明季南略北事 福王(弘光帝) 弘光元年 1645年

使臣左懋第、節に殉ず

  • 左懋第は登州莱陽の人、崇禎四年(辛未)の進士。韓城県令として三度の流賊来襲を撃退し、後に戸科・吏科の給事中を歴任、南京・燕湖などの軍餉監察を命じられたが復命前に崇禎帝が崩御した。
  • 弘光帝即位後、中興の大計を上奏し江上での指揮を命じられ、僉都御史・応安巡撫に昇進。母が天津で死去したため服喪を願い出たが、朝廷が北への通好使節を派遣する方針となり、自ら北行を志願し母の埋葬も兼ねることに。兵部侍郎に進み、国書・金幣を携え出発、副使として陳洪範・馬紹愉が同行した。
  • 八月、沧州で陳洪範が呉三桂への封冊を先に送るが、三桂は開封せず摂政王に転送。九月、楊村で地元の士人らが参謀として加わる。十月、張家湾で使節団が「四夷館」扱いされ属国の礼を強いられそうになるが、左懋第が抗議し鴻臚寺での応対に改めさせた。
  • 十四日、清の内院冠林が朝見を強要するが、左懋第は「まず先帝陵墓への参拝が先、それなしに朝見はできない」と拒否。翌日も同様のやり取りが続き、左懋第は一歩も譲らず、最終的に国書・金幣は接収されたが、参拝は許されず、寺で三日間将士と共に哭礼を行った。
  • 二十七日、突然北京から追い立てられ出発、十一月五日に沧州で追手により左懋第と馬紹愉だけが引き戻され、陳洪範のみ南下を許された。副将張有才らも沧州に留め置かれ、左懋第は北京の太医院に拘禁され面会も許されなかった。降伏を勧める者が相次いだが応じず、かつての明の将軍で清に降った洪承疇・李建泰が訪ねてきた際にも厳しく面罵して追い返した。
  • 乙酉正月、副将劉英や参謀曹遜・金鑣がひそかに面会し上疏を託したが、南京到着時には既に陥落していた。
  • 閏六月十五日、南京平定を受け再び薙髪令が出され、副将艾大選が真っ先に髪を切ったため左懋第がこれを杖罰、大選は自害。恐れた従者が密告し、左懋第は投獄された。武力で薙髪を迫られても「不可」と叫び続け、参謀陳用極や部下将士も共に投獄された。
  • 二十日、摂政王の尋問で「偽の福王擁立、土賊への内通、国書不提出、総兵の擅殺、朝廷での不敬」の五罪を問われたが、左懋第は堂々と反論し、ただ死を望んだ。薙髪を拒み続け、居合わせた漢人官僚(陳名夏、金俊ら、共に清に降った旧明臣)から非難されると、逆にその変節を鋭く指弾。摂政王は処刑を命じ、宣武門外で南に向かい端座して刑を受けたと伝わる。絶命の詩も残された。同行の陳用極・王一斌・王廷佐・張良佐・劉統も同日処刑され、馬紹愉のみ部下と共に薙髪して降った。刑場では突風が吹き荒れ、市が一時休業したという。
  • 明朝で使節として死んだ忠臣は、王褘・呉雲とこの左懋第の三人のみと伝えられる。会稽の章正宸とは特に親交が深く、左懋第の死後、正宸も野に隠れたという。同郷の姜埰がその遺詩を編纂し世に伝えた。

淩駉、済寧の館で自縊す

  • 淩駉、もと名は雲翔、徽州歙県の人。崇禎十六年(癸未)の進士、甲申正月に兵部職方司主事・督輔軍前賛画に任じられる。曲沃で兵が潰走した際、単身臨清まで逃れ三百人を集めて挙兵、偽防禦使王皇極ら三名を捕らえた。山東へ檄を発し、賊が偽りの仁政を装って人心を惑わしている実態と、実際には過酷な収奪・暴行が横行している状況を糾弾、各地の土寨が次々に帰順した。
  • 南京へ上奏し浙江道監察御史・山東巡按に転じたが、清軍が迫る中で「自分は書生に過ぎないが、義軍を集め偽官を討った功をさらに活かしたい。清軍と自分たちの利害が一致しない形での協力は続かない、当面は清との和を保ちつつ討賊に専念し、後に処遇を図るべき」との現実的な戦略を上奏、山東・河北の要衝である臨清の重要性を説き、有能な使者の北方派遣を求めた。しかし朝廷は陳洪範の派遣のみで山東への援軍を送らなかった。清軍が山東の州県を制圧する中、駉は大名まで南走。清は兵科の印札で駉を招くが、駉はこれを陳橋駅に掲げたまま単身南京へ向かった。
  • 再び河南巡按を命じられ帰徳へ急行するが、既に清軍が城下に迫っていた。総兵王之綱は兵を率いて逃走、駉は数百の兵とともに籠城。降伏を勧める遊撃趙擢を斬って見せしめとし、翌日西門から出撃するが、守備側が既に東北門を開いて投降していた。清の将は駉の生け捕りを命じたが、駉は自刎、部下に取り押さえられた。駉は二つの印を井戸に投げ捨て、参将呉国興らに遺疏を託し、自らは単騎で清の豫王の陣へ赴き、拝礼せずに立礼のみで応対した。豫王は駉を厚遇しようとしたが固辞、営中に留め置かれた後、ある夜、甥の潤生と共に自ら縊死した。
  • 遺書には「代々国恩を受けた身として死をもって義を尽くす。貴国には初心を忘れず江南への侵攻を控えてほしい、さもなくば揚子江の淩御史は昔の銭塘江の伍子胥と同じ運命をたどるだろう」との一節があったと伝わる。豫王は駉を察院公署に手厚く葬らせ銀百両を与え、城中の吏民は皆号泣したという。駉の母は七十歳、子はわずか四歳で、登第後一度も帰省が叶わなかったと伝わる。事が伝わると朝廷は賞賛したが、間もなく南京が陥落し恤典は実現しなかった。
  • 著者は、もし弘光初期に山東方面へも兵を出し淩駉と連携していれば、沧・徳を扼し徐・兗を守り、事態は違った展開もあり得たと惜しんでいる。

