舊五代史卷一百三十一 周書第二十二 列傳十二(劉曍・張沆・張可復・于徳辰・王延・申文炳・扈載・賈緯・趙延文(延乂)・沈遘・李知損・孫晟)

後唐末から後周にかけて仕えた文官5人の記事。劉曍(字克明)は儒学を修め酒を好んだ史館出身の官人で、高麗への冊使の途上に急死した。張沆(字太玄)は文才で桑維翰に用いられた翰林学士。賈緯は唐代史の欠を補う『唐年補録』を著した史官だが、たびたび讒言と左遷に見舞われた。趙延文(延乂、字子英)は星官の家に生まれた術数家。孫晟(本名鳳)は南唐の使者として来朝しながら虚偽の言上が露見し、世宗の怒りを受けて誅殺された。

年表(14件)
  • 唐天祐年間梁将劉鄩に捕らえられるが謝彦章に儒者として礼遇される
  • 廣順元年冬十月951年東京の借家で鬼の夢を見る
  • 廣順二年春952年高麗への冊使に任じられるが鄆州で酒に溺れ急死、享年六十一
  • 晋初め桑維翰の登用で著作佐郎・集賢校理となる
  • 廣順二年秋952年亡き斉王高行周への冊贈使を命じられ、復命後に卒す
  • 晋天福中監察御史から太常博士に改まり『唐年補録』六十五巻を著す
  • 太祖即位後給事中となるが監修王峻に讒言され平廬軍行軍司馬に左遷される
  • 廣順二年春952年任地で卒す
  • 清泰中枢密直学士呂琦と国運を占い「来年に厄運の期がある」と答える
  • 晋天福中馬重績に代わり司天監となる
  • 廣順二年952年太府卿を授けられるが同年病没、享年五十八
  • 天成初め朱守殷の叛乱に幕賓として加担するが鎮圧され逃亡する
  • 顕徳三年春956年南唐の使者として来朝し、世宗に厚遇される
  • 顕徳三年956年張永徳と李重進の不和を巡る言上が虚偽と発覚し、世宗の怒りにより誅殺される

劉曍(字克明)

  • 晉の丞相・譙国公劉昫(昫の伝は晋書にある)の弟。少くして郷里を離れた。唐の天祐年間、梁将劉鄩が太原軍を襲い樂平に至った際、曍は県舎に寄留していて鄩軍に捕らえられたが、謝彦章はこれを見て儒者と知り礼をもって遇し、同郷の劉去非に「君のために一族の者を得た」と告げて対面させたところ、去非が爵里を尋ねると親族と判明し、対座して久しく泣いた。以後、去非に随って彦章の門下に客居する。彦章が罪を得ると去非は郢州刺史となり、曍はこれに随って赴任。荘宗が河洛を平定すると、去非は嘗て劉守奇に従い梁に帰順したことがあるため深く罪を恐れ、郡を棄てて荆南の高興のもとへ投じ、曍もたびたび荆州の摂官を務めた。
  • 兄劉昫が明宗朝で学士となると人を遣わして曍を呼び戻させた。漢顒が鄧州に鎮した際に従事として辟され、入朝して監察御史となり、水部員外郎・史館修撰を歴任。長興末、宰臣趙鳳が邢台に鎮すると表されて節度判官となる。清泰初め入朝して起居郎となり、戸部員外郎兼侍御史知雑事に改まり、河南少尹・兵部郎中に移り、大府卿に転じた。漢祖受命後は宗正卿に用いられ、周初めに衛尉卿に改まった。
  • 広順元年(951年)冬十月、東京に借家住まいしていた曍は夜、鬼の夢を見た。鬼は「あなたが私の塚の上に寝床を置き、深く益なきことをしている」と告げ、姓名を問うと「李丕文」と答えた。曍が「都城内に塚などあるはずがない」と誤りを指摘すると、鬼は「塚はもとは野にあったが、張十八郎が城を築いたときに囲い込まれた」と応じ、目覚めて半月後また同じ鬼が現れ「信じないなら我が家を見に来い」と手で地を掘って見せ、立派な邸宅が現れた。曍が西廡に佇んでいると火の玉のようなものが近づき前の鬼となり、曍を奥へ導いて眷属を出し泣いて拝礼させるなど、託すところがある様子であった。曍が丕文の鬼事を問うと「冥司にはそれぞれ部属があり、外の者にはわからない」と答え、曍が「私の官はどこまで至るか」と重ねて問うと「斉王判官」と答えた。曍は「張令公が斉王だったのはとうの昔、今は鄆州の高令公が斉王で、自分は列卿の身、どうして再び賓佐になろうか」と怪しんだが鬼は答えなかった。目覚めた曍は塚を掘って確かめようとしたが、同僚に語ると「鬼の訴えはあっても住まいをどうすればよいのか」と止められ、やめた。広順二年(952年)春、朝廷は曍を高麗への冊使に任じ、三月に鄆州に至ったが、節度使高行周が曍の酒好きを愛でて連日引き留め、朝夕酔いつぶれるうち、その月二十三日の朝、髪を梳る様子が酔って眠るがごとくで、子の劉泳が見ると既に卒していた(注:太平広記には、命を奉じて呉越に使いする途上、鄆州の郵亭で卒したとある)。時に年六十一。その年八月、鄆帥斉王高行周もまた「斉王判官を得たい」と請う鬼の夢を見たといい、まさにこのことではないかと噂された。
  • 曍は儒学を修め書物を集めるのを好み、酒を嗜み儀礼にはこだわらなかったが、心根に他意はなく義を行うことに熱心で、士友からは高く評価された。

