王謀、市人を駆りて起義し死す
- 王謀は無錫の人。丙戌仲冬、義兵を挙げ乗り込むが、卜占の凶兆にもかかわらず強行、烏合の郷兵は清の知太守の巧みな対応(首級を投げつけての威嚇)で崩れ、王謀自身は捕らえられ拷問にも屈せず「先鋒の王謀」と名乗り罵倒しながら死んだ(十一月十一日)。
呉易、長白荡に屯して起兵す
- 呉易は呉江の人、崇禎十年(丁丑)の進士。弘光朝で史可法に見出され軍務に従事、乙酉、清軍の呉江進攻に義兵を挙げ、当初三十人だったが次第に勢力を拡大、太湖周辺を拠点に清軍への奇襲を繰り返し戦果を挙げた。丙戌正月には呉江に攻め入り略奪、清の鎮将呉胜兆との攻防が続いたが、巡撫土国宝の計略で内応者に欺かれ壊滅、辛くも生き延びるが六月、密告により捕らえられ杭州で処刑された。かつて出会った禅僧から「忠孝を尽くせ」との言葉を受けていたとの逸話も伝わる。
文秉、呉易に通じたとして弁明せず死す
- 長洲の諸生文秉(旧宰相文震孟の子)は、呉易との内通を疑われた際、弁明せず「父を辱めたくない、速やかな死を望む」と述べて処刑された。
劉曙、義に就く
- 長洲の人劉曙は、隠棲していたが舟山勢力との内通を疑われ、実際には面識のない人物の密告により逮捕、屈せず刑死した。
魯之璵・韋武韜、戦死す
- 蘇州の旧遊撃魯之璵・韋武韜は、挙兵の末に戦死した。
麻三衡「七家軍」
- 宣城の麻三衡は、近隣の諸生六名と共に「七家軍」と称する義勇を組織、勇猛に戦ったが衆寡敵せず捕らえられ、南京で処刑された。七家軍の全員が死んだ。
呉福之・徐安遠、起兵して死す
- 常州の諸生呉福之は義兵を挙げ清軍と戦うが三ヶ月後に敗れ入水自殺、武進の徐安遠も黄蜚軍に加わり敗死した。
張龍文、郷兵を率い城に迫る
- 常州の諸生張龍文は郷兵を率い郡城に迫るが、殺された。
銭棅、家産を投げ打ち起義す
- 浙江嘉善の銭棅(旧宰相銭士升の子)は、家産を投じて義勇を組織し戦うが敗れて殺された。
徐石麒、盟主となる
- 徐石麒は嘉善の人、崇禎年間には兵部尚書陳新甲の失政を弾劾するなど剛直で知られた。弘光朝で吏部尚書に起用されるが、政争に嫌気がさし辞任。南京陥落後、郷里で鎮将陳梧の義兵に迎えられ盟主となるが、三塔の戦いに敗れ、城の陥落に際し縊死した。従僕二名も殉じた。
黄賡、僧となる
- 黄賡は徽州の人で明代の武状元。清軍の徽州侵攻に際し義勇を率い奮戦するが敗れ、福建へ逃れるも再起できず、剃髪して僧となった。
許生、偽の受験計画が発覚し死す
- 順治三年(1646年)八月、武進の諸生許某が科挙受験に紛れて反清活動を計画していたことが発覚、洪承疇の厳しい取り調べにより多数が処刑される事件となった。許生自身は動じず「大明を忘れないだけだ」と述べて処刑され、この事件で千人近くが処罰の対象となり科挙自体が延期されたという。