明史卷十二 本紀第十二 英宗後紀
明の英宗 朱祁鎮の復辟後、天順元年から崩御までを記す巻。石亨・徐有貞・曹吉祥らの奪門によって南宮から迎えられて復位し、于謙・王文を殺した。しかしその功臣たちも次々に失脚し、石亨は獄死、曹吉祥・曹欽は反して誅滅された。晩年は寳喇の侵入や大藤峽の猺賊に悩まされ、天順八年に三十八歳で崩じた。臨終に遺詔して宮妃の殉葬を廃した。
年表(24件)
- 天順元年1457年正月、石亨・徐有貞・曹吉祥らが南宮から迎えて復位させ、景泰八年を天順元年と改める
- 天順元年1457年于謙と王文を殺して家産を没収し、陳循・江淵らを謫す
- 天順元年1457年奪門の功で石亨を忠國公、張軏を太平侯、徐有貞を武功伯に封じる
- 天順元年1457年巡撫・提督の官を廃し、軍民の事務を總兵官に処理させる
- 天順元年1457年二月、景泰帝を廃して郕王とし、その月のうちに郕王が薨じる
- 天順元年1457年三月、長子 見深をあらためて皇太子に立て、皇子四人を王に封じる
- 天順元年1457年四月、団営を廃する
- 天順元年1457年六月、徐有貞・李賢を獄に下し、有貞はのち金齒に放たれる
- 天順元年1457年十月、王振に祭葬を賜い、祠を立てて旌忠と名づける
- 天順元年1457年建文帝の幼子 文圭とその家族を釈放し、鳳陽に安置する
- 天順二年1458年四月、巡撫官をあらためて設ける
- 天順三年1459年八月、大同を鎮めようと謀った石彪を錦衣衞の獄に下す
- 天順三年1459年十月、石亨が罷免され、奪門で功を偽った者に自首を許す
- 天順三年1459年霜降ごとに囚を録することを恒例とし、章奏に「奪門」の字を用いぬよう詔する
- 天順四年1460年正月、石亨が怨望・流言により下獄して死に、二月に石彪が棄市される
- 天順四年1460年八月、寶喇が三道から侵入し、雁門を破って忻・代・朔を掠める
- 天順五年1461年七月、曹吉祥・曹欽が反して寇深・呉瑾を殺し、孫鏜が討ち平らげる
- 天順五年1461年曹吉祥を市で磔にして一族を誅滅し、大赦して直言を求める
- 天順六年1462年寶喇が使者を遣わして入貢する
- 天順六年1462年九月、皇太后が崩じ、十一月に孝恭章皇后を葬る
- 天順七年1463年三月、旱魃のため寛恤の政を行い、各地の銀場を停める
- 天順七年1463年閏七月、宣宗の廃后 胡氏に尊諡を上る
- 天順八年1464年正月、遺詔して宮妃の殉葬を廃し、崩じる。年三十八
- 天順八年1464年三月、廟号を英宗として裕陵に葬る
天順元年(1457年)
- 春正月壬午の未明、武清侯石亨、都督張輗・張軏、左都御史楊善、副都御史徐有貞、太監曹吉祥が兵をもって南宮に帝を迎え、奉天門に出御して百官の朝を受けた。徐有貞に、もとの官のまま翰林學士を兼ねさせ、入閣して機務にあずからせた。日中に奉天殿に出御して即位した。兵部尚書于謙と大學士王文を錦衣衞の獄に下した。太常寺卿許彬と大理寺卿薛瑄を禮部侍郎兼翰林學士として入閣させ機務にあずからせた。
- 丙戌、詔して天下に赦を下し、景泰八年を天順元年と改めた。奪門・迎復の功を論じ、石亨を忠國公、張軏を太平侯、張輗を文安伯、楊善を興濟伯に封じ、曹吉祥の嗣子欽を都督同知とした。
- 丁亥、于謙と王文を殺し、その家産を没収した。陳循・江淵・俞士悦は謫せられて辺境に戍り、蕭鎡・商輅は除名された。
- 己丑、あらためて奪門の功を論じ、孫鏜を懐寧伯、董興を海寧伯に封じ、欽天監正楊序を禮部右侍郎とした。官舍・旗軍で位階を進められた者は総計三千余人にのぼった。
