明史卷二十九 志第五 五行二
火の総説
- 洪範に「火は炎上」とあり、火が炎上しないのはその性を失った状態である。従来の史書では、恒燠(異常な暖気)・草異・羽蟲の孽・羊禍・火災・火異・赤眚赤祥をいずれも火に属させてきた。本志もそれに従う。
恒燠
- 洪熙元年(1425年)正月癸未、京師で一冬を通して雪が降らなかったため、詔を下して修省を諭した。
- 正統九年(1444年)冬、畿内・畿外ともに雪が降らなかった。
- 正統十二年(1447年)冬、陝西に雪がなかった。
- 景泰六年(1455年)冬、雪がなかった。
- 天順元年(1457年)冬、宮中で雪を祈った。この年、直隸・山西・河南・山東はいずれも無雪。
- 天順二年(1458年)冬、百官に祈雪を命じた。
- 天順六年(1462年)冬、直隸・山東・河南はいずれも無雪。
- 成化元年(1465年)冬、雪がなかった。
- 成化五年(1469年)冬、暖かさが夏のようであった。
- 成化六年(1470年)二月壬申、冬から春にかけて雨も雪も降らないため、群臣に敕を下し、自ら山川壇に赴いて祈祷させた。
- 成化十年(1474年)二月、南京と山東が、冬春を通じての恒燠で雪も氷もない旨を奏上した。
- 成化十一年(1475年)冬、無雪のため祈祷した。
- 成化十五年(1479年)冬、直隸・山東・河南・山西に雪がなかった。
- 成化十九年(1483年)冬、京師と直隸に雪がなかった。
- 𢎞治九年(1496年)冬、雪がなかった。
- 𢎞治十五年(1502年)冬、雪がなかった。
- 𢎞治十八年(1505年)冬、春のように温暖で雪がなかった。
- 正徳元年(1506年)冬、雪がなかった。永嘉では冬から春にかけて麥が穂を出し、桃李が実を結んだ。
- 正徳三年(1508年)冬、雪がなかった。
- 正徳六年から九年(1511-1514年)まで、連年雪がなかった。
- 正徳十一年(1516年)冬、雪がなかった。
- 嘉靖十四年(1535年)、冬が深まっても雪がなく、官を遣わして諸神をあまねく祭った。
- 嘉靖十九年(1540年)冬、雪がなかった。
- 嘉靖二十年(1541年)十二月癸卯、神祗壇で祈雪した。
- 嘉靖二十四年(1545年)十二月甲午、諸臣に手分けして宮廟に告げ、祈雪させた。
- 嘉靖三十二年(1553年)冬、雪がなかった。
- 嘉靖三十三年(1554年)十二月壬申、災異がしばしば現れたため、祈雪の日を初めとして百官は青衣で政務を執ることとした。
- 嘉靖三十六年(1557年)冬、雪がなかった。
- 嘉靖三十九年(1560年)冬、雪がなかった。翌年もまた雪がなく、帝が自ら祈ろうとしたところ大風に遭い、急ぎ祈雪するとともに風の変異も禳うよう命じた。
- 嘉靖四十一年から四十五年(1562-1566年)まで、冬の祈雪は一年も欠けることがなかった。
- 隆慶元年(1567年)冬、雪がなかった。
- 隆慶四年(1570年)冬、雪がなかった。
- 萬厯四年(1576年)十二月己丑、禮部に祈雪を命じた。十六年(1588年)・十七年(1589年)・二十九年(1601年)・三十七年(1609年)・四十七年(1619年)も同様であった。
- 崇禎五年(1632年)十二月癸酉、順天府に祈雪を命じた。
- 崇禎六年(1633年)冬、雪がなかった。
草異
- 永樂十六年(1418年)正月乙丑、同州・澄城・郃陽・朝邑で穀と蕎麥が雨のように降った。
- 正統八年(1443年)十一月、殿上に荆棘が生え、高さ二尺に及んだ。
- 正統十四年(1449年)、廣州の獄の竹の牀が年を越して突然青くなり、葉を生じた。
- 成化六年(1470年)二月戊寅、湖廣の應山で粟が雨のように降った。
- 𢎞治八年(1495年)二月、枯れた竹が花を咲かせ、麥米のような実をつけた。苦蕒が蓮の花を咲かせた。六月甲子には黟縣で豆が降ったが、味は食べられたものではなかった。
- 𢎞治九年(1496年)、黄州の民家で瓜が斗ほどの大きさになり、その瓤はすべて赤い血のようであった。
- 萬厯四十三年(1615年)四月戊寅、石首で豆が降った。大小まちまちで、色は紅と黒が入り混じっていた。
- 崇禎四年・五年(1631-1632年)、河南で草が人馬の形に生え、甲を着け矛を持って馳せ戦うかのようであった。
- 崇禎十三年(1640年)、徐州の田中の白豆が多く人の顔の形を成し、眉も目もはっきりしていた。
羽蟲の孽
- 萬厯二十五年(1597年)二月壬午、岳州の民家で鴨が綿に包んだ火をくわえて屋根に飛び上がり、竹の垂木や茅の□(底本欠字)の中に入ったため、火が四方に起こり数百家を焼いた。
- 萬厯四十三年(1615年)四月壬午、二羽の鶴が火をくわえて掖縣の海神廟の殿に飛び集まり、翌日その廟が焼けた。
- 崇禎六年(1633年)、汝寧に鳩の体・猴の足をもつ鳥が現れた。鳳陽では兎の頭・雞の体・鼠の足をした悪鳥が数萬羽現れ、饌に供すると甚だ肥えていたが、その骨に触れた者はたちどころに死んだ。
羊禍
- 萬厯三十八年(1610年)四月、崞縣の民家の羊が、一つの頭に二つの眼、四つの耳、二つの尾、八本の足をもつ羔を産んだ。
- 萬厯三十九年(1611年)四月、降夷部で人の顔に羊の身をもつ羔が生まれた。
火災
- 洪武元年(1368年)閏七月丁酉、京師で火が出て永濟倉に延焼した。
