舊五代史卷一百三十九 志一 天文志

  • 天文志の序文は原本で欠落している。

日食

  • 梁太祖乾化元年(911年)正月丙戌朔、日食があった。当時、識者の多くが漢高祖末年に歳首に日食があった故事を引き合いに出したため、梁祖はこれをひどく忌み嫌い、素服して正殿を避け、百官もそれぞれ本司を守った。この日、司天は「雲が陰晦していたため実際には日食が見えなかった」と奏し、百官は上表して祝賀した。
  • 末帝龍德三年(923年)十月辛未朔、日食があった。
  • 唐莊宗同光三年(925年)四月癸亥朔、司天が「日食は卯の刻に起こり、その年は大旱になる兆し」と奏した。
  • 明宗天成元年(926年)八月乙酉朔、日食があった。
  • 天成二年(927年)八月己卯朔、日食があった。
  • 天成三年(928年)二月丁丑朔、日食があったが、当日は陰雲で見えず、百官は祝賀した。
  • 長興元年(930年)六月癸巳朔、日食があったが、当日は陰冥で見えず、夕方に大雨となった。
  • 長興二年(931年)十一月甲申朔、これより先、司天が「朔日に日食が起こるが食分はわずかで太陽の光に隠れ判別しにくいだろう」と奏したため、その日は入閤せず百官が本司を守ることとされた。
  • 晋高祖天福二年(937年)正月乙卯、これより先、司天は「正月二日に太陽が虧蝕する、正殿を避け諸営門を開き兵器を半月間しまうべき」と奏していた。当日、太陽は十分中三分が欠け、尾宿十七度の位置で日の出とともに三分の虧を帯び、卯の刻にかけて次第に満ちた。
  • 天福三年(938年)正月戊申朔、これより先、司天は日食を予告していたが、当日は日食が起こらず、内外で祝賀した。
  • 天福四年(939年)七月庚子朔、時に中書門下は「旧礼によれば日食の際は天子は素服して正殿を避け、太史は所司に社で日を救う祭を行わせ五兵五鼓五麾を東戟西矛南弩北楯中央に鼓を置いて配し、百官は素服で本司を重列し日に向かって立ち、日が復するまで続けるとある。今は所司の法物が揃わないため、昨年正旦の日食では兵仗を慎んで蔵めるにとどめ、皇帝は正殿を避け素食し百官は本司を守った。今回もこの近例に倣いたい」と奏し、許可された。
  • 天福七年(942年)四月甲寅朔、当日は百官が本司を守ったが太陽は欠けず、上表して祝賀した。
  • 天福七年(942年)八月戊申朔、日食があった。
  • 少帝開運元年(944年)九月庚午朔、日食があった。
  • 開運二年(945年)八月甲子朔、日食があった。
  • 開運三年(946年)三月壬戌朔、日食があった。
  • 漢隠帝乾祐三年(950年)十一月甲子朔、日食があった。
  • 周太祖広順二年(952年)四月丙戌朔、日食があった。

月食

  • 梁太祖開平四年(910年)十二月十四日夜、これより先、司天は「この日は月食のため用兵によくない」と奏していたが、時に王景仁がまさに大軍を率いて北伐しており追撃の途上であったため間に合わず、翌年(乾化元年、911年)正月二日、果たして後唐莊宗に柏郷で大敗した。
  • 唐莊宗同光三年(925年)三月戊申、月食があった。同年九月甲辰、月食があった。
  • 明宗天成三年(928年)十二月乙卯、月食があった。
  • 天成四年(929年)六月癸丑望、月食があった。同年十二月庚戌、月食があった。
  • 晋高祖天福二年(937年)七月丙寅、月食があった。
  • 天福五年(940年)十一月丁丑、鶉首の分野で月食があった。
  • 少帝開運二年(945年)三月戊子、月食があった。同年九月丙戌、月食があった。
  • 漢高祖天福十二年(947年)十二月乙未、月食があった。
  • 周世宗顕徳三年(956年)正月戊申、月食があった。
  • 顕徳五年(958年)十一月辛未、月食があった。

月暈

  • 唐明宗天成元年(926年)十一月、月が火星・木星を取り囲むように暈がかかった。

彗孛

  • 梁太祖乾化二年(912年)四月甲戌の夜、彗星が霊台の西に現れた。
  • 唐明宗天成三年(928年)十月庚午の夜、西南に孛星が現れ長さ一丈余り、東南を指し宿五度に位置した。
  • 末帝清泰三年(936年)九月乙丑、彗星が虚・危宿に現れ、長さ一尺余り、細く微かな形で天壘・哭星の分野を経過した。
  • 晋高祖天福六年(941年)九月、彗星が現れ長さ一丈余り。
  • 天福八年(943年)十月庚戌の夜、彗星が東方に現れ西を指し、長さ一丈、角宿九度に位置した。
  • 周太祖顕徳三年(956年)正月壬戌の夜、参宿・角宿に孛星が現れ芒を発し東南を指した。

