明史卷一 本紀第一 太祖一

明の太祖、諱は元璋、字は國瑞。濠州鍾離の貧家に生まれ、飢饉で肉親を失って皇覺寺の僧となった。元末の大乱に乗じて郭子興の下で挙兵し、渡江して集慶を取り應天と改め、呉國公・呉王を称した。陳友諒を鄱陽湖に破り、張士誠を平江に滅ぼして江南を平定、北伐の軍を発して即位を受け入れるところまでが本巻に記される。

年表(22件)

出自と生い立ち

  • 太祖の尊号は「開天行道肇紀立極大聖至神仁文義武俊徳成功髙皇帝」。諱は元璋、字は國瑞、姓は朱氏。
  • 先祖は沛に住み、のち句容へ、さらに泗州へ移った。父の世珍の代にはじめて濠州の鍾離へ移った。四人の子を生み、太祖はその末子である。
  • 母の陳氏は懐妊中、神から薬一丸を授かり掌に置くと光を放ち、それを呑む夢を見た。目覚めると口に香気が残っていた。出産のときは赤い光が部屋いっぱいに満ち、以後も夜ごとに光が立ち上がるので、隣里の者は火事かと驚いて駆けつけたが、行ってみると何もなかった。
  • 成長すると容貌は雄偉で傑出し、奇骨が頭頂を貫き、志は広大で人には測り知れなかった。

至元四年(1338年)

  • 旱魃と蝗害で大飢饉となり疫病が流行した。太祖はこのとき十七歳。父・母・兄が相次いで没したが、貧しくて葬ることができなかった。里人の劉繼祖が土地を与えてくれたのでようやく葬ることができた。これが鳳陽陵である。
  • 太祖は孤児となって頼るところがなく、皇覺寺に入って僧となった。一月あまりで托鉢のため合肥へ出たが、道中で病んだ。紫衣の二人が同行して手厚く看護してくれたが、病が癒えると姿を消していた。光・固・汝・潁の諸州を三年めぐったのち、寺に帰った。
  • このころ元の政治は綱紀が立たず、盗賊が四方に起こった。劉福通は韓山童を奉じて宋の後裔と偽り潁で挙兵し、徐壽輝は帝号を僭称して蘄で起こり、李二・彭大・趙均用は徐で起こった。いずれも衆は数万で、それぞれ将帥を置き、官吏を殺して郡県を侵掠した。方國珍はすでに海上で起こっていた。ほかの盗賊も兵を擁して土地に拠り、寇掠する者はきわめて多く、天下は大乱となった。

至正十二年(1352年)

  • 春二月、定遠の人 郭子興がその一党の孫徳崖らとともに濠州で挙兵した。元将 徹爾布哈は恐れて攻めようとせず、日ごとに良民を捕らえて賞を求めるばかりだった。
  • 太祖はこのとき二十四歳。兵乱を避けようとして神に去就を占ったが、去るも留まるも凶と出た。そこで「大事を挙げよということか」と占うと吉。大いに喜び、閏三月甲戌朔に濠に入って子興に会った。
  • 子興はその容貌を並々ならぬものと見て親兵として留めた。戦うたびに勝ったので、子興は養女である馬公の娘を娶らせた。これが高皇后である。
  • 子興と徳崖の仲がこじれると、太祖はたびたび取りなして庇った。
  • 秋九月、元兵がふたたび徐州を取り、李二は敗走して死に、彭大・趙均用は濠に奔って徳崖らがこれを受け入れた。子興は彭大を礼遇して均用を軽んじたので、均用は恨み、徳崖と謀って子興が外出したところを捕らえ、孫氏の家に械をつけて閉じ込め殺そうとした。太祖はそのとき淮にいたが、変を聞いて馳せつけ彭大に訴えた。大は怒って兵を呼んで向かい、太祖も甲を着て盾をかざし、屋根を破って子興を助け出し、械を壊して人に背負わせて帰らせ、難を免れさせた。
  • この冬、元将 賈魯が濠を囲んだ。太祖は子興とともに力を尽くして防いだ。

至正十二年(1352年)(賈魯の死)

  • 春、賈魯が死んで囲みが解けた。太祖は郷里で兵を集めて七百人を得た。子興は喜んで鎮撫に任じた。
  • 当時、彭大・趙均用の部下は横暴で、子興は弱かった。太祖はともに事を為すに足りぬと見て、兵を他の将にゆだね、徐達・湯和・費聚らだけを連れて南のかた定遠を略した。
  • 計略で驢牌寨の民兵三千を降して味方に加え、夜襲して元将 張知院を横澗山に破り、その兵二万を収めた。
  • 道中で定遠の人 李善長に会い、語り合って大いに悦び、ともに滁州を攻めて下した。
  • この年、張士誠が高郵に拠って誠王と自称した。