- 洪武三年(1370年)二月己巳、大河衛の火が廣積庫に及んだ。七月乙未、寳源局が焼けた。同月甲子、鳳臺門の軍營から出火し、武徳衛の軍器局に延焼した。
- 洪武四年(1371年)十一月癸亥、京師の大軍倉が焼けた。
- 洪武五年(1372年)二月癸未、臨濠府で火が出た。壬辰から甲午にかけて京師で火があり、龍驤など六衛の軍民の住居を焼いた。七月丁卯、永清衛の軍器庫が焼けた。十二月丙戌、京師の定遠など諸衛が焼け、軍器局の兵仗にも及んだ。
- 洪武十七年(1384年)十二月己未、潮州で火があり、官廨・民舎・倉廩・兵仗・図籍が焼き尽くされて何も残らなかった。
- 洪武二十一年(1388年)二月戊辰、厯代帝王廟が焼け、上元縣の役所も罹災した。甲戌には天界・能仁の二寺が焼けた。
- 洪武二十九年(1396年)二月辛丑、通州で火があり、家屋千九百餘戸を焼いた。
- 洪武三十年(1397年)四月甲午、廣南衛で火が出て城樓および衛の役所・倉庫に延焼した。
- 建文二年(1400年)八月癸巳、承天門が焼けた。
- 永樂四年(1406年)十二月辛亥、甌寧王の邸宅が焼け、王が薨じた。
- 永樂十三年(1415年)正月壬子、北京の午門が焼けた。
- 永樂十九年(1421年)四月庚子、奉天・謹身・華蓋の三殿が焼けた。
- 永樂二十年(1422年)閏十二月戊寅、乾清宮が焼けた。
- 宣徳三年(1428年)三月己亥、東嶽泰山廟が焼けた。
- 宣徳六年(1431年)八月、武昌で火があり楚王宮に延焼して、譜系も敕符もともに焼失した。甲辰、天津右衛の北の城外の火が、飛び火となって城内に入り倉の穀を焼いた。
- 宣徳九年(1434年)二月庚午、京城の東南樓が焼けた。
- 正統二年(1437年)二月、西鎮の呉山廟が焼けた。
- 正統三年(1438年)八月辛酉、順天貢院が焼け、受験用の席舎が多く焼けたため期日を改めて再試を行った。十二月乙亥、韓府の承運殿が焼けた。
- 正統四年(1439年)三月戊午、代府の寢殿が焼けた。
- 正統七年(1442年)正月、廣昌の木材置場が焼け、松材八千八百餘株を失った。戊午、南京の内府が焼け、廊房六十餘間と図籍・器物・守衛の衣甲がすべて失われた。三月辛未、趙城の媧皇寢廟が焼けた。
- 正統十年(1445年)正月庚寅、忠義前衛・後衛の二衛が焼けた。この時期、太倉がしばしば火を出したため、官を遣わして火龍と太歳を祭り禳わせた。五月甲申、忠義後衛の倉がまた焼けた。癸巳、通州右衛の倉が焼けた。十一月丁酉、御花房が焼けた。
- 正統十一年(1446年)秋、武昌で火があり死者数百人を出した。十二月乙未、周府が焼けた。
- 正統十二年(1447年)六月、南京の山川壇が焼けた。
- 正統十三年(1448年)二月癸酉、忠義前衛の倉が焼けた。
- 正統十四年(1449年)六月丙辰の夜、南京の謹身・奉天・華蓋の三殿が焼けた。
- 景泰二年(1451年)六月丙子、青州の廃された齊府が焼けた。
- 景泰三年(1452年)八月戊寅、秦府が焼けた。
- 景泰五年(1454年)春、南京で火があり数千家に延焼した。
- 景泰七年(1456年)九月壬申、寧府が焼け、八百餘家に延焼した。
- 天順元年(1457年)七月丙寅の夜、承天門が焼けた。
- 天順二年(1458年)五月戊子、器皿厰が焼けた。
- 天順三年(1459年)九月庚寅、肅州の城中で火があり五千四百餘家に延焼、死者六十餘人を出した。
- 天順四年(1460年)八月己巳、光禄寺の大烹内門が焼けた。この年、楚府はたびたび火を出し、宮殿も家廟もことごとく焼失した。
- 天順五年(1461年)三月丁卯、南京の朝天宮が焼けた。
- 天順六年(1462年)六月癸未、楚府が焼けた。
- 天順七年(1463年)正月丁酉、南京西安門の木材置場が焼け、皇城の牆に延焼した。二月戊辰、天下の挙人の会試中に貢院から火が出たが、御史の焦顯がその門を閉ざしたため、挙子九十餘人が焼け死んだ。
- 成化二年(1466年)九月癸未、南京の御用監が焼けた。
- 成化六年(1470年)十一月己亥、江浦で火があり二百六十餘家に延焼した。
- 成化九年(1473年)七月庚戌、東直門が焼けた。
- 成化十一年(1475年)四月壬辰の夜、乾清宮の門が焼けた。
- 成化十三年(1477年)十一月壬辰、太倉の米麥が長年の蒸れと湿りで自然発火し、百餘石を焼いた。
- 成化十八年(1482年)八月丙午、合州で火があり千五百餘家に延焼した。乙卯、楚府が焼け、火は都合三度発した。十一月戊午、南京の國子監が焼けた。十二月乙卯、器皿厰が焼けた。壬辰、寧河王府が焼けた。これに先立ち妖しいものが夜な夜な現れ、あるときは神、あるときは王侯の姿となり、時に火を掲げて焼こうとする素振りを見せていた。この夜、邸宅は残らず焼け、冠服も器物もすべて失われた。
- 成化二十年(1484年)正月戊戌、欽天監が焼けた。
- 成化二十二年(1486年)六月、臨海縣が罹災し千七百餘家に延焼した。
- 𢎞治元年(1488年)三月庚寅、南京の内花園が焼けた。十一月丁丑の夜、南京の甲字庫が焼けた。
- 𢎞治二年(1489年)四月乙未、南京の神樂觀が焼けた。
- 𢎞治四年(1491年)二月戊午、禮部の官舎が焼けた。
- 𢎞治六年(1493年)四月甲寅、刑部の官舍が焼けた。辛酉の夜、南京の旧内裏が焼けた。
