明史明文卷十一 本紀第十一 景帝

明の景帝、諱は祁鈺。宣宗の次子で母は賢妃 呉氏、英宗の即位により郕王に封じられた。正統十四年の土木の変で兄が北へ連れ去られると監国を命じられ、ついで即位して英宗を太上皇帝と遥尊した。于謙を用いて京師防衛を固め、額森の攻囲を退けて上皇の帰還を実現した。のち皇太子 見深を廃して子の見濟を立てたが、その子は早世し、景㤗八年に石亨・徐有貞の奪門により廃されて郕王に戻り、西宮で三十歳で薨じた。成化十一年に帝号を復された。

年表(24件)

出自と監国(正統十四年、1449年)

  • 恭仁康定景皇帝は、諱を祁鈺といい、宣宗の次子である。母は賢妃呉氏。英宗が即位すると郕王に封じられた。
  • 正統十四年秋八月、英宗が北へ連れ去られると、皇太后が王に監国を命じた。
  • 丙寅、通州の糧を京師に移し、両畿・山東・河南の備倭・運糧の諸軍を徴発して京の守りに入れ、寧陽候陳懋の軍を召し還した。
  • 戊辰、兵部侍郎于謙を同部尚書とし、群臣に時事を直言させ、人材を推挙させた。
  • 己巳、皇太后が皇子見深を皇太子に立てるよう詔し、あわせて郕王に輔佐を命じた。陣没した将士を恤んだ。
  • 庚午、王振の家産を没収した。辛未、右都御史陳鎰に畿内の軍民の撫安を命じた。壬申、都督石亨に京營の兵を統べさせた。
  • 乙亥、辺将に対し、衛拉特が上皇の御駕を奉じて至っても軽々しく出てはならぬと諭した。南京の軍器を京師に輸送させた。修撰商輅・彭時を入閣させ機務にあずからせた。
  • この月、廣東の賊黄蕭養が乱を起こした。
  • 九月癸未、王が皇帝の位に即き、遥かに皇帝を尊んで太上皇帝とし、翌年を景㤗元年として天下に大赦し、景泰二年の田租の十分の三を免じた。
  • 甲申、王振の一族を誅滅した。庚寅、處州の賊が平定された。癸巳、指揮僉事李鐸が皇太后の命を奉じて上皇のもとへ達した。甲午、宣府・土木で陣没した将士を祭り、遺骸を埋葬した。
  • 乙未、總兵官の安卿伯張安が廣州の賊を討って敗死し、指揮僉事王清は捕らえられて死んだ。
  • 辛丑、給事中孫祥と郎中羅通を右副都御史とし、紫荆關と居庸關に分かれて守らせた。甲辰、御史十五人を遣わして畿内・山東・山西・河南で兵を募らせ、都督同知陳友に軍を率いて湖廣・貴州の叛苗を討たせた。乙巳、使者を遣わして上皇に書を奉らせた。丙午、苗が平越衛を包囲したので、雲南の四州の兵を動員して王驥と合流して討たせた。参議楊信民を右僉都御史として廣東の賊を討たせた。
  • 冬十月戊申朔、額森が上皇を擁して大同に至った。壬子、諸王に勤王を詔した。乙卯、于謙に諸営を提督させ、石亨および諸将に九門を分けて守らせた。丙辰、叛いた宦官喜寧が額森を導いて紫荆關を陥れ、孫祥が死んだ。京師は戒厳となった。丁巳、宣府・遼東の總兵官、山東・河南・山西・陝西の巡撫および募兵の御史に、兵を率いて援けに入るよう詔した。
  • 戊午、額森が都城に迫った。都督高禮・毛福壽、右都督孫鏜が力戦し、彰義門で敵を破った。己未、右通政王復と太常少卿王榮が額森の陣営に使いし、土城で上皇に朝謁した。庚申、朝鮮に兵を徴し、河州の諸衛の土軍を動員して入れた。于謙・石亨らが城下で額森の軍勢を続けて破ったが、右都督武興が戦死した。壬戌、敵が退いた。甲子、紫荆關を出た。丁卯、諸王の兵を止めるよう詔した。衛拉特の汗である托克托布哈の使者が来た。辛未、昌平伯楊洪を總兵官、都督孫鏜・范廣を副として畿内の残敵を掃討させた。
  • 十一月癸未、沿辺の関隘を修めた。辛卯、毛福壽を副總兵として辰州の叛苗を討たせた。壬辰、上皇が衛拉特に至った。乙未、侍郎耿九疇に南畿の流民の撫安を命じ、三年間の復を賜った。
  • 十一月庚戌、皇太后を上聖皇太后に尊んだ。辛亥、王驥を平蠻將軍・總兵官として貴州の叛苗を討たせ、侍郎候璡を總督軍務とした。都督同知董興を左副總兵として廣東の賊を討たせ、户部侍郎孟鑑を參贊軍務とした。癸丑、母の賢妃を皇太后に尊んだ。甲寅、妃の汪氏を皇后に立てた。丙辰、大赦した。己未、石亨・楊洪・柳溥に京營の兵を分けて練らせた。戊辰、陣没した官軍を西直門外で祭った。
  • この年、琉球中山・占城・烏斯藏・賽瑪爾堪が入貢した。

