氏ら、賀を称す」と致詞する。賀が終わると出て位に復す。
  • 司言が跪いて旨を承け、殿の中門から出て露臺の東に立ち南向きに「旨あり」と称すると、命婦はみな跪く。司言が旨を宣して「履端の慶、夫人らと之を共にす」と言う。起つよう賛し、司言が旨を宣し終えたことを奏すると皇后が起ち、樂が奏される中で内閤門に入り、樂が止み、諸命婦が退出する。太皇太后・皇太后への朝賀の儀も同じである。
  • 洪武二十六年(1393年)、中宮の朝賀の儀を重ねて定めた。前日に女官が御座と香案を設け、当日に内官が儀仗を設け、女樂を丹陛の東西に北向きに陳ね、箋案を殿の東門に設ける。命婦が宮門に至ると司賓が引き入れて拜位に就かせる。女官は服を具えて侍班し、尚宮・尚儀らの官が内に詣でて奉迎する。皇后が服を具えて出ると樂を奏し、拜を賛することは前の儀のとおりである。女官が箋案を挙げて殿の東門から入り、樂が奏される中で殿中に至ると樂が止む。跪くよう賛して命婦がみな跪き、「宣箋目」と賛して女官が宣し終えると、「展箋」「宣箋」と賛し、女官が案の前に詣でて展べ宣し、終わると案を殿の東に挙げ、命婦はみな起つ。司賓が班首を引いて東階から升り殿の東門に入れ、樂が奏される中、内贊が殿中まで引くと樂が止む。跪くよう賛して班首と諸命婦がみな跪き、班首が致詞し終えるとみな起って西門から出る。贊拜および司言の宣旨はみな儀のとおりで、禮が終わる。
  • 千秋節の致詞は「いま千秋の令節に遇い、敬みて皇后殿下に詣でて賀を称す」と言い、旨は伝えない。
  • 朔望の命婦の朝参では、その日に宮中に御座を設け、儀仗と女樂を陳ね、皇后が座に升ると引禮の女官が命婦を引いて班に入れ、文は東、武は西とし、それぞれ夫の品によって並ぶ。拜を賛し、樂が奏される中で四拜して禮を終えて退出する。陰雨・大寒・大暑のときは免ずる。のちに命婦の朝賀はいずれも仁智殿で行われた。東宮妃に朝する儀は中宮に朝するのと同じだが、令は伝えない。

朝賀東宮儀

  • 漢以前のことは伝わらない。隋の文帝の時、冬至に百官が太子に朝し、樂を張って賀を受けた。唐制では宮臣が皇太子に参賀するときはみな舞蹈したが、開元にはじめてその禮を罷めた。故事では百官が皇太子に詣でるときは名を称するだけで、宮臣だけが臣と称した。
  • 明の洪武十四年(1381年)、給事中の鄭相同が古制のようにするよう請うた。詔して群臣に議させたところ、編修の呉沈らは、東宮は国の大本であり、聖体を継いで天位を承ける者である、臣子が尊敬する禮に二つがあってはならない、東宮に啓事する者はすべて従来どおり臣と称すべきだ、と議し、これに従った。
  • 東宮に朝するさいは、前もって典璽官が文華殿に皇太子の座を設け、錦衣衛が殿外に儀仗を設け、教坊司が大樂を文華門内の東西に北向きに陳ね、府軍衛が甲士と旗幟を門外に列し、錦衣衛が將軍十二人を殿の中門外および文華門外に東西向きに置く。儀禮司の官が箋案を殿の東門外に設け、百官の拜位を殿下の東西に、傳令・宣箋などの官の位を殿内の東西に設ける。
