舊五代史卷一百三十五 僭偽列傳第二 劉陟

初名は陟、のち劉龑と改名(889–942年)。嶺南に割拠した兄劉隠の後を継ぎ、梁貞明3年(917年)に広州で僭号して国号を大漢(南漢)とした。晩年は苛虐と奢侈を極め、26年間の在位ののち病没した。

年表(5件)

出自と嶺南平定

  • 劉陟、初名は陟、のちに劉龑と改める。その先は彭城の人。祖の仁安は唐に仕えて潮州長史となり、これにより嶺表に家した。父の謙はもとより才識があり、唐咸通中、宰相の韋宙が南海に鎮した際、謙は牙校として職級は低かったが気貌が非凡で、宙は姪を妻わせようとした。妻は「非その類」として堅く止めたが、宙は「この人物は尋常でない、いずれ我が子孫が彼を頼ることになろう」と言い、謙は後に軍功で封州刺史・賀水鎮使を拝し称誉を得た。謙の長子の隠は韋氏の生んだ子で、幼くして異才があった。
  • 謙の死後、賀水の諸将に無頼の者があって乱を起こそうとしたが、隠は計を定めてこれを誅した。連帥の劉崇亀はその才を聞いて右都校に署し、賀水鎮を再び領させ、さらに封州刺史を兼ねさせると法を用いて清粛にし威望が振るった。唐昭宗の代、嗣薛王の李知柔が石門扈蹕の功で清海軍節度使に授けられると、府の牙将盧琚・譚玘が朝命を稟けずに謀ったため隠は部兵を挙げてこれを誅して聞こえさせ、知柔は深く徳とし行軍司馬に辟して兵賦を委ねた。唐昭宗は宰相の徐彦若を送って知柔に代え、彦若は隠を旧職に復させたが、彦若は鎮に在って2年で薨じる際、手表を奏し隠を両使留後とするよう求めた。昭宗はこれを許さず宰相の崔遠を節度使としたが、遠は江陵まで行った所で嶺表に盗が多いと聞き隠が詔に違い遅留するのを恐れて進まず、折しも遠が再び入相したため隠を留後とする詔が下ったが、なお正式な節度使には久しく至らなかった。梁祖が元帥となると隠は使者に重賂を持たせ保薦を求め、梁祖はただちに事を表し節旄を授けた。梁開平初(907年)、恩寵はことのほか厚く検校太尉・侍中に遷り大彭郡王に封じられ、梁祖の郊禋の礼が終わると検校太師・中書令を加えられ、さらに安南都護を兼領し清海・静海両軍節度使を充て南海王に進封した。開平4年(910年)3月、隠は卒した。
  • 陟は隠の弟である。隠の卒後、その位を代わり継いだが、梁末帝が嗣位すると姑息の政を行い、隠のすべての官爵を陟に授けた。この頃、邕州の葉広略、容州の龎巨源がそれぞれ兵賦を擅にし広州の西鄙をしばしば侵していたため、陟は兵を挙げてこれを討ち、邕・容ともに敗れて陟に附庸した。また交州の土豪の曲承美もその地を専有しつつ梁に款を送り正式に旄鉞を授けられていたが、陟はこれを不平とし将の李知順を遣わして討たせ承美を捕らえて献じさせ、以後嶺表の地をすべて有するに至った。

僭号大漢

  • 陟は銭鏐が呉越王に冊封されたと聞き、南海王の号を恥じ「中原は多事、誰が真の主であろうか、どうして万里の道を経て偽庭に仕えられようか」と嘆いた。梁貞明3年(917年)8月、陟はついに広州で僭号し国号を大漢とし、乾亨と偽って改元、翌年、郊礼を僭行して境内に赦を行い、名を巌と改めた。僭位の後は南海の珠璣を広く集め、西は黔蜀に通じてその珍玩を得るなど窮奢極侈を娯しみ、嶺北の諸藩とも歳時に交聘した。荘宗が梁を平定したと聞くと、偽宮苑使の何詞を送って聘わせ、「大漢国主」と称して上大唐皇帝に書を致した。荘宗は鄴宮でこれを召見し南海の事情を尋ね、何詞は「本国はすでに使臣を送り物貢を大いに整え、この秋には至るであろう」と言ったが、実は陟は荘宗の兵威が甚だ盛んと聞き何詞に虚実を偵察させたのであった。時に朝政はすでに乱れ荘宗も遠方を道で制御できず、南海からの貢もついに至らず、以後中国とは絶交した。
  • 唐同光3年(925年)冬、南海に白龍が現れたことにより偽の乾亨元年を白龍元年と改め、陟はまた名を龔と改めて龍の瑞に符させた。白龍4年(927年)春、さらに大有元年と改元し、この歳、陟は籍田の礼を僭行した。陟の晩年、占筮の術に長けた梵僧が「龔」の名は他年この姓に禍いがあると危ぶんだため、陟はまた名を龑と改めた(龑は儼と読むが古文にはこの字がなく、おそらく自ら作った字である)。陟は性は聡辯であったが苛虐を好み、炮烙・刳剔・截舌・灌鼻の刑を用い、一方の民は炉炭の上にいるかのようであった。ひたすら自らの奉養を厚くし華靡を極め、末年には玉堂珠殿を起こし金碧翠羽で飾り、嶺北の行商が国に至るとこれを召して壮麗を誇示し、北人に対しては常に「家は本と咸秦」と自称し蛮夷の主であることを恥じ、また中国の帝王を「洛州刺史」と呼ぶなど、その妄自尊大はみなこの類であった。晋天福7年(942年)夏4月、陟は病により卒した。僭号すること26年、年54、偽って天皇大帝と諡し廟号を高祖、陵を康陵とした。子の玢が嗣いだ。