至正十四年(1354年)

  • 冬十月、元の丞相 托克托が高郵で張士誠を大破し、兵を分けて六合に向かわせた。太祖は「六合が破れれば滁も無事ではすまぬ」と言い、耿再成とともに瓦梁の塁に軍を進めて救い、力戦して老弱を守りつつ滁に還った。
  • 元兵がまもなく大挙して滁を攻めると、太祖は伏兵を設けて誘い出し破った。しかし元兵の勢いは盛んでまた来ると見て、鹵獲した馬を返し、父老に牛と酒を持たせて元将に謝罪させ「城を守るのは他の盗賊に備えるためです。大寇を捨て置いて良民を殺すのはなぜですか」と言わせた。元兵は引き揚げ、城は無事に保たれた。
  • 托克托は士誠の軍を破って声望が大いに振るったが、讒言に遭って兵権を解かれた。江淮の乱はいよいよ激しくなった。

至正十五年(1355年)

  • 春正月、子興は太祖の計を用い、張天佑らを遣わして和州を抜き、檄をもって太祖にその軍を統べさせた。太祖は諸将が承服しないことを慮って檄を伏せ、翌朝に庁事に集まることとした。当時の席次は右を上としたので、諸将は先に入って皆右に座った。太祖はわざと後から来て左に就いたが、事を裁くと即断が流れるようで、諸将は目を見張って一言も発せず、ようやく少しずつ従うようになった。
  • 城壁に甓を積む工事を分担させ、三日を期限とした。太祖は期日どおり終えたが、諸将は皆遅れた。そこではじめて檄を出し、南面して座り「命を奉じて諸公の兵を統べる。いま築城はみな期限に後れた。軍法ではどうなるか」と言った。諸将は恐れ入って謝った。
  • 軍中が掠奪した婦女を捜し出して家に帰らせたので、民は大いに悦んだ。
  • 元兵十万が和を攻め、三か月守って食糧が尽きかけた。太子 圖卜戩、樞密副使 班珠爾瑪克、民兵元帥 陳額森が新塘・高望・雞籠山に分かれて屯し、糧道を絶った。太祖は兵を率いてこれを破り、元兵はみな逃げて江を渡った。
  • 三月、郭子興が卒した。このとき劉福通は韓山童の子 林兒を亳州に迎え立て、国号を宋、建元して龍鳳とし、檄して子興の子 天叙を都元帥、張天佑と太祖を左右の副元帥とした。太祖は慨然として「大丈夫たる者、人に制せられてよいものか」と言って受けなかった。しかし林兒の勢いは盛んで頼りにできると考え、その年号だけは用いて軍中に令した。
  • 夏四月、常遇春が帰順してきた。
  • 五月、江を渡ろうとしたが舟がなかった。ちょうど巣湖の帥 廖永安・俞通海が水軍千艘を率いて附いてきたので大いに喜び、出向いてその衆を撫した。ところが元の中丞 曼濟哈雅が銅城閘・馬場河の諸隘を扼していて巣湖の舟師は出られなかった。にわかに大雨が降ると太祖は「天が我を助ける」と喜び、水嵩に乗じて小さな入江から舟を出して還り、その勢いで曼濟哈雅を峪溪口に撃って破った。こうして渡江の計を定めた。
  • 諸将は直ちに集慶へ向かうよう請うたが、太祖は「集慶を取るにはまず采石からだ。采石は重鎮で守りは固かろうが、牛渚は前に大江が臨んで備えにくい。必ず抜ける」と言った。
  • 六月乙卯、風に乗り帆を張って一挙に牛渚に達し、常遇春が先登して抜いた。采石の兵も潰え、江沿いの諸塁はことごとく附いた。
  • 諸将は和州が飢えているので物資を取って帰ろうと争った。太祖は徐達に「渡江は幸いにも成功した。ここを捨てて帰れば江東は我が有とならぬ」と言い、舟の纜をすべて断って急流に放ち、諸将に「太平はすぐそこだ。諸公とともに取ろう」と告げた。
  • 勝ちに乗じて太平を抜き、萬戸 納克楚を捕らえた。總管の勒義は水に身を投げて死んだ。太祖は「義士である」と言って礼をもって葬った。
  • 高札を掲げて掠奪を禁じ、令に背いた兵卒を斬って見せしめとしたので、軍中は粛然とした。路を改めて府とし、太平興國翼元帥府を置いて自ら元帥事を領し、陶安を召して幕府の事に参与させ、李習を知府とした。
  • このとき太平の四面はみな元兵だった。右丞 阿勒哈、中丞 曼濟哈雅らが厳重に姑孰口を遮り、陳額森の水軍帥 康茂才が数万の衆で城を攻めた。太祖は徐達・鄧愈・湯和を遣わして迎え撃たせ、別将には□(底本欠字)その背後に出させて挟み撃ちにし、額森を擒えてその衆を降した。阿勒哈らは引き揚げた。
  • 秋九月、郭天叙・張天佑が集慶を攻めたが、額森が叛いて二人とも戦死した。ここに子興の部将はことごとく太祖に帰した。額森はまもなく民兵に殺され、その甥の兆先がその衆を収めて方山に屯し、曼濟哈雅と犄角の勢をなして太平を窺った。
  • 冬十二月壬子、納克椘を釈放して北へ帰らせた。

