明史卷三十 志第六 五行三

金の総説

  • 洪範に「金は從革」とあり、金が從革しないのはその性を失った状態である。従来の史書では、恒𤾉(長い日照り)・詩妖・毛蟲の孽・犬禍・金石の妖・白眚白祥をいずれも金に属させてきた。本志もそれに従う。

恒𤾉

  • 洪武三年(1370年)夏、旱があり、六月戊午朔に郊壇へ歩いて祈祷した。
  • 洪武四年(1371年)、陜西・河南・山西および直隸の常州・臨濠・北平・河間・永平が旱。
  • 洪武五年(1372年)夏、山東が旱。
  • 洪武七年(1374年)夏、北平が旱。
  • 洪武二十三年(1390年)、山東が旱。
  • 洪武二十六年(1393年)、大旱により詔を下して直言を求めた。
  • 永樂十三年(1415年)、鳳陽・蘇州・浙江・湖廣が旱。
  • 永樂十六年(1418年)、陕西が旱。
  • 宣徳元年(1426年)夏、江西が旱。湖廣は夏から秋にかけて旱。
  • 宣徳二年(1427年)、南畿・湖廣・山東・山西・陕西・河南が旱。
  • 宣徳七年(1432年)、河南および大名が夏秋に旱。
  • 宣徳八年(1433年)、南北両畿・河南・山東・山西で春から夏まで雨が降らなかった。
  • 宣徳九年(1434年)、南畿・湖廣・江西・浙江および真定・濟南・東昌・兖州・平陽・重慶などの府が旱。
  • 宣徳十年(1435年)、畿輔が旱。
  • 正統二年(1437年)、河南が春の旱。順徳・兖州が春夏の旱。平涼など六府が秋の旱。
  • 正統三年(1438年)、南畿・浙江・湖廣・江西の九府が旱。
  • 正統四年(1439年)、直隸・陜西・河南および太原・平陽が春夏の旱。
  • 正統五年(1440年)、江西が夏秋の旱。南畿・湖廣・四川の五府と州衛各一で六月から八月まで雨が降らなかった。
  • 正統六年(1441年)、陜西が旱。南畿・浙江・湖廣・江西の府州縣十五が春夏ともに旱。
  • 正統七年(1442年)、南畿・浙江・湖廣・江西の府州縣衛二十餘が大旱。
  • 正統十年(1445年)夏、湖廣が旱。
  • 正統十一年(1446年)、湖廣および重慶などの府が夏秋の旱。
  • 正統十二年(1447年)、南畿および山西・湖廣などの七府が夏の旱。
  • 正統十三年(1448年)、直隸・陜西・湖廣の府州七が夏秋の旱。
  • 正統十四年(1449年)六月、順天・保定・河間・真定が旱。
  • 景泰元年(1450年)、畿輔・山東・河南が旱。
  • 景泰二年(1451年)、陜西の四府九衛が旱。
  • 景泰三年(1452年)、江西が旱。
  • 景泰四年(1453年)、南北両畿・河南および湖廣の三府で数か月雨が降らなかった。
  • 景泰五年(1454年)、山東・河南が旱。
  • 景泰六年(1455年)、南畿および山東・山西・河南・陜西・江西・湖廣の三十三府、十五の州衛がみな旱。
  • 景泰七年(1456年)、湖廣・浙江および南畿・江西・山西の十七府が旱。
  • 天順元年(1457年)夏、両京で雨が降らず、杭州・寧波・金華・均州も旱。
  • 天順三年(1459年)、南北両畿・浙江・湖廣・江西・四川・廣西・貴州が旱。
  • 天順四年(1460年)、濟南・青州・登州・肇慶・桂林・甘肅の諸府衛が夏の旱。
  • 天順五年(1461年)、南畿の四府一州および錦衣などの衛で連月の旱により作物が損なわれた。
  • 天順七年(1463年)、北畿が旱。濟南・青州・東昌・衛輝は正月から四月まで雨が降らなかった。
  • 成化三年(1467年)、湖廣・江西および南京の十一衛が旱。
  • 成化四年(1468年)、両京で春夏に雨が降らず、湖廣・江西が旱。
  • 成化六年(1470年)、直隸・山東・河南・陜西・四川の府縣衛が多く旱。
  • 成化八年(1472年)、京畿で連月雨が降らず運河の水が涸れた。順徳・真定・武昌もいずれも旱。
  • 成化九年(1473年)、彰徳・衛輝・平陽が旱。
  • 成化十三年(1477年)四月、京師が旱。この年、真定・河間・長沙もみな旱。
  • 成化十五年(1479年)、京畿が大旱。順徳・鳳陽・徐州・濟南・河南・湖廣もみな旱。
  • 成化十八年(1482年)、両京・湖廣・河南・陜西の十五府二州が旱、山西は大旱。
  • 成化十九年(1483年)、ふたたび旱。
  • 成化二十年(1484年)、京畿・山東・湖廣・陜西・河南・山西がいずれも大旱。
  • 成化二十二年(1486年)六月、陜西が旱で、蟲と鼠が苗を食い、あわせて九十五州縣に及んだ。八月、北畿および江西の三府が旱。九月、温州・台州が大旱、長沙の諸府も旱。
  • 𢎞治元年(1488年)、南畿・河南・四川および武昌の諸府が旱。
  • 𢎞治三年(1490年)、両京・陜西・山東・山西・湖廣・貴州および開封が旱。
  • 𢎞治四年(1491年)、浙江の二府、廣西の八府および陜西の洮州衛が旱。
  • 𢎞治六年(1493年)、北直・山東・河南・山西および襄陽・徐州が旱。
  • 𢎞治七年(1494年)、福建・四川・山西・陜西・遼東が旱。
  • 𢎞治八年(1495年)、京畿・陜西・山西・湖廣・江西が大旱。
  • 𢎞治十年(1497年)、順天・淮安・太原・平陽・西安・延安・慶陽が旱。
  • 𢎞治十一年(1498年)、河南・山東・廣西・江西・山西の十八府が旱。
  • 𢎞治十二年(1499年)夏、河南の四府が旱。秋、山東が旱。
  • 𢎞治十三年(1500年)、慶陽・太原・平陽・汾州・潞州が旱。
  • 𢎞治十四年(1501年)、遼東鎮で春から秋まで雨が降らず、河も溝もことごとく涸れた。
  • 𢎞治十六年(1503年)夏、京師が大旱。蘇州・松江・常州・鎮江が夏秋の旱。
  • 𢎞治十八年(1505年)、北京および應天の四十二衛が旱。
  • 正徳元年(1506年)、陜西の三府が旱。
  • 正徳二年(1507年)、貴州・山西が旱。
  • 正徳三年(1508年)、江南・江北が旱。
  • 正徳四年(1509年)、三月から七月まで旱、陜西も旱。
  • 正徳七年(1512年)、鳳陽・蘇州・松江・常州・鎮江・平陽・太原・臨洮・鞏昌が旱。
  • 正徳八年(1513年)、畿輔および開封・大同・浙江の六縣が旱。
  • 正徳九年(1514年)、順天・河間・保定・廬州・鳳陽・淮安・揚州が旱。
  • 正徳十一年(1516年)、北畿および兗州・西安・大同が旱。
  • 正徳十五年(1520年)、淮安・揚州・鳳陽の三十六州縣および臨洮・鞏昌・甘州が旱。
  • 正徳十六年(1521年)、両京・山東・河南・山西・陕西で正月から六月まで雨が降らなかった。
  • 嘉靖元年(1522年)、南畿・江西・浙江・湖廣・四川・遼東が旱。
  • 嘉靖二年(1523年)、両京・山東・河南・湖廣・江西および嘉興・大同・成都がいずれも旱。赤地千里、餓死者が道に満ちた。
  • 嘉靖三年(1524年)、山東が旱。
  • 嘉靖五年(1526年)、江左が大旱。
  • 嘉靖六年(1527年)、北畿の四府・河南・山西および鳳陽・淮安がいずれも旱。
  • 嘉靖七年(1528年)、北畿・湖廣・河南・山東・山西・陜西が大旱。
  • 嘉靖八年(1529年)、山西および臨洮・鞏昌が旱。
  • 嘉靖九年(1530年)、應天・蘇州・松江が旱。
  • 嘉靖十年(1531年)、陜西・山西が大旱。
  • 嘉靖十一年(1532年)、湖廣・陜西が大旱。
  • 嘉靖十七年(1538年)夏、両京・山東・陜西・福建・湖廣が大旱。
  • 嘉靖十九年(1540年)、畿内が旱。
  • 嘉靖二十年(1541年)三月、久しい旱により帝が自ら祈祷した。
  • 嘉靖二十三年(1544年)、湖廣・江西が旱。
  • 嘉靖二十四年(1545年)、南北両畿・山東・山西・陜西・浙江・江西・湖廣・河南がいずれも旱。
  • 嘉靖二十五年(1546年)、南畿・江西が旱。
  • 嘉靖二十九年(1550年)、北畿・山西・陜西が旱。
  • 嘉靖三十三年(1554年)、兗州・東昌・淮安・揚州・徐州・武昌が旱。
  • 嘉靖三十四年(1555年)、陜西の五府および太原が旱。
  • 嘉靖三十五年(1556年)夏、山東が旱。
  • 嘉靖三十七年(1558年)、大旱により禾がことごとく枯れた。
  • 嘉靖三十九年(1560年)、太原・延安・慶陽・西安が旱。
  • 嘉靖四十年(1561年)、保定など六府が旱。
  • 嘉靖四十一年(1562年)、西安など六府が旱。
  • 隆慶二年(1568年)、浙江・福建・四川・陜西および淮安・鳳陽が大旱。
  • 隆慶四年(1570年)夏、旱により諸司に刑の執行を停めるよう詔した。
  • 隆慶六年(1572年)夏、雨が降らなかった。
  • 萬厯十一年(1583年)八月庚戌朔、河東の塩官が、解池が旱で干上がり塩の花が生じないと言上した。
  • 萬厯十三年(1585年)四月戊午、久しい旱により郊壇へ歩いて祈祷した。京師は前年の秋からこの時まで雨がなく、河も井戸もともに涸れていた。
  • 萬厯十四年(1586年)三月乙巳、久しい旱により順天府に祈祷を命じた。
  • 萬厯十七年(1589年)、蘇州・松江が連年の大旱で、震澤が平地となった。浙江・湖廣・江西も大旱。
  • 萬厯十八年(1590年)四月、旱。
  • 萬厯二十四年(1596年)、杭州・嘉興・湖州の三府が旱。
  • 萬厯二十六年(1598年)四月、旱。
  • 萬厯二十七年(1599年)夏、旱。
  • 萬厯二十九年(1601年)、畿輔・山東・山西・河南および貴州黔東の諸府衛が旱。
  • 萬厯三十年(1602年)夏、旱。
  • 萬厯三十四年(1606年)夏、はなはだしい旱。
  • 萬厯三十七年(1609年)、楚・蜀・河南・山東・山西・陜西がみな旱。
  • 萬厯三十八年(1610年)夏、久しい旱で、濟南・青州・登州・莱州の四府が大旱。
  • 萬厯三十九年(1611年)夏、京師が大旱。
  • 萬厯四十二年(1614年)夏、雨が降らなかった。
  • 萬厯四十三年(1615年)、三月から六月まで雨が降らず、山東は春夏の大旱で千里が焼けたようになった。
  • 萬厯四十四年(1616年)、陜西が旱。秋冬には廣東が大旱。
  • 萬厯四十五年(1617年)夏、畿南がはなはだしい旱。
  • 萬厯四十七年(1619年)、廣西の梧州が旱で、赤地は焼けたようであった。
  • 泰昌元年(1620年)、遼東が旱。
  • 天啓元年(1621年)、久しい旱。
  • 天啓五年(1625年)、真定・順徳・保定・河間の四府で三伏の間に雨が降らず、秋にもまた旱。
  • 天啓七年(1627年)、四川が大旱。
  • 崇禎元年(1628年)夏、畿輔が旱で赤地千里。
  • 崇禎三年(1630年)三月、旱により日を選んで帝が自ら祈祷した。
  • 崇禎五年(1632年)、杭州・嘉興・湖州の三府で八月から十月まで七旬にわたり雨が降らなかった。
  • 崇禎六年(1633年)、京師および江西が旱。
  • 崇禎十年(1637年)夏、京師および河東で雨が降らず、江西が大旱。
  • 崇禎十一年(1638年)、両京および山東・山西・陜西が旱。
  • 崇禎十二年(1639年)、畿南・山東・河南・山西・浙江が旱。
  • 崇禎十三年(1640年)、両京および登州・青州・莱州の三府が旱。
  • 崇禎十四年(1641年)、両京・山東・河南・湖廣および宣府・大同の辺地が旱。
  • 崇禎十六年(1643年)五月辛丑、雨と潤いを祈り、臣下に厳しく修省を加えるよう命じた。