景㤗元年(1450年)

  • 春正月丁丑朔、朝賀を取り止めた。辛巳、昌平に城を築いた。壬午、太廟を享祀した。丙戌、南郊で天地を大祀した。
  • 閏正月甲寅、衛拉特が寧夏を侵した。癸亥、会試の取士に定員を拘らないよう詔した。庚午、大同總兵官郭登が沙窩で衛拉特を破り、さらに栲栳山で追撃して破ったので、登を定襄伯に封じた。この月、大名・真定・開封・衛輝の被災地の税糧を免じた。
  • 二月戊寅、耤田を耕した。癸未、賞格を掲げ、敵中に陥った軍民を招き寄せた。丙戌、石亨を鎮朔大將軍として軍を率い大同を巡らせ、都指揮同知楊能を遊撃將軍として宣府を巡らせた。壬辰、叛いた宦官喜寧が誅に伏した。
  • 三月己酉、衛拉特が朔州を侵した。辛亥、土木で死んだ諸臣の子孫を録用した。癸丑、衛拉特が寧夏・慶陽を侵した。乙卯、朔州を侵した。癸亥、畿内の未納の賦および夏税を免じた。
  • 夏四月丙子、廣東都指揮李昇・何貴が兵を率いて海賊を捕らえようとして戦死した。辛巳、衛拉特が大同を侵し、官軍が撃退した。丁亥、保定伯梁珤に王驥に代わって貴州の叛苗を討たせた。戊子、大理寺丞李茂を遣わして南京の囚を録させ、百司を考課黜陟し、軍民の利害を調べさせた。丙申、衛拉特が雁門を侵した。己亥、都督同知劉安を總兵官として真定・保定および涿・易・通の三州で兵を練らせ、僉都御史曹㤗を參贊軍務とした。庚子、山東の飢饉を賑わした。辛丑、畿内で敵の侵掠を受けた州県を賑わした。癸卯、衛拉特が大同を侵し、郭登が撃退した。
  • 五月乙巳、山西の被災地の税糧を免じた。衛拉持が河曲・代州を掠め、そのまま南下して侵したので、劉安に涿・易の諸軍を督して防がせよと詔した。茂申、衛拉特が雁門を侵したので、黄花鎮の戍兵を増して陵寝を守らせた。癸丑、董興が廣東の賊を撃破し、黄蕭養は誅に伏し、残党もことごとく絶やされた。壬戌、大同で敵の侵掠を受けた軍民を賑わした。丙寅、侍郎侯璡と副總兵田禮が貴州の苗を大いに破った。辛未、衞拉特が使者を遣わして和を請うた。
  • 六月壬午、衞拉特が大同を侵し、郭登が撃退した。丙戌、額森がふたたび上皇を擁して大同に至った。丁亥、左都御史陳鎡と王文が、太監金英の家人を訊問した結果が不実であるとして下獄し、まもなく釈放された。戍子、衛拉特が宣府を侵し、都督朱謙と參將紀廣が防いで退けた。戊戌、山東の被災州県の税糧を免じた。己亥、給事中李實と大理寺丞羅綺が衞拉特に使いした。
  • 秋七月庚戌、尚書侯璡と參將方瑛が貴州の苗を破り、その首領を捕らえて京師に献じた。庚申、右都御史楊善と工部侍郎趙榮が衞拉特に使いした。山西の民が大同へ糧を運ぶ役を停めた。癸亥、李實・羅綺が帰還した。己巳、楊善が衛拉特に至り、額森が上皇の帰還を許した。
  • 八月癸酉、上皇が衛拉特を発した。戊寅、社稷を祀った。甲申、侍讀商輅を遣わして居庸關で上皇を迎えさせた。丙戌、上皇が京師に還った。帝は東安門で迎え、上皇は南宮に入って居し、帝は百官を率いて朝謁した。庚寅、天下に赦を下した。辛卯、刑部右侍郎江淵に翰林學士を兼ねさせ、文淵閣に直せしめ機務にあずからせた。
  • 九月癸丑、巡撫河南副都御史王來に湖廣・貴州の軍務を總督させ、数苗を討たせた。
  • 冬十月辛卯、囚を録した。癸巳、畿内の未納の賦を免じた。
  • 十一月辛亥、禮部尚書胡濙が、百官に上皇の万寿節を賀させるよう請うた。
  • 十二月丙申、あらためて翌年の正旦に百官が延安門で上皇に朝謁することを請うたが、いずれも許されなかった。
  • この年、朝鮮が三度、馬を貢いだ。