至正十六年(1356年)

  • 春二月丙子、采石で曼濟哈雅を大破した。
  • 三月癸未、集慶に進攻して兆先を擒え、その衆三万六千人を降した。皆が疑い恐れて身の安全を保てずにいたので、太祖は驍健な五百人を選んで宿衛に入れ、甲を解いて明け方まで熟睡してみせた。これで衆心はようやく安んじた。
  • 庚寅、集慶を克した。元の御史大夫 福壽が戦死し、曼濟哈雅は遁れて張士誠のもとへ帰した。水軍帥 康茂才、苗軍帥 尋朝佐、海軍帥 葉撒、阿勒哈の部将 完都らが衆を率いて降った。
  • 太祖は入城して官吏・父老を召し、こう諭した。元の政治は煩わしく乱れて干戈が蜂起した。自分は民のために乱を除きに来たのだから、それぞれもとどおり安んじよ。賢士は礼をもって用い、旧来の政で不便なものは除く。吏は貪暴に振る舞って我が民に禍いするな。民は大いに喜び、望外の思いをした。
  • 集慶路を改めて應天府とし、夏煜・孫炎・楊憲ら十余人を召し出した。御史大夫 福壽を葬ってその忠節を表彰した。
  • このとき元将 鼎鼎は鎮江を扼し、拜布哈と楊仲英は寧國に屯し、青衣軍の張明鑑は揚州に拠り、巴斯爾布哈は徽州に駐し、舒穆嚕伊遜は處州を守り、その弟の和遜は婺州を守り、宋巴延布哈は衢州を守り、池州はすでに徐壽輝の将に拠られていた。張士誠は淮東から平江を陥れ、浙西を転々と掠めていた。
  • 太祖は集慶を定めたのち、士誠と壽輝が強く、江左・浙右の諸郡が併呑されることを憂い、徐達を遣わして鎮江を攻め抜かせた。鼎鼎は戦死した。
  • 夏六月、鄧愈が廣徳を克した。
  • 秋七月己卯、諸将が太祖を奉じて呉國公とした。江南行中書省を置いて自ら省事を総べ、僚佐を置いた。張士誠に書を贈ったが返報せず、兵を引いて鎮江を攻めてきたので徐達が破り、進んで常州を囲んだが下せなかった。
  • 九月戊寅、鎮江に行って孔子廟に謁し、儒士を遣わして父老に告諭し、農桑を勧めた。まもなく應天に還った。

至正十七年(1357年)

  • 春二月、耿炳文が長興を克した。
  • 三月、徐達が常州を克した。
  • 夏四月丁卯、自ら将して寧國を攻め取り、拜布哈が降った。
  • 六月、趙繼祖が江陰を克した。
  • 秋七月、徐達が常熟を克し、胡大海が徽州を克して巴斯爾布哈は遁れた。
  • 冬十月、常遇春が池州を克し、繆大亨が揚州を克して張明鑑が降った。
  • 十二月己丑、繋がれていた囚人を釈放した。
  • この年、徐壽輝の将 明玉珍が重慶路に拠った。

至正十八年(1358年)

  • 春二月乙亥、康茂才を營田使とした。
  • 三月己酉、囚人の記録を調べ直した。鄧愈が建徳路を克した。
  • 夏四月、徐壽輝の将 陳友諒が趙普勝を遣わして池州を陥れた。この月、友諒は龍興路に拠った。
  • 五月、劉福通が汴梁を破り、韓林兒を迎えてここを都とした。はじめ福通は将を遣わして道を分けて四方に出、山東を破り、秦・晉を寇し、幽・薊を掠め、その鋒はきわめて鋭かったが、至るところで屠戮した。太祖は福通が北へ駆けるのに乗じて次第に江表を平定し、通る所で殺さず才俊を召し集めたので、人心は日ごとに附いていった。
  • 冬十二月、胡大海が婺州を攻めて久しく下せず、太祖は自ら将して撃ちに行った。舒穆嚕伊遜は将に車師を率いさせ松溪から来援させたが、太祖は「道が狭く、車で戦っても敗を取るだけだ」と言い、胡徳濟に命じて梅花門で迎え撃たせ大破した。婺州は降り、和遜を捕らえた。
  • その前日、城中の人が城の西に五色の雲が車蓋のように立つのを望み見て異とした。それが太祖の駐兵した地だとこのとき分かった。
  • 入城して粟を放出し貧民を賑わした。州を改めて寧越府とし、范祖幹・葉儀・許元ら十三人を召して交代で経史を講じさせた。
  • 戊子、使を遣わして方國珍を招諭した。

