明史卷十三 本紀第十三 憲宗一

明の憲宗 朱見深、英宗の長子で母は貴妃周氏、はじめの名は見濬。英宗が衛拉特に留められた際に皇太子に立てられたが、景㤗三年に廃されて沂王となり、天順元年にあらためて皇太子に復した。天順八年に即位して翌年を成化と改元し、内批による授官を始め、于謙の冤罪を雪いだ。本巻は成化十一年までを記し、荆州・襄陽の流民の乱、四川の山都掌の蠻、開城の満俊の反乱、河套に入った阿勒楚爾・伽嘉色稜ら諸部との攻防が続いた。

年表(27件)

出自と生い立ち

  • 憲宗繼天凝道誠明仁敬崇文肅武宏徳聖孝純皇帝は、諱を見深といい、英宗の長子である。母は貴妃周氏。はじめの名は見濬。
  • 英宗が衛拉特にとどめ置かれたとき、皇太后の命で皇太子に立てられた。景㤗三年(1452年)に廃されて沂王となり、天順元年(1457年)にあらためて皇太子に立てられ、名を見深と改めた。

天順八年(1464年)

  • 正月、英宗が崩じた。乙亥、皇帝の位に即き、翌年を成化元年とし、天下に大赦して、翌年の田租の三分の一を免じた。
  • 浙江・江西・福建・陝西・臨清の鎮守の内外官、および諸辺の鎮守内官のうち正統年間に存在しなかったものをことごとく廃するよう詔した。番外へ下る使者や、事を探る官・校尉はみな召し還した。
  • 二月丙申、都御史李賓らが指揮僉事門逹を、恩をたのんで不法をはたらいたとして弾劾し、下獄のうえ辺境に戍らせた。庚子、はじめて内批(皇帝の直接の裁可)によって官を授けた。
  • 三月甲寅朔、皇后を慈懿皇太后、貴妃周氏を皇太后に尊んだ。戊午、宮人を放免した。丙寅、錦衣衛の新獄を毀った。庚午、彭教らに進士及第・出身を差をつけて賜った。癸酉、内閣・九卿に天下の地方長官を考課させるよう詔した。戊寅、団営をあらためて立てた。
  • 夏四月癸未朔、日食にあたる日であったが見えなかった。
  • 五月丁巳、大風と雨雹があり、群臣に修省を勅した。庚申、睿皇帝(英宗)を裕陵に葬った。
  • 秋七月壬申、呉氏を皇后に立てた。
  • 八月癸未、経筵に臨んだ。甲申、儒臣に日講を命じた。癸卯、皇后呉氏を廃し、太監牛玉を獄に下した。
  • 冬十月壬辰、王氏を皇后に立てた。甲辰、武挙の法を立てた。
  • 十二月甲辰、京官の雑犯の罪を免じた。
  • この年、両畿・四川・廣東・荆州・襄陽で盗賊が大いに起こり、道路が通じなくなった。安南・烏斯藏が入貢した。

成化元年(1465年)

  • 春正月乙卯、太廟を享祀した。己未、南郊で天地を大祀した。甲子、都督同知趙輔を征夷將軍・總兵官、僉都御史韓雍を贊理軍務として廣西の叛猺を討たせた。
  • 二月戊子、社稷を祭った。己丑、于謙の冤罪を雪ぐよう詔した。甲午、耤田を耕した。
  • 三月庚戌、四川の山都掌の蠻が乱を起こした。丁巳、先師孔子に釈奠した。
  • 夏五月辛酉、大きな雨雹があった。壬戌、正殿を避け食膳を減らし、群臣に修省を勅した。甲子、四川の盗賊趙鐸が乱を起こし、官軍が撃って斬った。
  • 秋七月己酉、天下の軍衛の屯糧の十分の三を免じた。甲子、両畿・浙江・河南の飢饉を賑わした。
  • 八月丁丑、工部侍郎沈義と僉都御史呉琛に両畿の飢民の賑撫を命じた。辛巳、野ざらしの遺骸を埋葬した。庚寅、瑪拉噶が延綏を犯し、總兵官房能がこれを破った。
  • 冬十二月癸卯、撫寧伯朱永を靖虜將軍・總兵官、太監唐慎を監軍、工部尚書白圭を提督軍務として荆州・襄陽の賊を討たせた。この月、韓雍が大藤峽の猺を大いに破り、峽の名を断藤と改めた。
  • この年、琉球・哈密・𤓰哇・烏斯藏が入貢した。

成化二年(1466年)