張沆(字太玄)

  • 徐州の人。父厳は本州の牙将。沆は幼くして学問に励み詞賦を得意とし、進士に登第した。唐明宗の子秦王は文を好んだが幼稚で礼を弁えず、賓僚を集めては即座に賦詩を命じ、意に沿わなければ引き裂いて捨てるほどであった。沆が初めて謁見した際、居合わせた客が各々「南湖庁記」を作ることになり、秦王が沆に文を求め、沆はやむを得ず応じたところ、群士の記の中から沆の作のみが石に刻まれ、河南府巡官に任じられた。秦王が敗れると郷里に帰った。晋初め桑維翰が政を執ると、沆は文才によって用いられ著作佐郎・集賢校理となり右拾遺に遷り、維翰が地方に出鎮すると記室として随行し、維翰に従い入朝して殿中侍御史を授けられた。歳余で祠部員外郎知制誥に改まり翰林学士として召し入れられたが、維翰が罷相しのち馮玉が実権を握ると、沆が禁密(機密の要職)にあるのを好まず右諫議大夫に改めて職を罷めた。漢祖が汴に至ると右常侍に転じ、再び学士に用いられ、まもなく工部尚書に遷り職を充てられたが、翌年葬儀を営むため職を辞し礼部尚書に改まり、朝廷に帰るとまた学士となった。太祖は沆の耳の疾患を理由に職を罷め、刑部尚書に改めた。広順二年(952年)秋、亡き斉王高行周への冊贈使に命じられ、復命したのち卒し、太子少保を贈られた。
  • 沆は性格が儒雅で仏教を好み、久しく高位にありながら家に余財なく、死の日には書物のほか鄆州で得た資財のみが残った。嗣子はまだ幼く、親友がその財の散逸を懸念して太祖に上言し、三司に人を差し葬儀を主らせ、余った資財で邸宅を買い遺孤を養わせた。
  • 沆は文史に通じ、珍しい故事を求めることを好み、公の場でも即興の対句で機知を示したため、馮玉には重んじられなかった。耳の疾患を抱えながらも五、六年間宮中に出入りし続けた。漢隠帝末年、楊史(底本のまま。人物比定は詳らかでない)が殺害された翌日、沆はようやくそれを知ったが聞き取りがはっきりせず、同僚に「密かに聞くところ賊が史公を殺したというが、その賊は捕らえられたか」と問うたところ、当時京師は騒然としていた折であっただけに、聞いた者は笑ったという。士人申光遜という者は沆と親しかったが、沆が病む前、光遜は夢の中で沆が小さな仏塔を出して見せ、その上に「今生不見故人面、明月高高上翠楼」という十四字の詩があるのを見た。光遜は目覚めて心中これを不吉に思ったが、まもなく沆の訃報を聞いた。