- 𢎞治八年(1495年)三月戊子、鎮東など諸堡で斗ほどの火の玉が躍り、官民の倉庫を焼いて人馬が多く斃れた。
- 𢎞治十一年(1498年)、春から夏にかけて貴州で大火があり、官民の家屋千八百餘所を焼き、死傷者六千餘人を出した。十月甲戌の夜、清寧宮が焼けた。
- 𢎞治十二年(1499年)六月甲辰の夜、闕里の聖廟が焼けた。十二月、建陽縣の書坊が焼け、古今の版木がすべて灰になった。
- 𢎞治十三年(1500年)二月乙酉、禮部の官舎が焼けた。七月甲寅、南城縣の空中に火が現れ、分かれては合わさり、流れる光が十餘丈下方へ墜ち、かすかな音とともに軍民の住居を焼いた。庚申、永寧衛の雁尾山から居庸關の石縦山まで、東西四十餘里・南北七十餘里にわたり七昼夜燃え続けた。閏七月辛巳、福州の城樓が焼失した。八月己未、瀋府が焼けた。十一月庚辰、寧河府が焼けた。
- 𢎞治十六年(1503年)三月庚午、遼東の鐡嶺衛に斗ほどの火が墜ちた。丙子、火が起こって家屋二千五百餘間を焼き、死者百餘人を出した。四月戊午、寛河衛の倉が焼け、米豆四萬餘石を失った。九月戊寅、廣寧衛の城中で火があり三百餘家を焼いた。
- 𢎞治十七年(1504年)四月丁巳、淮安で火があり五百餘家を焼いた。五月癸巳、正陽門内の西廊が焼け、武功坊を焼いた。
- 正徳元年(1506年)二月庚寅、鄖陽で火があり譙樓と官舍を焼き、百餘家に延焼した。この年、寧夏左屯衛で紅い気が天に亘り、まもなく火が起こって城樓・臺堡がことごとく失われた。六月庚寅、大同の平虜城が罹災し藁百萬餘を焼いた。十一月己亥、臨海縣の役所が焼け、数千家に延焼した。
- 正徳七年(1512年)三月己未、嶧縣で斗ほどの火が空から隕ち、大風がこれに伴って官民の家屋千餘間を焼き、火は城外へ逸れて丘の木にまで及んだ。庚申、成山衛が皇廟の火を奏上した。建物はことごとく焼けたが、像や設えは元のまま残った。この月、文登の大きな桑の木が燃えたが、幹が焼けても枝葉は傷まなかった。五月癸酉から閏五月丙子にかけて、遼東の懿路城で火が三度起こり、官民の住居の半分を焼いた。九月壬午、玉山で火があり學舍と民家三百餘戸を焼いた。
- 正徳八年(1513年)六月辛酉、豐城縣の西南に盆や斗ほどの火の玉が続けて隕ち、まもなく火が起きて七月初めにようやく鎮まった。二萬餘家を焼いた。七月戊子、火が龍泉縣の役所に隕ち四千餘家を焼いた。十月壬寅、饒州および永豐・浮梁で火があり、それぞれ五百餘家を焼き、梁橋の學舍も罹災した。庚申、臨江で火があり官舍を焼いて八百餘家に延焼した。
- 正徳九年(1514年)正月庚辰、乾清宮が焼けた。
- 正徳十一年(1516年)八月丁丑、黔陽で火があり城樓・官廨を焼いて七百餘家に延焼した。
- 正徳十二年(1517年)正月甲辰、清寧宮の小房が焼けた。四月、裕陵の神宮監が焼けた。八月丁卯、南昌で火があり三百家を焼いた。九月壬午、建安で火があり二百五十餘家を焼いた。
- 正徳十三年(1518年)二月己卯、夷陵で火があり七百餘家を焼いた。八月庚辰、獻陵の明樓が焼けた。丁酉、延平で火があり五百餘家を焼いた。
- 正徳十四年(1519年)四月乙巳、淮安の新城が焼けた。七月丙辰、奉寧で火があり五千餘家を焼いた。
- 正徳十五年(1520年)五月辛卯、静樂で火があり八百餘家を焼いた。
- 嘉靖元年(1522年)正月己未、清寧宮の後ろの三つの小宮が焼けた。楊廷和はこれを礼を廃したことの応であると述べたが、返答はなかった。二月己丑、南京の針線厰が焼けた。己亥、通州の城樓が焼けた。
- 嘉靖二年(1523年)五月丙子、榮府が焼けた。九月戊辰、秦府の宮殿が焼けた。
- 嘉靖四年(1525年)三月壬午の夜、仁夀宮が焼け、玉徳・安喜・景福の諸殿もことごとく灰になった。
- 嘉靖五年(1526年)三月乙酉、趙府の家廟が焼けた。
- 嘉靖六年(1527年)三月丁亥、西庫が焼けた。
- 嘉靖八年(1529年)十月癸未、大内の所房が焼けた。
- 嘉靖十年(1531年)正月辛亥、大内の東側が焼けた。四月庚辰、兵部・工部の役所が焼け、文書類を失った。
- 嘉靖十三年(1534年)六月甲子、南京の太廟が焼け、前殿・後殿、東廡・西廡、神厨・庫を焼いた。
- 嘉靖十五年(1536年)四月癸卯、山西の平虜衛が焼け、神機官庫の武器がことごとく失われた。
- 嘉靖十八年(1539年)二月乙丑、趙州および臨洺鎮の行宮がともに焼けた。丁卯、帝が磁州の行宮に行幸した折、四更に火が出て、陸炳が帝を背負って脱出した。後宮や内侍には火中に落命した者もあった。六月丁酉、皇城北の鼓樓が焼けた。
- 嘉靖二十年(1541年)四月辛酉の夜、宗廟が焼け、成・仁二廟の神主を焼失した。
- 嘉靖二十五年(1546年)五月壬申、盔甲厰が焼けた。
- 嘉靖二十六年(1547年)十一月壬午、宮中で火があり、楊爵を獄から釈放した。
- 嘉靖三十一年(1552年)八月乙丑、南京の試院が焼けた。
- 嘉靖三十五年(1556年)九月戊辰、杭州で大火があり数千家に延焼した。
- 嘉靖三十六年(1557年)四月丙申、奉天・華蓋・謹身の三殿、文樓・武樓の二楼、午門、奉天門がいずれも焼けた。
- 嘉靖三十七年(1558年)正月、光禄寺が焼けた。
- 嘉靖三十八年(1559年)正月癸未、前軍都督府が焼けた。
- 嘉靖四十年(1561年)十一月辛亥の夜、萬夀宮が焼けた。
