明季南略福王本末 巻頭(王の来歴)

  • 福王由崧は神宗の孫、光宗の甥、思宗の兄にあたり、年号を弘光と称した。乙酉年(南京陥落)に北へ逃れたと伝わる。死後の呼称は政権により異なり、浙東の魯王監国政権は「赧皇帝」、福建の唐王(隆武帝)政権は「聖安皇帝」、永暦帝(永明王)政権は「安宗簡皇帝」とそれぞれ諡した。清朝はその年号を認めず、単に「福藩」と呼ぶにとどめている。
  • 父・福恭王常洵は神宗の側室鄭貴妃の子で神宗第二子。万暦四十二年(1614年)に河南府へ封じられた。崇禎十四年(1641年)正月、李自成の乱軍が河南を陥落させ福王は殺害されたが、世子(後の由崧)は城を越えて逃れた。崇禎十七年(1644年)二月三日夜、懐慶府で異変が起こり、由崧は生母鄒氏と離れ、乱軍の中を衛輝府の潞王のもとへ落ち延びた。
  • 「紀」という史料には、福王家の「王宝」の印は実は現存せず、世子であった頃に乱軍へ贈る名目で自ら偽称したものだったとの説が記される。
  • 「甲乙史」には、三月に福・周・潞・崇の四藩王がそれぞれ藩国を捨てて南へ逃れた経緯が記される。初四日に出発、十八日に淮安の湖嘴で寓居、二十九日に南京陥落の報が淮上に伝わり、四月末には南京の官僚たちが儀真で王を出迎え、船中で謁見したという。