  • 当日、百官が文華門外に詣で、導引官が外の準備が整ったと啓す。皇太子が冕服で出ると樂が奏され、座に升ると樂が止む。百官が入って拜を賛し、樂が奏される中で四拜して起ち、樂が止む。丞相が西階から升って殿内の拜位に至り、みな跪く。丞相が「某ら、いま三陽開泰、万物これ新たなるに遇う。敬みて惟うに皇太子殿下、盛んに景福を膺けられよ」と致詞し、終わると俯伏して起って位に復す。舍人が箋案を挙げて殿中に入り、捧箋・展箋・宣箋・傳令はおおむね皇后の場合と同じである。令は「この三陽に履み、願わくは嘉慶を同じくせん」と言う。他はみな儀のとおりである。
  • 冬至の致詞では「律は黄鐘に応じ、日は長至に当たる」に換え、伝える令は「履長の節」に換える。千秋節の致詞は「いま皇太子殿下の壽誕の辰に遇い、謹んで文武の群官を率いて敬みて千歳の壽を祝す」と言い、令は伝えない。
  • 朔望には百官が朝から退いたのち文華殿の門外に詣でて東西に立ち、皇太子が殿に升ると樂が奏され、百官が一拜の禮を行う。謝恩・見辞の官も行禮する。
  • 洪武元年(1368年)十二月、帝は東宮の師傅がみな勲旧の大臣であるから特別の禮で待遇すべきだとして、三師が東宮に朝賀する儀を議するよう命じた。禮官は議して言った――唐制では群臣が東宮に朝賀するとき四拜の禮を行い、皇太子は後の二拜に答える。三公の朝賀には前後ともに答拜した。近代は答拜の禮が行われていないが、三師の禮は重んじないわけにいかない。いま擬するに、大朝賀のさいは皇太子の座を大夲堂に設け、答拜の褥位を堂の中央に設け、三師・賓客・諭徳の拜位を堂の前に設ける。皇太子は常服で座に升り、三師・賓客は常服で入って位に就き北向きに立つ。皇太子は起立して南向きとなり、四拜を賛し、皇太子は後の二拜に答える、と。
  • 洪武六年(1373年)、百官が太子に朝見するときの朝服から蔽膝と佩を除くよう詔した。
  • 洪武二十九年(1396年)、廷臣に親王が東宮に見える儀を議するよう詔した。禮官は議して言った――諸王が来見するときは、皇太子の位を正殿の中央に設け、諸王の拜位を殿門外および殿内に設け、王府の官の拜位を庭の中道の東西に設け、百官の侍立の位を庭の中央に東西向きに設ける。当日は甲士を列し儀仗を陳ね、樂を常のごとく設ける。諸王は東宮の門外の幄次に詣で、皇太子が常服で出ると樂が奏され、座に升ると樂が止む。引禮が諸王を導いて殿門外の位に就かせ、歩み出すと樂が奏され、位に就くと樂が止む。導いて殿の東門から入れ、樂が奏される中、内贊が位まで引いて北向きに立たせると樂が止む。跪くよう賛して王と王府の官がみな跪き、「いま某の節に遇い、恭しく皇太子殿下に詣でる」と致詞する。終わると王と王府の官はみな俯伏して起ち、樂が奏される中で位に復し、樂が止む。拜を賛し、樂が奏される中で王と王府の官がみな四拜して起ち、樂が止み、禮が終わって王および各官が順次退出する、と。
  • 王が後殿に至って家人の禮を叙するときは、東宮も王も常服とし、王は文華殿の東門から入って後殿に至り、王が西向き、東宮が南向きで相見する。禮が終われば坐を叙し、東宮は正中に南面し、諸王は東西に列する。
  • 嘉靖二十八年(1549年)、禮部が、故事では皇太子が朝賀を受けるとき文華殿の中央に座を設けるが、いま黄瓦に葺き替えたので尊を避けるべきかと奏した。帝は、東宮が賀を受ける位は文華門の左に南向きに設けるべきだ、と言ったが、侍衛が備わっていなかったので取りやめた。