詩妖

  • 太祖の呉元年(1367年)、張士誠の弟で偽の丞相であった士信、および黄敬夫・葉徳新・蔡彦文が政を執っていた頃、十七字の謡が流れた。丞相が事業を行うのに黄・蔡・葉ばかりを頼りにしている、ひとたび西風が起これば干からびた鼈になる、という趣旨である。まもなく蘇州が平定され、士信と三人はいずれも誅された。これがその応であった。
  • 建文の初年、道士が路上で歌った。燕を逐うな、燕を逐えば日が高くなり、高く飛んで帝の都へ上る、という趣旨である。歌い終わるとたちまち姿が見えなくなった。これは靖難の讖であった。
  • 正統二年(1437年)、京師が旱のとき、街の子どもたちが土龍を作って雨を祈り、拝みながら歌った。雨帝よ雨帝よ、城隍よ土地よ、雨がまた来たら土地を返せ、という趣旨である。解く者は、「雨帝」は「与弟(弟に与う)」で帝と弟は同音、「城隍」は郕王、「再来還土地」は復辟のことだと言った。
  • 萬厯の末年、道士が市中で歌った。委鬼が頭上に坐り、茄の花が地に満ちて生える、という趣旨である。北方では「客」を「楷」と読み、「茄」もまた音が転じるので、これは魏忠賢と客氏の兆しであった。
  • また、成都の東門外の鎮江橋にある迴瀾塔は、萬厯年間に布政の余一龍が修めたものである。張獻忠が蜀を破ってこれを毀ち、地を穿って磚を取ったところ古い碑が出て、篆書で次のように記されていた。塔を修めるは余一龍、塔を毀つは張獻忠、歳が甲乙丙に逢えばこの地に血が紅く流れる、妖しき運は川北に終わり、毒気は川東に播かれる、簫を吹くに竹を用いず、一矢が胸を貫く、と。末尾には「漢の元興元年、丞相諸葛孔明記す」とあった。
  • 本朝(清)の大軍が西征したとき、獻忠は射られて死んだ。このとき肅王が将であった。また謡があり、鄴台がまた鄴台となり、曹操が再び出て来る、という趣旨であった。賊の羅汝材が自ら曹操と号したのが、その兆しである。

毛蟲の孽

  • 𢎞治九年(1496年)八月、黒い熊が都城の蓮池から城を伝って西直門の上に登り、官軍が追ったが下ろすことができず捕らえられなかった。一人が噛み殺され、一人が負傷した。
  • 𢎞治十一年(1498年)六月、熊が西直門から城に入った。郎中の何孟春は、盗賊に備えるとともに火にも慎むべきだと述べた。宋の紹興年間に熊が永嘉城に至った際、州守の高世則が「熊」の字が「能火」であることから郡中に火の用心を戒めたところ、果たして家屋が延焼したという。これがその兆しで、この年、城内では火災が多発した。
  • 嘉靖五年(1526年)七月、南城縣に人の手足をそなえた虎が現れた。
  • 嘉靖四十五年(1566年)六月、太醫院吏目の李乾が、五色をそなえた兔を瑞兔として献上した。

犬禍

  • 嘉靖二十年(1541年)、民家で八本の足、四つの耳、四つの目をもつ犬が生まれた。
  • 萬厯四十七年(1619年)七月、懷寧の民家で長さ五寸・高さ四寸、一つの頭に二つの胴、八本の脚をもち、人のような犬が生まれた。

金異

  • 洪武十一年(1378年)正月元旦の甲戌、早朝に殿上の金の鐘を打ち始めたところ、たちまち二つに断ち割れた。六月丁夘の夜、寧夏衛で風雨のなか兜や旗・槊にみな火の光が生じた。
  • 洪武十二年(1379年)十二月甲子、徐州衛の譙樓の銅壺がひとりでに鳴り、乙丑にまた鳴った。この年、胡惟庸の井戸の中に石の笋が生え、取り除くとまた傍らから生えることが三度に及んだ。翌年、惟庸は誅に伏した。
  • 建文二年(1400年)四月乙卯、燕王が蘇家橋に陣営を構えたとき、兵の先端に毬のような火の光が生じて上下に撃ち合い、金鉄が錚々と鳴り、弓の弦がひとりでに鳴った。
  • 成化十三年(1477年)六月壬子、京師で銭が雨のように降った。
  • 正徳四年(1509年)三月甲寅、蓋州衛の城樓の鐘がひとりでに三度鳴った。
  • 正徳七年(1512年)、文登の秦始皇廟の鐘と鼓がひとりでに鳴り、成山衛でも同様であった。
  • 嘉靖六年(1527年)五月甲午、京師で銭が雨のように降った。
  • 隆慶六年(1572年)七月七日、轟音を立てて飛んで来たものが直隸華亭の海浜に落ちた。見ると鐘で、鋳造した年月がそのまま残っており、識者は閩から飛来したものだと言った。
  • 萬厯二十一年(1593年)十月甲申、山東の督撫の令旗および刀・鎗の先端からみな火が出て、しかも音がした。
  • 萬厯二十六年(1598年)五月庚寅、古浪の城樓の大鐘がひとりでに三度鳴った。
  • 天啓六年(1626年)五月丁未、京城の石の獅子が城外へ投げ出され、銀銭や器皿が昌平の閲武場の中まで飛ばされた。
  • 崇禎六年(1633年)五月癸巳、鉄の斧が飛んで霍山縣に落ちた。
  • 崇禎八年(1635年)十二月辛巳の夜四鼓、山東の鎮南城樓の大砲が鐘のように鳴り、夜明けに大きく一声吼えてやんだ。
  • 崇禎十三年(1640年)三月丙申、蘄州の城隍廟の古い鐘がひとりでに鳴った。

白眚白祥

  • 洪熙元年(1425年)六月庚戌、中天に白い気が現れ、東西に天を貫いた。
  • 宣徳元年(1426年)六月癸未の夜、蒼白い気が現れ東西に天を貫いた。八月庚辰、東南に白い気が現れ、羊の群れが驚いて走るような形をしていた。消えた後、死んだ蛇のような黒い気が現れ、しばらくして二つに分かれた。
  • 𢎞治五年(1492年)十二月辛亥の夜、東方に白い気が現れ、南北に天を亘って地上五丈のところにあった。
  • 正徳元年(1506年)三月戊申の夜、太原の空中に彎弓のような紅い光が見え、長さ六七尺であったが、たちまち黄色に変じ、さらに白に変じ、次第に伸びて二十餘丈に達し、光芒が天を貫いた。
  • 嘉靖七年(1528年)十二月望、白い気が天津を亘った。

土の総説

  • 洪範に「土はここに稼穡」とあり、稼穡が成らないのは土がその性を失った状態である。従来の史書では、恒風・風霾晦冥・花妖・蟲孽・牛禍・地震・山頽・雨毛・地生毛・年饑・黄眚黄祥をいずれも土に属させてきた。本志もそれに従う。