- 嘉靖四十四年(1565年)己亥の夜、大明門内の西の千步廊が焼けた。
- 隆慶二年(1568年)正月、浙江の省城外が罹災し、家屋や船舶を千を数えるほど焼いた。三月乙亥、乾清宮と坤寧宮の両宮が一時に焼け落ちた。
- 隆慶五年(1571年)二月壬子、南京の廣・惠の二倉が焼けた。
- 萬厯元年(1573年)十一月己亥、慈寧宮の後ろの建物が焼けた。
- 萬厯三年(1575年)四月甲戌、工部の後厰が焼けた。
- 萬厯五年(1577年)十月丙申、禁中で火があった。十一月癸未、宗人府が焼けた。
- 萬厯十一年(1583年)十二月庚午の夜、慈寧宮が焼けた。
- 萬厯十二年(1584年)二月己酉、無逸殿が焼けた。十二月癸卯朔、再び焼けた。
- 萬厯十五年(1587年)五月甲子、司設監が焼けた。
- 萬厯十八年(1590年)三月辛酉、遼東の寨山兒堡が焼け、城堡と器械を焼いて九十餘人が負傷した。
- 萬厯十九年(1591年)十二月甲辰、萬法寳殿が焼けた。
- 萬厯二十一年(1593年)六月の望、太倉の役所の後楼で砲声のような音がして、火薬と器械がすべて焼失した。
- 萬厯二十二年(1594年)五月壬寅、天火が鐡嶺衛の千餘家を焼いた。
- 萬厯二十四年(1596年)二月甲寅、潞府の門が焼けた。三月乙亥、坤寧宮から出火して乾清宮に及び、ともに焼け落ちた。
- 萬厯二十五年(1597年)二月壬午、杭州で火があり官民の家屋千三百餘間を焼いた。丙戌、馬湖の平山が罹災し八百餘家に延焼、二十四人が死んだ(底本は「薨二十四人」とする)。三月癸卯、泗州で大火があり民家四千餘戸を焼いた。盱眙でも火があり民家百六十餘間を焼いたので、漕糧二萬石を割いて救済した。六月戊寅、三殿が焼けた。火は歸極門から起こり、皇極などの諸殿、文昭・武成の二閣、周囲の廊房までが一時に灰になった。十二月甲寅、吏部文選司の役所が焼けた。
- 萬厯二十七年(1599年)十一月壬申、内府で火があり、尚寳司・印綬監・工部の廊に延焼し、銀作局の山牆のところで止まった。
- 萬厯二十八年(1600年)三月、南陽で火があり唐府に延焼した。
- 萬厯二十九年(1601年)正月己巳、鐡嶺衛が焼け、車輛と火薬をともに失った。八月己卯、大光明の東配殿が焼けた。
- 萬厯三十年(1602年)二月乙酉、魏國公に賜った邸宅が焼けた。十月丙申、孝陵が罹災した。十二月庚子、南海普陀山の寺が罹災した。
- 萬厯三十一年(1603年)九月戊寅、通州の漕船が焼けた。
- 萬厯三十三年(1605年)二月乙丑、御馬監が焼けた。五月辛巳、洗白厰が焼けた。九月甲午、昭和殿が焼けた。丙申、官軍が盔甲厰で火薬を受け取った際、年を経た火薬が石のように固まっていたため斧で割ったところ突然発火し、その音は雷鳴のようで、刀・鎗・火箭が百歩の外まで飛び散り、軍民の死者は数え切れなかった。十一月丁卯、刑部の提牢廳が焼けた。
- 萬厯三十五年(1607年)二月乙卯、易州の神器庫が焼けた。四月丁酉、通州の西倉が焼けた。十月己卯、南京の行人司の役所が焼失した。
- 萬厯三十七年(1609年)正月庚子、慶府が焼け、寢宮と蔵を焼いた。三月丙戌、武昌で火があり、二日おいてまた火が出て、あわせて二百六十餘家を焼いた。六月、慶府が罹災した。十月戊午、朝日壇が焼けた。
- 萬厯三十八年(1610年)四月丁丑の夜、正陽門の箭樓が焼けた。
- 萬厯三十九年(1611年)四月戊子、怡神殿が焼けた。
- 萬厯四十一年(1613年)五月壬午、蜀府が罹災し門と殿が灰になった。
- 萬厯四十三年(1615年)四月壬午、黄花鎮の栁溝で火があり数十里に延焼した。甲午、蜀府の殿庭が罹災した。遼東の長寧堡では二月から五月までに火が五度起こり、家屋と人畜の損害は数え切れなかった。閏八月辛亥、通州の糧船が焼けた。九月丁丑、湖口の税関の役所が焼失した。
- 萬厯四十四年(1616年)十一月己巳、隆徳殿が焼けた。丁亥、南城の延喜宮が焼けた。
- 萬厯四十五年(1617年)正月壬午、東朝房が焼け、公生門に延焼した。十一月丙戌、宣禧宮が焼けた。
- 萬厯四十六年(1618年)閏四月丁丑の夜、開原の殷家莊堡の台と杆八基が同時に焼失した。甲申、煖閣厰の膳房が焼けた。九月壬子、茂陵が焼けた。
- 萬厯四十七年(1619年)四月癸酉、盔甲厰が焼けた。
- 泰昌元年(1620年)十月丁卯、噦鸞宮が焼けた。
- 天啟元年(1621年)閏二月丙戌、昭和殿が焼けた。三月甲辰、杭州で火があり六千餘家に延焼した。七月戊子、再び罹災し、城の内外に延焼して一萬餘家を焼いた。
- 天啟二年(1622年)五月丙申、旗纛廟の正殿が罹災し、火薬が焼けて職人・人夫に死者が多く出た。
- 天啟三年(1623年)七月辛卯、南京の大内の左側の宮が罹災した。
- 天啟六年(1626年)五月戊申、王恭厰が罹災した。地中から雷のような音が絶えず、火薬が自然に発火し、煙塵が空を覆って白昼も四五里にわたって暗くなった。五月癸亥、朝天宮が罹災した。七月庚寅、登州の城樓が焼けた。
- 天啟七年(1627年)十月庚子、寧遠の前屯で火があり、男女二百餘人が負傷した。
- 崇禎元年(1628年)四月乙卯、左軍都督府が罹災した。五月乙亥、鷹坊司が焼けた。丁亥、丁字庫が焼けた。七月己卯、公安縣で火があり文廟を焼き、五千餘家に延焼した。