  • 春正月戊申、団営を廃した。乙卯、南郊で天地を大祀した。辛酉、英宗の神主を太廟に祔した。
  • 二月癸未、禮部侍郎鄒幹に畿内の飢民を巡視させた。
  • 三月甲辰、羅倫らに進士及第・出身を差をつけて賜った。己酉、李賢の父が卒したので喪に服することを願い出たが許されなかった。乙卯、朱永が荆州・襄陽の賊の劉通を南漳で大いに破った。
  • 閏三月癸酉、南畿の飢饉を賑わした。乙未、朱永が劉通を撃って捕らえたが、その党の石龍は逃れ、転じて四川を掠めた。
  • 夏五月癸酉、修撰羅倫が李賢の起復を論じたため、福建市舶司提舉に謫せられた。己卯、古の帝王・忠臣・烈士・名賢の陵墓を侵し損なうことを禁じた。
  • 六月甲辰、趙輔の軍が還った。乙巳、本年の天下の屯糧の十分の三を免じた。壬子、楊信を平虜將軍・總兵官、太監裴當を監督軍務として延綏で敵を防がせた。
  • 秋七月辛巳、弟の見治を忻王、見沛を徽王に封じた。戊戌、瑪拉噶が固原を犯した。
  • 八月丁巳、寧夏を犯し、都指揮焦政が戦死した。丁卯、于謙を諭祭し、その子の冕の官を復した。
  • 冬十月丁未、朱永が石龍を撃って捕らえ、賊は平定された。永の爵を侯に進めた。
  • 十二月甲寅、李賢が卒した。丙辰、太常寺少卿兼翰林院侍讀學士劉定之を入閣させ機務にあずからせた。癸亥、鎮守開原太監韋朗が軍律違反に問われたが、赦して問わなかった。この月、断藤峽の賊がふたたび起こった。
  • この年、哈密・琉球・安南・烏斯藏・衛拉特が入貢した。

成化三年(1467年)

  • 春正月己卯、南郊で天地を大祀した。丙申、撫寧侯朱永を平胡將軍・總兵官として楊信と合流し瑪拉噶を討たせた。
  • 二月丁酉朔、日食があった。丁巳、湖廣總兵官李震が靖州の苗を討って破った。
  • 三月戊辰、商輅を召して兵部侍郎とし、ふたたび入閣させた。己巳、瑪拉噶が大同を犯した。辛巳、浙江・福建・四川・雲南の銀場をあらためて開き、内臣にこれを管掌させた。
  • 夏四月、四川で地震が続いたので、官吏に修省を勅し、使者を遣わしてその地の山川を祭らせた。乙巳、囚を録した。癸丑、団営をあらためて立てた。
  • 六月戊申、雷が南京の午門を撃ったので、群臣に修省を勅した。辛酉、襄城伯李瑾を征夷將軍・總兵官、兵部尚書程信を提督軍務、太監劉恒を監軍として山都掌の蠻を討たせた。
  • 秋七月乙酉、河南の採辦を停めた。
  • 九月辛未、湖廣・江西の飢饉を賑わした。
  • 十二月庚子、左庶子黎淳が景㤗年間の廃立の事をさかのぼって論じたが、帝は「景泰の事はすでに過ぎたことであり、しかも臣下が口にすべきことではない」として厳しく責めた。辛丑、編修章懋・黄仲昭、校討荘㫤が上元の張燈をやめるよう諫めたため、杖と謫を差をつけて科した。この月、程信が山都掌の蠻を破って平定した。
  • この年、琉球・哈密・占城・烏斯藏が入貢した。朝鮮が海青と白鵲を献じたので、献上に及ばぬと諭した。

成化四年(1468年)

  • 春正月甲戌、南郊で天地を大祀した。
  • 三月甲子、湖廣の被災地の秋糧を免じた。甲申、勲戚が民の田を請い求めることを禁じた。
  • 夏四月庚寅、慶雲伯周壽が涿州の田を求めたので許した。丁巳、囚を録した。陳文が卒した。
  • 五月癸未、使者を遣わして天下の囚を録させた。
  • 六月丙午、江西の被災地の秋糧を免じた。辛亥、開城の賊満俊が反したので、陝西總兵官の寧遠伯任壽と巡撫都御史陳价が討った。甲寅、慈懿皇太后が崩じた。
  • 秋七月癸酉、都督同知劉王を平虜副將軍・總兵官、太監劉祥を監軍、副都御史項忠を總督軍務として満俊を討たせた。
  • 八月癸巳、京師で地震。乙卯、朱永が劉玉に代わって總兵官となった。この月、任壽・陳价と寧夏總兵官の廣義伯呉琮が満俊と戦って敗れ、都指揮蒋㤗・申澄が殺された。
  • 九月庚申、孝莊睿皇后を裕陵に葬った。辛酉、陝西の飢饉を賑わした。壬申、地震と星の変異により詔を下してみずからを責め、群臣に修省を勅した。甲申、給事中董旻と御史胡深ら九人が商輅および禮部尚書姚夔の罷免を請うたので、下獄して杖たれた。
  • 冬十月乙未、項忠が石城で賊を破ったが、伏羌伯毛忠が戦死した。
  • 十一月壬戌、瑪拉噶が遼東を犯し、指揮胡珍が戦没した。この月、項忠が満俊を撃って捕らえ、京師に送って誅に伏させた。
  • 十二月己酉、瑪拉噶が延綏を犯し、都指揮僉事許寧が撃退した。
  • この年、琉球・烏斯藏・哈密・日本・滿剌加が入貢した。