恒風

  • 宣徳六年(1431年)六月、温州で颶風が大いに起こり、役所・祠廟・倉庫・城壁が壊れた。
  • 正統四年(1439年)七月、蘇州・松江・常州・鎮江の四府で大風が木を抜き作物を損なった。
  • 天順二年(1458年)二月、暴風が孝陵の松の木を抜き、懿文陵の殿の獣頭飾りや棟・梁・柱が多く砕けた。
  • 天順三年(1459年)四月、順天・河間・真定・保定・廣平・濟南で連日烈しい風が吹き、麥の苗がことごとく駄目になった。
  • 成化十四年(1478年)八月丁未、南京の大風が太廟の木を抜いた。
  • 成化十五年(1479年)八月辛夘、大風が孝陵の木を抜いた。
  • 成化二十一年(1485年)五月、南京の大風が太廟の木を抜き、大祀殿および皇城の各門の獣の口飾りを砕いた。
  • 𢎞治三年(1490年)六月壬午朔、陕西の靖虜衛で大風が吹き、天地が暗くなって火のような紅い光に変わり、長く続いてようやく熄んだ。
  • 𢎞治七年(1494年)三月己亥、廣寧の諸衛で狂風が吹き、瀋陽・錦州の城が百餘丈倒れた。
  • 正徳元年(1506年)六月辛酉、暴風が郊壇の松柏を折り、大祀殿と齋宮の獣瓦を壊した。
  • 正徳二年(1507年)閏正月癸亥、盧龍・遷安で大風が木を抜き家屋を毀った。乙丑、大風が奉天門の右の口飾りを壊した。
  • 正徳三年(1508年)二月己丑、大同の暴風で屋根瓦が飛び動き、三日でやんだ。
  • 正徳九年(1514年)二月丁巳、長樂で大きな雹と狂風・雷電があり、屋根瓦がみな飛んだ。五月戊辰、曲阜の暴風が宣聖廟の獣の口飾りを毀った。
  • 正徳十二年(1517年)四月丙辰、来賓で大風と雨雹があり、官民の家屋を毀って屋根瓦がみな飛んだ。十一月癸巳、南京の大風雪が孝陵の殿前の木および囲い牆の内外の松柏を倒した。十二月己酉、大理衛の大風が城樓を壊した。
  • 正徳十三年(1518年)三月甲寅、慶符の大風と雹が學宮を壊した。
  • 正徳十六年(1521年)十二月辛夘、甘肅行都司の狂風で官民の家屋と樹木が数え切れぬほど壊れた。
  • 嘉靖元年(1522年)七月己巳、南京の暴風雨で郊社・陵寢・宮闕・城壁の獣の口飾りや棟の欄がみな壊れ、樹木一萬餘株が抜けた。
  • 嘉靖五年(1526年)、陜西でしばしば大風が起こり、廟宇や民家百数十戸を巻き上げ、跡形もなくなった。
  • 萬厯十八年(1590年)三月甲辰、大名で狂風が吹き、空の色が黒くなったり赤くなったりした。
  • 萬厯二十六年(1598年)十月癸亥、喜峰路の台の西北の楼内でつむじ風が大いに起こり、黒い気が天を衝いて、楼内に火の光が生じた。
  • 萬厯三十四年(1606年)七月丙戌、大風が朝日壇の木を抜いた。
  • 萬厯四十一年(1613年)八月乙未、青州の大風が木を抜き、城内の家屋を倒した。
  • 天啟元年(1621年)三月辛亥、大風が塵を巻き上げ四方をふさいだ。
  • 天啟四年(1624年)五月癸亥、乾清宮の東の丹墀でつむじ風が突然起こり、内官監の屋根ほどの大きさの鉄板が空中を旋回して西の墀に隕ち、雷のような轟音を立てた。八月戊戌、薊州で寒風が人を殺した。
  • 崇禎十四年(1641年)五月、南陽の大風が家屋を吹き抜いた。七月乙亥、福州の大風が役所・民家を壊した。
  • 崇禎十五年(1642年)五月、保定・廣平の諸縣で怪しい風が吹き、麥も禾もともに損なわれた。
  • 崇禎十六年(1643年)正月丁酉、大風により五鳳樓の前門の閂が三つに断ち切られ、建極殿の垂木がことごとく折れた。

風霾晦冥

  • 建文元年(1399年)七月癸酉、燕王が挙兵したとき、風雲が四方から起こって目の前の人も見分けられなくなった。しばらくして東方に一尺ばかり青空が覗き、光が地を照らして上下を貫き通した。
  • 天順八年(1464年)二月壬子、風霾により昼が暗くなった。
  • 成化六年(1470年)二月丁丑、開封で昼が夜のように暗くなり、黄色い霾が天を覆った。三月辛巳、霾が雨のように降り昼が暗くなった。
  • 成化九年(1473年)三月癸未、濟南の諸府で狂風が吹き昼が暗くなって、目の前も見分けられなかった。
  • 成化二十一年(1485年)三月戊子、大名で辰から申まで風霾があり、紅と黄が空に満ちたかと思うとたちまち夜のように黒くなり、その後は砂が数日降り続いてやんだ。京師では正月から三月まで風霾が続き雨が降らなかった。
  • 𢎞治二年(1489年)二月辛亥、開封で昼が夜のように暗くなった。三月、黄色い塵が四方をふさぎ、風霾が天を覆う日が幾日も続いた。
  • 𢎞治四年(1491年)八月乙夘、南京で暗くなった。
  • 𢎞治七年(1494年)三月己亥、廣寧の諸衛で昼が暗くなった。
  • 正徳五年(1510年)三月甲子、大きな風霾があり、空の色が数日にわたって暗くなった。
  • 正徳十六年(1521年)十一月辛酉、甘肅行都司で黒い風により昼が暗くなり、翌日ようやく散った。
  • 嘉靖元年(1522年)九月己巳、大きな風霾で昼が暗くなった。
  • 嘉靖八年(1529年)正月戊戌朔、風霾により夕暮れのように暗くなった。
  • 嘉靖二十六年(1547年)七月乙丑、甘州の五衛で風霾により昼が暗くなり、色は赤くなりまた黄色になった。
  • 嘉靖二十八年(1549年)三月丙申、風霾が四方をふさぎ、日の色が惨めに白くなること五日に及んだ。
  • 嘉靖三十年(1551年)正月辛卯、大風が塵を巻き上げ天を覆って昼が暗くなった。
  • 嘉靖四十年(1561年)二月己酉も同様であった。四月癸巳、大風により黄色い土が降り昼が暗くなった。
  • 嘉靖四十三年(1564年)三月望、異様な風が起こり赤黄の霾が二十一日まで続いてやんだ。
  • 隆慶二年(1568年)正月元旦、大風が砂を上げ石を走らせ、白昼が暗くなった。北畿から江浙に至るまで同様であった。
  • 萬厯十七年(1589年)正月乙丑、蓋州衛の風霾で昼が暗くなり、役所や家屋が壊れた。
  • 萬厯二十五年(1597年)二月戊寅、京師で風霾があった。
  • 萬厯二十九年(1601年)四月、連日の風霾があった。
  • 萬厯三十八年(1610年)四月戊戌、崇陽で風霾により昼が暗くなり、夜になると激しさを増して官民の家屋・樹木の損害は数え切れなかった。
  • 萬厯四十八年(1620年)八月以前、雲南の諸府ではしばしば昼が暗くなった。
  • 天啟元年(1621年)四月乙亥の正午、寧夏の洪廣堡で風霾が大いに起こり、瓜の種のような灰片が次々と絶え間なく降り、しばらくしてやんだ。日が沈もうとする頃には紅黄色となり、外側は炊煙のように一畝ばかりを取り囲み、日の光の射すところは火炎のようで、夜半になってようやく没した。
  • 天啟四年(1624年)二月辛丑、風霾により昼が暗くなり、塵砂が天を覆って連日やまなかった。
  • 崇禎元年(1628年)正月癸亥、永年縣で昼が暗くなり、目の前の人や物も見分けられなかった。
  • 崇禎七年(1634年)三月戊子、黄州で昼が夜のように暗くなった。
  • 崇禎十三年(1640年)閏正月丙申、南京で日の色がぼんやりと暗くなり、風霾が大いに起こって細かい灰が空から降り、五歩の外は何も見えなかった。その四年後の三月丙申にも風霾により昼が暗くなった。

花孽

  • 𢎞治十六年(1503年)九月、安陸で桃と李が花を咲かせた。
  • 正徳元年(1506年)九月、宛平の棗林莊で李の花が盛んに咲いた。その冬、永嘉では花が一斉に咲いた。
  • 正徳六年(1511年)八月、霸州で桃と李が花を咲かせた。

蟲孽

  • 景泰五年(1454年)三月、畿南の五府で蟲が桑を食い、春の蚕が育たなかった。
  • 𢎞治六年(1493年)八月己巳、臨晉で蟲が雪のように降った。
  • 𢎞治七年(1494年)三月、廣寧の諸衛で黒い蟲が地に落ちた。大きさは蠅ほどで、しばらくすると土の中に入った。

牛禍

  • 正徳十二年(1517年)、徐州の牛が一つの頭に二つの舌、二つの尾、八本の足をもつ犢を産んだ。
  • 嘉靖五年(1526年)七月、南陽の牛が一つの頭に二つの胴をもつ犢を産んだ。
  • 嘉靖六年(1527年)十一月、漳浦で牛が三つの目・三本の角をもつ犢を産んだ。
  • 嘉靖十一年(1532年)二月、銅仁の黄色い牝牛が全身に紋のある犢を産んだが、すぐに死んだ。
  • 嘉靖十二年(1533年)、山東の平山衛の牛の犢に紋があり、前の二本の足と尾はすべて鱗甲を備え、その中はみな綿毛であった。
  • 萬厯十三年(1585年)九月、光山の牛が一つの物を産み、火の光が地に満ち鱗甲が厳めしく生えていたが、一晩で死んだ。
  • 萬厯三十七年(1609年)五月、歴城・高苑の二縣で牛がそれぞれ双頭・三眼・二鼻の犢を産んだ。
  • 萬厯三十八年(1610年)三月、獲嘉の牛が、一つの胴に二つの頭、四つの目、四つの耳、二つの口、二本の足、一つの尾をもつ犢を産んだ。
  • 萬厯三十九年(1611年)二月、汲縣の牛が、一つの肩に二つの頭、二つの口、四つの目、二つの耳、七つの蹄をもつ犢を産んだ。四月、降夷部の牛が人の頭に羊の耳をもつ犢を産んだ。
  • 萬厯四十五年(1617年)八月、開州の牛が二つの口・三つの目をもつ犢を産んだ。
  • 天啟元年(1621年)十月、會寧の牛が全身に鱗甲があり火の光を帯びた異獣を産んだ。
  • 天啟三年(1623年)十月、沅陵の牝牛が一つの胴に二つの頭、三つの尾をもつ犢を産んだ。
  • 天啟七年(1627年)三月、莒州の牛が麒麟のような犢を産んだ。
  • 崇禎十三年(1640年)、襄陽の牛が二つの頭に二つの目をもつ犢を産んだ。