張可復(字伯恭)

  • 徳州平原の人。父達は累贈戸部侍郎。可復は儒術にほぼ通じ、若くして吏事を習った。梁末、魏に遊学し、鄴王羅紹威に表されて安陽簿となる。唐天成初め、晋公霍彦威に依り青州で従事となったが、晋公は可復が滑稽で事を避けることを好むのを見て「姦兎児」と目した。長興中、入朝して監察御史を拝し、六たび遷って兵部郎中に至り金紫を賜った。晋天福中、西京留守判官から入朝して秘書少監となり左司郎中に改まる。開運中、左諫議大夫に遷る。漢乾祐初め、湘陰公が徐方に鎮した際、朝廷は従軍できる者を選び、これにより武寧軍節度副使・検校礼部尚書を授けられた。世宗が澶淵に鎮すると鎮寧軍節度行軍司馬に改まり、三年に召されて給事中を拝した。世宗が即位すると澶淵幕府時代の縁により右散騎常侍を拝した。顕徳元年(954年)秋、疾により卒す、年七十三。制により戸部尚書を贈られた。可復には特に才はなく、ただ謹厳で長生きを保ったが、加えて迂遠で優柔不断であったため、同列の清俊な者たちから侮られることも多かったが、それでも累階して金紫に至り三品の秩に居たのも、その運命であろう。

于徳辰(字進明)

  • 元城の人。幼くして聡敏で篤く学問を志し、射策で文場に幾度も臨んだが不調が続いた。後唐明宗が邢州に鎮した際、徳辰は訪ねて謁見し、明宗はこれを見て器量を認め、属邑の仮官を得させた。以後も州県を歴任し、晋・漢・周に仕え、官は工部尚書の贈官に至った。

王延(字世美)

  • 鄭州長豊の人。若くして儒者として詞賦をよくしたが、郷里が乱に見舞われ郷薦に与れず、浮陽に客居して滄州の帥戴思遠に従い梁に入った。かつて自作の賦を梁の宰相李琪に見せたところ、琪はこれを喜び「この道は近ごろその人を得難いが、王生こそ我が堂に昇る者だ」と評し、これにより世に知られるところとなり、即墨県令に推挙され、徐・宋・鄆・青の四鎮の従事を歴任した。長興初め、郷人の馮道・趙鳳が宰相の位にあり、左補闕に抜擢され、翌年水部員外知制誥、さらに中書舎人に遷り金紫を賜った。清泰末、本官のまま貢挙を権知した際、挙子の崔頎という者が故相崔協の子であったが、協はもとより吏部尚書盧文紀と不仲で、延が貢院に入ろうとした折、文紀は延に「舎人は謹重の聞こえ高く、去冬私が宰相の位にあった折も諸相ともに長者として文衡(試験の采配)を任せたが、貢闈の取士には縁故で選ぶ者が多いと評判である。あたかも泳ぎの巧みな越人が生まれたばかりの子を乳母に水上に浮かべさせるようなことをしてはならない、舎人は実才を求め世の期待に応えるべきだ」と告げた。延は退いて人に「盧公の言葉は崔頎のためのものだろう、協と不仲であってもここまで気に懸ける必要があるだろうか」と語った。翌春、頎は甲科に登第した。その年、御史中丞に改まり、任期満了で尚書右丞に転じ、両浙に奉使すると呉人から深く重んじられ、復命後は吏部侍郎を授けられ、尚書左丞に改まり、太常卿を拝し、工部・礼部・刑部の三尚書を歴任した。周初め、疾により西洛への分司を求め太子少保を授けられたが、たびたび請暇して留台に糾弾され、少傅に改め致仕した。広順二年(952年)冬に卒す、時に年七十三。子の億は皇朝に仕え殿中丞となった。

