明史 御製詩・進呈表

御製讀明史

  • 政務の合間の楽しみは何かといえば、書物と史書が机の上に横たわっていることだ。
  • 古を稽えて文献に証を求め、時勢を読み解いて治平の跡を験す。
  • 百年にわたって民も物も盛んであり、一代の紀綱がここに呈されている。
  • 巻を撫でながら、慎み恐れる心(乾惕)がいよいよ増し、そのうえに殷鑑の明らかなさまが垂れ示される。

御製題明神宗本紀

  • たまたま神宗本紀を閲していると、神宗がまだ皇太子であった六歳のときの話が載っていた。穆宗が宮中で馬を馳せたのを見て、「陛下は天下の主でいらっしゃる。ただ独りで騎って走らせては、銜(くつわ)や橛(くつわ止め)が外れる憂いはございませんか」と諫めたところ、穆宗は喜んで馬を下り、これをねぎらった、というたぐいの記事である。
  • 読んで、思わず書物を措いて歎じ、また笑った。笑ったのは史を作った者の無識に対してであり、歎じたのは眀の滅亡の兆しがすでにこのあたりに萌していたことに対してである。
  • そもそも宮中は馬を馳せる場所ではない。六歳の童子の見識が断じてここに及ぶはずはなく、またこれほど文をなした数語を口にできるものでもない。乳母や中涓(宦官)のたぐいが口任せに言い立てたのを、史を作った者が人の耳から聞いたままに記し、珍奇なこととして誇ってみせたにすぎない。どうして幼くして聡明(徇齊)であった例と並べられようか。
  • そのうえ洪武は馬上で天下を定め、永樂もまた馬上で天下を取った。神宗ひとりがその後嗣でないわけがあるまい。祖宗の勤労を忘れ、父帝が馬を習うのを諫めるとは何事か。穆宗たる者は、むしろ鞭打って訓すべきであった。どうして馬を下りてこれをねぎらうまでに至ろうか。
  • ゆえに私は、そのような事実は必ずなかったと考える。もし本当にあったのだとすれば、眀の滅亡はもともと神宗の惰政に亡んだのであり、その先の兆しはすでに六歳のときに早くも現れていたということになる。

御製讀熊廷弼傳

  • 眀で軍事に明るかった者としては、熊廷弼をこそ第一の巨擘(親指、随一の人物)とすべきである。その陛辞の一疏を読むと、ほとんど涙を落としそうになる。
  • ところが、この尽忠報国の人がまっさきに刑典にかけられた。みずから長城を壊し、祖宗の基業を棄てて顧みない者を、なお人の心があり天から与えられた良知を具えた者と言えようか。
  • そもそも廷弼は田間から召し返され、日に二百里を馳せた。待遇のなんと手厚かったこと、来着のなんと速やかであったこと。ところがいざ入朝すると、勅印は付与されず、席を前にして問いただされることもなく、何事もなかったかのような扱いであった。これはいったいどういう心づもりなのか。
  • やがて姚宗文が朝廷で誹謗をまき散らし、劉國縉が外から掣肘し、小人どもが徒党を組んで攻撃し、議論はいよいよ繁くなった。志ある士は腕を扼して手を出せず、明の社稷はそれによって亡んだ。いったい誰の過ちか。
  • 天唘の愚かな幼君が宦官に牛耳られていたのは、もとより論ずるにも足らない。しかし葉向髙のような者は、なお忠厚の老臣であった。それがただ自分の門生である王化貞を庇うために、熊廷弼を恨みもした。ああ、師弟・門戸の害が人の家をも国をも損なうことは、これほどまでに甚だしい。恐るべきことではないか。
  • そもそも軍事は、迂闊な凡庸の輩が勝手に議論してよいものではない。横議それ自体すでに不可であるのに、そのうえ曲直を分けずに門戸ばかりを庇い、君主もまた是非を弁別せず賞罰(彰癉)の示し方を誤り、因循が長引いて顛覆がそれに続いた。
  • これはもとより、天が有眀を厭い、そのうえ末世の君主みずからが招いたところがあったからである。
  • 熊廷弼は、我が祖宗が創業したときに難を構えた側の者ではなかったか。しかし各々が自分の君主のために働くのは、道理として力を尽くし心を尽くすべきことである。数百年を経て論が定まったのちに、私はむしろ彼を嘉し、その屈死を憐れむ。とすれば、当時のあの君主に仕えた者たちを指して「人心なく天良を喪った」と言うのも、決して苛酷な評ではないというだけのことである。

