明史卷二十八 志第四 五行一
- この巻は五行志の第一で、水に属する項目(原注に「水」とある)を収める。
五行志を立てる方針
- 史書の志で五行を立てるのは『漢書』に始まる。五行伝の説とその占いの応験を詳しく録し、後代に史を作る者もこれに倣った。
- 『洪範』を稽えるに、まず五行を叙べるのは、天地万物がこれを外れることができないからである。これを人道に合わせれば五事があり、天道に稽えれば庶徴がある。天と人が類をもって互いに感じ応ずることは、もとより道理としてありえぬとは言えない。
- しかし伝説の類は条を分け縷を析いて、ある異変をある事の応験とし、さらにあれこれ引き証を曲げてその説を通そうとする。ゆえに父子・師弟の間ですら食い違いを免れない。それが本当に「疇を叙べる」本意にかなっているだろうか。
- もし天と人の応答が影や響きよりも速いと知れば、一言一動すべてに警め慎むところがあろう。それで戒めを垂れる意図は悪くない。しかし天道は遠く人道は近い。事ごとに突き合わせれば、必ず験のあるものとないものが出る。験のないものが出れば、徴などないと見て怠るようになる。前賢の議論はこの点を尽くしている。
- 孔子は『春秋』を作って異変は記したが、その説明は書かなかった。かの劉向・董仲舒ら諸儒の学は術数・禨祥に近く、もとより述べるに足りない。班固がこの志を創設したのは、その学の本原を詳らかにせざるを得なかったからである。
- しかし歴代の史はしばしば前人の何度も見えた説を取って冒頭に列ね備えており、義法に照らしてどう処すべきか分からない。ゆえに洪武以来を考え次第するにあたっては、おおむね旧史の五行の例に依ってその祥瑞と異変だけを記し、事の応験および旧説ですでに出ているものは削って載せないことにした。
- 『洪範』に「水は潤下という」とある。水が下を潤さなければその性を失ったことになる。前史は多く、恒寒・恒隂・雪・霜・氷・雹・雷震・魚孽・蝗蝻・豕禍・龍蛇之孽・馬異・人痾・疾疫・鼓妖・隕石・水潦・水變・黒眚黒祥をすべて水に属させている。今もこれに従う。
恒寒
- 景泰四年(1453年)冬十一月戊辰から翌年の孟春まで、山東・河南・浙江、直隷の淮・徐で大雪が数尺積もった。淮東では海が四十余里にわたって凍り、人畜の凍死は万を数えた。
- 景泰五年(1454年)正月、江南の諸府で大雪が四十日続き、蘇州・常州で凍え飢えて死ぬ者は数えきれなかった。この春、羅山で大寒となり、竹・樹・魚・蚌がみな死んだ。衡州では雨雪が連綿と続いて人を傷つけることが甚だ多く、牛畜の凍死は三万六千蹄に及んだ。
- 成化十三年(1477年)四月壬戌、開原で大雨雪、家畜が多く凍死した。
- 成化十六年(1480年)七月・八月、越嵩で雨と雪が交互に降り、寒気は冬のようであった。
- 𢎞治六年(1493年)十一月、鄖陽で大雪。十二月壬戌の夜に雷電が大いに起こり、翌日もまた震い、五日後に雪がやんだ。平地で三尺余り積もり、人畜が多く凍死した。
- 正徳元年(1506年)四月、雲南の武定で霜が降りて麦を殺し、寒さは冬のようであった。
- 萬厯五年(1577年)六月、蘇州・松江で雨が続き、寒さは冬のようで、稼を傷つけた。
- 萬厯四十六年(1618年)四月辛亥、陝西で大雨雪、驘(騾)と槖駝の凍死が二千蹄に及んだ。
恒隂
- 洪武十八年(1385年)二月、久しく曇った。
- 正統五年(1440年)七月戊午・己未および癸亥の暁刻、曇り沈んで四方が濃霧となり、人を見分けられなかった。
- 正統八年(1443年)、邳州・海州の二州で隂霧が一月に及び、夏麦が多く損なわれた。
- 景泰六年(1455年)正月癸酉、隂霧が四方をふさぎ、やがて霜となって木に付くこと五日に及んだ。
- 景泰八年(1457年)正月甲子、曇り晦く大霧が立ち、咫尺の間も人物を見分けられなかった。
- 成化四年(1468年)三月、昏い霧が天を蔽い、星も日も見えないことが数昼夜続いた。
- 成化九年(1473年)三月甲午および四月丁夘、山東が夜のように暗黒であった。
- 成化二十年(1484年)五月丙申、番禺で天が晦くなり、長らくしてようやく元に戻った。
- 成化二十三年(1487年)十二月辛夘、大霧で人を見分けられなかった。
- 𢎞治十五年(1502年)十一月、景東で昼が晦いこと七日に及んだ。
- 𢎞治十六年(1503年)四月辛亥、甘肅で昏い霧が天をさえぎり、咫尺の間も人物を見分けられなかった。
- 𢎞治十八年(1505年)秋、廣昌で大いに霧が降ること二か月、民が病んで死ぬ者が相次いだ。
- 正徳十年(1515年)四月、鉅野で隂霧が六日続き、穀を枯らした。
- 正徳十四年(1519年)三月戊午、曇り晦くなった。
- 嘉靖元年(1522年)正月丁夘、日中に昏い霧が四方をふさいだ。
- 嘉靖三年(1524年)、江北で昏い霧が立ち、その気は薬のようであった。
- 天啟六年(1626年)閏五月丙戌、霧が雨のように重かった。六月己未も同様であった。
雨雪隕霜
- 洪武十四年(1381年)五月丁未、建徳で雪。六月己夘、杭州で晴天に雪が飛んだ。
- 洪武二十六年(1393年)四月丙申、榆社で霜が降り麦を損なった。
- 景泰四年(1453年)、鳯陽の八衞で二月・三月に雨雪がやまず麦を傷つけた。
- 天順四年(1460年)三月乙酉、大雪が一月を越えてようやくやんだ。
- 成化二年(1466年)四月乙巳、宣府で霜が降り青苗を枯らした。
- 成化十九年(1483年)三月辛酉、陝西で霜が降りた。
- 𢎞治六年(1493年)十月、南京で雨雪が旬日続いた。
- 𢎞治八年(1495年)四月庚申、榆社・陵川・襄垣・長子・沁源で霜が降り、麦・豆・桑を枯らした。辛酉、慶陽の諸府県衞所三十五か所で霜が降り、麦・豆・禾苗を枯らした。
- 𢎞治九年(1496年)四月辛巳、榆次で霜が降り「未」を枯らした(禾の誤りか)。この月、武鄉でも霜が降りた。
- 𢎞治十七年(1504年)二月壬寅、鄖陽・均州で雨雪と雹、雪片の大きなものは六寸あった。六月癸亥、雨雪。
- 正徳八年(1513年)四月乙巳、交(膠の誤りか)・登州・萊陽で霜が降り稼を枯らした。丙辰、穀を枯らした。
- 正徳十三年(1518年)三月壬戌、遼東で霜が降り禾苗がみな死んだ。
- 嘉靖二年(1523年)三月甲子、郯城で霜が降り麦を枯らした。辛未、禾を枯らした。
- 嘉靖二十二年(1543年)四月己亥、固原で霜が降り麦を枯らした。
- 隆慶六年(1572年)三月丁亥、南宫で霜が降り麦を枯らした。
- 萬厯二十四年(1596年)四月己亥、林縣で雪。
- 萬厯二十六年(1598年)十一月辛亥、彰徳で霜が降ったが草を枯らさなかった。
- 萬厯三十八年(1610年)四月壬寅、貴州で暴雪、形は土の磚のようで、民家に瓦一片も残らなかった。
- 萬厯四十四年(1616年)正月、紅・黄・黒の三色の雪が降り、屋根の上に巨人の足跡が多くあった。
- 崇禎六年(1633年)正月辛亥、大雪、深さ二丈余り。
- 崇禎十一年(1638年)五月戊寅、喜峯口で雪が三尺積もった。
- 崇禎十三年(1640年)四月、㑹寧で霜が降り稼を枯らした。
- 崇禎十六年(1643年)四月、鄢陵で霜が降り麦を枯らした。
冰雹
- 洪武二年(1369年)六月庚寅、慶陽で大雨雹、禾苗を傷つけた。
- 洪武三年(1370年)五月丙辰、蔚州で大雨雹、田苗を傷つけた。
- 洪武五年(1372年)五月癸丑の夜、中都の皇城萬歳山に氷雹が降り、大きさは弾丸ほどであった。
- 洪武七年(1374年)八月甲午、平涼・延安・綏徳・米脂で雹。九月甲子、鞏昌で雹。
- 洪武八年(1375年)四月、臨洮・平涼・河州で雹が麦を傷つけた。
- 洪武十四年(1381年)七月己酉、臨洮で大雨雹、稼を傷つけた。
- 洪武十八年(1385年)二月、雨雹。
- 永樂七年(1409年)秋、保定・浙東で雨雹。
- 永樂十二年(1414年)四月、河南の一州八県で雨雹、麦を枯らした。
- 正統三年(1438年)、西安・延安・平涼・慶陽・臨洮・鞏昌の六府(底本は「西延平慶臨鞏」と略記)および秦・河・岷・金の四州で、夏から秋にかけて大雨雹があった。
- 正統四年(1439年)五月壬戌、京師で大雨雹。
- 正統五年(1440年)四月丁酉、平凉の諸府で大雨雹、人畜と田禾を傷つけた。六月壬申から丙子まで、山西行都司および蔚州で連日雨雹、深さ一尺余りで稼を傷つけた。八月庚辰、保定で大雨雹、深さ一尺余りで稼を傷つけた。
- 景泰五年(1454年)六月庚寅、易州の大方などの社で雹が甚だ大きく、百二十五里にわたって稼を傷つけ、人馬が多く撃ち殺された。
- 景泰六年(1455年)閏六月乙巳、束鹿で鶏卵ほどの雹が降り、鳥雀・狐兎を撃ち殺すこと数知れなかった。
- 天順元年(1457年)六月己亥、鶏卵ほどの大きな雹が降り、地に落ちても時を経て溶けず、奉天門の東の吻牌が壊れた。
- 天順八年(1464年)五月丁巳、雨雹。