至正十九年(1359年)

  • 春正月乙巳、太祖は浙東でまだ下していない諸路を取ろうと謀り、諸将を戒めて言った。城を克つのは武、乱を鎮めるのは仁である。自分が集慶に入ったときは秋毫も犯さなかったから一挙に定まった。諸将が一城を得るたびにみだりに殺さなかったと聞けば喜びに堪えない。軍の進むのは火のようで、抑えなければ野を焼き尽くす。将たる者が殺さぬことを武とできれば、国家の利であるばかりか子孫がその福を受ける。
  • 庚申、胡大海が諸暨を克した。この月、寧越知府 王宗顯に命じて郡学を立てさせた。
  • 三月甲午、大逆以下の罪を赦した。丁巳、方國珍が温州・台州・慶元を献じ、その子の關を人質として遣わした。厚く賜って帰らせた。
  • 夏四月、俞通海らが池州を回復した。このとき耿炳文は長興を、呉良は江陰を、湯和は常州を守り、いずれもしばしば士誠の兵を破った。それゆえ太祖は久しく寧越に留まって浙東を巡ることができた。
  • 六月壬戌、應天に還った。
  • 秋八月、元の察罕特穆爾が汴梁を回復した。福通は林兒を連れて退き安豐を保った。
  • 九月、常遇春が衢州を克して宋巴延布哈を擒えた。
  • 冬十月、夏煜を遣わして方國珍に行省平章を授けたが、國珍は病と称して辞した。
  • 十一月壬寅、胡大海が處州を克し、舒穆嚕伊遜は遁れた。このころ元の守兵は単弱で、中原の乱を聞いて人心は離散していたため、江左・浙右の諸郡は兵が至れば皆下った。こうして西で陳友諒と隣り合うことになった。

至正二十年(1360年)

  • 春二月、元の福建行省參政 袁天祿が福寧を挙げて降った。
  • 三月戊子、劉基・宋濂・章溢・葉琛を徴して招き寄せた。
  • 夏五月、徐達・常遇春が陳友諒を池州で破った。
  • 閏月丙辰、友諒が太平を陥れ、守将 朱文遜、院判 花雲、王鼎、知府 許瑗が死んだ。まもなく友諒はその主 徐壽輝を弑して自ら皇帝と称し、国号を漢とし、江西・湖廣の地をことごとく有し、士誠と約して合わせて應天を攻めようとした。應天は大いに動揺した。
  • 諸将はまず太平を回復して牽制すべきだと議したが、太祖は「不可。彼は上流にいて舟師は我が十倍、にわかには回復できぬ」と言った。自ら将して迎撃すべしという者には「不可。彼は我が出たと知れば偏師で我を繋ぎ止め、全軍が流れに順って金陵へ趨る。半日で達する。我が歩騎が急いで還っても丸一日かかる。百里を趨って戦うのは兵法の忌むところで、策ではない」と言った。
  • そこで胡大海に馳せ諭して信州を衝かせて背後を牽制させ、康茂才には書で友諒を欺かせ「速やかに来られよ、江東の木橋を守って内応する」と言わせた。友諒は果たして兵を引いて東へ向かった。
  • 常遇春を石灰山に伏せさせ、徐達を南門外に軍させ、張徳勝の舟師を龍江関に駐め、楊璟には別に一軍で大勝港を守らせた。太祖は自ら大軍を総べて盧龍山に拠り、将士を戒めて「赤い幟を山の右に伏せておく。寇が至れば挙げよ。黄の幟を山の左に伏せる。それが挙がれば進め」と命じ、皆が頓首して命を受けた。
  • 乙丑、友諒の軍が大勝港に迫ったが楊璟が遮って前進できず、退いて舟で江東橋を衝いた。しかし橋はすでに鉄石に替えられていたので、龍灣へ移った。一万人を上陸させて柵を立て、勢いはきわめて鋭かった。
  • 衆は前へ出て撃とうとしたが、太祖は「まず腹ごしらえをせよ。雨に乗じて撃つ」と言った。折しも晴天で衆には意図が測れなかったが、やがて雲がにわかに起こり大雨となった。赤い幟が挙がると士卒は競って前進し柵を抜いた。友諒の軍が争いに来て合戦となったところで雨が止んだので、鼓を発して黄の幟を挙げた。常遇春の伏兵が発し、徐達らの諸軍が大挙して集まり、水陸から挟み込んだ。友諒の軍は支えきれず大敗し、友諒は別の小舟に乗って逃げた。
  • こうして太平を回復し安慶を下した。胡大海も信州を克した。
  • はじめ太祖が茂才に友諒を欺かせたとき、李善長はこれを疑った。太祖は「二つの寇が合わされば我は前後に敵を受ける。速やかに来させて先に破れば士誠は胆を落とす」と言った。果たして士誠の兵はついに出なかった。
  • 丁卯、儒學提舉司を置いて宋濓を提舉とし、子の標を遣わして経を受け学ばせた。
  • 六月、耿再成が舒穆嚕伊遜を慶元で破り、伊遜は戦死した。使を遣わして祭った。
  • 秋九月、徐壽輝の旧将 毆普祥が袁州を挙げて降った。
  • 冬十二月、ふたたび夏煜を遣わし、書をもって國珍を諭した。