- 崇禎二年(1629年)十一月庚子、火薬局が罹災した。
- 崇禎三年(1630年)三月戊戌、また罹災した。八月癸酉、頭道關が罹災し、火器が轟音とともに爆発して残るものがなかった。
- 崇禎六年(1633年)正月癸丑、濟南の舜廟が罹災した。
- 崇禎七年(1634年)九月庚申、盔甲厰が罹災した。
- 崇禎十一年(1638年)四月戊戌、新しい火薬局が罹災し、死傷者が甚だ多かった。六月癸巳、安民厰が罹災し、城壁や役所を震え崩し、住民の死傷は数え切れなかった。八月丁酉、火薬局がまた罹災した。
火異
- 成化二十一年(1485年)正月甲申朔、火の光が中天からやや西寄りに落ち、下って白い気に変わり、さらに曲折しながら上へ昇った。その音は雷のようであった。
- 𢎞治三年(1490年)三月庚午、儀隴の空中に紅白の火炎が現れ、長さ三丈餘、縣の役所の東北から真東へ六十餘里流れて墜ち、音は雷のように轟いた。
- 𢎞治八年(1495年)三月辛卯、廣寧右衛の台の杆が燃えた。火の高さは五寸だったが杆は元のままであった。
- 𢎞治十年(1497年)四月辛丑、阜平に長さ八九尺、太さは轆轤の軸ほどの火光が現れ、音を立てて東南から西南へ流れて墜ちた。
- 正徳元年(1506年)三月戊申の夜、太原に斗ほどの大きさの火が現れ、寧化王の殿前に墜ちた。廣寧の墪台では旗竿に火が発すること六、七度に及んだ。七月壬戌の夜、即墨の民家に火光が墜ち、緑色の石に変わった。丸くて高さ一尺餘であった。
- 正徳七年(1512年)三月丁卯の夜、大風と雷電のなか、餘干の仙居寨に矢のような光が旗竿の上に墜ち、たちまち燭龍の光のように四野を照らした。士卒が旗を揺すると火は竿の先へ飛び上がり、やがて四方に散って、鎗の先がみな星のように光った。
- 正徳十二年(1517年)五月己亥の夜、都察院の獄に火が隕ち、長く旋回してからようやく消えた。
- 正徳十五年(1520年)六月癸未の夜、台州に盤ほどの大きさの火が三つ隕ち、触れた草木はみな焦げた。
- 嘉靖五年(1526年)七月甲申、大きさ五六尺の火球が三つ北から東へ墜ち、その光は天を照らした。
- 嘉靖二十年(1541年)七月丙戌、斗ほどの火球が左軍都督府の中門の東に隕ち、しばらくしてようやく消えた。
- 隆慶二年(1568年)三月戊午、延綏の保寧堡の城角の旗竿から火が出て、灼々と音を立てた。
- 萬厯十四年(1586年)、保定府の民家の牆壁の内から火が出て、三日三晩でようやく熄んだ。
- 萬厯十五年(1587年)二月、綏靖の辺城の各堡の棟の獣頭と旗竿からいずれも火が出た。軍士が杖で叩くと杖にも火が生じて大きくなり、三更になってようやく熄んだ。
- 萬厯二十年(1592年)三月、陝西の空中に盆ほどの大きさの火が現れ、後に三本の尾を生じて西北に隕ちた。
- 萬厯二十一年(1593年)二月庚辰の夜半、大毛山の楼上の獣の口飾りにいずれも鶏卵ほどの赤い火がつき、折しも雨雪のなか、火の上でさやさやと音がした。
- 萬厯二十三年(1595年)九月癸巳の夜、永寧に家屋ほどの大きさの火光が現れ西北に隕ちた。永昌・鎮番・寧遠所でも同じものが見えた。
- 萬厯二十四年(1596年)二月戊申の夜、鄠縣で雷雨とともに一帯十餘里が火光に覆われた。
- 萬厯二十五年(1597年)二月癸亥、平涼の瓦の獣頭の口から火が出て、水を注いでも消えなかった。八月甲申、肅州・凉州に車輪のような形の火光が天に現れ、尾は三股に分かれ、長さおよそ三丈であった。
- 天啟六年(1626年)五月壬寅朔、厚載門の火神廟から紅い球が転がり出て、前門の城樓の角に数千の螢火のようなものが集まり合わさって車輪のようになった。
- 崇禎元年(1628年)、西安に碾や斗のような火が数十現れ、色は青く炎の高さは一尺ばかりで、民家に入って数日留まってから去った。羊や豚を供えて譲ると害を為さず、五月から七月まで続いてやんだ。
- 崇禎十三年(1640年)六月壬申、綏安に斗ほどの火が西から地に墜ち、土も木もみな焦げた。
赤眚赤祥
- 成化十三年(1477年)二月甲午、浙江の山陰で血のような泉が湧いた。
- 正徳元年(1506年)正月乙酉の夜、崇明の空中に紅い光が現れ、虹のように尾を引いて東北から西南へ流れて消え、その音は雷のようであった。辛丑、鳳陽で紅い光が現れ、太陽と同じ色で、音は雷のようであった。
- 正徳二年(1507年)八月己亥、寧夏に赤い光が現れ、長さ五丈であった。
- 正徳八年(1513年)七月甲申、龍泉で赤い弾丸のようなものが二つ空から縣の役所に隕ちた。形は鵝の卵のようで、民家に躍り込んで長く互いに闘い合った。
- 嘉靖三十三年(1554年)四月戊子、慈谿の民家で血が高さ一尺餘に湧いた。
- 嘉靖三十七年(1558年)五月戊辰、東陽の民である張思齊の家で地が五、六か所裂け、線のような血が高さ一尺ばかり噴き出た。血が凝ったのを犬が食べに来たので地を掘ってみたが何も見つからなかった。
- 嘉靖三十九年(1560年)二月己未、竹溪の民家で血が出た。
- 隆慶六年(1572年)閏二月癸酉、遼東で赤い風が塵を巻き上げ天を覆った。
- 萬厯六年(1578年)七月丁丑、松門衛の金鐺の家で血が三尺の高さに音を立てて湧いた。