- 成化元年(1465年)四月庚寅、卵ほどの雹が降り禾稼を損なった。五月辛酉、また大雨雹。
- 成化五年(1469年)閏二月癸未、瓊山で斗ほどの大きな雹。
- 成化八年(1472年)七月丙午、隴州で鵝卵ほど、あるいは鶏卵ほどの雹が降り、中に牛ほどのものが五つあって、長さ七、八寸、厚さ三、四寸、六日でようやく消えた。
- 成化九年(1473年)五月丁巳、拳ほどの雹。
- 成化十三年(1477年)春、湖廣で大いに氷雹が降り、牛の死ぬこと数知れなかった。
- 成化十九年(1483年)六月乙亥、潞州で雹、大きなものは椀ほど。
- 成化二十年(1484年)二月丙子、清逺で拳ほどの雹。丙戌、大雷電があってまた雹が降った。
- 成化二十一年(1485年)三月己丑の夜、番禺・南海で風雷が大いに起こり、雹が交々降って民居一万余りを壊し、死者は千余人であった。
- 成化二十二年(1486年)三月甲寅、南陽で鵝卵ほどの雹。
- 𢎞治元年(1488年)三月壬申の夜、融縣で雹が城樓・垣および軍民の家屋を壊し、死者は四人であった。
- 𢎞治二年(1489年)三月戊寅、賓州で鶏卵ほどの雹が牧童三人を撃ち殺し、家屋・禾稼を壊した。庚辰、貴州の安莊衞で大雷雨と雪雹があり、麦苗を壊した。四月辛夘、洮州衞で氷雹が降り、水が三丈湧いた。
- 𢎞治四年(1491年)三月癸卯、裕州・汝州の二州で雹、大きなものは牆杵ほど、積もる厚さ二十尺、家屋と禾稼を壊した。四月己酉、洮州衞で雹と氷塊が降り、水の高さ三、四丈で城郭を浸し、家屋・田苗を漂わせ、人畜が多く溺死した。
- 𢎞治五年(1492年)四月乙丑、莒州・沂州の二州と安邱・郯城の二県で酒杯ほどの雹が降り、人畜・禾稼を傷つけた。
- 𢎞治六年(1493年)八月乙巳、長子で雹、大きなものは拳ほどで禾稼を傷つけ、撃ち殺される者があった。辛未、弾丸ほどの雹が平地に積もった。
- 𢎞治八年(1495年)二月壬申、永嘉で暴風雨、雹の大きなものは鶏卵、小さなものは弾丸ほどで、地に一尺余り積もり、白い霧が四方に起こって家を毀ち黍を枯らし、鳥が多く死んだ。三月己亥、桐城で雨と霧が深さ五尺、二麦を枯らした。己酉、淮安・鳯陽の州県で暴風雨と雹、麦を枯らした。四月乙亥、常州・泗州・邳州で雹が深さ五寸、麦および菜を枯らした。丙子、沂州で雹、大きなものは盤、小さなものは盌ほどで、人畜が多く撃ち殺された。六月乙卯、雨雹。七月乙酉、洮州衞で氷雹が降り禾を枯らし、暴水が至って人畜が多く溺死した。丙戌、甘肅・西寕で大雨雹、禾および家畜を殺した。
- 𢎞治九年(1496年)五月丙辰、雨雹。
- 𢎞治十年(1497年)二月己夘、江西の新城で氷雹、凍死する民があった。三月丁夘、北通州で氷が一尺の深さに降った。
- 𢎞治十三年(1500年)八月戊子、雨雹。丙午、また雨雹。九月壬戌、また雨雹。
- 𢎞治十四年(1501年)四月丁酉、徐州・清河・桃源・宿遷で氷雹が平地に五寸、夏麦がことごとく腐った。五月乙亥、登州・萊州の二府で雹が禾を枯らした。七月辛夘、雨雹。
- 正徳元年(1506年)六月戊辰、宣府の馬營堡で大雨雹、深さ二尺、禾稼がことごとく傷んだ。
- 正徳三年(1508年)四月辛未、涇州で鶏卵ほどの雹、家屋・菽・麦・麻を壊した。
- 正徳四年(1509年)五月甲午、費縣で大雨雹、深さ一尺、麦と穀を壊した。
- 正徳八年(1513年)十月戊戌、平陽・太原・沁州・汾州の諸属邑で大雨雹、平地の水深一丈余り、人畜と家屋を衝き毀した。
- 正徳十一年(1516年)六月甲戌、宣府で大雨雹、禾稼がことごとく死んだ。九月丙申、貴州で大雨雹。
- 正徳十二年(1517年)五月己亥、安肅で大雨雹、平地の水深三尺、禾を傷つけ、撃ち殺される民があった。
- 正徳十三年(1518年)四月壬午、衡州で疾風と迅雷、鵝卵ほどの雹が降り、稜が刀のように鋭く、家を砕き、樹木を鋏で切ったように断った。
- 嘉靖元年(1522年)四月甲申、雲南左衞の各属で鶏卵ほどの雹、禾苗・家屋の傷むこと数知れなかった。五月己未、蓬溪で鵝卵ほどの雹が降り(底本は「雨暴」に作り「雹」を欠くか)、被害もまた同様であった。
- 嘉靖二年(1523年)五月丁丑、大同前衞で雨雹。
- 嘉靖四年(1525年)四月丁未、大同衞で雨雹。五月戊子、固安で雨雹。
- 嘉靖五年(1526年)五月甲辰、滿城で雨雹。六月丁巳、大同県で氷雹、いずれも鶏卵ほど。丁夘、萬全都司および宣府でともに雨雹、大きなものは甌ほどで深さ一尺余り。七月癸未、南豐で盌ほどの雹、形は人の顔のようであった。遂昌では雹がたちまち二尺積もり、麻と豆を大いに枯らした。
- 嘉靖六年(1527年)六月癸丑、鎮番衞で大雨雹、三十余人を殺傷した。
- 嘉靖十四年(1535年)三月辛巳、漢中で雨雹と霜、麦を枯らした。四月庚子、開封・彰徳で雨雹、麦を枯らした。
- 嘉靖十八年(1539年)五月壬辰、慶都・安肅・河間で氷雹、大きさは拳ほど、平地に五寸積もり、死傷する者があった。
- 嘉靖二十八年(1549年)三月庚寅、臨清で大きな氷雹、家屋・禾苗を損傷した。六月丁夘、延川で斗ほどの雹、家屋を壊し人畜を傷つけた。
- 嘉靖三十四年(1555年)五月庚子、鳯陽で大きな氷雹、民の田と家を壊した。
- 嘉靖三十六年(1557年)三月癸未、沂州で雹、大きなものは盂、小さなものは鶏卵ほど、平地に一尺余り積もって八十里に及び、人畜の傷損は数知れなかった。
- 嘉靖四十三年(1564年)閏二月甲申、雨雹。四月庚寅、また雨雹。
- 隆慶元年(1567年)七月辛巳、紫荆關で雹が七十里にわたって稼を枯らした。
- 隆慶三年(1569年)三月辛未、平溪衞で雹、平地に水が三尺湧き、家屋を漂没させた。四月己丑、鄖陽県で雹、平地の水深三尺。五月癸丑、延綏の口北馬營堡で雹が七十里にわたって稼を枯らした。
- 隆慶四年(1570年)四月辛酉、宣府・大同で雹、厚さ三尺余り、大きさは卵ほどで、禾苗がことごとく傷んだ。
- 隆慶五年(1571年)四月戊午、大雨雹。
- 隆慶六年(1572年)八月乙丑、祁州・定州の二州で大雨雹、禾と菽を傷損し、三人を撃ち殺した。
- 萬厯元年(1573年)五月辛巳、雨雹。
- 萬厯四年(1576年)四月丙午、博興で大雨雹、拳のよう卵のようで、翌日もまた同様、男女五十余人を撃ち殺し、牛馬は数知れず、禾麦はことごとく毀れた。兖州でも相次いで禾を損なった。五月乙巳、定襄で雹、大きなものは卵ほどで禾苗がことごとく損なわれた。
- 萬厯九年(1581年)八月庚子、遼東などの衞で鶏卵ほどの雹、禾がことごとく傷んだ。
- 萬厯十一年(1583年)閏二月丁卯、泰州・寳應で鶏卵ほどの雹、飛ぶ鳥を殺すこと数知れなかった。五月庚子、大雨雹。
- 萬厯十三年(1585年)五月乙酉、宛平で大雨雹、人畜を傷つけること千を数えた(底本は「陽人畜千計」に作る。「傷」の誤りか)。
- 萬厯十五年(1587年)五月癸巳、喜峯口で大雨雹、棗や栗ほどの大きさで一尺余り積もり、田禾・瓜果がことごとく傷んだ。
- 萬厯十九年(1591年)四月壬子、雨雹。
- 萬厯二十一年(1593年)二月庚寅、貴陽府で大雨雹。十月丙戌、武進・江隂で大きな氷雹、五穀を傷つけた。
- 萬厯二十三年(1595年)五月乙酉、臨邑で雹が降り、ことごとく男女や鳥獣の形をなした。
- 萬厯二十五年(1597年)八月壬戌、風と雹。
- 萬厯二十八年(1600年)六月、山東で大風と雹、人畜を撃ち殺し禾苗を傷つけた。河南でも氷雹が降り禾麦を傷つけた。
- 萬厯三十年(1602年)四月己未、大雨雹。
- 萬厯三十一年(1603年)五月戊寅、鳯陽の皇陵で雨雹。七月丁丑、大雨雹。
- 萬厯三十四年(1606年)七月丙戌、また大雨雹、平地の水深三尺。
- 萬厯三十六年(1608年)五月戊子、雨雹。
- 萬厯四十一年(1613年)七月丁夘、宣府で大雨雹、禾稼を枯らした。
- 萬厯四十六年(1618年)三月庚辰、長泰・同安で大雨雹、斗のよう拳のようで、城郭・家屋を撃ち傷つけ、圧死する者は二百二十余人であった。十月壬午、雲南で雨雹。
- 天啟二年(1622年)四月壬辰、大雨雹。
- 崇禎三年(1630年)九月辛丑、大雨雹。
- 崇禎四年(1631年)五月、襄垣で雹、大きなものは伏した牛のようで一丈に満ち、小さなものは拳ほど、人畜を破ること甚だ多かった。六月丙申、大雨雹。
- 崇禎七年(1634年)四月壬戌、常州・鎮江で雨雹、麦を傷つけた。
- 崇禎八年(1635年)七月己酉、臨縣で大きな氷雹が三日降り、二尺余り積もった。大きさは鵝卵ほどで稼を傷つけた。
- 崇禎十年(1637年)四月乙亥、大雨雹。閏四月癸丑、武鄉・沁源で大雨雹、最も大きなものは象のようで、次は牛のようであった。
- 崇禎十一年(1638年)六月甲寅、宣府の乾石河の山場で雹が馬と驘四十八匹を撃ち殺した。九月、順天で雨雹。
- 崇禎十二年(1639年)八月、白水・同官・雒南・隴西の諸邑で千里にわたって雹が降り、半日でようやくやみ、田禾を損傷した。