  • 隆慶二年(1568年)、皇太子を冊立するにあたり、文華殿の門の東の間に座を設けて賀を受けるよう詔した。

大宴儀

  • 漢の大朝会では群臣が殿に上って万歳を称し、觴を挙げ、百官が賜宴を受け、宴饗には大いに樂を奏した。唐の大饗では登歌し、あるいは殿庭に九部伎を設けた。宋は春秋の仲月および千秋節に群臣を大宴し、山樓・排場を設けて奢麗を極めた。
  • 明制には大宴・中宴・常宴・小宴がある。洪武元年(1368年)、奉天殿で群臣を大宴し、三品以上は殿に升り、その他は丹墀に列した。そこで正旦・冬至・聖節の宴を謹身殿で行う禮を定めた。二十六年(1393年)、大宴の禮を重ねて定め、奉天殿に陳ねた。
  • 永樂元年(1403年)、郊祀の禮が成ったので大宴した。十九年(1421年)、北京の郊社・宗廟および宮殿が成ったので大宴した。宣徳・正統の間には、朝官で参加できない者に節錢を給付した。
  • 立春・元宵・四月八日・端午・重陽・臘八日は、永樂年間にはいずれも奉天門で百官に宴を賜い樂を用いたが、その後はみな午門外で宴して樂を用いなくなった。立春の日には春餅、元宵の日には團子、四月八日には不落莢(嘉靖年間に不落莢を麥餅に改めた)、端午の日には涼糕と糭、重陽の日には糕、臘八日には麵を賜い、いずれも午門外に設けて官の品によって坐を序した。
  • 宣徳五年(1430年)冬、久しく雪がなかったが十二月に大雪となり、帝は群臣に喜雪の詩を示し、あらためて賞雪の宴を賜った。群臣が和した章を進めると、帝はそのうち警戒の意を寓したものを録し、序を作った。
  • 皇太后の聖誕には、正統四年(1439年)に午門で宴を賜った。東宮の千秋節には、永樂年間には府部の堂上官・春坊・科道の近侍・錦衣衛および天下から箋を進める官に文華殿で宴を賜い、宣徳以後はいずれも午門外で宴した。
  • 圜丘・方澤・祈穀・朝日・夕月の祀、耕耤、經筵・日講、東宮の講読には、いずれも飯を賜った。親蠶では内外の命婦に飯を賜った。書籍の纂修・校勘では館を開くとき、および書が成ったときにいずれも宴を賜った。閣臣が九年の考満を迎えると禮部で宴を賜い、九卿が侍宴した。新進士に賜う宴を「恩榮」といった。
  • 大饗では、尚寶司が奉天殿に御座を設け、錦衣衛が黄麾を殿外の東西に設け、金吾等衛が護衛官二十四人を殿の東西に置く。教坊司は九奏の樂歌を殿内に設け、大樂を殿外に設け、三舞と雜隊を殿下に立てる。光禄寺は酒亭を御座の下の西、膳亭を御座の下の東、珍羞・醯醢の亭を酒亭・膳亭の東西に設け、御筵を御座の東西に設ける。皇太子の座を御座の東に西向きに設け、諸王は順次その南に東西相向かいとする。群臣は四品以上が殿内、五品以下が東西の廡に位を取る。司壺・尚酒・尚食がそれぞれ供事する。
  • 時刻になると儀禮司が座に升るよう請い、駕が起つと大樂が奏され、座に升ると樂が止み、鞭を鳴らす。皇太子と親王が殿に上り、文武官の四品以上は東西の門から入って殿中に立ち、五品以下は丹墀に立つ。拜を賛すること儀のとおりとする。光禄寺が御筵を進めると大樂が奏され、御前に至ると樂が止む。内官が花を進め、光禄寺が爵を開いて酒を注ぎ御前に詣でる。