- 萬厯十三年(1585年)四月乙丑、虹縣の民の王禄が姚壘の家に投宿したところ、地から血が出るのを見て驚いて逃げ、市に至るとそこでも血が流れた。郷人が器物をつないで騒ぎ立てるとようやく止まった。
- 萬厯十九年(1591年)六月庚戌、慈谿の茅家浦で八か所から血が湧いた。盆ほどの大きさで高さ一尺ばかり、血は船に飛び散り、人にかかるとその足からも血が出て、数刻してようやく絶えた。
- 萬厯二十六年(1598年)九月甲辰、蕭山の賈九經の家で血が高さ一尺ばかり噴き出た。
- 天啟元年(1621年)六月庚寅、肇慶の民の王體積の中庭で、湧き出る泉のように血が噴いた。
- 崇禎七年(1634年)二月戊午、海豐で血の雨が降った。
- 崇禎八年(1635年)八月戊寅、宣城の池の中から血が出た。
木の総説
- 洪範に「木は曲直」とあり、木が曲直しないのはその性を失った状態である。従来の史書では、恒雨・狂人・服妖・雞禍・鼠孽・木冰・木妖・青眚青祥をいずれも木に属させてきた。本志もそれに従う。
恒雨
- 洪武十三年(1380年)七月、海康で大雨があり縣の役所が壊れた。
- 洪武二十三年(1390年)十一月、山東の二十九州縣で長雨により麥と禾が損なわれた。
- 建文元年(1399年)三月乙卯の夜、燕王が蘇家橋に陣営を置いた際、大雨で平地に三尺の水が出て王の寝台にまで及んだ。
- 永樂元年(1403年)三月、京師の長雨で城の西南隅五十餘丈が壊れた。七月、建寧衛で長雨により城が壊れた。
- 永樂二年(1404年)七月、新安衛で長雨により城が壊れた。八月、長雨で北京の城五千餘丈が壊れた。
- 永樂六年(1408年)七月、思明で長雨により城が壊れた。
- 永樂七年(1409年)九月、浙江の衛所五か所で颶風と驟雨により城が壊れ、家屋が流された。
- 永樂八年(1410年)七月、金鄉衛で颶風と驟雨により城壁と役所が壊れた。
- 永樂十二年(1414年)九月、密雲後衛で長雨により城が壊れた。
- 永樂二十年(1422年)正月、信豐で雨水により城が壊れ、瞿城衛も同様であった。
- 永樂二十一年(1423年)二月、六安衛で長雨により城が壊れた。この年、建昌守禦所、淮安・懷來などの衛でもみな長雨で城が壊れた。
- 永樂二十二年(1424年)二月、夀州衛で雨水により城が壊れた。三月、贛州・振武の二衛で雨水により城が壊れた。四月、長雨で密雲および薊州の城が壊れた。この年、南北両畿と山東の州縣で長雨により麥と禾が甚だ多く損なわれた。
- 洪熙元年(1425年)夏、蘇州・松江・嘉興・湖州で長雨により作物が損なわれた。閏七月、京師の大雨で正陽・齊化・順成などの門の城壁が壊れた。九月、長雨で密雲中衛の城が壊れた。
- 宣徳元年(1426年)五月、永嘉・樂清で颶風と急雨により役所・廟宇および壇廟が壊れた。
- 正統元年(1436年)七月、順天・山東・河南・廣東で長雨により作物が損なわれた。
- 正統四年(1439年)夏、居庸關および定州衛で長雨により城が壊れた。
- 正統五年(1440年)二月、南京の大風雨で北上門の棟が壊れ、官民の舟が転覆した。
- 正統七年(1442年)、濟南・青州・萊州・淮安・鳳陽・徐州で五月から六月にかけて長雨により作物が損なわれた。
- 正統九年(1444年)閏七月、野狐嶺などで長雨により城および濠・塹・墩台が壊れた。
- 正統十一年(1446年)春、江西の数府十六縣で長雨により田の作物が水没した。
- 正統十二年(1447年)六月、瑞金で長雨により市街に一丈餘の水が出て、倉庫が流され二百餘人が溺死した。
- 正統十三年(1448年)四月、雨水により順天の古北口の辺倉が壊れた。五月から六月にかけて鳳陽・徽州で長雨により作物が損なわれた。九月、寧都の大雨で城郭と家屋が壊れ、溺死者が甚だ多かった。
- 㬌秦三年(景泰三年の誤りか。1452年)、永平・兖州で長雨により禾が損なわれ、大嵩など二十の衛所で長雨により城が壊れた。
- 景泰四年(1453年)、南畿・河南・山東の十一府州で五月から八月まで長雨により作物が損なわれた。
- 景泰五年(1454年)、杭州・嘉興・湖州で大雨により苗が損なわれ、六十日間やまなかった。七月、京師の長雨で九門の城壁が多く壊れた。
- 景泰六年(1455年)、北畿の五府と河南の二府で長雨により作物が損なわれ、雲南の大理などの諸府も同様であった。
- 景泰七年(1456年)、両畿・江西・河南・浙江・山東・山西・湖廣のあわせて三十府で長雨により田が水没した。
- 天順元年(1457年)、濟南・兖州・青州の三府で大雨が一か月続き、禾はすべて水没した。
- 天順四年(1460年)、安慶・南陽で五月から七月まで雨が降り、禾苗が水没した。
- 天順七年(1463年)五月、淮安・鳳陽・揚州・徐州の大雨で二麥が腐り、武昌・漢陽・荆州では家屋が流されて、民は皆山路に身を寄せて宿った。
- 成化元年(1465年)六月、畿東の大雨で山海關・永平・薊州・遵化の城堡が壊れた。八月、通州の大雨で城および運倉が壊れた。
- 成化二年(1466年)、定州で長雨により城壁および墩台・垜口百七十三か所が壊れた。
- 成化八年(1472年)七月、南京の大風雨で天地壇と孝陵の廟宇が壊れ、鳳陽の大雨で皇陵の牆垣が壊れた。
- 成化九年(1473年)三月、南京の大雨により太廟と社稷壇の樹が抜けた。
- 成化十三年(1477年)七月、京城で大雨があった。