- 崇禎十六年(1643年)六月丁丑、乾州で雹、大きなものは牛、小さなものは斗ほどで、牆や屋を毀ち傷つけ、人畜を撃ち殺した。
雷震
- 洪武六年(1373年)十一月戊申、雷電が交々起こった。
- 洪武十三年(1380年)五月甲午、雷が謹身殿を震わせた。六月丙寅、雷が奉天門を震わせた。十月甲戌、雷電。十二月己巳、廣州で大風雨と雷電。
- 洪武十八年(1385年)二月甲午、雷電と雨雪。
- 洪武二十一年(1388年)五月辛丑、雷が元武門の獸吻を震わせた。六月癸夘、暴風があり、雷が洪武門の獸吻を震わせた。
- 宣徳九年(1434年)六月甲子、雷が大祀壇の外西門の獸吻を震わせた。
- 正統八年(1443年)五月戊寅、雷が奉天殿の鴟吻を震わせた。七月辛未、雷が南京の西角門樓の獸吻を震わせた。この日、大同の巡警軍が沙溝に至ったところ風雷が突如襲い、胸を裂かれ指を断たれた者が二百余人であった。
- 正統九年(1444年)正月辛亥朔、雷電と大雨。閏七月壬寅、雷が奉天殿の鴟吻を震わせた。
- 正統十一年(1446年)十二月壬寅、大雨と雷電、翌日ようやくやんだ。
- 正統十四年(1449年)六月丙辰、南京で風雨雷電があり、謹身殿が火災に遭った。
- 景泰三年(1452年)六月庚寅、雷が宮庭の中門を撃ち、人を傷つけた。
- 天順二年(1458年)六月己卯、雷が大祀殿の䲭吻を震わせた。
- 天順四年(1460年)六月癸丑、雷が薊州の倉庫四棟を毀った。
- 成化三年(1467年)六月戊申、雷が南京の午門正樓を震わせた。
- 成化五年(1469年)二月乙夘、また山川壇の具服殿の獸吻を震わせた。
- 成化八年(1472年)四月辛未、初めて雷が鳴った。
- 成化十二年(1476年)十一月癸亥、南京で大雷雨。
- 成化十三年(1477年)二月甲戌、安慶で大雪、やがて雷電が交々起こった。十一月辛未の冬至、杭州で大雷雨。戊寅、荆門州で大雷電と雨雪。
- 成化十七年(1481年)七月己亥、雷が郊壇の承天門の脊獸を震わせた。十一月丁酉、江南で大雷雨と雪。
- 𢎞治元年(1488年)五月丙子の辰刻、南京で震雷が洪武門の獸吻を壊し、巳刻には孝陵の御道の樹を壊した。六月己酉、また鷹揚衞の倉樓と聚寳門の旗竿を壊した。
- 𢎞治二年(1489年)四月庚子、また神樂觀の祖師殿を毀った。
- 𢎞治三年(1490年)七月壬子、また午門の西の城牆を壊した。
- 𢎞治六年(1493年)閏五月丁未、薊州で大風と雷、木を抜き禾を倒し、震え死ぬ牛馬があった。十二月壬戌、南京で雷雨、孝陵の樹を抜いた。
- 𢎞治七年(1494年)六月癸酉も同様であった。七月丙辰、福州で雷が城樓を焼いた。
- 𢎞治八年(1495年)十二月丙子、長沙で大雷電と雨雪。丁丑、南昌・彭水でともに大雷電と雨雪と雹、大木が折れた。
- 𢎞治十年(1497年)四月、雷が宣府の西横嶺を震わせ、南の山が三十余丈崩れた。七月乙夘、雷が吉王府の端禮門の獸吻を撃った。
- 𢎞治十二年(1499年)四月丙午、雷が楚府の承運殿を震わせた。
- 𢎞治十四年(1501年)閏七月庚辰、福州で大風と雷が教場の旗竿・城樓・大樹を撃ち壊した。
- 正徳元年(1506年)五月壬辰、雷が青州の衣甲庫の獸吻を震わせ、庫の中から火が起こった。六月辛酉、雷が西中門の柱と脊を撃ち、暴風が郊壇の松柏を折り、大祀殿および齋宮の獸瓦が多く落ちた。丙子、南京で暴風雨、雷が孝陵の白土岡の樹を震わせた。十二月己巳朔、南通州で雷が二度震った。
- 正徳四年(1509年)十二月壬寅、杭州で大雨と雷電、二日を越えてまた起こった。
- 正徳五年(1510年)六月丙申、雷が萬全衞の紫溝堡を震わせ、墩軍四人が死んだ。
- 正徳七年(1512年)五月戊辰、雷が餘千(餘干か)の萬春寨の旗竿を震わせ、刀で裂いたような形になった。閏五月丁亥、雷が成都の衞門および教場の旗竿を震わせた。
- 正徳十年(1515年)閏四月甲申、薊州の賺狗崖の東墩および新開嶺關で雷火が三十余人を震え傷つけた。
- 正徳十二年(1517年)八月癸亥、南京で歴代帝王を祭ったとき雷雨が大いに起こり、齋房の吏を震え死なせた。十二月庚辰、瑞州で大雷電。
- 正徳十六年(1521年)八月、雷が奉天門を撃った。
- 嘉靖二年(1523年)五月丁丑、雷が観象臺を撃った。
- 嘉靖四年(1525年)七月己丑、雷が南京の長安左門の獸吻を撃った。
- 嘉靖五年(1526年)四月戊寅、雷が阜城門の城樓の南角の獸吻および北の九鋪の旗竿を撃った。
- 嘉靖十年(1531年)六月丁巳、雷が徳勝門を撃ち、民家の柱を破って四人が死んだ。癸亥、雷が午門の角樓および西華門の城樓の柱を撃った。
- 嘉靖十五年(1536年)六月甲申、雷が南京の西上門の獸吻を撃ち、男女十余人を震え死なせた。
- 嘉靖十六年(1537年)五月戊戌、雷が謹身殿の䲭吻を震わせた。
- 嘉靖二十八年(1549年)六月丁酉朔、雷が奉先殿の左吻および東室の門槅を震わせた。
- 嘉靖三十三年(1554年)四月乙亥、初めて雷が鳴った。
- 嘉靖三十八年(1559年)六月丙寅、雷が奉先殿の門外の南と西の二つの壁を撃った。
- 隆慶元年(1567年)八月、大暑のさなかに雷が震い、翌日は厳冬のような大寒となり、その夕べには雷が夜明けまで震った。
- 隆慶四年(1570年)六月辛酉、雷が圜丘の廣利門の鴟吻を撃った。
- 萬厯三年(1575年)六月己夘、雷が建極殿の鴟吻を撃った。壬辰、雷が端門の鴟尾を撃った。
- 萬厯六年(1578年)七月壬子、雷が南京の承天門の左簷を撃った。
- 萬厯十三年(1585年)七月戊子、雷が郊壇の廣利門を震わせ、榜題の「利」の字および齋宮の北門の獸吻を震え傷つけた。
- 萬厯十六年(1588年)八月壬午、雷が南京の旧西安門の鐘鼓樓の獸頭を震わせた。
- 萬厯十九年(1591年)五月甲戌、太平路・喜峰路でともに雷が墩臺を撃ち、官軍を折り傷つけた。
- 萬厯二十一年(1593年)四月戊戌、雷が孝陵を震わせ、大水があった。
- 萬厯二十二年(1594年)六月己酉、雷雨があり西華門が火災に遭った。七月壬辰、雷が祈穀壇の東天門の左吻を撃った。
- 萬厯二十四年(1596年)二月己酉の夜、□縣で大雷雨、火の光が十余里にわたった。
- 萬厯二十五年(1597年)七月庚寅朔、雷が黄花鎮の臺垣および火器を焼いた。
- 萬厯三十二年(1604年)五月癸酉、雷が長陵の樓を焼き、また薊鎮の松棚路の墩臺を焼いた。
- 萬厯三十三年(1605年)五月庚子、大雷電が南郊の望燈の高い竿を撃ち焼いた。
- 萬厯三十七年(1609年)八月甲寅、雷が西城上の旗竿を裂いた。
- 泰昌元年(1620年)十月己未、雷が淮安の城樓を焼いた。
- 崇禎六年(1633年)十二月丁亥、大風雪と雷電。
- 崇禎九年(1636年)正月甲戌、雷が孝陵の樹を焼いた。
- 崇禎十年(1637年)四月乙亥、薊州で雷火が東山の二十余里を焼いた。
- 崇禎十二年(1639年)七月、雷が密雲の城の舖樓を撃ち破り、貯えてあった砲と木がみな砕けた。十月乙未の立冬、雷電が大いに起こった。
- 崇禎十四年(1641年)四月癸丑、雷火が薊州の西北に起こり、趙家谷まで焼けて二十余里に及んだ。六月丙午、雷が宣府の西門の城樓を震わせた。
- 崇禎十五年(1642年)四月癸夘、雷が南京の孝陵の樹を震わせ、火が樹から出た。
- 崇禎十六年(1643年)五月癸巳朔、雷が夜通し震ってやまず、翌日、太廟の神主が横倒しになり、諸々の銅器が火に鑠かされて熔け灰と化しているのが見つかった。六月丙戌、雷が奉先殿の鴟吻を震わせ、槅扇がみな裂け、銅の鐶がことごとく毀れた。
魚孽
- 嘉靖四十一年(1562年)二月乙亥、徳州の九龍廟で魚が降り、大きなものは数尺あった。
- 崇禎三年(1630年)三月、錢塘江で木の削りくずが魚に化し、頭と尾がまだ変わらないものもあった。
蝗蝻
- 洪武五年(1372年)六月、濟南の属県および青州・萊州の二府で蝗。七月、徐州・大同で蝗。
- 洪武六年(1373年)七月、北平・河南・山西・山東で蝗。
- 洪武七年(1374年)二月、平陽・太原・汾州・厯城・汲縣で蝗。六月、懐慶・真定・保定・河間・順徳・山東・山西で蝗。
- 洪武八年(1375年)夏、北平・真定・大名・彰徳の諸府の属県で蝗。
- 建文四年(1402年)夏、京師で飛蝗が天を蔽い、十日余りやまなかった。
- 永樂元年(1403年)夏、山東・山西・河南で蝗。
- 永樂三年(1405年)五月、延安・濟南で蝗。
- 永樂十四年(1416年)七月、畿内・河南・山東で蝗。
- 宣徳四年(1429年)六月、順天の州県で蝗。
- 宣徳九年(1434年)七月、両畿・山西・山東・河南で蝗蝻が地を覆うこと一尺ほど、稼を傷つけた。
- 十四年、両京および山東・河南で蝗蝻が稼を傷つけた。
- 正統二年(1437年)四月、北畿・山東・河南で蝗。
- 正統五年(1440年)夏、順天・河間・真定・順徳・廣平・應天・鳯陽・淮安・開封・彰徳・兖州で蝗。