- 辛卯、巡撫・提督の官を廃し、軍民の事務は總兵官がこれを処理し、巡按御史が不法を糺すこととした。
- 壬辰、于謙の党人を掲示して天下に示した。甲午、昌平侯楊俊を殺した。
- 二月乙未朔、景泰帝を廃して郕王とした。庚子、高榖が致仕した。湯序が景泰の年号を削ることを請うたが許さなかった。癸卯、吏部侍郎李賢に翰林學士を兼ねさせ入閣して機務にあずからせた。都督范廣を殺した。戊申、柳溥が廣西の蠻を破った。癸丑、郕王が薨じた。戊午、方瑛と石璞が湖廣の苗を大いに破り、璞を召し還した。壬戌、南畿の被災地の秋糧を免じた。
- 三月己巳、長子見深をあらためて皇太子に立て、皇子見潾を徳王、見㴻を秀王、見澤を崇王、見俊を吉王に封じた。癸酉、徐有貞を武功伯に封じた。乙亥、文武の軍民に大いに賜与した。庚辰、黎淳らに進士及第・出身を差をつけて賜った。石亨を征虜副將軍として綏徳・延安方面の敵を掃討させた。丁亥、山東の飢饉を賑わした。
- 夏四月甲午朔、災異がしばしば現れたので直言を求めた。乙未、浙江の被災地の税糧を免じた。丁酉、方瑛が銅鼓・藕洞の苗を攻めてことごとく平らげた。丁未、囚を録した。癸丑、団営を廃した。乙卯、寳喇が寧夏を侵し、參將种興が戦死した。
- 五月辛未、安遠侯柳溥に宣府・大同の辺備を命じた。この月、石亨の言により御史楊瑄・張鵬を下獄した。
- 六月甲午、諸御史をことごとく捕らえて下獄し、右都御史耿九疇と副都御史羅綺を錦衣衞の獄に下した。己亥、徐有貞と李賢を錦衣衞の獄に下した。この日、大風と雨雹があって奉天門の鴟吻を壊したので、修省を勅した。庚子、徐有貞・李賢・羅綺・耿九疇を外任に謫し、楊瑄・張鵬を辺境に戍らせた。通政司參議兼侍講吕原を入閣させ機務にあずからせた。壬寅、薛瑄が致仕した。癸卯、修撰岳正を入閣させ機務にあずからせた。甲辰、李賢を吏部侍郎に復した。乙巳、貴州巡撫副都御史蔣琳が于謙の党とされて棄市された。
- 秋七月乙丑、あらためて徐有貞を獄に下した。丙寅、承天門が火災に遭った。丁卯、みずから南郊で祈祷した。戊辰、修省を勅した。庚午、李賢がふたたび入閣し、許彬を南京禮部侍郎に改めた。辛未、岳正を欽州同知として出し、まもなく下獄して謫戍させた。癸酉、大赦した。癸未、徐有貞を金齒に放った。辛卯、諸辺の軍士に大いに賜与した。
- 八月甲午、彗星がしばしば現れたので、みずから上帝に祈祷した。
- 九月甲子、太常少卿彭時に翰林學士を兼ねさせ入閣して機務にあずからせた。
- 冬十月丁酉、王振に祭葬を賜い、祠を立てて旌忠と名づけた。壬寅、江西の処士呉與弼を召した。丙辰、建文帝の幼子文圭およびその家族を釈放し、鳳陽に安置した。
- 十一月甲戌、廣西總兵官朱瑛に田州の叛蠻を討たせた。己丑、山東の被災地の夏税を免じた。
- 十二月壬辰、曹欽を昭武伯に封じた。辛丑、安遠侯柳溥を總兵官として甘州・涼州で寳喇を防がせた。
- この年、琉球中山・安南・暹羅・占城・哈密・烏斯藏が入貢した。
天順二年(1458年)
- 春正月辛酉、兵部尚書陳汝言が贓罪により下獄した。乙丑、太廟を享祀した。甲戌、南郊で天地を大祀した。己卯、皇太后に尊号を上った。
- 二月戊申、雲南・福建・浙江の銀場をあらためて開き、中官を遣わして雲南の珍宝を買い付けさせた。
- 閏二月己卯、土木の野ざらしの遺骸を埋葬した。
- 夏四月、巡撫官をあらためて設けた。
- 五月壬寅、処士呉與弼に左諭徳を授けたが、病を理由に辞して拝命せず、まもなく郷里へ送り帰した。
- 秋七月癸卯、定遠伯石彪を平夷將軍・總兵官として寧夏で敵を防がせた。
- 八月戊辰、寶喇が鎮番を侵した。