地震

  • 洪武四年(1371年)正月己丒、鞏昌・臨洮・慶陽で地震。
  • 洪武五年(1372年)四月戊戌、梧州府の蒼梧・賀州・恭城・立山などで地震。六月癸卯、太原府陽曲縣で地震。七月辛亥にまた震え、壬戌には京師で風雨とともに地震。八月癸未、太原府徐溝縣の西北の空中に雷のような音がして、地震が三日続いた。戊戌、陽曲縣がまた震えた。九月壬戌、また二度震えた。十月戊寅・辛卯、ふたたび震えた。この年、陽曲では合わせて七度震え、六年から十四年までにさらに八度震えた。
  • 洪武八年(1375年)七月戊辰、京師で地震。十二月戊子にまた震えた。
  • 洪武十一年(1378年)四月乙巳、寧夏で地震、城壁が壊れた。
  • 洪武十三年(1380年)十二月甲戌、福州府・廣州府・河州で地震。
  • 洪武十九年(1386年)六月辛丑、雲南で地震。十一月己卯にふたたび震え、音があった。
  • 洪武二十三年(1390年)正月庚辰、山東で地震。
  • 建文元年(1399年)三月甲午、京師で地震し、直言を求めた。
  • 永樂元年(1403年)十一月甲午、北京で地震、山西・寧夏も震えた。
  • 永樂二年(1404年)十一月癸丒、京師・濟南・開封がともに震えて音があった。
  • 永樂六年(1408年)五月壬戌、および十一年(1413年)八月甲子、京師がふたたび震えた。
  • 永樂十三年(1415年)九月壬戌、十四年(1416年)九月癸卯、十八年(1420年)六月丙午、北京で地震。
  • 永樂二十二年(1424年)六月壬申、南京で地震。
  • 洪熙元年(1425年)二月戊午、六安衛で地震が七日続いた。この年、南京の地震は合わせて四十二回に及んだ。
  • 宣徳元年(1426年)七月癸巳、京師で地震があり、音は東南から西北へ向かった。この年、南京の地震は九回。
  • 宣徳二年(1427年)春、ふたたび十回震えた。
  • 宣徳三年(1428年)、またしばしば震えた。
  • 宣徳四年(1429年)、両京で地震。
  • 宣徳五年(1430年)正月壬子、南京で地震。辛酉にまた震えた。
  • 正統三年(1438年)三月己亥、京師で地震。庚子にまた震え、甲辰にはさらに二度震えた。
  • 正統四年(1439年)六月乙未、ふたたび震えた。八月己亥にまた震えた。
  • 正統五年(1440年)十月庚午朔、蘭州・莊浪で地震が十日続き、十月・十一月としばしば震えて城堡・家屋が壊れ、人畜が圧死した。
  • 正統十年(1445年)二月丁巳、京師で地震。
  • 景泰二年(1451年)七月癸丑、京師で地震。
  • 景泰三年(1452年)七月、永新の珠坑村で地が十七か所陥没した。この年、南京でも地震。
  • 景泰五年(1454年)十月庚子、京師で地震があり、音は西北から東南へ向かった。
  • 景泰六年(1455年)二月甲午、安福で大雷雨があり、白泉陂と羊塘で地が二か所陥没した。一つは深さ三丈・幅十餘丈、もう一つは深さ六尺・幅一丈餘であった。
  • 天順元年(1457年)十月乙巳、南京で地震。
  • 成化元年(1465年)四月甲申、鈞州で地震があり、二十三日でやんだ。
  • 成化三年(1467年)、四川の地震は合わせて三百七十五回。五月壬申、宣府・大同で地震があり音がした。威遠・朔州も震え、墩台・牆垣が壊れ人が傷ついた。
  • 成化四年(1468年)八月癸巳、京師で地震があり音がした。十二月戊戌、湖廣で地震。
  • 成化五年(1469年)十二月丙辰、汝寧・武昌・漢陽・岳州が同日に地震。
  • 成化六年(1470年)正月丁亥、河南で地震。この年、湖廣も震えた。
  • 成化十年(1474年)四月壬午、鶴慶で地震。九月己巳、寅から申まで十五度震え、役所・民家が壊れ人畜が傷ついた。十月丁酉、靈州の大沙井驛で地震があり雷のような音がして、以後昼夜しばしば震え、十一月甲寅には一日に十一度震えて、城の狭間や家屋が多く崩れた。
  • 成化十二年(1476年)正月辛亥、南京で地震。十月辛巳、京師で地震。
  • 成化十三年(1477年)正月己巳、鳳陽・臨淮で地震があり音がした。閏二月癸卯、臨洮・鞏昌で地震があり城に崩れた箇所があった。四月戊戌、甘肅で地が裂けまた震えて音がした。榆林・涼州も震え、寧夏は大震して音は雷のようで、城壁の崩壊は八十三か所に及んだ。甘州・鞏昌・榆林・涼州および沂州・郯城・滕縣・費縣・嶧縣なども同日にみな震えた。九月甲戌、京師で三度地震。
  • 成化十四年(1478年)六月、廣西太平府で地震があり、八月乙巳までに合わせて七度。七月、四川の鹽井衛で地が連続して震え、役所が倒壊し人畜が多く死んだ。
  • 成化十六年(1480年)八月丁巳、四川の越巂衛で一日に七度震え、数日後にまた連続して震えた。
  • 成化十七年(1481年)二月甲寅、南京・鳳陽・廬州・淮安・揚州・和州・兖州および河南の州縣が同日に地震。五月戊戌、直隸の薊州・遵化縣で地震。六月甲辰にまた震え、一日に三度、永平府および遼東の寧遠衛も三度震えた。
  • 成化二十年(1484年)正月庚寅、京師および永平・宣府・遼東がみな震えた。宣府では地が裂けて砂が湧き水が出た。天夀山・密雲・古北口・居庸關の城壁・墩堡が多く崩れ、圧死した者もあった。五月甲寅、代州で七度震えた。九月辛巳、費縣で地が深さ二尺・縦横三丈ばかり陥没した。
  • 成化二十一年(1485年)二月壬申、泰安で地震。三月壬午朔にふたたび震え、音は雷のようで泰山が揺れ動いた。四日後にまた微かに震え、癸巳・乙未・庚子と続けて震えた。閏四月癸未、鞏昌府・固原衛および蘭州・河州・洮州・岷州の四州がみな震えて音がした。癸巳、薊州・遵化縣で地震があり音がして、数日後にまた連続して震え、城壁・民家に崩れ倒れたものがあった。五月壬戌、京師で二度地震。九月丙辰、廉州・梧州で地震があり音がして、十六日間連続して震えた。十一月丙寅、京師で地震。
  • 成化二十二年(1486年)六月壬辰、漢中府および寧羌衛で地が裂け、あるものは十餘丈、あるものは六、七丈に及んだ。寶鷄縣では三里にわたり裂け、幅は一丈餘であった。九月辛亥、成都で一日に七、八度震え、いずれも音がして、翌日もまた震えた。
  • 𢎞治元年(1488年)八月壬寅、漢州・茂州で地震があり、黄頭などの寨の碉房三十七戸が倒れて圧死者が出た。戊申、宣府の葛峪堡で地が深さ三尺・長さ百五十歩・幅一丈にわたり陥没し、沙河の中に高さ一尺・長さ七十歩の畝が湧き上がった。十二月辛卯、四川で地震が三日続いた。
  • 𢎞治二年(1489年)五月庚申、成都で地震が三日続き、音がした。
  • 𢎞治三年(1490年)十二月己未、京師で二度地震。
  • 𢎞治四年(1491年)六月辛亥、ふたたび三度震えた。八月乙卯、南京で地震があり家屋がみな揺れ、淮安・揚州の二府も同日に震えた。
  • 𢎞治六年(1493年)三月、寧夏で地震があり、三年続けて合わせて二十度に及んだ。四月甲辰、開封・衛輝・東昌・兖州が同日に地震し音がした。
  • 𢎞治七年(1494年)二月丁丑、曲靖で地震があり家屋が壊れて軍民が圧死した。この年、両京はともに六度震えた。
  • 𢎞治八年(1495年)三月己亥、寧夏で十二度地震があり、音は雷のようで、辺牆・墩台・家屋が倒れ人が傷ついた。九月甲午から辛丑まで、安南衛で十二度震えた。十月壬戌から甲子まで、海州で九度震えた。この年、南京では二度震えた。
  • 𢎞治九年(1496年)、両京の地震はそれぞれ二回。
  • 𢎞治十年(1497年)正月戊午、京師と山西で地震。六月乙亥、海豐で地震があり音は雷のようで、数日でやんだ。この年、真定・寧夏・榆林・鎮番・靈州・太原がみな震え、屯留がとくに甚だしく、舟が転覆しようとするようで屋根瓦がみな落ちた。
  • 𢎞治十一年(1498年)六月丙子、桂林で地に雷のような音がして九か所が陥没した。大きいものは周囲十七丈、小さいものは七丈あるいは三丈であった。
  • 𢎞治十三年(1500年)七月己巳、京師で地震。十月戊申、両京と鳳陽が同時に地震。
  • 𢎞治十四年(1501年)正月庚戌朔、延安・慶陽の二府、同州・華州などの州、咸陽・長安などの縣、潼關の諸衛で連日地震があり、音は雷のようであった。朝邑がとくに甚だしく、十七日にわたり頻繁に震えて城壁・民家が多く崩れ、人畜の圧死が甚だ多く、縣の東では地が裂けて水が溢れ河となった。夏から冬までにさらに七度震えた。この日、陝州の永寧・盧氏の二縣、平陽府の安邑・榮河の二縣もみな震えて音がした。蒲州はこの日から戊午まで連続して震えた。丁丑、福州・興化・泉州・漳州の四府がみな震えた。二月乙未、蒲州がまた震え、三月癸亥までに合わせて二十九度震えた。八月癸丒、四川の可渡河巡檢司で地が裂けて陥没し、泉が数十筋湧き出て橋梁・莊舎を壊し、人畜の圧死が甚だ多かった。癸酉、貴州で三度震えた。十月辛酉、南京で地震。