申文炳(字国華)

  • 洛陽の人。父鄂は唐の左千牛衛将軍。文炳は長興中に進士に登第し、褐を釈いて中正軍節度推官となり、孟懐支使・鄆城陝県二邑の宰を歴任、澶州観察判官から入朝して右補闕となった。晋開運初め、虞部員外知制誥を授けられ金部郎中に転じて職を充てた。広順中に召されて学士となり中書舎人に遷り貢挙を知した(注:玉壺清話には、李慶が顕徳中に進士に挙げられた折、詩をよくし「酔いて浮世の事を軽んじ、老いて故郷の人を重んず」の句があり、枢密王朴がこの一聯をもって申文炳に推薦し、文炳は貢挙を知る際にこれを第三位に採ったとある)。顕徳五年(958年)秋、疾によって職を解かれ左散騎常侍を授けられ、六年(959年)秋、自宅で卒す、時に年五十。文炳の文章は典雅で訓誥の風があり、性格は寛やかで搢紳を礼をもって遇したが、中年で卒したため、みな惜しんだ。

扈載

  • 若くして学を好み文をよくし、賦頌碑賛を最も得意とした。広順初め礼部の計吏に随い、文の評価は当時最高で、この年上位で及第した。載は相国寺に遊んだ折、庭の竹を愛でて『碧鮮賦』を作り壁に題したところ、世宗がこれを聞き小黄門を遣わして壁の文を写させ、これを見て賞賛し、水部員外郎知制誥を拝させ、翰林学士に遷らせ緋を賜った(注:宋史李穀伝には、扈載が文章で名を馳せると枢密使王朴が知制誥への任命を薦めたが除書がまだ下らぬうち、朴が中書に赴き話したところ、穀は「この人は命薄く、長くは享受できまい」と言い、朴は「公は衡石の地(人事の要職)にあり材によって人を進めるべきで、命を理由に才を遺すべきでない」と応じ、載はついに知制誥となり翰林学士に遷ったがまもなく卒し、世人は「朴は士を薦める才があり、穀は人を知る才があった」と評したという)。載は病んで謝することもできぬまま百余日を過ごし、ようやく病を押して学士院に入直したが、世宗はこれを憐れみ誥を賜って自邸に帰らせ、太医を遣わして病を診させた。載は翰林学士として年三十六で卒した。載は解褐から終わりに至るまでわずか四年であり、劉衮とともに才ありて命なき者として当時の人々に惜しまれた。

劉衮(扈載附伝)

  • 彭城の人。神爽気俊で文藻に富み、進士に及第して左拾遺に任じ、扈載と名を並べたが、年二十八で卒した(注:本条は底本の扈載伝の原本が大きく残闕しているため、これのみが伝わる)。