大清、青州の土賊を剿す

  • 正月六日、清は兵を青口へ派遣、登州・天津の海船で平度州を巡邏させる。望高山の土賊が莱州西関を焼き討ちするなど乱を起こし、自ら「許王」と称する者が数万の兵を率い青州に屯していたため、清軍がこれを討伐した。

大清豫王の暁諭

  • 四月十七日、清の摂政王は江南・南京・浙江・江西・湖広の官民に布告を発し、南朝が崇禎帝殉節に際し一兵も送らず福王を勝手に擁立したこと、賊討伐を怠り内輪もめに終始していることを「三つの罪」として糾弾、投降すれば官位を保証し、抗えば厳罰に処すと通告、福王自身が悔い改めて帰順すれば罪を許すとも述べた。

北兵に御するを議す

  • 清軍が徐州・碭山・亳州・泗州を相次いで撃破。四月八日、史可法が三度緊急を報告するが、上は「上流(左良玉)が急なら上流へ、清が急なら清へ」との場当たり的な対応、可法は「上流は君側の奸を除くのみで宗社を脅かさないが、清軍は宗社そのものへの脅威だ」と訴えたが、士英は左良玉軍への対応にのみ関心を集中させ応じなかった。
  • 九日、清軍が潁州に到達、南軍の将兵は降る者と逃げる者が相半ばした。梁雲構が劉沢清・黄得功の入衛を求め、黄斌卿は駐留防衛を求めた。十日、徐州・邳州が危急を告げ衛胤文・李本深に泗州駐屯を命令。十四日、劉沢清・劉良佐が入衛を願うが辺境防備優先として却下。
  • 十五日、劉洪起・王永吉が徐州の孤立と南京への危機を警告、史可法・衛胤文による徐州確保を求めた。十七日、史可法は「将たちが平時から兵を私物化し軍餉を浪費し、いざという時に頼りにならない」と嘆いたが、士英は応じなかった。
  • 十九日、上が士英を召し協議、士英は左良玉への防御を強く主張、大理寺卿姚思孝・尚宝寺卿李之椿・工科呉希哲らは淮・揚の防備こそ急務と訴えたが、士英は「淮・揚の守りを主張する者は良玉の一味だ、既に得功・良佐を渡江させた、君臣ともに清に討たれても良玉の手にはかかるものか」と激高、「淮防を論じる者は斬る」とまで言い放ち、上も諸臣も沈黙した。礼部尚書銭謙益が陳洪範の再登用を勧めるも、上は「登用しても使い道がない」と苦笑い、呉希哲は退出後「これでは南宋の賈似道が淮・揚を見捨てたのと同じだ」と嘆いた。著者の父も、この時朱大典が怒りをあらわに「これでは皆が大散会(総崩れ)になるだけだ」と語ったと伝え聞いている。

史可法、揚州に殉節す

  • 四月二十二日、清軍が淮河を渡り無人の野を行くように進軍。二十四日、清軍は突如揚州に迫り新城を包囲。史可法は必死に防戦し多少の戦果を挙げたが状況は悪化、急ぎ兵部へ救援を求める書状を送るが応答はなかった。
  • 二十五日、可法は打って出るが清軍が城内に突入、可法は剣で自刎した。旧兵部尚書張伯鯨も捕らえられて屈せず、自刎して妻・嫁もこれに殉じた。部下の游撃龔尭臣も屈せず死んだ。
  • 別伝によれば、清軍は黄蜚の援軍と偽って城内へ誘い込み、それを信じた可法が門を開いたところを急襲されたともいう。可法は城上で事態を見て自刎しようとしたが左右に止められ、総兵劉肇基と共に城壁を伝って脱出したとも、豫王の前に引き出され屈せず殺されたとも、諸説がある。
  • 著者は、清の豫王が南京入城後の五月二十二日に史可法の祠を建て遺族を厚遇したことから、実際には節を屈せず殺されたとする説が真実に近いと考察している。後年、著者自身が揚州で史可法の生前を知る者から聞いた話として、揚州の民が高傑軍の乱暴を恐れて城内に避難していた経緯や、包囲六日目に「黄得功の援軍が来た」との偽情報を信じて城門を開いた結果、清軍に急襲され潰走した詳細も伝えている。史可法は小柄で精悍な体躯、色黒で、軍中でも質素な食事に徹し、部下に敬愛されていたと伝わる。
  • 著者は、宋末・元末にも同様に包囲・陥落を繰り返してきた揚州の歴史(南宋末の元軍による長期包囲、明初の戦乱での荒廃)を振り返り、この地の栄華が繰り返し天災のような破壊を招いてきたことを述懐している。