- 冬十月甲子、南海子で狩猟した。壬午、武平伯陳辰を征夷將軍・總兵官として寧夏で敵を掃討させた。
- 十一月甲寅、山東の秋糧を免じた。
- この年、安南・烏斯藏・占城・哈密が入貢した。
天順三年(1459年)
- 春正月乙未、南郊で天地を大祀した。甲辰、定遠伯石彪と彰武伯楊信が安邊營で寶喇を破ったが、都督僉事周賢と都指揮李鑑が戦死した。彪を侯に進めた。
- 二月丁卯、御史および中官を遣わして廣東で採珠させた。
- 夏四月壬子、巡撫兩廣僉都御史葉盛が瀧水の猺を破った。己巳、南和侯方瑛が貴州の苗に克った。
- 六月辛酉、あらためて巡撫官に八月に京師へ集まって事を議するよう命じた。
- 秋八月庚戌、石彪が大同を鎮めようと謀ったため錦衣衞の獄に下した。己未、文武の大臣・給事中・御史・錦衣衞の官が互いに往来して通じ合うことを禁じ、違反する者は鉄榜の例により罪を論ずるとした。乙亥、湖廣の被災地の秋糧を免じた。
- 冬十月乙未、南海子に行幸した。庚午、石亨が罪により罷免され、奪門で功を偽った者たちには自首して改め正すことを許した。この月、法司に廷臣と会して毎年霜降に囚を録させ、以後これを恒例とした。
- 十一月癸巳、湖廣の飢饉を賑わした。
- 十二月辛亥、章奏に「奪門」の字を用いないよう詔した。
- この年、哈密・琉球中山・錫蘭山・滿刺加が入貢した。
天順四年(1460年)
- 春正月丁亥、南郊で天地を大祀した。癸卯、石亨が怨望して流言を作ったとして下獄し、まもなく死んだ。
- 二月壬子、獞が梧州を陥れた。丁卯、石彪が棄市された。
- 二月庚辰、王一夔らに進士及第・出身を差をつけて賜った。戊戌、南畿の被災地の秋糧を免じた。
- 夏四月己酉、内臣を分遣して浙江・雲南・福建・四川の銀課を監督させた。壬子、襄王瞻墡が来朝した。
- 五月壬午、畿内・浙江の被災地の秋糧を免じた。己亥、中官が蘇州・杭州の織造を監督することを取り止めた。
- 六月癸亥、湖廣の被災地の税糧を免じた。
- 秋七月乙亥朔、日食があった。辛卯、鳳陽・安慶・南陽では五月からこの月まで雨が続き、淮水が決壊して軍民の田や家屋を水没させたので、使者を遣わして賑恤した。
- 八月甲子、寶喇が三道から侵入し、大同總兵官李文と宣府總兵官楊能がこれを防いだ。癸酉、寶喇が雁門に入り、忻州・代州・朔州の諸州を掠めた。
- 九月庚辰、寶喇が大同右衞を包囲した。庚寅、撫寧伯朱永と都督白玉・鮑政に宣府の辺備を命じた。甲午、江西の被災地の秋糧を免じた。
- 冬十月甲子、西苑で京營の将領の騎射を閲した。戊辰、南海子に行幸した。
- 十一月丁酉、西苑で随操の武臣の騎射を閲した。
- 閏十一月己未、鄭村壩に行幸して甲仗・軍馬を閲した。
- この年、琉球中山・安南・占城・瓜哇・哈密・烏斯藏が入貢した。
天順五年(1461年)
- 春正月庚戌、南郊で天地を大祀した。
- 二月己卯、山東の被災地の税糧を免じた。丙申、都督僉事顔彪を征夷將軍・總兵官として廣西の大藤峽などの猺賊を討たせた。
- 三月壬子、蘇州・松江・常州・鎮江の被災地の税糧を免じた。甲寅、湖廣・貴州總兵官李震が廣西の軍と合流して猺・獞を掃討し、ことごとく破った。
- 夏四月癸巳、兵部侍郎白圭に陝西の諸辺を督して寳喇を討たせた。
- 五月丁未、河南の被災地の秋糧を免じた。
- 六月丙子、寳喇が河西を侵し、官軍が敗れた。壬午、兵部尚書馬昂に軍務を總督させ、懷寧伯孫鏜を總兵官として京營の軍を率いて防がせた。