成化五年(1469年)

  • 春正月乙丑、南郊で天地を大祀した。
  • 三月辛丑、張昇らに進士及第・出身を差をつけて賜った。
  • 夏五月辛丑、禮部侍郎萬安に翰林院學士を兼ねさせ入閣して機務にあずからせた。
  • 六月癸丑朔、日食があった。辛酉、囚を録した。
  • 秋八月辛酉、劉定之が卒した。
  • 冬十一月乙未、瑪拉噶が延綏を犯した。
  • この年の冬、阿勒楚爾が河套に入って居した。琉球・哈密・烏斯藏・滿剌加・安南・吐魯番が入貢した。

成化六年(1470年)

  • 春正月己丑、南郊で天地を大祀した。己亥、大同總兵官楊信が胡柴溝で瑪拉噶を破った。
  • 二月辛未、大理寺少卿宋旻、侍郎曽翬・原傑・王琛、副都御史滕昭に畿南・浙江・河南・四川・福建を巡視させ、官吏を考察し軍民の疾苦を調べさせた。その他の直隷・諸省で巡撫等の官がある地にも同様にせよと命じた。丁丑、郊壇で雨乞いをした。戊寅、廣西の飢饉を賑わした。
  • 三月甲申、湖廣・山東の被災地の税糧を免じた。壬寅、延綏の屯田を詔し、朱永を平虜將軍・總兵官、太監傅恭・顧恒を監軍、王越を參贊軍務として、延綏で阿勒楚爾を□(底本欠字)させた。
  • 夏五月丙申、畿内・山東・河南の飢饉を賑わした。丁酉、王越が延綏の東路で阿勒楚爾を破った。
  • 六月戊申朔、日食があった。
  • 秋七月己卯、皇子祐樘が生まれた。壬午、朱永が雙山堡で阿勒楚爾を破った。丙戌、都御史項忠と侍郎葉盛に畿輔の飢民を賑わせ、都督李㫤に屯営の撫治を命じた。甲辰、總兵官房能が開荒川で阿勒楚爾を破った。この月、南畿・四川の被災地の税糧を免じた。
  • 八月辛亥、山西の飢饉を賑わした。癸丑、水害と旱害が相次いだため、詔を下して寛恤を行った。
  • 冬十月、畿内・河南・山東の被災地の税糧を免じた。
  • 十一月癸未、荆州・襄陽の流民が乱を起こしたので、項忠に河南・湖廣・荆襄の軍務を總督させて討たせた。この月、博勒呼が河を渡って阿爾楚と合流した。
  • 十二月庚戌、使者十四人を遣わして畿輔を分けて賑わせた。
  • この年、琉球・哈密・烏斯藏が入貢した。

成化七年(1471年)

  • 春正月辛巳、京官五品以上および給事中・御史に、州県の任に堪える者を各一人推挙させた。丙戌、南郊で天地を大祀した。この月、漕粟の長運法を立てた。
  • 二月、蕪湖・荆州・杭州の鈔關を増設した。
  • 夏四月己巳、囚を録した。
  • 五月辛巳、京師の野ざらしの遺骸を埋葬した。
  • 秋八月甲辰、山東・浙江の水害を賑わした。
  • 閏九月己未、浙江で潮が溢れ、民家と塩場を押し流したので、工部侍郎李顒を遣わして海神を祭り堤岸を修築させた。
  • 冬十月乙亥、王恕を刑部侍郎として河道を総理させた。
  • 十一月甲寅、皇子祐極を皇太子に立て、大赦した。己未、荆州・襄陽の賊が平定され、生業に復した流民は百四十余万人に及んだ。
  • 十二月甲戌、彗星が現れたので、詔を下してみずからを責め、群臣に修省し時政の得失を条陳するよう勅した。壬午、彗星が紫微垣に入ったので、正殿を避け楽を撤し、奉天門で政を聴いた。甲申、はじめて文華殿で閣臣を召し見た。朱永を召し還し、王越に延綏の軍務を總督させた。辛卯、死罪以下を減じた。
  • この年、伽嘉色稜が河套に入って居し、阿勒楚爾と合流した。安南の黎灝が占城を攻めて破った。琉球・安南が入貢した。

成化八年(1472年)