五星凌犯

  • 梁太祖開平二年(908年)正月乙亥、歳星(木星)が月を犯した。
  • 乾化二年(912年)五月壬戌、熒惑(火星)が心宿大星を犯し心を去ること四度で順行した。占いに「心は帝王の星」とあったが、その年六月五日、太祖は崩じた。
  • 唐莊宗同光二年(924年)八月戊子、熒惑が星宿を犯した。
  • 同光三年(925年)三月丙申、熒惑が上相を犯し、四月甲申、熒惑が左執法を犯し、六月丙寅、歳星が右執法を犯し、九月己亥、熒惑が江東に在って第一星を犯した。
  • 明宗天成元年(926年)八月癸卯、太白(金星)が心宿大星を犯し、辛亥、熒惑が上将を犯し、九月庚午、熒惑が右執法を犯し、己卯、熒惑が左執法を犯し、十月戊子、熒惑が上相を犯し、十二月、熒惑が氐宿を犯した。
  • 天成二年(927年)正月甲戌、熒惑と歳星が互いに犯し、二月辛卯、熒惑が鍵閉を犯し、三月、熒惑が上相を犯し、六月辛丑、熒惑が房宿を犯し、九月壬子、歳星が房宿を犯した。
  • 天成三年(928年)正月壬申、太白と熒惑が奎宿で合し、八月癸卯、熒惑が上将を犯し、乙卯、熒惑が右執法を犯し、庚午、太白が左執法を犯し、九月庚辰、鎮星と歳星が箕宿で合し、辛巳、太白と熒惑が軫宿で合し、十二月壬寅、熒惑が房宿を犯し、太白と歳星が斗宿で互いに犯した。
  • 天成四年(929年)三月壬辰、歳星が牛宿を犯し、九月丙子、熒惑が哭星に入った。
  • 長興元年(930年)六月乙卯、太白が天罇を犯し、十一月壬戌、熒惑が氐宿を犯し、十二月丙辰、熒惑が天江を犯した。
  • 長興二年(931年)正月乙亥、太白が羽林を犯し、四月甲寅、熒惑が羽林を犯し、八月、辰星が端門を犯し、十一月丙戌、太白が鍵を犯した。
  • 長興三年(932年)四月庚辰、熒惑が積尸を犯し、九月庚寅、太白が哭星を犯し、十一月己亥、太白が壁塁を犯した。
  • 長興四年(933年)八月己未、五鼓三籌の頃、熒惑が天高星に近づき、歳星が司怪に近づき、太白が軒轅大星に近づいた。
  • 末帝清泰元年(934年)六月甲戌、太白が右執法を犯した。
  • 晋高祖天福元年(936年)三月壬子、熒惑が積尸を犯した。
  • 天福四年(939年)四月辛巳、太白が東井北轅を犯し、甲申、太白が五諸侯を犯し、五月丁未、太白が輿鬼中星を犯した。
  • 天福六年(941年)八月辛卯、太白が軒轅を犯し、九月己卯、熒惑が上将を犯した。
  • 天福八年(943年)八月丙子、熒惑が右掖を犯し、十月丙辰、熒惑が進賢を犯した。
  • 少帝開運元年(944年)二月壬戌、太白が昴宿を犯し、己巳、熒惑が天鑰を犯し、四月丁巳、太白が五諸侯を犯し、七月甲申、太白が東井を犯し、八月甲辰、熒惑が南斗に入り、十月壬戌、熒惑が哭星を犯し、十二月、太白が辰星を犯した。
  • 開運二年(945年)八月甲戌、歳星が東井を犯し、九月甲寅、太白が南斗魁を犯し、十一月甲午朔、太白が哭星を犯した。
  • 漢天福十二年(947年)十月己丑、太白が亢宿の距星を犯した。
  • 乾祐元年(948年)八月己丑、鎮星(土星)が太微西垣に入り、戊戌、歳星が右執法を犯し、十月丁丑、歳星が左執法を犯した。
  • 乾祐二年(949年)九月壬寅、太白が右執法を犯し、庚戌、太白が鎮星を犯し、丁卯、太白が歳星を犯し、十一月、鎮星が太微の左掖門から出始めた。元年八月己丑に鎮星が太微垣に入って以来、上将・左右執法・内屏・謁者を勾巳し往来すること総じて四百四十三日、この時ようやく左掖から出た。
  • 乾祐三年(950年)六月乙卯、鎮星が左掖を犯し、七月甲申、熒惑が司怪を犯し、八月癸卯、太白が房宿を犯し、庚戌、太白が心宿大星を犯し、十月辛酉、太白が歳星を犯した。
  • 周広順元年(951年)二月丁巳、歳星が咸池を犯し、己未、熒惑が五諸侯を犯し、三月甲子、歳星が心宿に留まり、己卯、熒惑が鬼宿を犯し、壬午、熒惑が天尸を犯し、四月甲午、歳星が鈎鈐を犯した。
  • 広順二年(952年)七月、熒惑が井鉞を犯し、八月乙未、熒惑が天罇を犯し、九月辛酉、熒惑が鬼宿を犯し、庚戌、熒惑が右執法を掩い、十月壬辰、太白が進賢を犯した。
  • 広順三年(953年)四月乙丑、熒惑が霊台を犯した。
  • 顕徳五年(958年)、熒惑が上将を犯した。
  • 顕徳六年(959年)六月庚子、熒惑と心宿大星が合度し光芒が相射った。これより先、熒惑は房・心の間で数か月にわたり勾巳しており、この時に心宿大星と合度したもので、その夜順行した。