明史目錄卷一〜卷四

  • 底本の目録卷一〜卷四は、本紀・志・表・列傳の巻次と篇名・立伝者名を列挙したもので、各巻の見出しと重複するため訳出しない。

進呈表(四庫館臣の按語と進表の引用)

  • 臣らが謹んで按ずるに、明史二百十卷は、国朝の保和殿大學士張廷玉らが勅を奉じて撰したもので、乾隆四年(1739年)七月二十五日に書が成り、表を上って進呈された。内訳は本紀二十四卷・志七十五卷・表一十三卷・列傳二百二十卷・目錄四卷である。
  • その進表にいう。「仰いで惟みるに聖祖仁皇帝は、図書を金石のうちに捜し、老熟の俊才を山林に集め、事業を創めて編纂を指揮され、その歳月をゆるやかにお与えくださった」と。これは康熙十八年(1679年)にはじめて明史の修撰を詔し、あわせて彭孫遹ら五十人を召試して館に入れ纂修に当たらせたことを指す。記載は浩瀚で異同も分かれ、たがいに考證を重ねて、にわかには定まらなかった。
  • また進表にいう。「我が世宗憲皇帝は、公正慎重の旨をかさねて申され、討論の功を詳らかに載せられた。臣らはそのとき勅を奉じて總裁官に充てられ、纂修の諸臣を率いて館を開き排輯すること十五年、その間に幾度も同僚の異動を経ながら、三百餘卷の書を順次仕上げていった」と。これは雍正二年(1724年)に諸臣へその事業の続行完成を詔し、ここに至ってようやく書が成ったことを指す。
  • また進表にいう。「籖帙は多いものの、たがいに食い違いが見える。ただ旧臣王鴻緒の史稿だけは名人が三十年をかけた用心を経ており、進んでは彤幃(宮中)にあり、頒たれては秘閣に来た。首尾はおおむね具わり、事実もかなり詳しい。そこでその成編に依拠し、初稿として用いた」と。これは康熙年間に户部侍即の王鴻緒が明史稿三百十卷を撰し、ただ帝紀だけが未完で、他はみな排列がおおむね出来上がり、諸家のものに較べて詳贍であったため、その本を土台に増損して一書を成したことを指す。
  • 諸志はおおむね旧例に従うが、やや例を変えた点が二つある。第一に厯志には各種の図を増入した。厯は数から生じ、算法の句股・面線は今のほうが古より精密であって、図によらなければ分刌(区分)が明らかにならないからである。第二に藝文志は明人の著述だけを載せ、前史にすでに著錄されているものは載せない。この例は宋孝王の關中風俗𫝊に始まり、劉知幾の史通がくり返し申し明かしたもので、義として妥当であるのに唐以来用いられなかった。今これを用いるのである。
  • 表で旧例に従うものは四つ、諸王・功臣・外戚・宰輔である。新例を創ったものは一つ、七卿である。明は左右丞相を廃してその政務を六部に分かち、都察院が百司を糾察する任もまた重かったので、合わせて七としたのである。
  • 列傳で旧例に従うものは十三、新例を創ったものは三つ、閹黨・流賊・土司である。宦官(貂璫)の禍は漢唐以下いずれの代にもあったが、士大夫が権勢に趨り膻に群がることは明人がもっとも夥しく、その毒を天下に流したことも極めて酷かった。別に一𫝊を立てたのは、乱亡の源を明らかにするためであって、ただ誅罰を示すためだけではない。闖(李自成)・獻(張獻忠)の二寇は明を亡ぼすに至り、討伐と招撫の失敗は明らかな鑑とするに足る。他の小醜の比ではなく、また割拠した群雄の比でもない。ゆえに別に列した。土司は古のいわゆる羈縻州であって、内でも外でもなく、釁隙が生じやすい。おおむね元代に建置されて明代に蔓延したもので、これを制御する道は民を治めるのとも、敵国を防ぐのとも異なる。ゆえにおのずと一類をなす。
  • 甲申(1644年)以後もなお福王の号を続けて載せ、乙酉(1645年)以後もなお唐王・桂王の諸臣を併せて載せたのは、頒行ののちに綸綍(詔勅)を宣示され、特に改増を命ぜられたことによる。聖人の大正至公の心は、上は日月星の三光を貫き、下は万世を照らす。史籍が生まれて以来、いまだかつて聞いたことも見たこともないことである。
  • 乾隆五十四年(1789年)正月、恭しく校して上る。
  • 總纂官 (臣)紀昀・(臣)陸錫熊・(臣)孫士毅
  • 總校官 (臣)陸費墀