  • 𢎞治十五年(1502年)九月丙戌、南京・徐州・大名・順徳・濟南・東昌・兖州が同日に地震し、城壁・民家が壊れた。濮州がとくに甚だしく、地が裂けて水が湧き百餘人が圧死した。この日、開封・彰徳・平陽・澤州・潞州も震えた。十月甲子、山西の應州・朔州・代州の三州、山陰・馬邑・陽曲などの縣がみな震え、音は雷のようであった。丁卯、南京で地震。
  • 𢎞治十六年(1503年)二月庚申、南京で地震。
  • 𢎞治十八年(1505年)六月癸亥、寧夏で地震があり音は雷のようで、城が傾き崩れた。九月癸巳、杭州・嘉興・紹興・寧波の四府で地震があり音がした。甲午、南京および蘇州・松江・常州・鎮江・淮安・揚州・寧國の七府、通州・和州の二州が同日に地震。辛丑、蒲州・解州の二州、絳縣・夏縣・平陸・榮河・聞喜・芮城・猗氏の七縣がみな震えて音がした。安邑・萬全がとくに甚だしく、圧死した民があった。
  • 正徳元年(1506年)二月癸酉から乙亥まで、郃陽で十餘度地震があり、音は雷のようであった。四月癸丑、雲南府で連日二度震え、木密關では雷のような地震が五度あって城壁・家屋が壊れ人が傷ついた。八月丁巳、莱州府の鰲山衛で地震があり音は雷のようで城の狭間が壊れ、以後しばしば震えた。莱州では九月から十二月までの地震が四十五回に及び、いずれも雷のような音がした。
  • 正徳二年(1507年)九月庚午、雲南府・安州・新興州で三日連続して震え、民家を揺さぶって死者が出た。
  • 正徳四年(1509年)三月甲寅、廣寧の大興堡で地が長さ四尺・幅三尺・深さ四丈餘にわたり陥没した。五月己亥の夜、武昌で電のような碧い光が六つ見え雷のような音がして、まもなく地震があった。
  • 正徳六年(1511年)四月乙未、楚雄で三日に五度震え、翌年五月にはまた十三日連続して震えた。十月甲辰、大理府の鄧川州・劍川州・洱海衛で地震があり、鶴慶・劍川がとくに甚だしく、城壁・役所が壊れ圧死した者が出た。十一月戊午、京師で地震があり、保定・河間の二府および八縣三衛、山東の武定州が同日にみな震え、霸州では三日続けて十九度震えた。
  • 正徳七年(1512年)五月壬子、楚雄府でこの日から甲子まで地が連続して震え、音は雷のようであった。八月己巳、騰衝衛で二日間地震があり、城樓・官民の役所が壊れ、赤い水が湧き出て田の禾がことごとく水没し、死傷が甚だ多かった。
  • 正徳八年(1513年)十二月戊戌、成都・重慶の二府、潼川・卭州の二州がみな震えた。
  • 正徳九年(1514年)六月甲辰、鳳陽府で地震があり音がした。八月乙巳、京師で大震。十月壬辰、叙州府、太原府の代州・平定・榆次など十州縣、大同府の應州および山陰・馬邑の二縣がみな地震し音がした。
  • 正徳十年(1515年)五月壬辰、雲南の趙州・永寧衛で地震があり、一か月を越えてもやまず、一日に二、三十度震えることもあった。黒い気が霧のように立ち、地が裂けて水が湧き、城壁・役所・民家の被害は数え切れず、死者は数千人、負傷者はその倍に上った。八月丁丑、大理府で地震があり、九月乙未にはまた四日間大震した。
  • 正徳十一年(1516年)八月戊辰、南京で地震、武昌府も震えた。十二月己未、楚雄・大理の二府、蒙化・景東の二衛がみな震えた。
  • 正徳十二年(1517年)四月甲子、撫州府および餘干・豐城の二縣、泉州府がみな地震。浙江の金鄉衛ではこの日から七月己丑まで合わせて十五度震えた。六月戊辰、雲南の新興州および通海・河西・嶍峨の諸縣で地震があり、城樓・家屋が壊れ圧死した者が出た。九月己卯、濟南・青州・登州・莱州の四府で地震。この年、泉州は二月から六月まで、金華は二月から七月まで、いずれも数度震えた。
  • 正徳十三年(1518年)六月己巳、大理府および趙州・鄧川州、浪穹縣で地震。この日、蒙化府も震えた。十月甲午、十一月癸卯にまた震えた。
  • 正徳十四年(1519年)二月丁丑、京師で地震。九月丙午、昌平州、宣府・開平などの衛も震えた。丙辰、福州・興化・泉州の三府で地震。
  • 正徳十五年(1520年)三月丙申、安寧・姚安・賓州・蒙化・鶴慶がみな地震。蒙化は二日震えて城壁・家屋が倒れ、圧死した民があった。八月辛酉、景東衛で地震があり音は雷のようで、城牆・役所が揺れ倒れ、地が多く裂けた。乙丒、濟南・東昌・開封で地震。
  • 嘉靖二年(1523年)正月、南京・鳳陽・山東・河南・陜西で地震。七月壬申、浙江の定海諸衛で地震があり、城の狭間がことごとく毀れた。
  • 嘉靖三年(1524年)正月丙寅朔、両畿・河南・山東・陜西が同時に地震。辛巳、蘇州・常州・鎮江の三府で地震。この年、南京では二度震えた。
  • 嘉靖四年(1525年)八月癸卯、徐州、鳳陽の一衛三州縣および懷慶・開封の二府がみな地震し、音は雷のようであった。九月壬申、鳳陽・徐州および開封の二縣がふたたび震えた。
  • 嘉靖五年(1526年)四月癸亥、永昌・騰衝・騰越が同日に地震。貴州の安南衛でも地震があり音は雷のようで城壁が壊れた。壬申にふたたび震えた。
  • 嘉靖六年(1527年)十月戊辰、京師で地震。
  • 嘉靖十二年(1533年)八月丁酉、京師で地震。
  • 嘉靖十五年(1536年)十月庚寅、京師で地震があり、順天・永平・保定・萬全都司の各衛所がみな震えて音は雷のようであった。
  • 嘉靖十六年(1537年)九月癸酉、雲南で地震。
  • 嘉靖十八年(1539年)七月庚寅、楚雄・臨安・廣西で地震。
  • 嘉靖十九年(1540年)四月庚午、洮州・甘肅がともに震えた。
  • 嘉靖二十一年(1542年)九月甲戌、平陽・固原・寧夏・洮州が同日に地震し音がした。十一月丁巳、鞏昌・固原・西安・鳳翔で地震。
  • 嘉靖二十二年(1543年)三月乙巳、太原で地震があり音がして、合わせて十日続いた。翌年三月も同様であった。四月庚辰、福州・興化・泉州・漳州の四府で地震。
  • 嘉靖二十三年(1544年)三月朔、太原で地震があり音がすること十日に及んだ。
  • 嘉靖二十七年(1548年)七月戊寅、京師で地震、順天・保定の二府がみな震えた。八月癸丑、京師がふたたび震え、登州府および廣寧衛も震えた。
  • 嘉靖三十年(1551年)九月乙未、京師で地震があり音がした。
  • 嘉靖三十一年(1552年)二月癸亥、鳳陽府で地震があり音がした。三月丙戌、山西で地震があり音がした。
  • 嘉靖三十四年(1555年)十二月壬寅、山西・陜西・河南が同時に地震し、音は雷のようであった。渭南・華州・朝邑・三原・蒲州などがとくに甚だしく、地が裂けて泉が湧きその中に魚がいたり、城郭・家屋が地中に陥没したり、平地が突如として山となったりした。一日に数度震えることもあり、連日震えてやまないこともあった。黄河と渭水が大氾濫し、華嶽と終南山が鳴り、河が数日澄んだ。官吏・軍民の圧死者は八十三萬餘に上った。
  • 嘉靖三十七年(1558年)正月庚申、陜西で地震。三月丁丑、昌平州で地震。五月丁卯、蒲州で三日連続して震え、音は雷のようであった。六月甲申にまた震えた。十月丙午、華州で地震があり音は雷のようで、壬子にまた震え、戊午にはふたたび大震して家屋の倒壊・陥没が甚だ多かった。
  • 嘉靖三十八年(1559年)七月辛巳、南京で地震があり音がした。
  • 嘉靖三十九年(1560年)四月、嘉興・湖州で地震があり、家屋が帆のように揺れ動き、河の水がぶつかり合って魚がみな躍り上がった。
  • 嘉靖四十年(1561年)二月戊戌、甘肅の山丹衛で地震があり音がして、城堡・家屋が壊れた。六月壬午、太原・大同・榆林で地震があり、寧夏・固原がとくに甚だしく、城壁・墩台・役所の建物がみな崩れ、地から黒黄色の砂と水が湧いて軍民の圧死は数え切れず、廣武・紅寺などの城が壊れた。
  • 嘉靖四十一年(1562年)正月丙申、京師で地震。この年、寧夏の地震で辺牆が崩れた。
  • 嘉靖四十五年(1566年)正月癸巳、福建の福州・興化・泉州の三府が同日に地震。
  • 隆慶二年(1568年)三月甲寅、陜西の慶陽・西安・漢中、寧夏、山西の蒲州・安邑、湖廣の鄖陽および河南の十五州縣が同日に地震。戊寅、京師で地震。この日、山東の登州、四川の順義などの縣が同日に震え、樂亭では三丈餘の地割れが二か所でき黒い砂水が湧き出し、寧遠の城が崩れた。四月癸未、懷慶・南陽・汝寧・寧夏が同日に地震。乙酉、鳳翔・平涼・西安・慶陽で地震があり、城が壊れ人が傷ついた。七月辛酉、陵川で地が三十餘歩にわたり裂けた。
  • 隆慶三年(1569年)十一月庚辰、京師で地震。
  • 隆慶四年(1570年)四月戊戌、京師で地震。
  • 隆慶五年(1571年)二月丙午、廣西の靖江王府および宗室の住まい、布政司の役所がみな陥没した。六月辛卯朔、京師で三度地震。