  • 第一爵を進めると、教坊司が「炎精の曲」を奏し、樂が奏される中で内外の官がみな跪く。教坊司が跪いて進酒を奏し、飲み終わると樂が止み、衆官が俯伏して起つ。拜を賛すること儀のとおりとし、それぞれ位に就いて坐る。序班が群臣に詣でて花を配る。
  • 第二爵では「皇風の曲」を奏し、樂が奏される中で光禄寺が御前に酒を酌み、序班が群臣に酒を酌む。皇帝が酒を挙げると群臣も酒を挙げ、樂が止む。湯を進めるときは鼓吹と響節が前導して殿外に至り、そこで鼓吹が止み、殿上の樂が奏される。群臣は起立し、光禄寺の官が湯を進めると群臣は再び坐る。序班が群臣に湯を供し、皇帝が筯を挙げると群臣も筯を挙げる。「饌成」と賛すると樂が止み、武舞が入って「平定天下の舞」を奏する。
  • 第三爵では「眷皇明の曲」を奏し、樂が奏される中で初めのように酒を進め、樂が止むと「撫安四夷の舞」を奏する。第四爵では「天道傳の曲」を奏し、初めのように酒と湯を進め、「車書會同の舞」を奏する。第五爵では「振皇綱の曲」を奏し、初めのように酒を進め、「百戲承應の舞」を奏する。第六爵では「金陵の曲」を奏し、初めのように酒と湯を進め、「八蠻獻寶の舞」を奏する。第七爵では「長楊の曲」を奏し、初めのように酒を進め、「採蓮隊子の舞」を奏する。第八爵では「芳醴の曲」を奏し、初めのように酒と湯を進め、「魚躍於淵の舞」を奏する。第九爵では「駕六龍の曲」を奏し、初めのように酒を進める。
  • 光禄寺が御爵を収め、序班が群臣の盞を収める。湯を進め大膳を進めると大樂が奏され、群臣は起立し、進め終わると再び坐る。序班が群臣に飯を供し、終わると「膳成」と賛して樂が止み、膳を撤して「百花隊の舞」を奏する。「撤案」と賛すると光禄寺が御案を撤し、序班が群臣の案を撤する。「宴成」と賛すると群臣はみな席を出て北向きに立ち、拜を賛すること儀のとおりとする。群臣が東西に分かれて立つと、儀禮司が禮の終わりを奏し、駕が起って樂が止み、順次退出する。
  • 中宴の禮は前と同じだが七爵までとする。常宴は中宴と同じだが一拜三叩頭とし、酒を進めるのは三度あるいは五度で止める。
  • 命婦を宴するときは、坤寧宮に儀仗と女樂を設け、皇后が常服で座に升り、皇妃・皇太子妃・王妃・公主もまた常服で随って閤を出て位に就く。大小の命婦はそれぞれ座位の後ろに立つ。丞相夫人が諸命婦を率いて御食の案を挙げ、丞相夫人が壽花を捧げる。二品の外命婦がそれぞれ皇妃・皇太子妃・王妃・公主の前に食案を挙げ、大小の命婦がそれぞれ座位に就く。奉御の執事人が殿内および東西の廡に壽花を分け進める。酒は七行、食を上げること五度で、酒を酌み湯を進めるときの樂の奏と止はみな儀のとおりである。

上尊號徽號儀

  • 子は父に爵を与える道理がない。漢の髙帝は家令の言に感じて太公を尊んだが、荀悦はこれを非とした。晉の哀帝が皇太妃を尊崇しようとしたとき、江虨は顯宗の廟に告げて事が自分の一存によるものでないことを明らかにすべきだと考えた。宋・元の志にはいずれも皇太后に尊號を上る儀が載るが、廟に告げることを行っていない。これは禮に適っていない。
  • 明制では、天子が登極して母后または母妃を皇太后とするときに尊號を上る。その後、慶典によって皇太后を推崇するときは二字または四字を加えて徽號とする。世宗の時に両宮の皇太后に上ったときは八字にまで増えた。徽號を上るときは致詞するが、尊號を上るときは寶と冊を進めるだけである。