至正二十一年(1361年)

  • 春二月甲申、鹽と茶の課税を立てた。己亥、寳源局を置いた。
  • 三月丁丑、樞密院を改めて大都督府とした。元将 薛顯が泗州を挙げて降った。戊寅、國珍が使を遣わして謝し、金玉で飾った馬鞍を献じたが却けて「今は四方に事がある。必要なのは人材であり、用いるのは粟と帛だ。宝玩は好むところではない」と言った。
  • 秋七月、友諒の将 張定邊が安慶を陥れた。
  • 八月、元の平章 察罕特穆爾のもとへ使を遣わした。当時、察罕は山東を平らげ田豐を降して軍声が大いに振るっていたので、太祖は通好したのである。察罕がちょうど益都を攻めていて成否が読めなかったので、太祖は自ら舟師を将して陳友諒を征した。
  • 戊戌、安慶を克し、友諒の将 丁普郎・傳友徳が迎えて降った。壬寅、湖口に次し、友諒を江州で追い破ってその城を克した。友諒は武昌へ奔り、南康・建昌・饒・蘄・黄・廣濟に分かれて巡ってみな下した。
  • 冬十一月己未、撫州を克した。

至正二十二年(1362年)

  • 春正月、友諒の江西行省丞相 胡廷瑞が龍興を挙げて降った。乙卯、龍興に行って洪都府と改め、孔子廟に謁し、父老に告諭し、陳氏の苛政を除き、諸々の軍需を罷め、貧しくて訴えるところのない者を存恤した。民は大いに悦んだ。袁瑞・臨江・吉安が相次いで下った。
  • 二月、應天に還り、鄧愈が洪都に留守した。辛未、降人の蔣英が金華の守将 胡大海を殺し、郎中 王愷が死んだ。英は叛いて張士誠に降った。處州の降人 李祐之も変を聞いて行樞密院判 耿再成を殺して反き、都事 孫炎、知府 王道同、元帥 朱文剛が死んだ。
  • 三月癸□(底本欠字)、降人の祝宗・康㤗が反いて洪都を陥れた。鄧愈は應天へ走り、知府 葉琛、都事 萬思誠が死んだ。
  • この月、方玉珍(明玉珍の誤りか)が重慶で帝を称し、国号を夏とした。
  • 夏四月己卯、邵榮が處州を回復した。甲午、徐達が洪都を回復した。
  • 五月丙午、朱文正・趙徳勝・鄧愈に命じて洪都を鎮めさせた。
  • 六月戊寅、察罕が書を送って返報してきたが、こちらの使者を留めて帰さなかった。察罕はまもなく田豐に殺された。
  • 秋七月丙辰、平章 邵榮、參政 趙繼祖が謀反して誅に伏した。
  • 冬十二月、元が尚書 張昶を遣わし、海路で慶元に至って太祖に江西行省平章政事を授けたが受けなかった。察罕の子 庫庫特穆爾が書を送って使者を帰した。

至正二十三年(1363年)