- 正統六年(1441年)夏四月、保定・真定・河間・順徳・廣平・大名・淮安・鳯陽で蝗。秋、彰徳・衞輝・開封・南陽・懐慶・太原・濟南・東昌・青州・萊州・兖州・登州の諸府および遼東の廣寧前屯・中屯の二衞で蝗。
- 正統七年(1442年)五月、順天・廣平・大名・河間・鳯陽・開封・懐慶・河南で蝗。
- 正統八年(1443年)夏、両畿で蝗。
- 正統十二年(1447年)夏、保定・淮安・濟南・開封・河南・彰徳で蝗。秋、永平・鳯陽で蝗。
- 正統十三年(1448年)七月、飛蝗が天を蔽った。
- 正統十四年(1449年)夏、順天・永平・濟南・青州で蝗。
- 景泰五年(1454年)六月、寧國・安慶・池州で蝗。
- 景泰七年(1456年)五月、畿内で蝗蝻が生じて蔓延した。六月、淮安・揚州・鳯陽で大旱と蝗。九月、應天および太平など七府で蝗。
- 天順元年(1457年)七月、濟南・杭州・嘉興で蝗。
- 天順二年(1458年)四月、濟南・兖州・青州で蝗。
- 成化三年(1467年)七月、開封・彰徳・衞輝で蝗。
- 成化九年(1473年)六月、河間で蝗。七月、真定で蝗。八月、山東で旱と蝗。
- 成化十九年(1483年)五月、河南で蝗。
- 成化二十二年(1486年)三月、平陽で蝗。四月、河南で蝗。七月、順天で蝗。
- 𢎞治三年(1490年)、北畿で蝗。
- 𢎞治四年(1491年)、淮安・揚州で蝗。
- 𢎞治六年(1493年)六月、飛蝗が東南から西北へ向かい、日を掩うこと三日に及んだ。
- 𢎞治七年(1494年)三月、両畿で蝗。
- 嘉靖三年(1524年)六月、順天・保定・河間・徐州で蝗。
- 隆慶三年(1569年)閏六月、山東で旱と蝗。
- 萬厯十五年(1587年)七月、江北で蝗。
- 萬厯十九年(1591年)夏、順徳・廣平・大名で蝗。
- 萬厯三十七年(1609年)九月、北畿・徐州・山東で蝗。
- 萬厯四十三年(1615年)七月、山東で旱と蝗。
- 萬厯四十四年(1616年)四月、また蝗。七月、常州・鎮江・淮安・揚州・河南で蝗。九月、江寧・廣徳で蝗蝻が大いに起こり、禾黍・竹樹がことごとく尽きた。
- 萬厯四十五年(1617年)、北畿で旱と蝗。
- 萬厯四十六年(1618年)、畿南の四府でまた蝗。
- 萬厯四十七年(1619年)八月、濟南・東昌・登州で蝗。
- 天啓元年(1621年)七月、順天で蝗。
- 天啓五年(1625年)六月、濟南で飛蝗が天を蔽い、田禾がことごとく尽きた。
- 天啓六年(1626年)十月、開封で旱と蝗。
- 崇禎八年(1635年)七月、河南で蝗。
- 崇禎十年(1637年)六月、山東・河南で蝗。
- 崇禎十一年(1638年)六月、両京・山東・河南で大旱と蝗。
- 崇禎十三年(1640年)五月、両京・山東・河南・山西・陝西で大旱と蝗。
- 崇禎十四年(1641年)六月、両京・山東・河南・浙江で大旱と蝗。
豕祸
- 嘉靖七年(1528年)、杭州の民家で、豚の肉と膜の間に字が生じた。
- 萬厯二十三年(1595年)春、三河の民家で八匹の豚が生まれ、うち一匹は人の形に似て手足が揃い、額の上に目が一つあった。
- 萬厯三十八年(1610年)四月、燕河路營で一身二頭六蹄二尾の豚が生まれた。六月、大同後衞で二頭四眼四耳の豚が生まれた。
- 萬厯四十七年(1619年)六月、黄縣で双頭四耳一身八足の豚が生まれた。七月、寧遠で身が白く毛がなく、鼻が長くて象の嘴のような豚が生まれた。
- 天啟三年(1623年)七月、辰州の翫平溪で、猪の身に人の足をもち一つ目の豚が生まれた。
- 天啟四年(1624年)三月、神木で、額に鼻が一つ多く、逆さに生えて目が皮肉の奥に隠れ、閉じると見えない豚が生まれた。四月、榆林で一身二首二尾八足の豚が生まれた。六月、霍州で二身二眼・象の鼻・四耳四乳の豚が生まれた。
- 崇禎元年(1628年)三月、石泉で、象に似て鼻の下に一つの目が甚だ大きく、身に毛がなく皮肉がみな白い豚が生まれた。
- 崇禎六年(1633年)二月、建昌で二身一首八蹄二尾の豚が生まれた。
- 崇禎十五年(1642年)七月、聊城で一首二尾七蹄の豚が生まれた。
龍蛇之孽
- 成化五年(1469年)六月、河が杏花營で決壊し、卵が河に浮かんだ。大きさは人の頭ほど、下は尖り上は円く、質は青白で、龍の卵であろうという。
- 𢎞治九年(1496年)六月庚辰、宣府の鎮南口の墩で驟雨のさなかに火が発し、龍が刀の鞘の中から起こった。
- 𢎞治十八年(1505年)五月辛夘、正午に旋風が大いに起こり、雲が三殿を翳して、人が龍に乗って雲に入るように見えた。
- 正徳七年(1512年)六月丁夘の夜、招遠で赤い龍が空に懸かった。光は火のようで、旋回しながら上り、天鼓がこれに随って鳴った。
- 正徳十二年(1517年)六月癸亥、山陽で黒い龍が一つ現れ、龍が水を吸う音が数里に聞こえ、舟と舟にいた女を空へ攝り上げて墜とした。
- 正徳十三年(1518年)五月癸丑、常熟の俞野村で迅雷と震電があり、白龍一つ・黒龍二つが雲に乗ってともに下った。口から火を吐き、目は松明のようで、民家三百余戸を撤し去り、二十余艘の舟を空中に吸い上げ、舟人が地に墜ちて怖れ死ぬ者が多かった。この夜、紅い雨が注ぐように降り、五日でようやくやんだ。
- 正徳十四年(1519年)四月、鄱陽湖で蛟龍が闘った。
- 嘉靖四十年(1561年)五月癸酉、青浦の余山で九匹の蛟がともに起こり、水が湧いて池をなした。
- 萬厯十四年(1586年)七月戊申、舒城で大雷雨、蛟が起こること百五十八、その跡は斧で劈いたようで、山が崩れ田が陥ち、民の溺死は数知れなかった。この年、建昌の民が山で樵をしていて巨大な蛇に出会った。一本の角と六本の足があり、鶏の距のようで、噬みつきも驚きもしなかった。ある者は「これは肥□である」と言った。
- 萬厯十八年(1590年)七月、猗氏で大水、二龍が村で闘い、遺した卵を得たがまもなく失われた。
- 萬厯十九年(1591年)六月己未、公安で大水、牛のような巨大な蛇があり、首は赤く身は黒く、長さ二丈余りで、至るところ堤が潰えた。
- 萬厯三十一年(1603年)五月戊戌、厯城で大雨、二龍が水中で闘い、山の石がみな飛び、平地の水の高さは十丈に及んだ。
- 萬厯四十五年(1617年)八月、安邱の青河村で青白二龍が闘った。
馬異
- 永樂十八年(1420年)九月、諸城が龍馬を献上した。民に牝馬があって海濱で牧していたところ、ある日雲霧が暗くなり、蜿蜒とした物があって馬と交わり、龍の文様を具えた駒を産んだ。その色は青蒼で、これを龍馬というのである。
- 宣徳七年(1432年)五月、忻州の民・武煥の家の馬が一頭の駒を産んだ。鹿の耳、牛の尾、玉のような面、瓊のような蹄で、肉の文様が鱗のように体を覆っていた。七月、滄州が飼う官馬が一度に二頭の駒を産み、州はこれを瑞祥として朝廷に献じた。宣宗は「物の理として常のことだ。何ら異とするに足りない」と言った。
- 成化十七年(1481年)六月、興濟で馬が二頭の駒を産んだ。
- 𢎞治元年(1488年)二月、景寧の屏風山に異物が群れをなして現れた。大きさは羊ほど、形は白馬のようで、数は万を数え、首尾を銜え合って連なり、空に騰がって去った。
- 嘉靖四十二年(1563年)四月、海鹽に海馬が万を数え、岸を二十余里行った。その一頭は最も巨大で、高さは楼のようであった。
人痾
- 前史には一度に三男を産んだ事を多く記すが、近年は例が多くて詳しく挙げきれない。そのやや異なるものを記す。
- 洪武二十四年(1391年)八月、河南の龍門の婦人・司牡丹が、死んで三年ののち袁馬頭の屍を借りて生き返った。
- 宣徳元年(1426年)十一月、行在錦衣衞校尉・綦榮の妻の皮氏が一度に四子を産んだ。
- 天順四年(1460年)四月、揚州の民の婦が一度に五男を産んだ。
- 成化十三年(1477年)二月、南京鷹揚衞の軍・陳僧兒の妻の朱氏が一度に三男一女を産んだ。
- 成化十七年(1481年)六月、宿州の民・張珍氏の臍の下の右側が裂けて一子を生んだ。
- 成化二十年(1484年)十二月、徐州の婦人の肋の下に瘤ができ、久しくして次第に大きくなり、児が瘤から出た。
- 成化二十一年(1485年)、嘉善の民・鄒亮の妻が、初産で三子、次の産で四子、三度目の産で六子を生んだ。
- 𢎞治十一年(1498年)六月、騰驤左衞百戸・黄盛の妻の宜氏が一度に三男一女を産んだ。
- 𢎞治十六年(1503年)五月、應山の民・張夲華の妻の崔氏に長さ三寸の鬚が生えた。このとき鄭陽の商人の妻にも三筋、およそ百余本の鬚が生えた。
- 嘉靖二年(1523年)六月、曲靖衞の舎人・胡晟の妻が、二頭四手三足の男児を産んだ。
- 嘉靖四年(1525年)、横涇の農民・孔方の脇の下から肉塊が生まれ、割って見ると一人の児がそのままの姿であった。
- 嘉靖五年(1526年)、江南の民の婦が妖を産んだ。六つの目があり、頭と顔に角があり、手足はそれぞれ一節で爪は一つ、鬼のような声を立てた。