景㤗二年(1451年)

  • 春正月庚戌、南郊で天地を大祀した。壬子、天下の朝覲する官のうち黜すべき者に、口外へ糧を運ばせるよう詔した。
  • 二月辛未、先師孔子に釈奠した。辛卯、星の変異により修省し、廷臣に寛恤の諸政を条陳して議させた。癸巳、畿内および山東の巡撫官に、廉能な吏を挙げて専ら勧農にあたらせ、民に荒田を授け、牛と種を貸すよう詔した。
  • 三月壬寅、柯潛らに進士及第・出身を差をつけて賜った。
  • 夏四月乙酉、梁珤・王來らが平越の苗を破り、俘虜を京師に献じた。甲午、衞拉特が宣府の馬営を侵したので、遊撃將軍石彪らに辺境を巡らせよと勅した。乙未、石亨に京營の兵を選んで操練させ、尚書石璞に軍務を總督させた。
  • 五月乙巳、固原に城を築き、西安等の衛の官軍を動員して守らせた。
  • 六月戊辰朔、日食にあたる日であったが見えなかった。己卯、貴州の各衛に屯田を修め挙げるよう詔した。
  • 秋七月戊申、普定・永寧・畢節の諸苗がふたたび叛いたので、梁珤らが軍を留めて討った。
  • 八月壬申、南京で地震。辛巳、午朝を復した。
  • 九月乙卯、諸司が喪中の者を起復することを禁じた。
  • 冬十月己丑、山西の被災地の税糧を免じた。
  • 十二月庚寅、禮部左侍郎王一寧と祭酒蕭鎡に翰林學士を兼ねさせ、文淵閣に直せしめ機務にあずからせた。この月、額森がその主である托克托布哈を弑した。
  • この年、安南・琉球中山・衞拉特・哈密が入貢した。

景㤗三年(1452年)

  • 春正月丙午、南郊で天地を大祀した。
  • 二月乙酉、副都御史劉廣衡が南京の囚を録した。戊子、户部尚書金濂が詔に違って免除すべき税糧を徴収したとして下獄し、まもなく釈放された。
  • 三月戊午、毛福壽が湖廣の巴馬の苗を討って克った。
  • 夏四月甲申、廣西の土目黄□(底本欠字)が罪を得て誅を恐れ、急ぎ奏して皇太子の交替を請うた。帝は「万里の外にこのような忠臣がいたか」と述べ、廷臣に議させ、あわせて□の罪を赦した。
  • 五月甲午、皇太子見深を廃して沂王とし、皇子見濟を皇太子に立てた。皇后汪氏を廃し、太子の母の杭氏を皇后に立てた。上皇の子の見清を榮王、見淳を許王に封じ、天下に大赦した。丙申、沙灣の堤が完成した。辛丑、河南で生業に復した流民に、人数を数えて五年間の食糧を給した。乙巳、顔・孟二氏の子孫各一人を官に任じた。
  • 六月乙亥、敵の警報と民の流散のため、各省の巡撫官を京に入れて事を議させることを取り止めた。この月、大雨で河が沙灣で決壊した。
  • 秋七月乙未、左都御史王翺に両廣の軍務を總督させた。壬寅、王一寧が卒した。
  • 八月乙丑、徐州・兖州の水害を賑わした。戊辰、都御史洪英、尚書孫原貞・薛希璉らを分遣して天下を巡らせ官吏を考察させた。丁丑、両畿の水害の州県を賑わし税糧を免じた。乙酉、南畿・河南・山東の流民を賑わした。
  • 九月庚寅、江淵を起復した。辛卯、南京の地震、両淮の大水、河の決壊により、都御史王文に巡視・安輯を命じた。乙未、両畿・山東・山西・福建・廣西・江西・遼東の被災州県を賑わした。
  • 閏九月癸未、處州の銀場をあらためて開いた。この月、福建で盗賊が起こった。
  • 冬十月戊戌、左都御史王文に翰林學士を兼ねさせ、文淵閣に直せしめ機務にあずからせた。丙辰、都督孫鏜と僉事石彪に大同を、都督同知衞頴と僉事楊能・張欽に宣府を守らせ、額森に備えさせた。
  • 十一月己未朔、日食があった。戊辰、都督方瑛が白石崖の諸苗を平らげた。甲戌、畿内・山東・山西の逃民を安輯し、五年間賦役を免除した。この月、山東および淮安・徐州の水害の税糧を免じた。
  • 十二月癸巳、はじめて団営を立て、太監阮讓・都督楊俊らに分けて統べさせ、于謙・石亨・太監劉永誠・曹吉祥の節制を受けさせた。この月、河南および永平の被災地の秋糧を免じた。
  • この年、衞拉特・琉球中山・𤓰哇・暹羅・安南・哈密・烏斯藏が入貢した。

