舊五代史卷一百三十三 世襲列傳第二 馬殷

出自と湖南平定

  • 馬殷、字は霸圖、許州鄢陵の人。若くして木工を業とし、蔡賊秦宗権の乱の際に募に応じて従軍した。はじめ孫儒に従い淮を渡って広陵を陥れ、儒が宣州で敗れると殷は別将劉建峯に従い長江を渡り洪・鄂・潭・湘等の州を次々陥落させ、建峯は湖南の地をことごとく領し自ら潭帥となった。まもなく建峯が部下に殺されると、潭の人々は行軍司馬張佶を推して帥にしようとしたが、殷が邵州を攻めていた際、佶は「私の才は馬殷に及ばない」と言い牒を殷に送って軍府の事を委ねた。殷は邵州から軍を返し将士を労い、建峯を殺した者数十人を誅殺、自ら留後となった。しばらくして朝廷は湖南節度使に任じ、潭・衡等七州の地を領有させた。
  • 唐天復年間、楊行密が江夏の杜洪を急襲し、洪は荆南の成汭に援を求めた。汭が水軍を率いて援けに向かった隙に、澧朗節度使雷彦恭が荆州を襲い財宝を奪い州城を焼いて去った。彦恭は行密と結んで江嶺の商路を断ったため、殷は高季興と合勢して澧朗の彦恭を攻め、数年後にこれを捕らえその地をことごとく領有、張佶を朗州節度使とした。これにより兵力は雄盛となった。
  • 殷は梁貞明年間、朝廷が姑息な融和策を取っていたため求めるところはすべて許され、官は守太師兼中書令・楚王に至った。さらに唐の秦王の故事に倣うことを上表し天策上将軍の号を加えられ、また静江・武平・寧遠等の軍事を官位に添えることを求めこれも許された。楚王に封じられると唐の諸王の行台の故事に倣い天官幕府を置き、文苑学士の号、知詔令の名を置き、二十余州を総制、自ら官吏を任命し賦税を朝廷に供せず、民間の茶の採取を全て抑買し、また鉛鉄銭を独自に鋳造して、天下の商賈が財貨を持って国境に入る者にはただ土産の鉄銭で交易させ余財を残さなかった。これにより一方は富み栄え奢侈を極め、朝廷への貢奉は茶数万斤にすぎなかったが、中原での茶の売却益は年間百万を数えるほどであった。
  • 唐同光初年、初めて職貢を修め太師兼尚書令・楚王を再授された。天成初年守尚書令を加えられ、長興二年十一月十日に薨じた。時に年七十八。明宗はこれを聞き三日間廃朝し、武穆の諡号を贈った。子の希聲が嗣いだ。
  • 殷が微賤の時、隠然と神人が側に侍する姿を見てその像を密かに記憶していた。貴顕となってから衡山廟に詣で、廟中の神像を見ると微賤時に見たものそのままであった。人の貴顕たる者には必ず陰の加護があるというのはあながち偶然ではないのだろう。

馬希範――嗣位と銅柱

  • 希範、晋天福中に江南諸道都統を授けられ、さらに天策上将軍を加えられた。谿州洞蛮の彭士愁が辰・澧二州を侵したため、希範はこれを討平した。士愁は五州をもって盟を乞い、銅柱に盟約を刻んだ。希範は自ら漢の伏波将軍馬援の後裔と称し、これに倣って銅柱を鋳造したのだという。

(原本欠文の注記)馬希廣・馬希萼

  • 底本の按語によれば、この伝には欠文があり、馬希廣・馬希萼の伝は全篇が失われている。五代史補に載る関連の逸話を注記としてまとめる。