- 嘉靖十一年(1532年)、當塗の民の婦が一度に三男一女を産んだ。
- 嘉靖十二年(1533年)、貴州の安衞の軍・李華の妻が、二頭四手四足の男児を産んだ。
- 嘉靖二十七年(1548年)七月、大同右衞參將・馬繼の舎人である馬録の娘が、十七歳で男子に化した。
- 隆慶二年(1568年)十二月、静樂の男子・李良雨が婦人に化した。
- 隆慶五年(1571年)二月、唐山の民の婦が児を生んだが、左の脇から出た。
- 萬厯十年(1582年)、浙川の人が狼に化した。
- 萬厯十八年(1590年)、南宿州の民の婦が一度に七子を産み、膚と髪は紅・白・黒・青の各色であった。
- 萬厯三十七年(1609年)六月、繁峙の民・李宜の妻の牛氏が一度に二女を産んだが、頭と顔が相連なり、手足はそれぞれ分かれていた。
- 萬厯四十六年(1618年)、廣寧衞の民の婦が猿を一匹産んだ。二本の角と四本の歯があった。このとき大同の民の婦が一度に四男を産んだ。
- 崇禎八年(1635年)夏、鎮江の民の婦が一子を産んだ。頂に二つの首を戴き、臀に一つの首が贅生しており、母ともども死んだ。
- 崇禎十五年(1642年)十一月、曹縣の民の婦が二頭の児を産んだ。頂の上に目があり、手が膝を過ぎていた。
疾疫
- 永樂元年(1403年)正月、江西の建昌・撫州、福建の建寧・邵武で、前年からこの月までに疫死した者が七万八千四百余人に上った。
- 永樂八年(1410年)、登州の寧海の諸州県で、正月から六月までに疫死した者が六千余人。邵武はここ数年大疫が続き、この年の冬までに死に絶えた家が一万二千戸に及んだ。
- 永樂九年(1411年)七月、河南・陝西で疫。
- 永樂十一年(1413年)六月、湖州の三県で疫。七月、寧波の五県で疫。
- 正統九年(1444年)冬、紹興・寧波・台州で瘟疫が大いに起こり、翌年までに死者が三万余人に上った。
- 景泰四年(1453年)冬、建昌・武昌・漢陽で疫。
- 景泰六年(1455年)四月、西安・平凉で疫。
- 景泰七年(1456年)五月、桂林で疫、死者は二万余人。
- 天順五年(1461年)四月、陝西で疫。
- 成化十一年(1475年)八月、福建で大疫、江西に及び、死者は数知れなかった。
- 正徳元年(1506年)六月、湖廣の平溪・清凉・鎮遠・偏橋の四衞で大疫、死者が甚だ多かった。靖州の諸処では七月から十二月まで大疫。建寧・邵武でも八月から大疫となった。
- 正徳十二年(1517年)十月、泉州で大疫。
- 嘉靖元年(1522年)二月、陝西で大疫。
- 嘉靖二年(1523年)七月、南京で大疫、軍民の死者が甚だ多かった。
- 嘉靖四年(1525年)九月、山東で疫、死者は四千百二十八人。
- 嘉靖三十三年(1554年)四月、都城の内外で大疫。
- 嘉靖四十四年(1565年)正月、京師で饑饉となり、かつ疫が流行した。
- 萬厯十年(1582年)四月、京師で疫。
- 萬厯十五年(1587年)五月、また疫。
- 萬厯十六年(1588年)五月、山東・陝西・山西・浙江でともに大旱と疫。
- 崇禎十六年(1643年)、京師で大疫、二月から九月まで続いた。翌年春、北畿・山東で疫。
鼓妖
- 洪武五年(1372年)八月己酉、徐溝の西北の空中で雷のような音がした。
- 洪武十一年(1378年)、瑞昌で鐘のような大きな音が天から下ったが、形はなかった。
- 天順六年(1462年)九月乙巳の夜、天に雲がないのに西北方で雷のような音がした。
- 天順七年(1463年)二月の晦日の夜、空中で音がした。大学士・李賢が「形なくして音あるを鼓妖という。上が民を恤まなければこの異が起こる」と奏上した。
- 成化十三年(1477年)正月甲子、代州で雲がないのに雷が鳴った。
- 成化十四年(1478年)八月戊戌、早朝、東班の官が甲兵の音のようなものを聞き、たじろいで列をなせず、久しくしてようやく落ち着いた。
- 𢎞治六年(1493年)四月丁夘、石州の呉城驛で雲がないのに震うことが度重なった。
- 𢎞治十七年(1504年)六月甲申、江西の廬山が雷のように鳴った。
- 嘉靖二十九年(1550年)二月甲子、隆慶州の張山營堡で山が鳴った。
- 萬厯十二年(1584年)十二月乙未、蕭縣で山が鳴り、驚濤が澎湃するようで、夜通しやまなかった。
- 萬厯二十八年(1600年)八月戊戌、西北方で雷のような音がした。
- 天啟七年(1627年)八月丁巳、莊烈帝が即位した朝、空中に天鼓のような音があり、殿の西から発した。
- 崇禎十二年(1639年)十二月乙未、蕭縣で山が鳴った。この月、西山が大いに鳴り、雷のよう風濤のようであった。
- 崇禎十三年(1640年)二月壬子、浙江の省城の門が夜に鳴った。
- 崇禎十六年(1643年)冬、建極殿の鴟吻の中に鵓鳩に似た声があって「苦苦」と鳴き、その声が次第に大きくなり、さらに犬の吠える声を発して三日三晩やまなかった。翌年三月辛丑、孝陵で夜に哭く声がした。これもまた鼓妖である。
隕石
- 成化六年(1470年)六月壬申、陽信で雷の音が嘯くようで、石が一つ隕ちて三つに砕けた。外は黒く内は青かった。
- 成化十四年(1478年)六月辛亥、臨晉で天が鳴り、県の東南三十里に石が隕ちて地に三尺入った。大きさは升ほど、色は黒であった。
- 成化二十三年(1487年)五月壬寅、束鹿で空中に雷のような響きがし、青い気が地に墜ちた。掘ると黒い石を二つ得た。一つは椀ほど、一つは鶏卵ほどであった。
- 𢎞治三年(1490年)三月、慶陽で石が無数に降った。大小は一様でなく、大きなものは鵝卵、小さなものは芡の実ほどであった。
- 𢎞治四年(1491年)十月丁巳、光山で稲妻のような紅い光が西南から東北へ向かい、太鼓のような音を立て、久しくして地に入り、石に化した。大きさは斗ほどであった。
- 𢎞治十年(1497年)二月丙申、修武で黒い気が地に入って石に化した。形は羊の首のようであった。
- 𢎞治十二年(1499年)五月戊寅、朔州で迅雷のような音がし、白い気が立ち昇って大きな石が三つ隕ちた。
- 正徳元年(1506年)八月壬戌の夜、即墨に火の光が落ち、緑の石に化した。円くて高さ一尺余りであった。
- 正徳九年(1514年)五月己夘、濵州で音がして石が隕ちた。
- 正徳十三年(1518年)正月己未、鄰水に石が一つ隕ちた。
- 嘉靖十二年(1533年)五月丁未、祁縣で太鼓のような音がし、火が流れて地に墜ち石となった。
- 嘉靖四十二年(1563年)三月癸夘、懐慶に石が隕ちた。
- 隆慶二年(1568年)三月己未、保定の新城に黒い石が二つ隕ちた。
- 萬厯三年(1575年)五月癸亥、二つの流星が昼に景州の城北に隕ちて黒い石に化した。
- 萬厯十七年(1589年)九月戊午、萬載で黒い煙が立ち昇り、演武庁のかたわらに石が隕ちた。
- 萬厯十九年(1591年)四月辛酉、遵化に石が二つ隕ちた。
- 萬厯四十四年(1616年)正月丁丑、易州および紫荆關で光があって石に化し、崩れ裂けた。
- 崇禎九年(1636年)九月丁未、太康に石が隕ちた。
水潦
- 洪武元年(1368年)六月戊辰、江西の永新州で大風雨、蛟が出て江の水が城に入ること高さ八尺、民が多く溺死した。事が奏聞され、使いを遣わして賑わした。
- 洪武三年(1370年)六月、溧水県で江が溢れ民居を漂わせた。
- 洪武四年(1371年)七月、南寧府で江が溢れ城垣を壊した。衢州府の龍游県で大雨と水、民家を漂わせ男女が溺死した。
- 洪武五年(1372年)八月、嵊縣・義烏・餘杭で山谷の水が湧き、人民の溺死する者が多かった。
- 洪武六年(1373年)二月、崇明県が潮に没した。七月、嘉定府の龍游県で洋・雅の二江が漲り、翌日には南溪県の江が漲って、いずれも役所や民居を漂わせた。
- 洪武七年(1374年)八月、髙密県の膠河が溢れ禾を傷つけた。
- 洪武八年(1375年)七月、淮安・北平・河南・山東で大水。十二月、直隷の蘇州・湖州・嘉興・松江・常州・太平・寧國、浙江の杭州でともに水。
- 洪武九年(1376年)、江南・湖北で大水。七月、湖廣・山東で大水。
- 洪武十年(1377年)六月、永平で灤・漆の二水が民家を没した。七月、北平の八府で大水、城垣を壊した。
- 洪武十一年(1378年)七月、蘇州・松江・揚州・台州の四府で海が溢れ、人が多く溺死した。十月丙辰、河が蘭陽で決壊した。
- 洪武十二年(1379年)五月、青田で山水が県の役所を没した。
- 洪武十三年(1380年)十一月、崇明で潮が沙岸を決し、人畜が多く溺死した。
- 洪武十四年(1381年)八月庚辰、河が原武で決壊した。
- 洪武十五年(1382年)二月壬子、河南で河が決壊した。三月庚午、河が朝邑で決壊した。七月、河が滎澤・陽武で溢れた。この年、北平で大水。
- 七年八月丙寅、河が開封府で決壊し、数十里にわたって横流した。この年、河南・北平でともに水。
- 洪武十八年(1385年)八月、河南でまた水。この年、江浦・大名で水。