  • 萬厯元年(1573年)八月戊申、荆州で地震があり、丙寅にようやくやんだ。
  • 萬厯二年(1574年)二月癸亥、長汀で地震があり、裂けて坑となって民家が陥没した。
  • 萬厯三年(1575年)正月甲戌、湖廣・江西で地震。五月戊戌朔、襄陽・鄖陽および南陽府の属地で三日間地震があり、己亥には信陽も震えた。六月戊子、福州・汀州・漳州などの府および廣東の海陽縣がみな地震。九月戊午、京師で地震。十月丁卯にまた震えた。己卯、岷州衛で地震。己丑から壬午まで百餘度連続して震えた。
  • 萬厯四年(1576年)二月庚辰、薊州・遼東で地震、辛巳にまた震えた。
  • 萬厯五年(1577年)二月辛巳、騰越で二十餘度地震があり、翌日ふたたび震え、山が崩れ水が湧いて廟の廡や倉舎千餘間が壊れ、民家は十のうち七が崩れ、軍民の圧死が甚だ多かった。
  • 萬厯六年(1578年)二月辛卯、臨桂村の田の中から青い煙がまっすぐ立ち上り、続いて地が一丈餘裂けて轟々と鼓のような音がし、民家も大樹も石もみな陥没した。
  • 萬厯七年(1579年)七月戊午、京師で地震。
  • 萬厯八年(1580年)五月壬午、遵化で数度震え、七日でやんだ。七月甲午、井坪路で地が大震し、城壁数百丈が崩れた。
  • 萬厯九年(1581年)四月己酉、蔚州で地震があり音は雷のようで、家屋が震えて裂けた。大同の鎮堡と各州縣が同時に地震し音がした。
  • 萬厯十一年(1583年)二月戊子、承天府で地震。
  • 萬厯十二年(1584年)二月丁卯、京師で地震。五月甲午にまた震えた。
  • 萬厯十三年(1585年)二月丁未、淮安・揚州・廬州および上元・江寧・江浦・六合がみな地震し、江の波が沸き立った。三月戊寅、山西の山陰縣で地震があり、十五日でやんだ。八月己酉、京師で地震。
  • 萬厯十四年(1586年)四月癸酉、また震えた。
  • 萬厯十五年(1587年)三月壬辰、開封府の属地で三度地震があり、彰徳・衛輝・懷慶が同日に震えた。五月、山西で地震。
  • 萬厯十六年(1588年)六月庚申、京師で二度地震。
  • 萬厯十七年(1589年)七月己未、杭州・温州・紹興で地震。
  • 萬厯十八年(1590年)六月丙子、甘肅・臨洮で地震があり、城郭・家屋が壊れ人畜の圧死は数え切れなかった。八月、福建でしばしば地震。
  • 萬厯十九年(1591年)閏三月己巳、昌平州で地震。十月戊戌、山丹衛で地震があり城壁が壊れた。
  • 萬厯二十三年(1595年)五月丁酉、京師で地震。十二月癸亥、陕西で地震があり音は雷のようであった。
  • 萬厯二十四年(1596年)十一月、福建で地震。
  • 萬厯二十五年(1597年)正月壬辰朔、四川で三日間地震。八月己卯、遼陽・廣寧の諸衛で地震があり三日間水が湧いた。甲申、京師で地震、宣府・薊鎮などもみな震えた。十二月乙酉、京師で地震。
  • 萬厯二十六年(1598年)正月丁亥朔、寧夏で地震。翌日、長樂で地が五丈陥没した。八月丁丑、京師で地震があり音がした。
  • 萬厯二十七年(1599年)七月辛未、承天・沔陽・岳州で地震。
  • 萬厯二十八年(1600年)二月戊寅、京師で地震があり、艮の方角から西南へ進むことが二度あった。
  • 萬厯三十一年(1603年)四月丙午、承天府の鍾祥縣で地震があり、家屋が崩れ裂けた。五月戊寅、京師で地震。
  • 萬厯三十二年(1604年)閏九月庚辰、鞏昌および醴泉で一日に十餘度震え、城郭・民家がともに崩れた。白陽・呉泉の境では地が三丈裂け、黒い水が一丈餘に噴き上がった。
  • 萬厯三十三年(1605年)五月辛丒、陸川で地震があり音がして、城壁・役所が壊れ男女の圧死は数え切れなかった。六月庚午、靈川の社壇で音がして地が十餘丈にわたり深さ一丈餘陥没した。九月丙申、京師で二度地震があり、東北から西南へ向かって進んだ。
  • 萬厯三十四年(1606年)六月丙辰、陕西で地震。
  • 萬厯三十五年(1607年)七月乙卯、松潘・茂州・汶川で数日間地震。
  • 萬厯三十六年(1608年)二月戊辰、京師で地震。七月丁酉にまた震えた。
  • 萬厯三十七年(1609年)六月辛酉、甘肅で地震があり、紅崖・清水の諸堡で軍民八百四十餘人が圧死し、辺境の墩八百七十里が崩れ、東關の地が裂けた。
  • 萬厯四十年(1612年)二月乙亥、雲南の大理・武定・曲靖で大地震があり、翌日にもまた震え、緬甸も震えた。五月戊戌、雲南の大理・曲靖でふたたび大震し家屋が壊れた。
  • 萬厯四十二年(1614年)九月庚午、山西・河南で地震。
  • 萬厯四十三年(1615年)二月己卯、揚州で地震があり、狼山寺の殿が壊れ塔が傾いた。八月乙亥、楚雄で地震があり雷のような音に人民が驚いて死んだ。十月辛酉、京師で地震。
  • 萬厯四十五年(1617年)五月甲戌、鳳陽府で地震、乙亥にまた震えた。八月、濟南で地が二か所裂けた。
  • 萬厯四十六年(1618年)六月壬午、京師で地震。九月乙卯、京師で二度地震があり、畿輔・山西の十七州縣および紫荆關、馬水沿河の二口、偏頭關・神池が同日にみな震えた。
  • 萬厯四十八年(1620年)二月庚戌、雲南および肇慶・惠州・荆州・襄陽・承天・沔陽・京山がみな地震。
  • 天啓元年(1621年)四月癸丑、延綏の孤山城が三十五丈にわたり陥没し、地中に二丈七尺沈んだ。
  • 天啓二年(1622年)二月癸酉、濟南・東昌・河南・海寧で地震。三月癸卯、濟南・東昌の属縣八が三日連続して震え、民家の被害は数知れなかった。九月甲寅、平涼・隆徳の諸縣、鎮戎・平虜の諸所、馬剛・雙峰の諸堡で地震があり、地がひっくり返るようで城壁七千九百餘丈、家屋一萬一千八百餘区が壊れ、男女一萬二千餘人が圧死した。十一月癸卯、陕西で城が震えた。
  • 天啓三年(1623年)四月庚申朔、京師で地震。十月乙亥にふたたび震えた。閏十月乙卯、雲南で地震。十二月丁未、南畿の六府二州がみな地震し、揚州府がとくに甚だしかった。この月の戊戌、京師でまた地震があった。
  • 天啓四年(1624年)二月丁酉、蘇州・永平・山海でしばしば地震があり、城郭・家屋が壊れた。甲寅、樂亭で地が裂け黒い水が一尺餘湧き上がり、京師では地震で宮殿が揺れ動いて音がし、銅の缸の水が波立って震え動いた。三月丙辰・戊午にまた震え、庚申にはさらに三度震えた。六月丁亥、保定で地震があり城郭が壊れ人畜が傷ついた。八月己酉、陕西で地震。十二月癸卯、南京で地震。
  • 天啓六年(1626年)六月丙子、京師で地震。濟南・東昌および河南の一州六縣が同日に震えた。天津の三衛、宣府、大同はいずれも数十度震えて死傷が甚だ惨たらしく、山西の靈邱では昼夜に数度震えて一か月餘でようやくやみ、城郭・家屋がともに崩れて人民の圧死は数え切れなかった。七月辛未、河南で地震。九月甲戌、福建で地震。十二月戊辰、寧夏の石空寺堡で大地震があり、山の石が崩れ落ちて殿が倒れ、僧が圧死した。この年、南京でも地震があった。
  • 天啓七年(1627年)、寧夏の各衛・営・屯・堡で正月己巳から二月己亥まで合わせて百餘度震え、大きいものは雷のよう、小さいものは鼓のよう風のようで、城壁・家屋・辺牆・墩台がことごとく崩れた。十月癸丑、南京で地震があり、西北から東南へ隆々と音がした。
  • 崇禎元年(1628年)九月丁卯、京師で地震。
  • 崇禎三年(1630年)九月戊戌、南京で地震。
  • 崇禎四年(1631年)六月乙丑、臨洮・鞏昌で地震があり、家屋が壊れ民の家畜が損なわれた。
  • 崇禎五年(1632年)四月丁酉、南京・四川で地震。十月丁卯、山西で地震。十一月甲寅、雲南で地震。
  • 崇禎六年(1633年)正月丁巳、鎮江で地が数丈裂けた。七月戊戌、陕西で地震。
  • 崇禎八年(1635年)冬、山西で地震。
  • 崇禎九年(1636年)三月戊辰、福建で地震。七月丁未、清江の城が陥没した。
  • 崇禎十年(1637年)正月丙午、南京で地震。七月壬午、雲南で地震。十月乙卯、四川で地震。十二月、陕西の西安および海剌が同時に地震し、数か月やまなかった。
  • 崇禎十一年(1638年)九月壬戌、遼東で地震。
  • 崇禎十二年(1639年)二月癸巳、京師で地震。
  • 崇禎十三年(1640年)十一月戊子、南京で地震。
  • 崇禎十四年(1641年)三月戊寅、福建で地震。四月丙寅、湖廣で地震。五月戊子、甘肅で地震。六月丙午、福建で地震。九月甲午、四川で地震。
  • 崇禎十五年(1642年)五月丙戌、両廣で地震。七月甲申、山西で地震。
  • 崇禎十六年(1643年)九月、鳳陽でしばしば地震。十一月丙申、山東で地震。翌年正月庚寅朔、鳳陽で地震。乙卯、南京で地震。三月辛卯、廣東で地震。