景㤗四年(1453年)

  • 春正月辛未、南郊で天地を大祀した。
  • 二月戊子、五開・清浪の諸苗がふたたび叛いたので、梁珤・王來が討った。庚戌、江西の前年の被災地の秋糧を免じた。
  • 三月戊寅、建寧の銀場をあらためて開いた。
  • 夏四月戊子、沙灣の決口を築き、南京の倉の穀を運んで徐州を賑わした。
  • 五月丁巳、徐州・淮安の倉を開いて飢民を賑わした。己巳、王文を起復した。甲戌、徐州がふたたび大水となり民の飢えがいっそう深まったので、支運および塩課の糧を出して賑わした。丁丑、淮安の倉を開いて鳳陽を賑わした。乙酉、沙灣で河がふたたび決壊した。
  • 六月壬辰、吏部尚書何文淵が給事中林聰の弾劾により下獄し、まもなく致仕させられた。辛亥、土木・大同・紫荆關の野ざらしの遺骸を埋葬した。
  • 秋七月庚辰、急を要さない諸工事・労役を停めた。
  • 八月己丑、河南の飢饉を賑わした。甲午、額森がみずから汗を称した。
  • 冬十月庚寅、天下の鎮守・巡撫官に農桑を督励させるよう詔した。甲午、諭徳徐有貞を左僉都御史として沙灣の決壊した河を治めさせた。戊戌、額森が使者を遣わしてきた。
  • 十一月辛未、皇太子見濟が薨じた。
  • 十二月乙未、山東の被災地の税糧を免じた。乙巳、辺軍に賜与した。
  • この年、琉球中山・安南・𤓰哇・日本・占城・哈密・衞拉特が入貢した。

景㤗五年(1454年)

  • 春正月戊午、黄河が澄み、龍門から芮城まで及んだ。甲子、南郊で天地を大祀した。壬申、福州・建寧の銀場を廃した。甲戌、平江侯陳豫と學士江淵に山東・河南の被災軍民の撫輯を命じた。
  • 二月乙巳、雨と晴天が時にかなわないとして、修省し直言を求める詔を下した。
  • 三月壬子、孫賢らに進士及第・出身を差をつけて賜った。辛酉、學士江淵に淮北の飢民を賑わせ、王文に南畿の撫恤を命じた。甲子、總督兩廣副都御史馬昻が瀧水の猺を破った。庚辰、緬甸が思穖發を捕らえて献じた。
  • 夏四月壬午朔、日食があった。辛卯、方瑛が草塘の苗を破ったので、瑛を南和伯に封じた。
  • 五月甲子、禮部郎中章綸と御史鍾同が、沂王をあらためて皇太子に立てるよう請うたため、錦衣衞の獄に下された。
  • 六月戊子、囚を録した。
  • 秋七月癸酉、南畿の水害を賑わした。
  • 八月丁酉、あらためて天下の巡撫官に京師へ赴いて事を議するよう命じた。
  • 九月壬戌、蘇州・松江・常州・揚州・杭州・嘉興・湖州の漕糧二百余万石を免じた。
  • 冬十月庚辰、副都御史劉廣衡に浙江・福建を巡撫させ、専ら賊の討伐にあたらせた。
  • 十一月戊午、蘇州・松江・常州・鎮江の織造と採辦を取り止めた。
  • 十二月、南畿・浙江の被災地の税糧を免じた。
  • この年、安南・琉球中山・𤓰哇が入貢した。額森は知院阿拉に殺された。

景㤗六年(1455年)