- 洪武二十三年(1390年)正月庚寅、河が歸徳で決壊した。七月癸巳、河が開封で決壊し民居を漂没させた。また海門県で風と潮が官民の家屋を壊し、漂い溺れる者が多かった。この年、襄陽・沔陽・安陽で水。
- 洪武二十四年(1391年)十月、北平・河間の二府で水。
- 洪武二十五年(1392年)正月、河が陽武で決壊し、開封の州県十一でともに水。
- 洪武二十六年(1393年)十一月、青州・兗州・濟寧の三府で水。
- 洪武二十七年(1394年)三月、寧陽の汶河が決壊した。
- 洪武二十八年(1395年)八月、徳州で大水、城垣を壊した。
- 洪武三十年(1397年)八月丁亥、河が開封で決壊し、三面みな水となって倉庫を犯した。
- 永樂元年(1403年)五月、章邱の漯河が岸を決し稼を傷つけた。南海・番禺で潮が溢れた。八月、安邱県の紅河が決壊した。
- 永樂二年(1404年)六月、蘇州・松江・嘉興・湖州の四府でともに水。七月、湖廣・江西で水。九月、河が開封で決壊し城を壊した。
- 永樂三年(1405年)三月、温縣で水が堤を四十余丈決し、濟・澇の二水が溢れた。八月、杭州の属県で水が多く、男女四百余人が浸された。
- 永樂七年(1409年)五月、安陸州で江が溢れ、渲馬灘の圩岸を千六百余丈決した。六月、夀州で水が城を決した。この年、泰興の江岸が江に崩れ落ちること三千九百余丈。渾河が固安で決壊した。
- 永樂八年(1410年)五月、平度州の濰水および浮糠河が決壊し、百十三か所を浸した。七月、平陽県で潮が溢れ家屋を漂わせた。八月庚申、河が開封で溢れた。十二月戊戌、河が汴梁で決壊し城を壊した。
- 永樂九年(1411年)正月、髙郵の甓社など九つの湖および天長の諸水が暴れ漲った。六月、揚州の属州県五つで江の潮が四日漲り、人畜を漂わせること甚だ多かった。七月、海寧で潮が溢れ、漂い溺れる者が甚だ多かった。八月、漳・衞の二水が堤を決し田を浸した。九月、雷州で颶風と暴雨、遂溪・海康を浸し、田八百余頃を壊し、溺死者は千六百余人。この年、湖廣・河南で水。
- 永樂十年(1412年)七月、盧溝の水が漲って橋および堤岸を壊し、人畜が溺死した。保定県で河が五十四か所決した。十一月、呉橋・東光・興濟・交河・天津で堤が決し稼を傷つけた。十二月、安州で水が直亭などの河口八十九か所を決した。
- 永樂十二年(1414年)十月、臨晉の洓河が逆流して姚暹渠の堰を決し、硝池に流れ込んで民田を漂没させ、塩池に及ぼうとした。崇明では潮が突如至り、家屋五千八百余家を漂わせた。
- 永樂十三年(1415年)六月、北畿・河南・山東で水が溢れ、家屋を壊し田禾を没した。臨清が特に甚だしかった。滏・漳の二水が磁州の民家を漂わせた。
- 永樂十四年(1416年)夏、南昌の諸府で江が漲り民の家屋を壊した。七月、開封の州県十四で河が堤岸を決した。永平の灤・漆の二河が溢れ民の田禾を壊した。福寧・延平・邵武・廣信・饒州・衢州・金華の七府でともに溪水が暴れ漲り、城垣・家屋を壊して人畜の溺死が甚だ多かった。遼東の遼河・代子河の水が溢れ、城垣・屯堡を浸没した。
- 永樂十八年(1420年)夏秋、仁和・海寧で潮が湧き、堤が海に崩れ落ちること千五百余丈。
- 永樂二十年(1422年)五月、廣東の諸府で潮が溢れ、家屋を漂わせ倉の糧を壊し、溺死三百六十余人。夏秋には湖廣の沔陽で江が漲り、河南の南北および鳯陽で河が溢れた。
- 永樂二十一年(1423年)五月、峩眉で溪が漲り百三十余人が溺死した。八月、瓊州府で潮が溢れ、漂い溺れる者が甚だ多かった。
- 永樂二十二年(1424年)七月、黄巖で潮が溢れ八百人が溺死した。九月庚辰、河が開封で溢れた。
- 洪熙元年(1425年)六月、驟雨で白河が溢れ、河西務・白浮・宋家などの口の堤岸を衝き決した。臨漳では漳・滏の二河が堤岸を二十四か所決した。真定の滹沱河が大いに溢れ、三州五県の田を没した。七月、容城の白溝河が漲り禾稼を傷つけた。渾河が盧溝橋の白狼窩口を決した。順天・河間・保定・灤州でともに水。
- 宣徳元年(1426年)六月・七月、江水が大いに漲り、襄陽・榖城・均州・鄖縣の江沿いの住民は半ば漂没した。黄・汝の二水が溢れ、開封の十州県および南陽・汝州・河南の嵩縣を浸した。
- 宣徳三年(1428年)五月、邵陽・武岡・湘郷で暴風雨が七昼夜続き、山水が急に増して平地で高さ六尺となった。永寧衞で大水、城を四百丈壊した。六月、渾河の水が溢れ盧溝の河堤を百余丈決した。七月、北畿の七府でともに水。
- 宣徳五年(1430年)七月、南陽で山水が氾濫して堤岸を衝き決し、人畜と家屋を漂流させた。
- 宣徳六年(1431年)六月、渾河が溢れて徐家などの口を決し、順天・保定・真定・河間の州県二十九でともに水。河が開封で決壊し八県を没した。
- 宣徳七年(1432年)六月、太原で河と汾がともに溢れ稼を傷つけた。
- 宣徳八年(1433年)六月、江西の江に瀕する八府で江が漲り、民田を漂没させ、男女の溺死は数知れなかった。
- 宣徳九年(1434年)正月、沁鄉の沁水が漲って馬曲灣を決し、獲嘉・新鄉を経て平地が河となった。五月、寧海県で潮が決し、地百七十余頃を移した。六月、渾河が東岸を決し、狼河口から小屯厰まで、順天・順徳・河間でともに水。七月、遼東で大水。
- 正統元年(1436年)閏六月、順天・真定・保定・濟南・開封・彰徳の六府でともに大水。
- 正統二年(1437年)、鳯陽・淮安・揚州の諸府、徐州・和州・滁州の諸州、河南の開封で、四月・五月に河と淮が氾濫し、住民と禾稼を漂わせた。九月、河が陽武・原武・滎澤で決壊した。湖廣の沿江六県で大水、江の堤を決した。
- 正統三年(1438年)、陽武で河が決し、武陟で沁が決し、廣平・順徳で漳が決し、通州で白河が溢れた。
- 正統四年(1439年)五月、京師で大水、官舎・民居三千三百九十区を壊した。順天・真定・保定の三府の州県および開封・衞輝・彰徳の三府でともに大水。七月、滹沱・沁・漳の三水がともに決し、饒陽・獻縣・衞輝・彰徳の堤岸を壊した。八月、白溝・渾河の二水が溢れて保定・安州の堤を決した。蘇州・常州・鎮江の三府および江寧の五県でともに水、男女の溺死が甚だ多かった。九月、滹沱がまた深州で決し、百余里を浸した。
- 正統五年(1440年)五月から七月まで、江西で江が溢れ、河南で河が溢れた。八月、潮が蕭山の海塘を決した。
- 正統六年(1441年)五月、泗州で水が一丈余り溢れ家屋を漂わせた。七月、白河が武清・漷縣の堤を二十二か所決した。八月、寧夏で長雨、水が氾濫して屯堡・墩臺を壊すこと甚だ多かった。
- 正統八年(1443年)六月、渾河が固安で決壊した。八月、台州の松門・海門で海潮が氾濫し、城郭・官亭・民舎・軍器を壊した。
- 正統九年(1444年)七月、揚子江の沙洲で潮水が溢れ漲ること高さ一丈五、六尺、男女千余人が溺れた。閏七月、北畿の七府および應天・濟南・岳州・嘉興・湖州・台州でともに大水。河南では山水が衞河に灌ぎ、衞輝・開封・懐慶・彰徳の民舎を没し、衞所の城を壊した。
- 正統十年(1445年)三月、洪洞の汾水の堤が決し、普潤驛を移してその害を遠ざけた。夏、福建で大水、延平府の衞城を壊し、三県の田禾・民舎を没して、人畜の漂流は数知れなかった。河南の州県でも大水が多かった。七月、延安衞で大水、護城の河堤を壊した。九月、廣東の衞所で大水が多かった。十月、河が山東の金龍口・陽穀の堤を決した。
- 正統十一年(1446年)六月、渾河が固安で溢れ、両畿・浙江・河南でともに連月の大雨と水。この年、太原・兗州・武昌もともに大水。
- 正統十二年(1447年)春、贑州・臨江で大水。五月、吉安で江が漲り田を浸した。
- 正統十三年(1448年)六月、大名で河が決して三百余里を浸し、家屋二万区を壊し、死者は千余人。河南・濟南・青州・兗州・東昌でもともに河が決した。七月、寧夏で大水、河が漢・唐の二壩を決し、河南の八樹口が決して曹州・濮州の二州に漫り、東昌に至って沙灣などの堤を壊した。
- 正統十四年(1449年)四月、吉安・南昌・臨江でともに水、壇廟・役所を壊した。
- 景泰元年(1450年)七月、應天で大水、民の家を没した。
- 景泰三年(1452年)六月、河が沙灣の白馬頭を七十余丈決した。八月、徐州・濟寧の間で平地の水の高さ一丈、民居がことごとく倒れた。南畿・河南・山東・陝西・吉安・袁州でともに大水。
- 景泰四年(1453年)春夏、河が沙灣で続けて決した。
- 景泰五年(1454年)六月、揚州で潮が髙郵・寳應の堤岸を決した。七月、蘇州・松江・淮安・揚州・廬州・鳯陽の六府で大水。八月、東昌・兗州・濟南の三府で大水、河が漲って田を浸した。
- 景泰六年(1455年)六月、開封・保定でともに大水。閏六月、順天で大水、灤河が氾濫して城垣・民舎を壊し、河間・永平の水害が特に甚だしかった。武昌の諸府で江が溢れ稼を傷つけた。