山頺

  • 洪武六年(1373年)正月壬戌の夜、伏羌の高山が崩れた。
  • 正統八年(1443年)十一月、浙江紹興の山が平らな田に移った。この年、陕西の二か所で山崩れがあった。
  • 正統十三年(1448年)、陕西で夏秋に長雨があり、通渭・平涼・華亭の三縣で山が傾いて軍民八十餘人が圧死した。
  • 天順四年(1460年)十月、星子の山が裂けた。
  • 成化八年(1472年)七月、隴州の北山が三日吼え、裂けて溝となり長さ半里に及んだが、まもなくまた塞がった。
  • 成化十六年(1480年)四月壬子、巨津州の金沙江の岸の北にある白石雪山が一里ばかり断ち裂け、両岸の山が合わさった。山上の草木は元のままで、下は江の流れをふさぎ、禾も黍もことごとく水没した。長く経ってその下が次第に開き、水がようやく流れ出した。六月、長樂の平地に小さな丘が現れ、人畜が踏むとすぐに陥没した。翌年にはさらに高い山が一つ湧き出た。
  • 成化十七年(1481年)十二月辛丒、夀陽縣の城南の山が崩れ、音は牛の吼えるようであった。
  • 𢎞治三年(1490年)六月乙巳、河州で山が崩れ地が陥没した。
  • 𢎞治九年(1496年)六月庚寅、山陰・蕭山の二縣で同日に大雨があり山が崩れた。
  • 𢎞治十四年(1501年)閏七月、烏撒軍民府で大雨があり山が崩れた。
  • 𢎞治十五年(1502年)八月戊申、宣府の合河口で石の山が崩れた。
  • 𢎞治十八年(1505年)六月丙子、河州の沙子溝で夜に大雷雨があり、石の岸の山が崩れて七、八里移動した。崩れた箇所は裂けて溝となり、田も家も民も家畜もみな陥没した。
  • 正徳元年(1506年)十二月癸亥、即墨の三表山の石が崩れた。
  • 正徳四年(1509年)三月甲寅、遼東の東山の大家峪で山が二か所、およそ一丈餘崩れた。
  • 正徳五年(1510年)六月癸巳、秦州で山が崩れ、家屋と作物の被害が甚だ多かった。龍王溝口の山も崩れた。
  • 正徳六年(1511年)七月丙寅、夔州の獐子溪で驟雨があり山が崩れた。
  • 正徳十三年(1518年)五月癸亥、雲南の黒鹽井で山が崩れ井戸が塞がった。
  • 正徳十五年(1520年)八月丁丑、雲南の趙州で大雨があり山が崩れた。
  • 嘉靖四年(1525年)七月乙酉、清源の賈家山が崩れた。
  • 嘉靖五年(1526年)四月壬申、貴州の歹蘇屯で山が崩れた。
  • 嘉靖十九年(1540年)十二月己巳、峨眉の宋皇觀の山が鳴り震え裂けて、八日間泉水が湧いた。
  • 嘉靖二十一年(1542年)六月乙酉、歸州の沙子嶺で大雷雨があり、崖の石が崩れ裂けて江の流れを二里ばかり塞いだ。
  • 嘉靖二十六年(1547年)七月癸酉、澄城の麻陂山の界頭嶺が昼夜数日にわたって吼え、山が突然中ほどで断ち切れて東西に三里、南北に五里移動した。
  • 隆慶二年(1568年)五月庚戌、永寧州で山が崩れた。この年、樂亭で地が三か所裂け、いずれも黒い砂水が湧いた。
  • 隆慶四年(1570年)八月、湖州で山が崩れて湖となった。
  • 萬厯二十五年(1597年)六月、泰山が崩れた。
  • 萬厯二十七年(1599年)八月甲午、狄道の城東で山が崩れ、その下が衝かれて一本の溝となり、山の南の耕地から大小五つの山が湧き出て高さ二十餘丈に達した。
  • 萬厯三十三年(1605年)八月丙午、鎮江の西南の華山が二、三尺裂けた。
  • 萬厯三十七年(1609年)六月辛酉、甘肅の南山が崩れた。
  • 天啓三年(1623年)閏十月乙卯、仁夀の長山が雷のような音を震わせ、七里にわたり幅三尺で裂け、深さは測り知れなかった。
  • 崇禎九年(1636年)十二月、鎮江の金鷄嶺の土山が崩れた。その八年後、秦州に互いに遠く離れた二つの山があり、その間に数百萬家の民が住んでいたが、ある日地震で両山が合わさり、住民はみなその中に呑み込まれた。

雨毛・地生毛

  • 洪武十九年(1386年)九月丙子、天から絮が雨のように降った。
  • 宣徳元年(1426年)七月甲午、地に毛が生え、長さ一尺餘に及んだ。
  • 正統八年(1443年)、浙江で地に白い毛が生えた。
  • 成化十三年(1477年)四月、甘肅で地が裂け白い毛が生えた。
  • 成化十五年(1479年)五月、常州で地に白い毛が生えた。
  • 成化十七年(1481年)四月、南京で地に白い毛が生えた。
  • 𢎞治元年(1488年)五月丙寅、瀘州の長寧縣で毛が雨のように降った。
  • 正徳十二年(1517年)四月、金華で地に黒白の毛が生え、長さ一尺餘に及んだ。