  • 春正月戊午、南郊で天地を大祀した。
  • 二月壬午、太監王誠が法司・刑科とともに囚を録し、大理少卿李茂らが南京・浙江の囚を録した。
  • 夏四月丙子朔、日食があった。辛巳、户部・兵部の二部および両畿・山東・河南・浙江・湖廣の撫按・三司の官に、寛恤の事を条陳し、急を要さない諸務を廃するよう勅した。
  • 五月己巳、南郊で雨乞いをした。
  • 六月乙亥、宋の儒者朱熹の裔孫の梃を翰林院世襲五經博士に任じた。癸未、河が開封で決壊したので、三司に築き止めるよう詔した。
  • 秋七月乙亥、沙灣の決口の堤が完成した。庚寅、南京で災異がしばしば現れたので、群臣に修省を勅した。
  • 八月庚申、南京大理少卿廖莊が、沂王をあらためて皇太子に立てるよう請うたため、闕下で杖たれた。あわせて章綸と鍾同も獄中で杖たれ、鍾同は死んだ。
  • 九月乙亥、蘇州・松江の飢民を米麦百余万石で賑わした。
  • 冬十月戊午、陝西の被災地の税糧を免じた。
  • 十一月乙亥、南和伯方瑛を平蠻將軍・總兵官として湖廣の苗を討たせた。
  • 十二月己巳、南畿の被災地の秋糧を免じた。
  • この年、琉球中山・暹羅・哈密・滿刺加が入貢した。

景㤗七年(1456年)

  • 春正月己卯、苗の賊がまだ平らがないとして、尚書石璞に湖廣の軍民の撫安を命じた。壬午、南郊で天地を大祀した。
  • 二月庚申、皇后が崩じた。甲子、壽陵を営んだ。
  • 三月戊寅、雲南の被災地の税糧を免じた。
  • 夏五月戊寅、水旱の災異により内外の諸臣に修省を勅した。辛卯、宋の儒者周敦頤の裔孫の冕を翰林院世襲五經博士に任じた。
  • 六月庚申、肅孝皇后を葬った。
  • 冬十月癸卯、江西の飢饉を賑わした。
  • 十二月己亥、方瑛が湖廣の苗を大いに破った。戊午、畿内・山東・河南の水害を賑わした。癸亥、帝が病み、翌年の元旦の朝賀を取り止めた。
  • この冬、畿内・山東の被災地の税糧を免じ、あわせて未納の賦を免除した。
  • この年、琉球中山・賽瑪爾堪・烏斯藏が入貢した。

景㤗八年(1457年)

  • 春正月戊辰、江西の被災地の税糧を免じた。丁丑、帝は病を押して南郊の斎宮に泊まった。己卯、群臣が太子を立てることを請うたが、聴かれなかった。壬午、武清侯石亨と副都御史徐有貞らが上皇を迎えて復位させた。
  • 二月乙未、帝は廃されて郕王となり、西内に移された。皇太后呉氏以下はことごとく旧来の称号のままとされた。
  • 癸丑、王は西宮で薨じた。年三十。諡して戾といい、営んでいた壽陵は毀ち、親王の礼をもって西山に葬り、武成中衞の軍二百户を与えて守護させた。
  • 成化十一年(1475年)十二月戊子、制して言った。「朕の叔父である郕王は、位に即いて難に立ち向かい国を保ち、宗社を安んずること八年に及ばんとした。臨終のきわに姦臣が功を貪り、みだりに讒言を構えて帝号を削ることを請うた。先帝はほどなくその冤であることを知り、つねに悔い恨んで、順次それら姦臣を法に照らして処断された。不幸にして先帝は崩御され、正すには至らなかった。朕は親を親しむ情を篤くし、先帝の志を成し遂げたい。もとどおり皇帝の号を用いてよい。その諡号を議して奏上せよ。」こうして尊諡を上り、有司に勅して陵寝を修繕させ、祭饗も諸陵に准じた。

史論

  • 賛に曰く。景帝が命を奉じて摂政の位に居たのは当然のことであった。慌ただしい非常時にあたり、大難が心を怖れさせるなか、賢者を任用し政に励んで、宗社は再び安んじられた。いわゆる「その亡びんか、その亡びんかと危ぶんでこそ、苞桑に繋がるように固くなる」というものであろうか。
  • しかしひと月を越えて即位すると、あわただしく儲君を替え、南内(上皇)を深く閉じ込めて、恩義に冷淡であった。ついには病身を押して斎宮に赴いたところを小人が隙に乗じて利を求め、事は突然に起こって、よい名声のうちに終わることができなかった。惜しむべきことである。