  • 春正月丙寅、汪河を遣わして返報した。
  • 二月壬申、将士に命じて屯田して穀を積ませた。この月、友諒の将 張定邊が饒州を陥れ、士誠の将 呂珍が安豐を破って劉福通を殺した。
  • 三月辛丑、太祖は自ら将して安豐を救い、珍は敗走した。韓林兒を連れて滁州に帰らせ、應天に還った。
  • 夏四月壬戌、友諒が大挙して洪都を囲んだ。乙丑、諸全の守将 謝再興が叛いて士誠に附いた。
  • 五月、禮賢館を築いた。友諒は兵を分けて吉安を陥れ、參將 劉齊、知府 朱叔華が死に、臨江を陥れて同知 趙天麟が死に、無為州を陥れて知州 董曽が死んだ。
  • 秋七月癸酉、太祖は自ら将して洪都を救った。癸未、湖口に次し、あらかじめ涇江口と湖の南觜に伏兵を置いて友諒の帰路を遮り、信州の兵に檄して武陽渡を守らせた。友諒は太祖の到来を聞いて囲みを解き、鄱陽湖で迎え戦った。友諒の兵は六十万と号し、巨舟を連ねて陣とし、楼櫓の高さは十余丈、数十里に連なり、旌旗・戈盾は望めば山のようだった。
  • 丁□(底本欠字)、康郎山で遭遇した。太祖は軍を十一隊に分けて防いだ。戊子、合戦し、徐達がその前鋒を撃ち、俞通海が火砲でその舟数十を焼いた。殺傷はほぼ相当だった。
  • 友諒の驍将 張定邊が直接に太祖の舟へ迫った。舟は砂に乗り上げて退けず危機に陥ったが、常遇春が傍らから射て定邊に当て、通海が来援して舟が急進すると水が湧き、太祖の舟はようやく脱した。
  • 己丑、友諒が巨艦をことごとく出して戦い、諸将の舟は小さく仰いで攻めるので不利となり、恐れの色が見えた。太祖が自ら指揮しても進まないので、退き縮む者十余人を斬った。人々はみな死を決して戦った。
  • 日暮れ時に東北から大風が起こると、決死の士に命じて七艘を操らせ、火薬を葦の中に積み、火を放って友諒の舟を焼いた。風は烈しく火は熾んで煙と炎が天に漲り、湖水はことごとく赤く染まった。友諒の兵は大いに乱れ、諸将は鬨をあげて乗じ、斬首二千余級、焼け死に溺れ死んだ者は数知れなかった。友諒は気を奪われた。
  • 辛卯、ふたたび戦い、友諒はまた大敗した。舟を集めて自守し、二度と戦おうとしなかった。
  • 壬辰、太祖は軍を移して左蠡を扼し、友諒も退いて渚磯を保った。三日にらみ合ううちに、その左右の二人の金吾将軍が降り、友諒の勢いはますます窮した。友諒は憤って捕らえた将士を皆殺しにしたが、太祖は逆に俘虜をことごとく返し、負傷者には良薬を与え、さらに戦死した諸将の親戚を祭った。
  • 八月壬戌、友諒は食糧が尽きて南湖觜へ趨ったが南湖の軍に遮られ、湖口へ突き出た。太祖は迎え撃ち、流れに順って組み合って戦い、涇江に及ぶと涇江の軍がまた遮り撃った。友諒は流れ矢に当たって死んだ。張定邊はその子 理を連れて武昌へ奔った。
  • 九月、應天に還って論功行賞した。先に太祖が安豐を救ったとき劉基が諌めたが聴かなかった。ここに至って基に言った。「安豐へ行くべきではなかった。友諒が虚に乗じて應天を直撃していれば大事は去っていた。彼が南昌に兵を止めた以上、亡びぬはずがない。友諒が亡びれば天下を定めるのは難しくない」
  • 壬午、自ら将して陳理を征した。この月、張士誠が呉王と自称した。
  • 冬十月壬寅、武昌を囲み、兵を分けて湖北の諸路を巡り、皆下した。
  • 十二月丙申、應天に還り、常遇春が留まって諸軍を督した。

至正二十四年(1364年)

  • 春正月丙寅朔、李善長らが群臣を率いて即位を勧めた。許さなかったが固く請うので呉王の位に即き、百官を建て、善長を右相國、徐達を左相國、常遇春・俞通海を平章政事とした。諭して「立国の初めはまず紀綱を正すべきだ。元氏は闇弱で威福が下に移り、ついに乱に至った。今これを鑑とせよ」と言った。子の標を立てて世子とした。
  • 二月乙未、ふたたび自ら将して武昌を征し、陳理が降った。漢・沔・荊・岳が皆下った。
  • 三月乙丑、應天に還った。丁卯、起居注を置いた。庚午、諸翼元帥府を罷め、十七衛親軍指揮使司を置いた。中書省に命じて文武の人材を召し出させた。
  • 夏四月、戦死者を祀る祠を建てた。丁普郎らは康郎山に、趙徳勝らは南昌に祀った。
  • 秋七月丁丑、徐達が廬州を克した。戊寅、常遇春が江西を巡った。
  • 八月戊戌、吉安を回復し、進んで贛州を囲んだ。達は荊湘の諸路を巡った。
  • 九月甲申、江陵を下し、夷陵・潭・歸が皆降った。
  • 冬十二月庚寅、達が辰州を克し、別将を遣わして衡州を下した。

至正二十五年(1365年)