年饑

  • 洪武二年(1369年)、湖廣・陕西が饑。
  • 洪武四年(1371年)、陕西が重ねて饑。
  • 洪武五年(1372年)、濟南・東昌・莱州が大饑となり、草の実も樹皮も食べ尽くされた。
  • 洪武六年(1373年)、蘇州・揚州・真定・延安が饑。
  • 洪武七年(1374年)、北平に属する州縣三十三が饑。
  • 洪武十五年(1382年)、河南が饑。
  • 洪武十九年(1386年)春、河南が饑。夏、青州が饑。
  • 洪武二十年(1387年)、山東の三府が饑。
  • 洪武二十三年(1390年)、湖廣の三府二州が饑。
  • 洪武二十四年(1391年)、山東および太原が饑。徐州・沛の民は草の実を食べた。
  • 洪武二十五年(1392年)、山東が重ねて饑。
  • 永樂元年(1403年)、北畿・山東・河南および鳳陽・淮安・徐州・上海が饑。
  • 永樂二年(1404年)、蘇州・松江・嘉興・湖州の四府が饑。
  • 永樂四年(1406年)、南畿・浙江・陕西・湖廣の府州縣衛十四が饑。
  • 永樂五年(1407年)、順天・保定・河間が饑。
  • 永樂十年(1412年)、山東が饑。
  • 永樂十二年(1414年)、直省の州縣二十四が饑。
  • 永樂十三年(1415年)、順天・青州・開封の三府が饑。
  • 永樂十四年(1416年)、平陽・大同の二府が饑。
  • 永樂十八年(1420年)、青州・莱州の二府が大饑。折しも皇太子が北京へ赴く途中で鄒縣を通り、急ぎ官の穀を出して賑給するよう命じた。
  • 洪熙元年(1425年)、北畿が饑。山東・河南・湖廣および南畿の州縣三十四が饑。
  • 宣徳元年(1426年)、直省の州縣二十九が饑。
  • 宣徳二年(1427年)、直省の縣十四が饑。
  • 宣徳三年(1428年)、直省の州縣十五が饑。
  • 宣徳六年(1431年)、直省の縣十が饑。
  • 宣徳八年(1433年)、水旱により饑を訴えた府州縣は七十六に上った。
  • 宣徳九年(1434年)、南畿・山東・浙江・陕西・山西・江西・四川が多く饑を訴え、湖廣がとくに甚だしかった。
  • 宣徳十年(1435年)、揚州・徐州・滁州・南昌が大饑。
  • 正統三年(1438年)春、平涼・鳳翔・西安・鞏昌・漢中・慶陽・兖州の七府および南畿の三州二縣、江西・浙江の六縣が饑。
  • 正統四年(1439年)、直省の州縣衛十八および山西の隰州、大同・宣府・偏頭などの關が饑。
  • 正統五年(1440年)、直省の十府一州二縣が饑。陕西が大饑。
  • 正統六年(1441年)、直省の州縣二十六が饑。
  • 正統八年(1443年)夏、湖南が饑。秋、應天・鎮江・常州の三府が饑。
  • 正統九年(1444年)春、蘇州府が饑。この年、雲南・陕西で食糧が欠乏した。
  • 正統十年(1445年)、陕西・山西が饑。
  • 正統十二年(1447年)夏、淮安・岳州・襄陽・荆州・彬州がいずれも重ねて饑。
  • 正統十三年(1448年)、寧波・紹興の二府および州縣七が饑。
  • 景泰元年(1450年)、大名・順徳・廣平・保定・處州・太原・大同の七府が饑。
  • 景泰二年(1451年)、大名・廣平がまた饑。順天・保定・西安・臨洮・太原・大同・解州が饑。
  • 景泰三年(1452年)、淮安・徐州が大饑となり、死者が折り重なった。
  • 景泰四年(1453年)、徐州が重ねて饑。河南・山東および鳳陽が饑。
  • 景泰五年(1454年)、両畿の十府が饑。
  • 景泰六年(1455年)春、両畿・山東・山西・浙江・江西・湖廣・雲南・貴州が饑。蘇州・松江がとくに甚だしかった。
  • 景泰七年(1456年)、北畿・山東・江西・雲南がまた饑。河南も饑。
  • 天順元年(1457年)、北畿・山東がともに饑。墓を暴き、道の木を伐ってほとんど尽くし、父子が食い合うことさえあった。
  • 天順二年(1458年)、長沙・辰州・永州・常徳・岳州の五府および銅鼓・五開の諸衛が饑。
  • 天順四年(1460年)、湖廣および鎮遠府、都匀・平越の諸衛が饑。
  • 天順六年(1462年)、陕西が饑。
  • 成化元年(1465年)、両畿・浙江・河南が饑。
  • 成化二年(1466年)、南畿が饑。
  • 成化四年(1468年)、両畿・湖廣・山東・河南で麥が実らず、鳳陽および陕西の寧夏・甘州・涼州が饑。
  • 成化五年(1469年)、陕西が重ねて饑。
  • 成化六年(1470年)、順天・河間・真定・保定の四府が饑で、草木を食べ尽くした。山西・両廣・雲南もともに饑。
  • 成化八年(1472年)、山東が饑。
  • 成化九年(1473年)、山東がまた大饑で、骸骨に残る肉もなかった。
  • 成化十三年(1477年)、南畿・山東が饑。
  • 成化十四年(1478年)、北畿・湖廣・河南・山東・陕西・山西が饑。
  • 成化十五年(1479年)、江西が饑。
  • 成化十六年(1480年)、北畿・山東・雲南が饑。
  • 成化十八年(1482年)、南畿・遼東が饑。
  • 成化十九年(1483年)、鳳陽・淮安・揚州の三府が饑。
  • 成化二十年(1484年)、陕西が饑で、行き倒れの死者が道に相次いだ。畿南および山西の平陽も饑。
  • 成化二十一年(1485年)、北畿・山東・河南が饑。
  • 成化二十三年(1487年)、陕西が大饑。武功では泊まり客を殺して食う民があった。淮北・山東も饑。
  • 𢎞治元年(1488年)、應天および浙江が饑。
  • 𢎞治六年(1493年)、山東が饑。
  • 𢎞治七年(1494年)、保定・真定・河間の三府が饑。
  • 𢎞治八年(1495年)、蘇州・松江・嘉興・湖州の四府が饑。
  • 𢎞治十四年(1501年)、順天・永平・河間・河南の四府が饑。遼東が大饑。
  • 𢎞治十五年(1502年)、遼東が重ねて饑。兖州が饑。
  • 𢎞治十六年(1503年)、浙江・山東および南畿の四府三州が饑。
  • 𢎞治十七年(1504年)、淮安・揚州・廬州・鳳陽が重ねて饑。人が食い合い、さらに埋葬された屍を掘り出して食いつないだ。
  • 𢎞治十八年(1505年)、延安の諸府が饑。
  • 正徳三年(1508年)、廬州・鳳陽・淮安・揚州の四府が饑。
  • 正徳四年(1509年)、蘇州・松江・常州・鎮江の四府が饑。
  • 正徳五年(1510年)、山東が饑。
  • 正徳七年(1512年)、嘉興・金華・温州・台州・寧波・紹興の六府で食糧が欠乏した。
  • 正徳八年(1513年)、河間・保定が饑。
  • 正徳九年(1514年)春、永平の諸府が饑で、民は草木を食べ尽くし、一家全員が死んだ例もあった。秋には關中・陕西も饑。
  • 正徳十一年(1516年)、順天・河間が饑。河南が大饑。
  • 正徳十二年(1517年)春、順天・保定・永平が饑。
  • 正徳十三年(1518年)、蘇州・松江・廬州・鳳陽・淮安・揚州の六府が饑。
  • 正徳十四年(1519年)冬、遼東が饑。南畿の淮安・揚州の諸府がとくに甚だしかった。
  • 正徳十六年(1521年)、遼東が饑。
  • 嘉靖二年(1523年)、應天および滁州が大饑。
  • 嘉靖三年(1524年)、湖廣・河南・大名・臨清が饑。南畿の諸郡は大饑で父子が食い合い、行き倒れの死者が相次いで臭気が千里に満ちた。
  • 嘉靖四年(1525年)、河間・瀋陽・大同の三衛が饑。
  • 嘉靖五年(1526年)、順天・保定・河間の三府が大饑。
  • 嘉靖六年(1527年)、遼東が大饑。
  • 嘉靖八年(1529年)、真定・廬州・鳳陽・淮安・揚州の五府、徐州・滁州・和州の三州および山東・河南・湖廣・山西・陕西・四川が饑。襄陽がとくに甚だしかった。
  • 嘉靖九年(1530年)、畿内・河南・湖廣・山東・山西が大饑。
  • 嘉靖十二年(1533年)、北畿・山東が饑。
  • 嘉靖十五年(1536年)、湖廣が大饑。
  • 嘉靖十七年(1538年)、北畿が饑。河南・鄖陽・襄陽の三府が饑。
  • 嘉靖二十年(1541年)、保定・遼東が饑。
  • 嘉靖二十一年(1542年)、順天・永平が饑。
  • 嘉靖二十四年(1545年)、また饑。南畿も饑。
  • 嘉靖二十五年(1546年)、順天が饑。江西も饑。
  • 嘉靖二十七年(1548年)、鞏昌・漢中が大饑。
  • 嘉靖三十一年(1552年)、宣府・大同の二鎮が大饑で、人が食い合った。
  • 嘉靖三十二年(1553年)、南畿・廬州・鳳陽・淮安・揚州・山東・河南・陕西がともに饑。
  • 嘉靖三十三年(1554年)、順天および榆林が饑。
  • 嘉靖三十六年(1557年)、遼東が大饑で、人が食い合った。
  • 嘉靖三十九年(1560年)、順天・永平が饑。
  • 嘉靖四十年(1561年)、両畿・山西が饑。
  • 嘉靖四十三年(1564年)、北畿・山東が大饑。
  • 嘉靖四十四年(1565年)、順天が饑。
  • 嘉靖四十五年(1566年)、淮安・徐州が饑。
  • 隆慶元年(1567年)、蘇州・松江の二府が大饑。
  • 隆慶二年(1568年)、湖廣が饑。
  • 萬厯元年(1573年)、淮安・鳳陽の二府が饑で、民の多くが盗賊となった。
  • 萬厯十年(1582年)、延安・慶陽・平涼・臨洮・鞏昌が大饑。
  • 萬厯十三年(1585年)、湖廣が饑。
  • 萬厯十五年(1587年)七月、黄河以北の民が草木を食べ、富平・蒲城・同官の諸縣では石を糧とする者もあった。
  • 萬厯十六年(1588年)、河南が饑で人が食い合った。蘇州・松江・湖州の三府が饑。
  • 萬厯二十二年(1594年)、河南が大饑。給事中の楊明が饑民の図を描いて進呈し、巡按の陳登雲が饑民の食べていた雁の糞を差し出したところ、帝はこれを見て顔色を動かした。
  • 萬厯二十八年(1600年)、山東および河間が饑。
  • 萬厯二十九年(1601年)、両畿が饑。阜平縣の饑えでは我が幼子を食う者があった。蘇州では饑民が税使七人を殴り殺した。
  • 萬厯三十七年(1609年)、山西が饑。
  • 萬厯四十年(1612年)、南畿が重ねて饑。鳳陽がとくに甚だしかった。
  • 萬厯四十三年(1615年)、浙江が饑。
  • 萬厯四十四年(1616年)、山東の饑えが甚だしく人が食い合った。河南および淮安・徐州も饑。
  • 萬厯四十五年(1617年)、北畿の民が草木を食べ、食を求めて逃げる者が道に相次いだ。山東の属邑も多く饑。
  • 萬厯四十六年(1618年)、陕西が饑。
  • 萬厯四十八年(1620年)、湖廣が大饑。
  • 崇禎元年(1628年)、陕西が饑で、延安・鞏昌の民が集まって盗賊となった。
  • 崇禎二年(1629年)、山西・陕西が饑。
  • 崇禎五年(1632年)、淮安・揚州の諸府が饑で、行き倒れの死者が道に満ちた。
  • 崇禎六年(1633年)、陕西・山西が大饑。淮安・揚州が重ねて饑で、夫婦で樹に首を吊ったり川に身を投げたりする者があり、鹽城の教官の王明佐は役所で自ら縊れた。
  • 崇禎七年(1634年)、京師が饑。御史の龔廷獻が饑民の図を描いて進呈した。太原が大饑で、人が食い合った。
  • 崇禎九年(1636年)、南陽が大饑で、我が娘を煮る母さえあった。江西も饑。
  • 崇禎十年(1637年)、浙江が大饑で、父子・兄弟・夫妻が食い合った。
  • 崇禎十二年(1639年)、両畿・山東・山西・陕西・江西が饑。河南は大饑で人が食い合い、盧氏・嵩縣・伊陽の三縣がとくに甚だしかった。
  • 崇禎十三年(1640年)、北畿・山東・河南・陕西・山西・浙江・三呉がみな饑。淮水以北から畿南に至るまで樹皮を食べ尽くし、埋葬された屍を掘り出して食べた。
  • 崇禎十四年(1641年)、南畿が饑。金壇の民が延慶寺に近い山で人に出会い、この地は一尺餘掘り下げるとその土が食べられると教えられた。言われた通りに取って淘い磨いて粉にし、粥にして食べたところ、取る者が日ごとに増えた。また長山十里でも食べられる土が出て、色は青白く茯苓に似ていた。石子澗の土は黄赤色で豚の肝のようで、俗に観音粉と呼ばれた。これを食べると多くは腹痛を起こして倒れ、ついに折り重なって死んだ。この年、畿南・山東が重ねて饑で、徳州では斗米が千錢し、父子が食い合い、旅人の往来が絶えて大盗が跋扈した。

黄眚黄祥

  • 正統十一年(1446年)二月辛酉、華蓋殿の金の頂および奉天殿の鴟吻の上に異様な気が現れた。
  • 成化九年(1473年)四月乙亥、両京で土が雨のように降った。
  • 成化十三年(1477年)四月戊戌、陕西・甘肅で氷の厚さが五尺に達し、間に砂が混じって青・紅・黄・黒の四色があった。
  • 𢎞治十年(1497年)三月己酉、土が雨のように降った。
  • 𢎞治十一年(1498年)四月辛巳、土が雨のように降った。
  • 𢎞治十七年(1504年)二月甲辰、鄖陽・均州で砂が雨のように降った。
  • 嘉靖元年(1522年)正月丁卯、黄色い砂が降った。
  • 嘉靖十三年(1534年)二月己未、細かい土が降った。
  • 嘉靖二十一年(1542年)、象山で黄色い霧が降り、通行人の口も耳もみな塞がった。
  • 隆慶元年(1567年)三月甲寅、南鄭で土が降った。
  • 萬厯二十五年(1597年)二月癸亥、湖州で黄色い砂が降った。
  • 萬厯四十六年(1618年)三月庚午、暮れ時に土が降り、霧のよう霰のようで、夜に入ってもやまなかった。
  • 萬厯四十七年(1619年)二月甲戌、未から酉にかけて塵と砂が天に満ち、その色は赤黄であった。
  • 萬厯四十八年(1620年)、山東の省城および泰安・肥城でみな土が降った。
  • 崇禎十二年(1639年)二月壬申、濬縣で黒黄の雲が起こってたちまち二つに分かれ、まもなく四方をふさいで狂風が大いに起こり、黄色い埃が天に満ち、間に青白い気が混じって、五歩の外では人影も見分けられず、日暮れにようやく収まった。
  • 崇禎十四年(1641年)正月壬寅、黄色い埃が天に満ちた。