- 秋七月庚子、總督京營太監曹吉祥および昭武伯曹欽が反し、左都御史寇深と恭順侯呉瑾が殺され、内閣學士李賢が傷を負った。懷寧伯孫鏜が兵を率いて討ち平らげた。癸卯、吉祥を市で磔にし、その一族を誅滅した。その党の湯序らもことごとく誅に伏した。丁未、南畿の被災地の税糧を免じた。庚戌、大赦して直言を求めた。丁巳、河が開封および襄城で決壊したので、侍郎薛遠を遣わして治めさせた。戊午、都督馮宗を總兵官として西河で敵を防がせ、兵部侍郎白圭と副都御史王竑を參贊軍務とした。辛酉、寶喇が書を奉って和を乞うたので、使者を遣わして返答した。
- 九月壬戌、京師で音を伴う地震があった。
- 冬十月壬申、西辺の用兵のため、河南・山西・陝西の士民で馬を納める者に冠帯を与えることとした。
- 十一月丁酉朔、日食があった。壬戌、南海子に行幸した。
- この年、安南・琉球中山・哈密・伊蘭巴里が入貢した。
天順六年(1462年)
- 春正月丁未、南郊で天地を大祀した。戊申、寶喇が使者を遣わして入貢した。
- 二月癸酉、寶喇を諭した。
- 三月癸丑、馮宗らを召し還した。
- 夏四月壬申、河南の被災地の秋糧を免じた。
- 五月庚子、顔彪が大藤峽の賊を平定したと奏上した。己未、陝西の被災地の秋糧を免じた。
- 六月戊辰、淮王祁銓が来朝した。
- 秋七月、淮安で海が溢れた。
- 九月乙未、皇太后が崩じた。
- 冬十一月甲午、孝恭章皇后を葬った。
- この年、琉球中山・哈密・烏斯藏・暹羅が入貢した。
天順七年(1463年)
- 春正月丙午、南郊で天地を大祀した。
- 二月壬戌、詹事陳文を禮部侍郎兼翰林學士として入閣させ機務にあずからせた。
- 三月壬寅、旱魃のため寛恤の政を行うよう詔し、各地の銀場を停めた。
- 夏四月壬午、宣府・大同の巡按御史李蕃を逮捕し、長安門で首枷をかけ、まもなく死んだ。丙戌、あらためて中官を遣わして蘇州・杭州の織造を監督させた。
- 五月己丑朔、日食があった。甲寅、遼東巡按御史楊璡が擅断で軍職の者を鞭打ったとして逮捕・処断された。
- 六月丁卯、山西巡按御史韓祺を逮捕し、長安門で首枷をかけ、数日で死んだ。
- 秋七月庚戌、陝西の被災地の税糧を免じた。
- 閏七月甲戌、宣宗の廃后胡氏に尊諡を上った。戊寅、湖廣・貴州に会師して洪江の叛苗を討たせた。
- 九月甲戌、廣東總兵官歐信に廣西の兵と合流して猺賊を討つよう勅した。
- 冬十月丁酉、西安の諸府の飢饉を賑わした。丁未、巡撫廣西僉都御史呉楨に両廣の諸軍を節制させて猺賊を討たせた。
- 十一月癸酉、賊が梧州を陥れ、致仕した布政使宗欽が死んだ。壬午、右都御史李賓と副都御史林聰を錦衣衞の獄に下した。
- 十二月辛卯、刑部尚書陸瑜と侍郎周瑄・程信を錦衣衞の獄に下し、まもなく釈放した。
- この年、琉球中山・哈密・安南・烏斯藏が入貢した。
天順八年(1464年)
- 春正月乙卯、帝が病んだ。己未、皇太子が文華殿で事を摂した。己巳、病が篤くなり、遺詔して宮妃の殉葬を廃した。庚午、崩じた。年三十八。
- 三月乙未、尊諡を上り、廟号を英宗とした。裕陵に葬った。
史論
- 賛に曰く。英宗は仁宗・宣宗の業を受け継ぎ、海内は富み栄え、朝野は静穏であった。大臣には三楊(楊士奇・楊榮・楊溥)・胡濙・張輔のように累朝にわたる勲旧が遺命を受けて政を輔け、綱紀もまだ緩んではいなかった。
- ただ王振が権を擅にして釁隙を開き、ついには乗輿が播遷する(帝が都を離れ捕らわれる)にまで至った。それでいて復辟ののちもなお王振を追慕してやまなかったのは、なんという惑いであろうか。
- 前後あわせて在位二十四年、威福の権は下に移り、刑罰も賞賜も乱れ、失政も多かった。それを、盛徳の事跡を列挙して大した悪政はなかったとする者があるが、それが篤実な議論といえようか。