- 成化十四年(1478年)八月、鳳陽の大雨で城内の民家が千を数えるほど水没した。
- 成化十七年(1481年)七月乙酉、南京の大風雨で社稷壇および太廟の殿宇がみな崩れた。
- 成化十八年(1482年)、河南の懐慶など諸府で夏秋にかけて三か月の長雨があり、城壁千一百八十餘丈が崩れ、役所・壇廟・民家三十一萬四千間餘が流され、一萬一千八百餘人が溺死した。
- 𢎞治二年(1489年)七月、京師の長雨により直言を求めた。
- 𢎞治三年(1490年)七月、南京の驟雨で午門と西の城壁が壊れた。
- 𢎞治七年(1494年)七月庚寅、南京の大風雨で殿宇・城樓の獣頭飾りが壊れ、太廟・天地壇・社稷壇および孝陵の樹が抜けた。五月から八月にかけて義州などの衛で連日の雨により作物が損なわれた。
- 𢎞治八年(1495年)五月、南京で陰雨が一か月を越え、朝陽門と北の城壁が壊れた。九月、潮州など諸府で颶風・暴雨により城壁と家屋が壊れた。
- 𢎞治十年(1497年)七月、安陸の長雨で城郭と家屋がほとんど壊れ尽くした。
- 𢎞治十一年(1498年)七月、長安嶺の暴風雨で城および家屋が壊れた。
- 𢎞治十四年(1501年)六月、義州・錦州・廣寧で長雨により城壁・墩堡・倉庫・橋梁が壊れ、圧死者が多く出た。
- 𢎞治十五年(1502年)六月・七月、南京の大風雨で孝陵の神宮監および懿文陵の樹木・橋梁・牆垣が多く崩れ抜けた。
- 𢎞治十六年(1503年)五月、榆林の大風雨で子城の城壁が壊れ、垣洞がその南五十歩へ移った。
- 𢎞治十八年(1505年)三月、雙山堡の大雷雨で城が壊れた。六月から八月にかけて京畿で連日雨が降った。
- 正徳元年(1506年)七月、鳳陽など諸府の大雨で平地の水深が一丈五尺に達し、住民五百餘家が水没した。
- 正徳二年(1507年)七月、武平の大風雨で城樓が壊れた。長泰・南靖では大風雨が三日三晩続き、平地の水深が二丈に達して民家八百餘戸が流された。
- 正徳十二年(1517年)、蘇州・松江・常州・鎮江・嘉興・湖州の大雨で麥と禾が損なわれた。
- 正徳十三年(1518年)、應天・蘇州・松江・常州・鎮江・揚州で大雨が一か月続き、家屋・人畜が数え切れぬほど流された。
- 正徳十六年(1521年)、京師の長雨で作物が損なわれた。
- 嘉靖四年(1525年)六月、登州の大雨で城が壊れた。
- 嘉靖十六年(1537年)、京師で夏から秋まで雨が絶えず、家屋が倒壊して軍民に圧死者が多く出た。
- 嘉靖二十五年(1546年)二月、京師の大雨で九門の城壁が壊れた。
- 嘉靖三十三年(1554年)六月、京師の大雨で平地に数尺の水が出た。
- 嘉靖四十五年(1566年)九月、鄖陽の大長雨で平地に一丈餘の水が出て、城壁と家屋が壊れ、住民の溺死者は数え切れなかった。
- 隆慶元年(1567年)六月、京師で長雨があった。遼東では五月から七月まで雨がやまず、垣牆と禾黍が損なわれた。
- 萬厯元年(1573年)七月、長雨があった。
- 萬厯十一年(1583年)四月、承天の大雨で水が出た。
- 萬厯十二年(1584年)正月、喜峰口の大風雨で各墩台が壊れた。
- 萬厯十五年(1587年)五月から七月にかけて蘇州・松江など諸府で長雨により禾と麥がともに損なわれた。六月、京師で大雨があった。
- 萬厯二十四年(1596年)、杭州・嘉興・湖州の長雨で苗が損なわれた。
- 萬厯二十八年(1600年)七月、興化・莆田・連江・福安で大雨が数日続き、城壁・橋梁・堤岸がすべて崩れた。
- 萬厯二十九年(1601年)春夏、蘇州・松江・嘉興・湖州の長雨で麥が損なわれた。
- 萬厯三十二年(1604年)七月、京師の長雨で城が崩れた。
- 萬厯三十三年(1605年)五月丙申、鳳陽の大風雨で皇陵の正殿の御座が損なわれた。
- 萬厯三十九年(1611年)春、河南で大雨。夏には京師と廣東で大雨があり、廣西では五か月にわたり雨が続いた。
- 萬厯四十二年(1614年)、浙江の長雨が災害となった。
- 天啟六年(1626年)閏六月、大雨が十日以上続き、天夀山の神路と都城の橋梁が壊れた。この年、遼東の長雨で山海關の内外の城壁が壊れ、軍民の負傷者が甚だ多かった。
- 天啟七年(1627年)、山東の二十八州縣で長雨により禾が損なわれた。
- 崇禎五年(1632年)六月に大雨、八月にもまた雨があり、慶陵を衝き損なった。九月、順天の二十七縣で長雨により作物が損なわれた。
- 崇禎十一年(1638年)夏、雨が十日続き、南山の辺垣が崩れた。
- 崇禎十二年(1639年)十二月、浙江の長雨で田の畦が巨大な水浸しとなった。
- 崇禎十三年(1640年)四月から七月にかけて、寧國・池州など諸郡の長雨で田の半分が谷のようになった。
- 崇禎十五年(1642年)十月、黄州・蘄州・徳安など諸郡縣で長雨があった。
- 崇禎十六年(1643年)二月戊辰、帝が自ら社稷を祀った際、大風雨のため辛うじて礼を成して還った。
狂人
- 景泰三年(1452年)五月癸巳朔、翌日の立太子のため奉天門に香亭を設けたところ、一人の男が外から入り込んで赤い棍棒で香亭を打ち、「まず東方の甲乙の木を打つ」と言った。
- 嘉靖十八年(1539年)、帝が南へ行幸しようとしていた折、軍人の孫堂が御路の中橋から奉天門の下まで進み、金台に登って長く座っていたが、門を守る官吏も人夫も誰一人気づかなかった。堂が大声で叫んだので発覚して捕らえたところ、狂気の病を患う者であった。