- 景泰七年(1456年)六月、河が開封で決し、河南・彰徳の田や家が浸没した。この年、畿内・山東でともに水。
- 天順元年(1457年)夏、淮安・徐州・懐慶・衞輝でともに大水、河が決した。
- 天順三年(1459年)六月、榖城・景陵で襄水が湧き氾濫して稼を傷つけた。
- 天順四年(1460年)夏、湖北で江が漲り麦や禾を浸没した。北畿および開封・汝寧で大水。七月、淮水が決して軍民の田や家を没した。
- 天順五年(1461年)七月、河が開封の土城を決したので磚城を築いて防いだが、三日を越えて磚城もまた潰え、水深は一丈余り、周王の後宮および官民は筏に乗って避け、城中の死者は数知れなかった。襄城では水が城門を決し溺死が甚だ多かった。崇明・嘉定・崑山・上海で海潮が衝き決し、溺死一万二千五百余人。浙江でも大水。
- 天順六年(1462年)七月、淮安で大水、潮が溢れて塩丁千三百余人が溺死した。
- 天順七年(1463年)七月、宻雲で山水が急に漲り、軍器・文書・家屋がみな没した。
- 成化三年(1467年)六月、江夏で水が江口の堤岸を決し、漢陽まで長さ八百五十丈余りに及んだ。
- 成化五年(1469年)、湖廣で大水。山西の汾水が稼を傷つけた。
- 成化六年(1470年)六月、北畿で大水。
- 成化七年(1471年)閏九月、山東および浙江の杭州・嘉興・湖州・紹興の四府でともに海が溢れ、田宅・人畜を浸すこと数知れなかった。
- 成化九年(1473年)六月、畿南の五府および懐慶でともに大水。八月、山東で大水。
- 成化十一年(1475年)五月、湖廣で水。
- 成化十二年(1476年)八月、浙江で風と潮による大水。淮安・鳯陽・揚州・徐州もともに大水。
- 成化十三年(1477年)二月甲戌、安慶で大雪、翌日は大雨で江水が暴れ漲った。閏二月、河南で大水。九月、淮水が溢れ、淮安の州県の役所と民家を壊し、人畜を浸没させること甚だ多かった。
- 成化十四年(1478年)四月、襄陽で江が溢れ城郭を壊した。五月、陝州で大水、人が多く浸死した。七月、北畿・山東で水。九月、河が開封の護城堤を五十丈決した。
- 成化十八年(1482年)七月、昌平で大水、居庸關の水門四十九、城垣・舖樓・墩臺百二を決した。八月、衞・漳・滹沱がともに溢れ、清平から天津に及んだ。
- 𢎞治二年(1489年)五月、河が開封の黄沙岡から紅船灣まで六か所決して沁河に入り、経由した州県の多くが災害を受け、省城が特に甚だしかった。七月、順天・永平・河間・保定の四府の州県で大水。八月、盧溝の河堤が壊れた。
- 𢎞治四年(1491年)八月、蘇州・松江・浙江で水。
- 𢎞治五年(1492年)夏秋、南畿・浙江・山東で水。
- 𢎞治七年(1494年)七月、蘇州・常州・鎮江の三府で潮が溢れ、平地の水は五尺、江沿いは一丈で、民が多く溺死した。
- 𢎞治九年(1496年)六月、山隂・蕭山で山が崩れ水が湧き、三百余人が溺死した。
- 𢎞治十四年(1501年)五月、貴池で水が漲り蛟が出て二百六十余人が浸死し、周辺の十二の邑もともに大水。七月、亷州および靈山で海が漲り百五十余人が浸死した。閏七月、瓊山で颶風と潮の氾濫、平地の水の高さ七尺。八月、安慶・寧國・池州・太平の四府(底本は「安寧池太」と略記)で大水、蛟が出て家屋を漂流させた。
- 𢎞治十五年(1502年)七月、南京で江水が氾濫し、湖の水が城に入ること五尺余り。
- 𢎞治十七年(1504年)六月、廬山で平地の水が一丈余り、星子・徳安の民が溺死し、家屋の漂没も甚だ多かった。
- 正徳元年(1506年)六月、陝西の徽州で河が溢れ、住民と家畜を漂没させた。
- 正徳二年(1507年)六月、固原で河が漲り、平地の水の高さ四尺、人畜が溺死した。
- 正徳三年(1508年)九月、延綏・慶陽で大水。
- 正徳五年(1510年)九月、安慶・寧國・太平の三府(底本は「安寧太」と略記)で大水、溺死は二万三千余人。十一月、蘇州・松江・常州の三府で水。
- 正徳六年(1511年)六月、汜水が暴れ漲り、百七十六人が溺死し、城垣百七十余垣を毀った。
- 正徳十二年(1517年)、順天・河間・保定・真定で大水。鳯陽・淮安・蘇州・松江・常州・鎮江・嘉興・湖州の諸府でともに大水。荆州・襄陽では江水が大いに漲った。
- 正徳十五年(1520年)五月、江西で大水。
- 正徳十六年(1521年)七月、遼陽の湯跕堡で大水、城を決した。
- 嘉靖元年(1522年)七月、南京で暴風雨、江水が湧き溢れ、郊社・陵寝・宮闕・城垣の吻・脊・欄楯がみな壊れ、樹を一万余株抜き、江の船の漂没が甚だ多かった。廬州・鳯陽・淮安・揚州の四府では同じ日に大風雨と雹があり、河水が氾濫して人畜の溺死は数知れなかった。
- 嘉靖二年(1523年)七月、揚州・徐州でまた大水。夏秋の間、山東の州県でともに大水。八月、蘇州・松江・常州・鎮江の四府で大水、開封もまた同様であった。
- 嘉靖五年(1526年)六月、陝西の五即壩で三丈余りの大水、役所を衝き決した。徐河が溢れ豐県の城を壊した。
- 嘉靖六年(1527年)秋まで、湖廣で水。
- 嘉靖十六年(1537年)秋、両畿・山東・河南・陝西・浙江がそれぞれ水害を被り、湖廣が特に甚だしかった。
- 嘉靖二十六年(1547年)七月丙辰、曹県で河が決し、城池が漂没して溺死する者が甚だ多かった。
- 嘉靖二十七年(1548年)正月、汧陽で大水、城を没した。
- 隆慶元年(1567年)夏、京師で大水。六月、新河の鮎魚口で運船数百艘が沈んだ。この年、襄陽・鄖陽で水。
- 隆慶二年(1568年)七月、台州で颶風により海潮が大いに漲り、天台山の諸水を挟んで城に入ること三日、溺死は三万余人、没した田は十五万畝、壊れた家屋は五万区であった。
- 隆慶三年(1569年)閏六月、真定・保定・淮安・濟南・浙江・江南でともに大水。七月壬午、河が沛県で決し、考城・虞城・曹州・單県・豐県・沛県から徐州に至るまで田や家を壊すこと数知れなかった。九月、淮水が溢れ、清河から通濟閘および淮安城の西まで三十里が淤まり、二つの壩を決して海に入った。莒州・沂州・郯城の水もまた溢れて邳州に出、人民の溺れることが甚だ多かった。
- 隆慶四年(1570年)七月、沙・薛・汶・泗の諸水が急に溢れ、仲家淺などの漕堤を決した。八月、陝西で大水、河が□州で決した。
- 隆慶五年(1571年)四月、また邳州で決し、曲頭集から王家口まで新しい堤が壊れた。この年、山東・河南で大水。
- 萬厯元年(1573年)七月、荆州・承天で大水。
- 萬厯二年(1574年)六月、福建の永定で大水、七百余人が溺れた。この年、海鹽で海が大いに溢れ死者は三千人。八月庚午、淮安・揚州・徐州で河が溢れ稼を傷つけた。
- 萬厯三年(1575年)四月、淮安・徐州で大水。五月、淮水が大いに決した。六月、杭州・嘉興・寧波・紹興の四府で海が数丈湧き、戦船・家屋・人畜を没すること数えきれなかった。八月、淮安・揚州・鳯陽・徐州の四府州で大水、河が髙郵・碭山および邵家口・曹家莊で決した。九月、蘇州・松江・常州・鎮江の四府でともに水。
- 萬厯四年(1576年)正月、髙郵の清水堤が決した。九月、河が豐県・沛県・曹州・單県で決した。十一月、淮と黄がともに溢れた。
- 萬厯五年(1577年)閏八月、徐州で河が淤まり、淮河が南に移って髙郵・寳應の諸湖の堤を決した。
- 萬厯六年(1578年)六月、清河で水が溢れた。
- 萬厯七年(1579年)五月、蘇州・松江・鳯陽・徐州で大水。八月にもまた水。この年、浙江で大水。
- 萬厯九年(1581年)五月、從化・増城・龍門で溪や谷が氾濫し、田禾がことごとく没して男女の浸死は数知れなかった。七月、福安で洪水が城を越え、家屋をほとんど漂没させた。八月、泰興・海門・如臯で大水、塘・圩・坡・埂がことごとく決し、溺死する者が甚だ多かった。
- 萬厯十年(1582年)正月、淮安・揚州で海が漲り、豐利など三十の塩場を浸し、二千六百余人が浸死した。七月、蘇州・松江の六州県で潮が溢れ、田禾十万頃を壊し、二万人が溺死した。
- 萬厯十一年(1583年)四月、承天で江水が暴れ漲り、民家・人畜を漂没させること数知れなかった。金州で河が溢れ城を没した。
- 萬厯十四年(1586年)夏、江南・浙江・江西・湖廣・廣東・福建・雲南・遼東で大水。
- 萬厯十五年(1587年)五月、浙江で大水。七月、開封および陝州・靈寳で河が決した。この年、杭州・嘉興・湖州・應天・太平の五府で江と湖が氾濫し、平地の水深は一丈余り。七月の終わりに颶風が大いに起こり、数百里の周囲が一望して湖となった。
- 萬厯十六年(1588年)八月、河が東光の魏家口で決した。
- 萬厯十七年(1589年)六月、浙江で海が沸き、杭州・嘉興・寧波・紹興・台州の属県で役所が多く倒れ、官民の船および戦艦が砕けて、圧され溺れた者は二百余人であった。
