明季南略孫・李搆隙本末 呉三桂雲南平定 永暦十五年 1661年
呉三桂、兵を出だし雲南を取る
- 清は呉三桂を平西王に封じ、順治十五年(戊戌)、三桂は定西将軍らと共に四川・湖広・広西の三方面から貴州・雲南への進撃を開始した。四川方面では重慶・遵義などを次々に接収、道中には張献忠や地方反乱による荒廃の跡が随所に見られたと伝わる。晋王李定国・蜀王劉文秀は要害に伏兵を置いて抵抗するが、清軍は険路を切り開きながら進軍、遵義を制圧した。
- 広西・貴州方面でも清軍は諸方面軍と連携しつつ進撃、永暦帝方の抵抗拠点は次々に陥落。定国は各地で敗退を重ね、永暦帝と宮眷を奉じて雲南から永昌府、さらに騰越州へと後退を余儀なくされた。定国は磨盤山に三重の伏兵を仕掛け清軍に大打撃を与える計略を用意していたが、降将の密告により露見、伏兵の多くが戦死する結果となった。
- 己亥正月、清軍は雲南を制圧、多くの明側の官員・土司が次々と投降した。永暦帝は緬甸(ビルマ)国境へ逃れ、定国・白文選も辺境に留まり抵抗を続けたが、元江の土知府那嵩の抵抗も清軍により鎮圧された。
- 順治十七年(庚子)、清朝は永暦帝の身柄確保を最終目標として大規模な討伐軍を編成、順治十八年(辛丑)、清・呉三桂連合軍は緬甸国境を越えて進撃、白文選の抵抗も突破し、十二月、ついに永暦帝とその母太后、従者一同を緬甸側から引き渡させ捕獲した。
- 白文選も清軍に降伏、雲南は完全に平定された。李定国はその後、景線の地で没し、南明の抵抗は事実上終焉を迎えた。