賈緯

  • 真定獲鹿の人である(注:宋祁『景文集』所収「賈令君墓誌銘」によれば、賈氏は唐の司空魏国公耽より出て、代々滄州南皮に本貫を置いたが子孫は次第に真定に移った。五世祖は諒、高祖は瑾、曽祖は処士で諱を初といい、至性の人で世が乱れる中も郷里を守り四方に仕えなかった。祖の諱が緯である)。若くして学に苦しみ文を修めたが、唐末に進士を挙げるも及第せず、乱を避けて河朔に帰り、本府にたびたび参軍・邑宰として署せられた。唐天成中、范延光が定州に鎮した際、表されて趙州軍事判官を授けられ、石邑県令に遷る。緯は文を作るほかに撰述に勤め、唐代諸帝の実録が武宗以降欠けて記されていないことから、近代の伝聞や諸家の小説を採り集め年月順に編んで『唐年補録』六十五巻を著し、識者はこれを賞した(注:『景文集』によれば、緯は博学で詞章に優れ、議論は明鋭で当時の諸儒もこれに屈した。唐は武宗以降史録が散逸したため、緯は残った資料を拾い集めて『唐季補録』数十万言を著し、成敗の事を詳しく叙述し、当世に名を知られたという)。
  • 晋天福中、入朝して監察御史となり太常博士に改まった。緯は常に史才を自負し編述に鋭意で、閑職(曲台の任)を楽しまず宰相に陳情し、また監修国史趙瑩へ詩を贈って自らの修史への志を訴えた。まもなく屯田員外郎に転じ、起居郎・史館修撰に改まり、さらに瑩に「唐史百三十巻は代宗までで、それ以降十余朝には正史がない、同職とともに修めたい」と述べ、瑩がこれを上奏すると晋祖はこれを是とし、李崧に「賈緯が唐史を修めたいというがどうか」と尋ねた。崧が「史官たちが言うには唐朝この百年近く実録がなく、根本がなければどうして編纂できようか」と答えると、緯はこれを聞いて大いに怒り崧を面と向かって責め、自分の企てを妨げたと非難したが、崧は「あなたとは同郷、互いに惜しみ合うべきだが、これは些細な事ではない、軽々には言えない」と答えた。緯が宰臣とこの件を論じ続けた末、翌年春、勅により唐史修纂が決まり緯もその籍に入ったが、月余りで母の喪に遭い真定に帰った。開運初め喪が明けて起居郎修撰に復し、まもなく本官のまま知制誥を兼ねた。
  • 緯は記注に長じたが、応用の文筆は人を超えるほどではなく、議論は剛強で同輩に不満を持たれ「賈鉄嘴」と綽名された。開運中、たびたび遷って中書舎人となり、契丹が京師に入ると契丹に従い真定に至り、後に公卿とともに朝廷に還り左諫議大夫を授けられた。緯は長く綸閣(翰林)に在って丞郎への昇進を望んでいたため、諫署に遷ったことへの不満はいっそう強まった。蘇逢吉が国史を監修すると、緯がたびたび文を投じたことをよく知っており、まもなく史館修撰判館事を兼ねさせた。乾祐中、詔を受けて王伸・竇儼とともに『漢高祖実録』を修めた。緯は史筆の削正を己の任と自負したが、褒貶にあたり好悪を交えることが多く、晋の宰相桑維翰の執政時代に緯自身があまり礼遇されなかったことを深く恨んでいたため、維翰の伝を叙する際、維翰の没後に白金八千鋌ほかの財物が残されたと記した。翰林学士徐台符は緯と同郷で親しかったが、緯に「聞くところ君は桑魏公の白金の数を多く書きすぎたのではないか、多くの目に触れるものを厚く誣いるわけにはいかない」と言い、緯はやむなく白金数千鋌に改めた。緯は撰述の労をもってたびたび宰執に昇進を懇願したが、内難(宮廷の変事)に遭い果たせなかった。
  • 太祖即位後、給事中に改まり判館事は元のままとされた。先に竇貞固が晋朝実録の修纂を奏請し、完成すれば昇擢を望んでいたが、貞固がなお宰相の位にあったため、抗論して除拝の不公平を訴え、さらに自ら撰した日暦を監修王峻に示して貞固及び蘇禹珪の短所を訴え、朝士の先達たちの悪口をも歴べ立てたところ、峻はこれを憎み同列に「賈給事の家にも子弟がおり門閥を汚さぬことを望んでいる、今満朝がみな誹謗されるようでは士子はどうやって仕進すればよいのか」と語り、太祖の前で言上させ、緯は平廬軍行軍司馬として出された。時に符彦卿が青州に鎮しており、緯が文士であることから厚く遇した。緯の妻は左遷を聞いて驚き嘆き、離別を悲しんで病に伏し京に留まったため、緯は書を送って「医薬に努めよ、来春には共に帰り鹿を護ろう」と伝えた。広順二年(952年)春、緯は卒し、訃報が届くと妻は一慟して息絶え、はたして二つの柩は連れ立って北へ帰り、聞く者はこれを歎いた。緯には文集三十巻があり『草堂集』と名づけられ、著した『唐年補録』六十五巻とともに世に伝わった。

趙延文(延乂)(字子英)

