舊五代史卷一百四十八 志十 選舉志

  • 唐の制度では、選授は天官卿(吏部)が権衡を正して賢能を進め、挙貢は春官卿(礼部)が文行を覈し俊秀を第するものであった。梁以降もこれを踏襲し、多少の改革はあっても大枠は変わらなかった。以下に事跡を採り集め、五代の官吏登用・選挙の方法を記す。

科挙の制度

  • 梁開平元年(907年)七月、秋の挙人が試験を親しく受けない「拔解」の慣行を禁じ、四月には兵部尚書権知貢挙姚洎が、名教の維持と邦本の樹立のため、公卿・親属・将相子孫で文行に取るべき者は所在州府から薦送させ人材登用の道を広げるべきと奏し、認められた(『文献通考』によれば、唐代は知貢挙を礼部侍郎が務めるのが通例だったが、梁開平中に初めて兵部侍郎楊渉が権知貢挙となった)。
  • 唐同光二年(924年)十月、中書は挙選を一年停止するよう請う議があったが、国朝の重事であり軽々しく停めるべきでないとして常例どおりとした。天成元年(926年)八月、三京諸道の今年の貢挙人は例年どおり取解し、隨処で赴闕を送迎させることとした。五年(930年)二月九日、近年の文士が帖経(経文暗誦試験)を軽んじ及第後に選試を恥じる風潮を戒め、進士科の及第者は選次を経た上で中書に陳状し都堂前で本業(詩賦・判文)を試させ、才藝の優れた者は除官し、劣る者は追加選次に回すこととした。
  • 晉天福三年(938年)三月、翰林學士承旨兵部侍郎権知貢挙崔棁は、その年の挙人が例年の倍近く多く、落第者の不満(主司不公・試官受賂等の噂)が広がりやすい実情を踏まえ、落第者が疏義との対証を求めて訴える場合には一甲同席で校量させ、実際に抑屈があれば所司の責任を問い、妄りな陳論であれば処罰する制度を請い、認められた。同五年(940年)三月、及第挙人と主司との宴席や、中書舎人が靸鞋(略装)で挙人に接見すること、兵部・礼部が引人過堂の際に酒食を設ける慣行を廃止した。
  • 同年四月、礼部侍郎張允は、明経科が九経・五経・三礼・三伝など多岐に分かれ毎年五百から千余人が応挙するが、多くは義理を究めず帖書のみ攻める実情を踏まえ、明経一科の停廃を請うた。また童子科についても、暗誦のみで理解を伴わず、及第後は役を逃れるだけの実情から停廃を請うた。これにより明経・童子・宏詞・拔萃・明算・道挙・百篇等の科が停止された。
  • 七年(942年)五月、進策(政策提言)を行う者について、門下省が三道の策を試し上中下三等に分け、施行の有無に応じて減選・出身優叙・銓司超資注擬などの処遇を定める制度が整えられた。開運元年(944年)八月、明経・童子二科が旧来の効用を評価され復置された。十一月、工部尚書権知貢挙竇貞固は、進士の考試・雑文と諸科挙人の入策が長興二年に「三条燭」から「昼試」に改められた経緯を踏まえ、旧例に依り燭限とすること、および懐藏(カンニング)の取締りを厳格化することを奏した。
  • 漢乾祐二年(949年)、刑部侍郎邊歸讜は毎年の貢挙人が五挙・六挙を経ても二千・三千に上り事業が精しくない実情を戒め、三京鄴都諸道州府の長官に文解を精しく考校させ、濫りな挙送を禁じることを請い、勅で従われた(天福五年四月二十七日の勅条件にも同様の趣旨があり、随処の考試官が準じて処分することとされた)。
  • 周廣順二年(952年)二月、礼部侍郎趙上交は諸科の試験で汎義を試さず、口義五十道を墨義十道に改めることを奏し、認められた。三年(953年)正月、趙上交は進士の元の試験(詩賦各一首・帖経二十帖・対義五通)を改め、帖経・対義を廃し雑文二首・策一道を試すことを奏し、認められた。同年八月、刑部侍郎権知貢挙徐台符は雑文を別に試すこと以外は帖経・墨義を元の格に依ることを奏した。顯德二年(955年)三月、礼部侍郎竇儀は、諸科挙人の解送に不当があれば監試官を罪に問い、監官の受賂や進士の代作の依頼にも罰則を科す制度を奏した。

選人・銓注の制度

  • 唐同光四年(926年)三月、中書門下は左拾遺王松・吏部員外郎李愼儀の上疏を議した。諸道州県の攝官による誅剥や、郭崇韜が中書にいた際に不備な保証・文書上の些細な瑕疵で選人・行事官千二百五十余人のうち数十人しか得官できず、多くが渝濫として焼却・棄逐された実情、選人が集まらず銓曹に人材がいない状況を踏まえ、中書の条件と王松らの論を委ねて銓司に酌中の定制を作らせることとし、認められた。当時の議者は、銓注の弊が一朝に限らず、伯叔・姪甥間の告赤の売買や昭穆の乱れなど搢紳の家の不正を指摘し、郭崇韜がこれを疾んで釐革を奏したが、豆盧革・韋説がしぶしぶ賛成したにすぎず、郭崇韜が誅せられると韋説は王松に上疏させて崇韜の政策を非難させたと伝える。
  • 天成四年(929年)冬十月丙申、嶺南・黔中を除く諸道の選人が毎年数千に上り三選に分けている煩雑さを改め、諸道選人は三銓官員が省署でまとめて磨勘し、格に依り注擬・連署・申奏することとした。長興元年(930年)三月、選人の資考文書の紛失を防ぐため、南曹で文書に縫印を施す制度を定めた。同年十月、吏部流内銓の選人の試判の優劣等第を申奏し、優れた者は超一資、次は依資、更に次は同類官で注擬することとした。應順元年(934年)正月丁卯、経学出身者の任官資格(下県令・下州録事参軍等への就任年数)を緩和し、蹉跎を防ぐ改革を行った。
  • 晉天福三年(938年)正月、舉選の艱辛を配慮し、駁放・落下事由がない選人は施行し、文解の差錯は発解州府官吏の責とすることとした。漢乾祐二年(949年)八月、右拾遺高守瓊の上言により、仕宦年齢が三十未満の者は県令に任じないこととし、七十歳の選人は優散官に注し、若年で資考を経ない者は令録に注授しないこととした。同年十二月、諸出選門官のうち曾て升朝・両使判官を歴任し現任で令録に授かる者は現任官の選数に依ることとした。
  • 周廣順元年(951年)二月、除官後の赴任遅延(他事阻留・染疾淹駐等)による新旧官の交代の混乱を防ぐため、諸道州府の録事叅軍・判司・県令・主簿等は到任月日を旋ちに申奏・報吏部し、中書・銓司が到任月日を基準に用闕することを定制とした。同年十月、選部の三銓を一処に併せ、本司長官が通判・商量して施行することとし、南曹判成で文解差錯があれば発解官吏の責とすることとした。