  • 春正月庚戌、南郊で天地を大祀した。癸亥、皇太子が薨じた。この月、延綏參將錢亮が安邊營で瑪拉噶を防いだが敗れ、都指揮栢隆・陳英が戦死した。伽嘉色稄が固原・平涼を犯した。
  • 二月丙子、山西・河南の翌年の賦を前もって徴収した。
  • 三月癸丑、呉寛らに進士及第・出身を差をつけて賜った。
  • 夏四月、京師が旱魃となり運河の水が涸れた。癸酉、使者を遣わして郊社・山川・淮瀆・東海の神に祈らせた。乙酉、囚を録した。丁亥、使者を遣わして天下の囚を録させた。
  • 五月癸丑、武靖侯趙輔を平虜將軍・總兵官として各辺の軍馬を節制させ、王越とともに伽嘉色稜を防がせた。
  • 秋九月丙午、安南の黎灝に占城から侵し取った地を返すよう諭した。
  • 冬十一月己酉、寧晉伯劉聚を趙輔に代えて將軍とし、延綏に駐屯させた。
  • 十二月癸酉、京師の飢民を賑わした。
  • この年、博勒呼と伽嘉色稜がしばしば安邊營・花馬池に入り、固原・寧夏・平涼・臨洮・鞏昌・環県・慶陽・通渭を犯した。琉球・哈密・安南が入貢した。

成化九年(1473年)

  • 春正月丁未、南郊で天地を大祀した。壬子、劉聚と王越が漫天嶺で伽嘉色稜を破った。この月、吐魯番の素爾坦阿里が哈密を破って占拠した。
  • 三月、畿南・山東が大飢饉となり、民が互いに食らうに至った。
  • 夏四月辛酉朔、日食があった。甲子、福餘三衞が遼東を侵し、總兵官歐信が撃退した。戊辰、山東の税糧をことごとく免じ、京畿の野ざらしの遺骸を埋葬した。壬午、西苑で武臣の騎射を閲した。
  • 秋七月壬辰、巡撫延綏都御史余子俊が榆林澗で伽嘉色稜を破った。
  • 九月辛卯、鎮守浙江中官李義が寧波衛指揮馬璋を杖殺したが、詔して問わなかった。庚子、王越が紅鹽池で們都埒・博勒呼・伽嘉色稜を襲って大いに破り、諸部はしだいに河套から出た。
  • 冬十一月丁酉、あらためて西苑で騎射を閲した。
  • この年、湖廣・畿内・山西・南畿・陝西の被災地の税糧を免じ、畿内・陝西の飢饉を賑わし、山西は再度、山東は三度賑わした。哈密・琉球・暹羅が入貢した。

成化十年(1474年)

  • 春正月丁亥朔、京師の貧民を賑わした。丁酉、南郊で天地を大祀した。癸卯、王越に延綏・甘肅・寧夏の三辺を總制させ、固原に駐まらせた。丙午、劉聚を召し還した。
  • 三月、南畿・湖廣の被災地の秋糧を免じた。
  • 夏五月戊申、袄書を隠し持つことの禁を重ねて申し渡した。この月、山西・陝西の被災地の秋糧を免じた。
  • 閏六月乙巳、紫城砦から花馬池まで辺牆を築いた。
  • 秋七月甲寅、江西の被災地の秋糧を免じた。
  • 八月辛卯、都督同知趙勝を平虜將軍・總兵官、太監劉恒・覃平を監軍として伽嘉色稜を討たせた。
  • 九月癸丑朔、日食があった。乙卯、南畿の水害の秋糧を免じた。
  • 冬十一月丙子、河南の被災地の税糧を免じた。
  • 十二月己丑、寶慶など諸府の採金を廃した。甲午、袄書の名を記して天下に示した。
  • この年、琉球・烏斯藏・吐魯番が入貢した。

成化十一年(1475年)

  • 春正月癸亥、南郊で天地を大祀した。
  • 二月甲申、酷刑を禁じた。
  • 三月壬子、謝遷らに進士及第・出身を差をつけて賜った。辛未、彭時が卒した。
  • 夏四月乙酉、吏部侍郎劉珝と禮部侍郎劉吉にともに翰林學士を兼ねさせ入閣して機務にあずからせた。壬辰、乾清門が火災に遭った。己亥、囚を録した。
  • 五月丁卯、はじめて皇子祐樘を西内に召し見た。癸酉、湖廣の被災地の秋糧を免じた。
  • 秋八月辛巳、通惠河を浚渫した。丁亥、都埒と伽嘉色稜に使者を遣わして来朝させた。
  • 九月丁未朔、日食があった。
  • 冬十一月癸丑、皇子祐樘を皇太子に立て、大赦した。
  • 十二月戊子、郕王の帝号を復した。丁酉、自宮(自ら宦官となること)の禁を重ねて申し渡した。
  • この年、吐魯番・琉球・暹羅・滿剌加・安南が入貢した。琉球の貢使は二年に一度来るよう命じた。