  • 秦州の人。曽祖省躬は明術数を得意とし通州司馬となったが、乱を避けて蜀に地を移した。祖師古は黔中経略判官。父温珪は蜀に仕え司天監となり、袁天綱・許負の術に長じ推歩をよくしたため、王建の時代に深く寵愛されたが、占の得失にわずかな誤りがあるだけで詰責された。臨終に子に「技術は世業だが、私は蜀に仕えて以来しばしば技術ゆえに死にかけた、お前たちは他の道で身を立てるのがよかろう」と語った。延乂は若くして家の法をもって蜀に仕え、蔭により奉礼部・翰林待詔となった。蜀が滅び洛陽に入った時、年三十であった。天成中、蜀の旧職を得た。延乂は代々星官の家柄で、三式(六壬・遁甲・太乙)にも通じ、袁許の鑑にことに長じていた。清泰中、枢密直学士呂琦とともに内廷に宿直した際、琦がひそかに国家の運祚を尋ねると、延乂は「来年に厄運の期がある、それが過ぎてから別に論じよう」と答えたが、琦がなおも問い詰めると、延乂は「国を保つは刑政に在り、祚を保つは福徳に在る」と答え、諸公の中に卓絶した福徳の持ち主は稀であるとし、自らも慎むところがあると語った(この件りは底本に文の重複があり、乱丁または衍文とみられる。文意を汲んで要約した)。その年衛尉少卿を兼ねた。晋天福中、馬重績に代わって司天監となり、契丹が京師に入ると随って鎮州に至った。時に契丹の将満達が帥であったが、漢高祖が両京を平定するにあたり、控鶴都将李筠が諸校と密かに庫兵を劫し契丹を逐うことを謀り、決しかねて延乂に相談したところ、延乂は術数を借りてこれを賛成させた。契丹が去って京師に還ると官秩は元のままであった。広順初め検校司徒を加えられ本官は元のまま、太祖はしばしば延乂を召して対問した(注:欧陽史『周太祖紀』によれば、太祖が魏より兵を率いて京師に入った際、延乂を召して「漢の祚が短促であったのは天数か」と問うと、延乂は「王者が天下を撫するには仁恩徳沢をもってすべきであるのに、漢は淫らな酷刑を用い枉げて濫用したため天下がその冤を訴えた、これが滅亡の理由である」と答えた。この時太祖はまさに兵をもって蘇逢吉・劉銖の邸を囲み一族を誅そうとしていたが、延乂の言を聞いて悚然とし、これによりその一族二家を許して全うさせた)。
  • 延乂は交遊に長じ機変に達し、術に優れていたので誰もが喜んで会った。広順二年(952年)、太府卿を授けられ司天監事を判した。その年夏、初めて火が霊台を犯し、延乂は自ら「星官の忌むところ」と語り、また「身命に官災あり」と語ったところ、まもなく子が卒し、続いて妻も卒し、やがて延乂自身も病に嬰った。故人が見舞うと、手を挙げて「多謝、諸親よ、死災は逃れられぬものだ」と言い、まもなく卒した。時に年五十八、光禄卿を贈られた。

沈遘(字期遠)

  • 睢陽の人。父振は貝州永済令、累贈左諫議大夫。遘は幼くして孤児となり苦学を志し、弱冠で進士に登第、褐を釈いて校書郎に除せられ、御史台主簿から監察御史を拝し、五たび遷って金部郎中に至り三司判官を充てた。広順中、本官のまま知制誥となり、世宗が即位すると翰林院学士に抜擢され、任期満了で中書舎人を拝して職を充てた。顕徳三年(956年)夏、扈従して南征に赴いた折に病を得て、京に帰って卒した。遘は人柄が謙和で目下の者に丁寧に接し、文士が詩文を差し出すたびに賢者を見極めて誉めたため、当時の後進の士の多くが彼に帰依した。

李知損(字化機)

