明季南略永历至梧州 永暦帝(永明王) 永暦五年 1651年

金堡、孔定南王に上る書

  • 出家していた金堡(法名性因)は孔有徳に書を送り、瞿式耜・張同敞の遺骸が未だ埋葬されていないことを指摘、唐の高祖や明の太祖が敵将の忠義を称え手厚く葬った故事を引き、両人の遺骸を丁重に弔い遺族へ返すよう求めた。

郷城、歳を異にす

  • 永暦の暦(旧暦)と清の時憲暦とで閏月の置き方が異なったため、清軍占領下の広州・桂林などの城市と、なお永暦の暦を用いる周辺の郷村とで正月を祝う時期が二ヶ月近くずれるという珍事が生じた。

永历、再び南寧に上る

  • 陳邦傅は李定国に追われ行方知れずとなり、随行するのは厳起恒・馬吉翔・庞天寿のわずか三名という有様であった。

永历、南寧に在り

  • 辛卯正月、永暦帝は南寧にあり朝賀を免除。正・二月は一時的に落ち着きを見せたが、なお不安定な状況が続いた。

孫可望、南寧に入る

  • 二月一日、孫可望は突如三千の兵を南寧へ進め、時の兵科都給事中呉晋を腰斬に処すという暴挙に出た。

厳起恒、難に遭う

  • 孫可望は続いて首相厳起恒を捕らえ、秦王への冊封を拒んだ責任を問い、表向きは礼を尽くしつつも、密かに邕江に沈めて殺害した。遺体は家人が横州まで追って収容したと伝わる。

何・辜、燬滅す

  • 両広における戦乱と大量の犠牲は、辜朝薦と何吾騶の権力争いに端を発したものであった。辛卯年、何吾騶の壮麗な邸宅は焼失し、朝薦の家も潮陽の民の義憤により焼き払われるなど、両者とも因果応報の末路をたどったと著者は評している。