  • 尊號を上るのは、宣宗が登極して皇太后を尊んだのに始まる。前もって官を遣わして天地・宗社に祭告し、帝は自ら太宗皇帝および大行皇帝の几筵に告げる。当日は鐘鼓を鳴らし、百官が朝服で奉天門に集まる。冊寶・綵輿・香亭を設け、中和韶樂および大樂は設けるが奏さない。内官が皇太后の寶座を設け、儀仗を宮中に陳ね、冊寶の案を寶座の前に設け、皇帝の拜位を丹陛の正中に、親王の拜位を丹墀の内に設ける。女樂は設けるが奏さない。
  • 皇帝は冕服で奉天門に御し、奉冊寶の官が冊寶を輿の中に置き、内侍が輿を挙げ、皇帝が輿に随って階を降り輅に升る。百官は金水橋の南に北向きに立ち、輿が至るとみな跪き、過ぎると起って随い、思善門外の橋の南に北向きに立つ。皇帝は思善門の内で輅を降り、皇太后が座に升り、輿が丹陛に至ると皇帝は左門から入って陛の右に北向きに立ち、親王は冕服でそれぞれ位に就く。四拜を奏し、皇帝および王以下がみな四拜する。
  • 奉冊寶の官が冊寶を持って殿の中門から入り左に立つ。皇帝は殿の左門から入って拜位に至り跪き、親王・百官もみな跪く。搢圭を奏し、進冊を奏すると、奉冊官が冊を跪いて進め、皇帝が冊を受けて献じ終えると執事官が跪いて受け案の左に置く。進寶を奏すると、奉寶官が寶を跪いて進め、皇帝が寶を受けて献じ終えると執事官が跪いて受け案の右に置く。出圭を奏し、宣冊を奏すると執事官が跪いて宣読し、皇帝は俯伏して起ち左門から出て拜位に至る。四拜を奏し、伝え唱えて百官も同じく四拜し、禮が終わって駕が起つ。
  • この日、皇帝は皇太后を奉じて奉先殿および几筵に謁し、謁謝の禮を行う。禮が終わると皇太后は宮に還り、燕居の冠服を着けて座に升り、皇帝および皇后・皇妃・親王・公主および六尚などの女官が慶賀の禮を行う。翌日、外命婦の四品以上が表箋を進める禮を行う。宣徳以後の儀も同じで、正統の初めに太皇太后を尊んだ儀も同じである。
  • 天順八年(1464年)二月、命婦の致詞を加え、「某夫人妾某氏ら、恭しく惟うに皇太后陛下、尊く慈極に居り、永く福壽を膺けられよ」と言うこととした。
  • 宏治十八年(1505年)、両宮に尊號を上るにあたり、皇太后への致詞を「尊く慈闈に居り、盛んに福壽を隆んにせられよ」に改めた。
  • 嘉靖元年(1522年)二月、尊號を上るにあたり、四宮で行禮すると過労になるので二日に分けた。また武宗の服制がまだ満ちていないので莊肅皇后は朝賀を免じ、命婦が三宮を賀するのもまた日を分けた。
  • 徽號を上るのは、天順二年(1458年)正月に皇太后に奉ったのに始まる。致詞は「嗣皇帝臣、伏して惟うに皇太后陛下、功徳ともに隆く、徽號を顕かに崇め、永く福壽を膺け、率土ともに歓ばん」と言う。命婦が表を進めて慶賀する致詞は「某夫人妾某氏ら、恭しく惟うに皇太后陛下、徳は坤の厚きに同じく、まことに徽稱に協い、壽福は無疆、輿情ともに歓び戴かん」と言う。他は常儀のとおりである。以後の上徽號および加上徽號はこれにならった。
  • 成化二十三年(1487年)、禮部が儀を具えたが皇太子妃の禮に及んでいなかったので、特に命じてこれを増した。