  • 春正月己巳、徐達が寳慶を下して湖湘が平らいだ。常遇春が贛州を克して熊天瑞が降った。進んで南安へ趨り、嶺南の諸路を招諭して韶州・南雄を下した。
  • 甲申、南昌に行き、大都督 朱文正を捕らえて帰った。文正は太祖の甥で、鎮に在って驕り淫らに恣に虐げ、責められて慚じ懼れ、叛いて張士誠に附こうと謀ったのである。群臣は法に処すよう請うたが、太祖は誅するに忍びず桐城に安置した。
  • 二月己丑、福建行省平章 陳友定が處州を侵したが、參軍 胡深が撃ち破り、進んで浦城を下した。丙午、士誠の将 李伯昇が諸全の新城を攻めたが、李文忠が大破した。
  • 夏四月庚寅、常遇春が襄漢の諸路を巡った。
  • 五月乙□(底本欠字)、安陸を克した。己卯、襄陽を下した。
  • 六月壬子、朱亮祖・胡深が建寧を攻め、城下で戦って深は捕らえられ死んだ。
  • 秋七月、渡江に従った士卒で負傷して発病した者を養い、死んだ者にはその妻子を扶養するよう令した。
  • 九月丙辰、國子學を建てた。
  • 冬十月戊戌、張士誠を討つ令を下した。当時、士誠の拠る地は南は紹興に至り、北は通・泰・高郵・淮安・濠・泗を有し、さらに北は濟寧に及んでいた。そこで徐達・常遇春らに命じてまず淮東を取らせた。
  • 閏月、泰州を囲んで克した。
  • 十一月、張士誠が宜興を寇したが徐達が撃ち破り、宜興から還って高郵を攻めた。

至正二十六年(1366年)

  • 春正月癸未、士誠が江陰を窺い、太祖は自ら将して救った。士誠は遁れ、康茂才が浮子門で追い破った。太祖は應天に還った。
  • 二月、明玉珍が死に、子の昇が自立した。
  • 三月丙申、中書に選挙を厳しくするよう令した。徐達が高郵を克した。
  • 夏四月乙卯、士誠の将 徐義の水軍を淮安で襲い破り、義は遁れ、梅思祖が城を挙げて降った。濠・徐・宿の三州が相次いで下り、淮東が平らいだ。
  • 甲子、濠州に行って墓参し、守塚二十家を置いた。旧知の汪文・劉英に粟と帛を賜い、酒宴を設けて父老を招いて大いに歓び、こう言った。「私は郷里を去って十余年、艱難の百戦を経てようやく帰り、墳墓を省み、父老・子弟と再会できた。今は久しく留まって歓を尽くせぬのが苦しい。父老よ、どうか子弟に孝弟と力田を教え、遠くへ商いに行かせるな。淮に沿う郡県はなお寇掠に苦しんでいる。父老よ、よく自愛せよ」。有司に命じて租賦を免除させた。皆が頓首して謝した。
  • 辛未、徐達が安豐を克し、兵を分けて庫庫特穆爾を徐州で破った。
  • 夏五月壬午、濠から還り着いた。庚寅、散逸した書物を求めた。
  • 秋八月庚戌、應天城を改築し、鍾山の南に新宮を作った。
  • 辛亥、徐達を大将軍、常遇春を副将軍として師二十万を率いさせ張士誠を討たせた。戟門で誓師して「城が下る日、殺したり掠めたりするな、廬舎を毀つな、丘壟を発くな。士誠の母は平江城外に葬られている。侵し毀つな」と言った。
  • そののち達と遇春を召して用兵の順序を問うた。遇春は直ちに平江を衝こうとしたが、太祖は「湖州の張天騏、杭州の潘原明は士誠の腕であり指である。平江が窮すればこの二人が力を尽くして援けに赴くから勝ちにくい。まず湖州を攻めて奔命に疲れさせ、羽翼を剥いでしまえば、平江は孤立して勢いのままに破れる」と言った。
  • 甲戌、張天騏を湖州で破った。士誠が自ら兵を率いて援けに来たが、皂林でまた破った。
  • 九月乙未、李文忠が杭州を攻めた。
  • 冬十月壬子、遇春が士誠の兵を烏鎮で破った。
  • 十一月甲申、張天騏が降った。辛卯、李文忠が餘杭を下して潘原明が降り、周辺の郡はことごとく下った。癸卯、平江を囲んだ。
  • 十二月、韓林兒が卒した。翌年を呉の元年とした。廟社・宮室を建て、山川を祭告した。所司が宮殿の図を進めたが、雕琢して華美なものは除くよう命じた。
  • この年、元の庫庫特穆爾は李思齊・張良弼と怨みを構えてしばしば攻撃し合い、朝命は行われず、中原の民はますます困窮した。

至正二十七年(1367年)