  • 大梁の人。若くして軽薄で口が達者だが行いに乏しく、梁朝の時代には詩文を書いた紙片を携えて内臣の門を出入りし、これによってみだりに虚名を得て「李羅隠」と目された。後にたびたび藩鎮の従事を務め、入朝して左補闕を拝し、刑部・兵部の二員外郎、度支判官、右司郎中を歴任したが、榷塩使王景の厚い賄賂を受けて均州へ左遷された。漢初、朝廷に帰り右司郎中兼侍御史知雑事を授けられ、広順中に右諫議大夫を拝した。時に王峻が枢密使であり、知損は峻と旧知であったため峻に江浙への使者を求め、峻がこれを太祖に取り次いだが、太祖はかねて知損の人となりを聞き渋ったところ、峻は「この者が使命を辱めるようなら譴責すればよい」と言い、太祖は峻の頼みを無下にできず許した。知損は使命を得るや、持ち前の荒唐な性分を存分に発揮し、他人から金を借りて行装を大いに整え、道中の州郡すべてから強引に借財し、また青州の符彦卿に書を送って銭百万を借り、宿駅では行状が乱雑を極めた。王峻がこれを聞いて再び太祖に奏したため、棣州司馬に落とされた。世宗が即位すると人材を求めるのに切であり、かねて知損が狂狷で上封事(諫言の上奏)を好むことを聞いて採るべき所ありと考え、外部の情勢を知りたいとの思いもあって呼び戻し、たちまち官位を回復させたが、数ヶ月の間に連日上奏を重ね、貴顕を誹謗しては自らの栄進をはかり、さらに海を渡る使者への任命を求める上奏をしたため、世宗は激怒し、加えて醜行が日に日に明らかになったことから除名して沙門島へ配流した。知損は出発に際し、親しい者に「私はかつて占いの巧みな者に会い、三度遂げた後に相位に就くと言われた、自分はこれで三度目だ、まあ待つがよい」と語ったが、一年余り後、海上で卒した。その荒唐無稽ぶりはこのとおりであった(注:『五代史補』には、李知損は官が諫議大夫に至ったが軽薄を好み、時人は李羅隠と呼んだ。親友との間の書簡でもしばしば俚諺を引き「偶対」と称した。ある朝士が使命を終えて帰る際に土産を贈ったところ、知損はその返礼を期待していると察し、書を贈って「もし小生に一時お返しするとなれば、大官の羅(絹)を二重に包んでもまだ足りないでしょう」と皮肉った。乾祐中、鄭州に奉使した折、宋彦筠が節度使であり、彦筠は幼名を忙児といったが、宴席で酒に酔い「皆はどうしてあなたを羅隠と呼ぶのか」と尋ねると、知損は「私は普段から詩を好み、その作風が羅隠に似ているためそう呼ばれる」と答えた。彦筠が「いや、あなたが羅隠のように軽薄だからだろう」と言うと、知損は大いに怒り「まるで令公殿だ、皆はあなたを宋忙児と呼ぶが、まさか牛を放牧できるわけでもあるまい」と厲声で言い返し、満座は大笑いしたという)。

孫晟(本名鳳)