- 萬厯十九年(1591年)六月、蘇州・松江で大水、溺れた人は数万。七月、寧波・紹興・蘇州・松江・常州の五府の海沿いで潮が溢れ、稼を傷つけ人を浸した。九月、泗州で大水、州の役所が三尺浸り、淮水が城より高くなって祖陵が浸された。十月、揚州で湖と淮が漲り溢れ、邵伯の堤を五十余丈決し、髙郵の南北の閘がともに衝かれた。
- 萬厯二十年(1592年)夏秋、真定・順徳・廣平・大名の四府で水。
- 萬厯二十一年(1593年)五月、邳州・髙郵・寳應で大水、湖の堤を決した。
- 萬厯二十二年(1594年)七月、鳯陽・廬州で大水。
- 萬厯二十三年(1595年)四月、泗水が祖陵を浸した。
- 萬厯二十四年(1596年)秋、杭州・嘉興・湖州の三府で大水。
- 萬厯二十九年(1601年)八月、沔陽で大水が城に入った。
- 萬厯三十年(1602年)六月、京師で大水。
- 萬厯三十一年(1603年)五月、成安・永年・肥鄉・安州・深澤で漳・滏・沙・燕の河がともに溢れ、堤を決して横流し、祁州・静海では城垣と家屋がほとんど倒れた。六月、泰安で大水、八百余人を浸した。八月、泉州の諸府で海水が暴れ漲り、一万余人が溺死した。
- 萬厯三十二年(1604年)六月、昌平で大水、各陵の橋や道を壊した。七月、永平・真定・保定の三府でともに水、男女を浸すこと数知れなかった。八月、河が蘇家莊で決して豐県・沛県を浸し、黄水が逆流して濟寧・魚臺・單県に灌いだ。
- 萬厯三十五年(1607年)六月、黄州で蛟が起こり、武昌・承天・鄖陽・岳州・常徳で大水、家屋を漂没させた。徽州・寧國・太平・嚴州の四府で山水が大いに湧き、人を漂わせること甚だ多かった。閏六月、京師で大水、長安街の水深は五尺。
- 萬厯三十七年(1609年)九月、福建・江西で大水。
- 萬厯四十一年(1613年)六月、通惠河が決した。七月、京師で大水、南畿・江西・河南でともに大水。八月、山東・廣西・湖廣でともに大水。九月、遼東で大水。
- 萬厯四十二年(1614年)、浙江・江西・両廣でともに水。
- 萬厯四十四年(1616年)七月、江西・廣東で水。
- 萬厯四十六年(1618年)八月、潮州の六県で海の颶風が大いに起こり、一万二千五百余人が溺れ、民居三万間を壊した。
- 天啟三年(1623年)、睢寧で河が決した。
- 天啟六年(1626年)秋、河が堤頭灣で決して駱馬湖に倒れ込み、新安鎮から邳州・宿州まで民居がことごとく没した。この年、順天・永平の二府で大水、辺境の垣が多く倒れた。
- 崇禎元年(1628年)七月壬午、杭州・嘉興・紹興の三府で海嘯が起こり、民居数万間を壊して数万人が溺れた。海寧・蕭山が特に甚だしかった。
- 崇禎三年(1630年)、山東で大水。
- 崇禎四年(1631年)六月、また大水。
- 崇禎五年(1632年)六月壬申、河が孟縣口で決し、四百里を横に浸した。
- 崇禎七年(1634年)五月、卭州・眉州の諸州県で大水、城垣・田舎・人畜を壊すこと数知れなかった。
- 崇禎十年(1637年)八月、叙州で大水、民は州の役所や高台に登った者だけが免れ、残りはことごとく没した。
- 崇禎十三年(1640年)五月、浙江で大水。
- 崇禎十四年(1641年)七月、福州で風と潮が氾濫し、漂い溺れることが甚だ多かった。
- 崇禎十五年(1642年)六月、汴水が決した。九月壬午、河が開封の朱家寨で決し、癸未に城が倒れて、士民数十万が溺死した。
水變
- 洪武五年(1372年)、河南の黄河が涸れ、旅人が歩いて渉ることができた。
- 天順二年(1458年)十二月癸未、武强の苦い井戸が甘くなった。
- 𢎞治十五年(1502年)八月丙辰、融縣の河の水が黄河のように紅く濁った。十月丙辰、馬湖の底の渦江の水が白く澄んで鏡のようになり、翌日には泔漿のように濁って両岸の砂石の上に凝り、土の粉のようであった。十七日でようやく澄んだ。丁巳、叙州の東南の二つの河が雪のように白く、漿のように濃いことが三日続いた。
- 十五年九月丙戌、濮州の井戸が溢れ、砂と土が水とともに出た。
- 正徳元年(1506年)七月、文安の水が突然立ち上がった。この日は大寒で氷柱に凝り、高さも周囲もともに五丈、中は空洞で傍らに穴があった。数日して賊が至り、民が穴の中に避けて命を全うした者が甚だ多かった。
- 隆慶六年(1572年)夏五月、南畿の龍目井が酒に化した。
- 萬厯二十二年(1594年)四月、南京の正陽門の水が三日赤かった。
- 萬厯二十五年(1597年)八月甲申、蒲州の池塘が風もないのに波を湧かせ、三、四尺溢れた。臨淄の濠の水が突然漲り、南北から向かい合って闘った。また夏莊の大灣では潮が突然起こり、集まり散じて一定せず、集まれば一丈余り、開けば底が見えた。樂安の小清河が逆流し、臨清の磚・板の二閘では風もないのに大波が立った。
- 萬厯三十年(1602年)閏二月戊午、河州の蓮寨で黄河が涸れた。
- 萬厯四十六年(1618年)四月、宣武門・正陽門の外の水が血のように赤いこと三里、一か月でようやくやんだ。
- 萬厯四十七年(1619年)四月、宣武門の響閘から東御河まで、水がまた赤くなった。
- 崇禎十年(1637年)、寧遠衞の井戸が鳴り沸くこと三日でようやくやんだ。河南の汝水が色を変じ、深い黒で味が悪く、飲んだ者の多くが病んだ。
- 崇禎十三年(1640年)、華隂の渭水が赤くなった。
- 崇禎十四年(1641年)、山西の潞水が北へ流れること七昼夜、勢いは潮の湧くようであった。
- 崇禎十五年(1642年)、逹州の井戸が鳴り、濠の水が血に変わった。
- 崇禎十六年(1643年)、松江で五月から七月まで雨が降らず、河の水がことごとく涸れたが、泖の水は突然数尺増した。
黒眚黒祥
- 洪武十年(1377年)正月丁酉、金華・處州で墨汁のような雨水が降った。
- 洪武十四年(1381年)正月、黒い気が天を横切った。十一月壬午、黒い気が天を横切ることが再びあった。
- 洪武二十一年(1388年)二月乙夘、黒い気が天を横切った。
- 宣徳元年(1426年)二月戊子、北方の黒い気が東西に天を横切った。八月辛巳、樂安の城中に死灰のような黒い気があった。
- 正統元年(1436年)九月辛亥の未刻、黒い気が天を横切り、西南から東北へ連なった。
- 正統二年(1437年)八月甲申、北方の黒い気が東西に天を横切った。
- 正統十四年(1449年)十一月己丑の晡時、西方に地から生じる黒い気があった。
- 景泰元年(1450年)二月壬寅、黒い気が南北に天を横切った。十月辛未、西南の黒い気が烟のようで、南北に天を横切った。
- 景泰二年(1451年)四月庚辰、烟のような黒い気が地を擦って昇った。
- 天順五年(1461年)七月己亥朔、東方に黒い気があり、たちまち天を蔽った。
- 成化七年(1471年)四月丙辰、漆のような黒い砂が降った。
- 成化八年(1472年)三月庚子、黒い気が西北から起こり、臨清・徳州で昼が暗くなった。
- 成化十二年(1476年)七月庚戌、京師に黒眚が現れた。民間の男女が露宿していると、金色の目と長い尾をもつ物があり、形は犬や狸のようで、黒い気を負って窓から入り、まっすぐ奥の室にまで至った。至ると人は昏迷した。城中がこぞって驚き擾れ、刃を操り灯を張り金鼓を鳴らして逐ったが、捕らえられなかった。帝が奉天門で常朝したとき、侍衞がこれを見て騒ぎ、帝が立ち上がろうとしたのを懷恩が帝の衣を持って止め、しばらくして落ち着いた。
- 𢎞治五年(1492年)二月己巳、北方の黒い気が東西に天を横切った。
- 𢎞治六年(1493年)八月壬申、南京に黒い気があり、東西に百余丈に及んだ。
- 𢎞治十四年(1501年)四月辛未、應州で黒い気が大いに起こった。
- 𢎞治十六年(1503年)二月庚子、宜良で黒い気が空に迷い、咫尺の間も人の形を見分けられなかった。
- 正徳七年(1512年)六月壬戌、黒眚が順徳・河間および涿に現れた。大きなものは犬ほど、小さなものは猫ほどで、夜に出て人を傷つけ、死に至る者があった。まもなく京師にも現れ、形は赤黒く、風のように行って音を立てた。住民は夜に刁斗を持って互いに警め、明け方まで続き、一月を越えてようやくやんだ。のちにまた封邱に現れた。
- 正徳十二年(1517年)閏二月丁丑の夜、瑞州で紅い気が白に変わり、形は曲尺のようで、内と外の二つの黒い気が久しく闘った。
- 八年十月癸巳、杭州で黒い水が降った。
- 三十七年三月、衡州に黒眚が現れた。
- 隆慶二年(1568年)四月、天から黒い豆が降った。
- 隆慶六年(1572年)四月、杭州で黒い霧が立ち、蜿蜒として車輪のような物があり、目の光は稲妻のようで、氷雹がこれに随った。
- 萬厯二十四年(1596年)十二月辛夘、同安で黒い毛が生えた。
- 萬厯二十五年(1597年)二月癸亥、湖州で黄砂を交えた黒い雨が降った。
- 崇禎十年(1637年)、山東で黒い水が降り、新鄉でも同様であった。
- 崇禎十一年(1638年)、京師に黒眚があり、形は狸のようで、民家に入って祟をなし、半年でようやくやんだ。
- 崇禎十三年(1640年)正月丁夘、黒い気が空に満ちること三日に及んだ。