服妖
- 正徳元年(1506年)、婦女の多くが珠を結んだものを頭にかぶり、これを瓔珞と呼んだ。
- 正徳十三年(1518年)正月、帝の車駕が京に還ると、朝臣に曳撒・大帽・鸞帯を用いさせた。給事中の朱鳴陽は、曳撒や大帽は行役のときに用いるもので君主に謁見する服ではなく、いずれも服妖に近いと述べた。
- 正徳十五年(1520年)十二月、帝が宸濠を平定して京に還り、逆に従った者の捕虜を引き、また逆賊の首級を竿に懸けたが、いずれも白い旗を標としたため数里にわたり白一色となった。当時すでに帝は健康を損ねており、見る者はこれを不祥のしるしと見て取った。
- 崇禎の頃、朝臣は紗縠や竹の皮で帯を作るのを好んだ。手軽だからである。ある者は、金銀は重くて貴く、紗や竹皮は賤しくて軽い、これは賤が貴に乗ろうとする兆しだと言った。当時、北方の庶民は頭巾を作るのにその縁を低く傾け、自ら眉や目を隠して「不認親(親を認めず)」と称した。その後、冦乱によって民が離散し、道で親戚に出会っても泣くばかりで口をきけない者や、腕を振って立ち去る者が現れた。
雞禍
- 𢎞治十四年(1501年)、華容の民である劉福の家で雛が三本足で生まれた。
- 𢎞治十七年(1504年)六月、崇明の民である顧孟文の家で鶏が雛を産んだが、猴の足で人の形をしており、体長四寸、尾があって動くが声を出さなかった。
- 嘉靖四年(1525年)、長垣の民である王憲の家で、鶏の抱いた卵の中に人の形ができ、耳・目・口・鼻・四肢がすべて備わっていた。
- 萬厯二十二年(1594年)六月、靖邊營の軍人の家で雌鶏が雄に変わった。
- 崇禎九年(1636年)、淮安の民家で牝鶏が鳴き躍って雄に変わった。
- 崇禎十年(1637年)、宣武門外の民家に、嘴と蹴爪が真っ赤で重さ四十斤の白い鶏がいた。ある者は、これは鷔で、現れた土地は国が亡ぶと言った。
- 崇禎十四年(1641年)、太倉衛の指揮善である周輔の家の鶏が、二つの頭・四つの翼・八本の足をもつ雛を孵した。
鼠妖
- 萬厯四十四年(1616年)七月、常州・鎮江・淮安・揚州の諸郡で土鼠が千萬の群れをなし、夜な夜な尾をくわえ連なって江を渡り、絶え間なく続いて約一か月してようやく止んだ。
- 萬厯四十五年(1617年)五月、南京で鼠一萬餘が尾をくわえ連なって江を渡り、禾を食い荒らした。
- 崇禎七年(1634年)、寧夏で鼠十餘萬が尾をくわえ連なって苗を食った。
- 崇禎十二年(1639年)、黄州で鼠が禾を食い、江を渡ること五、六日絶えなかった。当時、内殿の奏章房にも鼠が多く、盗み食いして人に触れても恐れなかった。これも鼠妖である。甲申の元旦の後、鼠はようやく姿を消した。また秦州の關山中では、鼠が鵪鶉に変わったものが数千を数えた。
- 崇禎十五年(1642年)二月、鼠の群れが昼夜絶えず江を渡った。十月、榆林・定邊など諸堡で鼠の腹中に蝦蟇が生じ、一匹から数十匹が生まれて苗を刈るように食い荒らした。
木冰
- 洪武四年(1371年)正月戊申、木冰があった。
- 洪武六年(1373年)十二月乙丑、雨氷が木についた。
- 洪武十一年(1378年)正月丁亥、雨氷が木についた。
- 洪武二十二年(1389年)正月甲戌、雨氷が木についた。
- 正統三年(1438年)十月丁丑の暁、木介があった。
- 天順七年(1463年)十月甲辰、雨氷が木についた。
- 天順八年(1464年)正月乙丑、雨氷が木についた。
- 成化十六年(1480年)正月辛卯の暁、雨氷が木についた。
- 成化二十三年(1487年)十二月戊辰の暁、木介があった。
- 隆慶三年(1569年)十一月癸巳、木冰があった。
- 萬厯十四年(1586年)冬、蘇州・松江で木冰があった。
- 崇禎元年(1628年)十一月、陝西で木冰があり、樹の枝がことごとく折れた。その後、大河以北では毎年この異変が起きた。
木妖
- 𢎞治八年(1495年)、長沙で楓が李の実をつけ、黄蓮が黄瓜を生じた。
- 𢎞治九年(1496年)三月、長寧で楠が蓮の花を咲かせ、李が豆莢を生じた。
- 嘉靖三十七年(1558年)十月戊辰、泗水の砂中から大木が湧き出た。周囲一丈五尺、長さ六丈餘であった。
- 隆慶五年(1571年)四月、杭州で栗が桃を生じた。
- 萬厯十八年(1590年)五月丁卯、祖陵の大松の樹の穴から火が吐き出し、一日中燃えてようやく消えた。
- 萬厯二十三年(1595年)十二月癸亥、皇陵の樹の梢から火が出て草木に延焼した。
- 天啓六年(1626年)四月癸巳、白露が樹に付いて綿を垂らしたようになり、日中になっても散らなかった。十月辛酉、南京の西華門内に煙が立って火の気がなく、礼官が見に行ったところ、旧宮の材木が土中に埋められて久しく、自ずと煙を生じたもので、土も石も焦げていた。水を注いで三日目にようやく消えた。
- 崇禎六年(1633年)五月癸巳、霍山縣で木の甑が飛んで落ちてきたが、どこから来たのか分からなかった。
- 崇禎七年(1634年)二月丁巳、太康の門の扉が独りでに三度開いた。知縣が郷紳を集めてこの事を議していたところ、梁が落ちて死んだ。
青眚青祥
- 宣徳元年(1426年)八月辛巳、東南の天に青い気が現れ、人が手を組んで揖拝する形をしていた。