  • 春正月戊戌、中書省に諭した。東南は久しく兵革に罹り民の生活は疲弊した。甚だ憫れむ。太平・應天の諸郡は自分が渡江して開創した地で、供給の煩労が長く続いている。今は戸ごとに窮乏しているのに有司が急に催促して我が民をいっそう困らせている。どうして堪えられよう。太平の田租を二年、應天・鎮江・寧國・廣徳は各一年免除せよ。
  • 二月丁未、傅友徳が庫庫特穆爾の将 李二を徐州で破って捕らえた。
  • 三月丁丑、はじめて文武の科を設けて士を取った。
  • 夏四月、方國珍がひそかに人を遣わして庫庫特穆爾および陳友定と通じたので、書を送って責めた。
  • 五月己亥、はじめて翰林院を置いた。この月、旱魃のため膳を減らして素食し、徐・宿・濠・泗・壽・邳・東海・安東・襄陽・安陸および新たに帰属した地の田租を三年免除した。
  • 六月戊辰、大雨。群臣は膳を元に戻すよう請うたが、太祖は「雨は降ったが禾の傷みはすでに多い」と言い、民に今年の田租を免じた。癸酉、朝賀のとき女楽を罷めるよう命じた。
  • 秋七月丙子、府・州・県の官に赴任の費用を給し、綺帛およびその父母・妻・長子に差等をつけて賜い、これを令として定めた。
  • 己丑、雷が宮門の獣吻に落ち、罪囚を赦した。庚寅、使を遣わして方國珍に貢納の糧を催促した。
  • 八月癸丑、圜丘・方丘・社稷壇が完成した。
  • 九月甲戌、太廟が完成した。朱亮祖が師を率いて國珍を討った。戊寅、詔して「先王の政は罪が妻子に及ばなかった。今より大逆不道でなければ連坐させるな」とした。
  • 辛巳、徐達が平江を克して士誠を捕らえ、呉の地が平らいだ。戊戌、使を遣わして元主に書を送り、その宗室 紳寳大王らを北へ送り還した。
  • 辛丑、平呉の功を諭して李善長を宣國公、徐達を信國公、常遇春を鄂國公に封じ、将士にも差等をつけて賜与した。朱亮祖が台州を克した。癸卯、新宮が完成した。
  • 冬十月甲辰、起居注の呉琳・魏觀を遣わし、幣をもって四方に埋もれた賢者を求めた。丙午、百官の礼儀は左を上とするよう改め、李善長を左相國、徐達を右相國とした。
  • 辛亥、元の臣 余闕を安慶に、李黼を江州に祀った。壬子、御史臺を置いた。
  • 癸丑、湯和を征南将軍、呉楨を副将軍として國珍を討たせた。甲寅、律令を定めた。戊午、郊社・太廟の雅楽を正した。
  • 庚申、詔して諸将に北征を議させた。太祖は「山東は王宣が去就定まらず、河南は庫庫特穆爾が跋扈し、關隴は李思齊・張思道が梟猛で互いに猜疑している。元の命運はまさに亡びようとし、中原は塗炭にある。今北征して民を水火から救うが、どうすれば勝を決められるか」と問うた。遇春は「我が百戦の師をもって彼の久しく安逸に慣れた卒に当たり、直ちに元都を衝けば破竹の勢いです」と答えた。太祖は「元は建国百年、守備は必ず固い。軍を懸けて深入りすれば兵糧が届かず援兵が四方から集まる。危うい道だ。私はまず山東を取って彼の屏蔽を取り除き、兵を両河に移してその藩籬を破り、潼關を抜いて守り、その戸口を扼したい。天下の形勢が我が掌中に入ってから元都に進めば、勢いは孤立し援けは絶え、戦わずして自ずと克てる。鼓を鳴らして西へ行けば雲中・九原・關隴は席巻できる」と言い、諸将は皆「善し」と言った。
  • 甲子、徐達を征虜大将軍、常遇春を副将軍として師二十五万を率いさせ、淮から河に入って北のかた中原を取らせた。胡廷瑞を征南将軍、何文輝を副将軍として福建を取らせ、湖廣行省平章 楊璟、左丞 周徳興、參政 張彬に廣西を取らせた。
  • 己巳、朱亮祖が温州を克した。
  • 十一月辛巳、湯和が慶元を克し、方國珍は海へ遁れた。壬午、徐達が沂州を克して王宣を斬った。己丑、廖永忠を征南副将軍とし、海道から湯和と合流して國珍を討たせた。乙未、大統暦を頒布した。辛丑、徐達が益都を克した。
  • 十二月甲辰、律令を頒布した。丁未、方國珍が降って浙東が平らいだ。張興祖が東平を下し、袞・東の州県が相次いで降った。己酉、徐達が濟南を下し、胡廷瑞が邵武を下した。癸卯、李善長が百官を率いて即位を勧める表を三度上り、ようやく許した。甲子、上帝に告げた。庚午、湯和・廖永忠が海道から福州を克した。