星昼見

  • 唐同光三年(925年)六月己巳、太白が昼間に見えた。
  • 天成元年(926年)七月庚申、太白が昼間に見えた。
  • 長興二年(931年)五月己亥、歳星が昼間に見え、閏五月己巳、また歳星が昼間に見え、八月戊子、太白が昼間に見えた。
  • 長興三年(932年)十月壬申、太白が昼間に見えた。
  • 長興四年(933年)五月癸卯、太白が昼間に見えた。
  • 清泰元年(934年)五月己未、太白が昼間に見えた。
  • 漢天福十三年(948年)四月丙子、太白が昼間に見えた。
  • 乾祐二年(949年)四月壬午、太白が昼間に見えた。
  • 周広順二年(952年)二月庚寅、太白が天を経て見えた。

流星

  • 梁乾化元年(911年)十一月甲辰、東方に数升の器ほどの流星が現れ、畢宿の方角から出て光の尾を三丈余り曳き、雷のような音を発した。
  • 唐長興二年(931年)九月丙戌の夜、二鼓の初め、東北方に小流星が現れ北斗の魁に入って消え、五鼓の初めには西北で次いで北に半升器のような流星が現れ、初めは小さく後に大きくなり速く流れて奎宿に至り消えた。尾迹は天に凝り屈曲して雲のように散り光が地を照らした。また東北に大桃のような流星が現れ下台星から出て西北へ速く流れ斗柄の第三星のあたりで消えた。五鼓の後から明け方にかけ天の中央および四方に小流星百余りが流れ交錯した。
  • 応順元年(934年)春二月辛未の夜、五升器ほどの大星が東北に流れ、雷のような音を発した。
  • 清泰元年(934年)九月辛丑の夜、五鼓の初めに五斗器ほどの大星が南に流れ、尾迹の長さ数丈、赤色で時とともに龍のように盤屈し、二つの鏵が争うように縮んで散った。また一つの小さめの星が東に流れ、尾迹が白気となって凝り、食事の間ほどでようやく散った。
  • 晋天福三年(938年)三月壬申の夜、四鼓の後、東方に三升器ほどの大流星が現れ、色は白く長さ一尺余り、屈曲して河鼓星の東三尺から流れ出し一丈余り流れて消えた。
  • 周顕徳元年(954年)正月庚寅、子夜の後、東北に大星が墜ち雷のような音を発し牛馬が驚き六街の鼓を打つ人がまだ寝ていたが驚いて夜明けの鼓と勘違いし打ち鳴らして応じた。夜明けにようやく事実が知れた。三月、高平の役の前夜、日のような大流星が数丈にわたり流れ賊営の場所に墜ちた。

雲気

  • 梁開平二年(908年)三月丁丑の夜、月に蒼白い暈がかかり、また人の形をした白気十余りが暈の内から東を向いて現れた。九月乙酉の平旦、西方に人の形をした気が多数現れ、みな俯伏するような様で、しばらくして散った。
  • 唐同光二年(924年)、日に背気(暈の外側にできる虹状の気)が現れることが十二、三度あった。九月丁未の夜、天一面が陰雲に覆われ北方に雷のような音がして四方の鶏雉がみな鳴いた。俗にこれを「天狗落」と呼ぶ。この年、日の背気は総じて十三度現れた。この月、司天監は「七月三日から陰雲大雨が続き九月十八日後にようやく晴れた、三辰の行度や災祥は数日見えなかった」と奏した。閏十二月庚午、日に黒気が現れ日と交わって錯磨するように見え、室宿十度に測られた。
  • 天成二年(927年)十二月壬辰、西南に赤気が火焰のように現れ約二千里に及び、占う者は「二年を出ずして下に大兵あるべし」と言った。
  • 長興三年(932年)六月、司天監は「月初めから月末まで毎夜陰雲が天を覆い星月が見分けられなかった」と奏した。
  • 応順元年(934年)四月九日、白虹が日を貫いた。この時、閔帝が遇害された。
  • 晋天福初年(936年)、高祖が太原で挙兵しようとした頃、日の傍らに蓮や菱のような形の五色雲がしばしば現れた。天福二年(937年)正月丙辰、一鼓の初め、北方に赤気が現れ西の戌亥の方角から東北の丑の方角にかけて幅三丈余りにわたり、火光のような形で赤気の中に紫微宮と北斗諸星が見え、その気は明暗を繰り返し、三点後にはさらに白気数条が相次いで西に流れ三鼓の後まで続いて散った。
  • 漢乾祐二年(949年)十二月、日に暈が三重にかかり、その上に背気が現れた。
  • 周顕徳三年(956年)十二月庚午、白虹が日を貫き、気の暈が勾のように取り巻いた。