  • (注:南唐書によれば、孫忌は高密の人で一名を鳳、また晟ともいい、若くして進士に挙げられた)。性格は陰険で姦計を好んだ。若くして道士となり詩をよくし、廬山の簡寂観で唐の詩人賈島の像を描いて壁に掛け礼を尽くして仕えたところ、観主はこれを妖妄として杖で打ち追い出し、大いに時輩の嘲笑を買った。儒服に改め唐荘宗に鎮州で謁見し、秘書省著作佐郎を授けられた(注:南唐書によれば、豆盧革が宰相であった時、かねて忌を知り判官に辟した)。天成初め、朱守殷が夷門に拠って叛いた際、晟は幕賓としてこれに賛同し、常に甲をまとい刃を露わにして十数騎を従え市中を巡り、多くの者を殺害したため汴の人々はこれを深く憎んだ。城が陥落し朱氏が誅されると、晟は姿を隠し名を変え妻子を棄て陳宋の間に逃亡した(注:欧陽史によれば、安重誨は晟が朱守殷に叛乱を教唆したとして憎み、その像を描いて懸賞をかけたが捕らえられず、その一族を滅ぼした。晟は呉に逃れたという)。同悪の者たちが晟を淮を越えて送り届けたところ、呉は叛亡者を受け入れる方針であったため、晟に偽官を授けた。晟には多少の文才があり、李昪が楊溥を譲皇と偽り尊んだ際の冊文は晟の作であったため、江南で特に重んじられた。二十年の間に累々と偽任を歴任し、財貨や邸宅は思いのままであった。晟は家妓を多く抱え、食事のたびに卓を設けず、多くの妓女に食器を一つずつ持たせて周囲に侍らせ、これを「肉台盤」と称し、自らを養うことをこれほどまでに愜わせた(注:南唐書によれば、忌が舒州節度使であった時、軍を厳しく統率していたが、帰化した卒二人が白昼刃をひっさげて府に押し入り忌を殺そうとし、西門から侵入したため吏士は不意を突かれ防げなかったが、たまたま忌は東門を微行しており、乱を聞いて民家の馬に乗り桐城へ奔ったため叛卒は忌を捕らえられず、都押衙李建崇を殺して逃げ去った。忌はこの件で光禄卿に貶められたという)。
  • 顕徳三年(956年)春、王師が広陵を下すと江南は驚き窮し、李景(李璟)は晟を偽って司空とし貢を行在に奉らせた。世宗は右常侍劉悦を遣わして伴わせ、厚く賜与し、随駕して闕に至ると都亭駅に宿らせ、殊に優れた礼遇を与え、召見のたびに美酒を飲ませ江南の事情を尋ねると、晟はただ「呉(南唐)は陛下の神武を畏れ、ひたすら北面して臣従を求めるのみで二心はない」とだけ答えた。
  • これに先立ち、張永徳は下蔡を守り、かねて李重進と不仲であったため、宴席のたびに諸将の前でその短所を暴くことが多く、ある日永徳は酔いに任せ重進が密かに姦謀を蓄えていると大言したため、当時の諸将は驚愕し人心が大いに乱れた。後に永徳は密かに親信を駅で走らせ上言したが、世宗は聞き入れず気にも留めなかった。ある日、重進は寿陽から従者を離れ、まっすぐ永徳の陣に赴き終日宴飲して帰り、これにより人心はやや安まった。時に李景はこの隙を窺い知り、密かに人を遣わして蝋書を重進に届け不軌を勧めたが、重進はその蝋書を世宗に進呈し、世宗が見るとみな讒言と離間の言葉であったため、世宗は晟が先に語ったことを実情に反すると怒り、急ぎ侍衛都虞候韓通を召して晟を獄に下し、その従者百余人とともにすべて誅殺させた(注:南唐書によれば、世祖(元宗)は都承旨曹翰に命じて晟を右軍巡院に護送させたが、なお酒を数酌飲ませ、翰が立ち上がって「相公は罪を得た、自尽を賜る」と告げると、晟は怡然として衣を整え笏を取り、東南に向かって再拝し「臣は恩を受けること深く、謹んで死をもって謝します」と言い、従者二百人もまた東相国寺で誅死したという)。翌日、宰臣が拝謁すると世宗自らこれを諭し、そこで初めて事の真相を知った。議者は「晟はかつて梁で禍を構え、今その民が梁の獄で法に伏す、応報の道理は決して虚しいものではない」と評した。晟は性格が慷慨で常に李景の厚遇に感じ入り、死をもって報いると誓っていた(注:釣磯立談によれば、晟は周朝への使命を受けた際、自ら免れ得ないことを悟り、密かに副使王崇質に「私はよくよく考えたが、永陵(先代皇帝の陵)の一坏の土に背くには忍びない、それ以外のことは私の知るところではない」と語ったという)。獄に下る間際、世宗は近臣に江南攻略の可能性を晟に問わせたが、晟は黙して答えなかった。刑に臨んで衣冠を整え、南に向かって金陵を望み再拝して「臣はただ死をもって謝すのみ」と言い、ついに誅に伏した。