舊五代史卷一百二十九 周書第十九 列傳九(常思・翟光鄴・曹英・李彦頵・李暉・李建崇・王重裔・孫漢英・許遷・趙鳯・齊藏珍・王環・張彦超・張頴・劉仁贍)

常思(字克恭)

  • 太原の人。父常仁岳は河東牙将、太子太師を追贈。荘宗の募兵に応じ長直都校から捧聖軍使、晋初め六軍都虞候、漢高祖の并門赴任に従い河東牢城都指揮使。漢建国後は検校太保・鄧州遥領、後に検校太尉・昭義軍節度使。乾祐初め李守貞討伐の副将となったが統率力に欠け旧藩に戻された。上党で五年を過ごすも令誉なく、聚斂に励み賓客との酒宴も持たない吝嗇ぶりが知られた(謁見を求めた従事に「酒をたかりに来たのだろう」と怒った逸話も伝わる)。
  • 太祖が微賎の頃、季父として遇されていた縁で、太祖即位後もその妻を家人の礼で迎え「叔母」と呼ぶほどの厚遇を受けた。広順二年秋、平章事を加えられ宋州、三年夏に平盧軍節度使。赴任前に宋州で得た絹十余万両を上進し民の借財を帳消しにさせた逸話がある。赴任後まもなく風痺を患い医者を求めて洛陽へ運ばれ、顕徳元年春卒す。享年六十九。中書令を追贈。

翟光鄴(字化基)

  • 濮州鄄城の人。父翟景珂は胆気ある人物で、梁貞明初め荘宗軍との戦いで永定駅を守り戦死。光鄴は十歳で明宗軍に捕われ聡明さを買われ「永定」と字された。成人後は沈毅で謀があり過ちが少なく明宗に重用され皇城使・検校司空。長興中、枢密使安重誨の失脚に関与し耀州団練使に出された。清泰初め左監門衛大将軍、晋天福中に棣州・沂州刺史、西京副留守、開運初め宣徽使。楊光遠の乱平定後、荒廃した青州の防禦使として善政を敷き人心を回復させた。
  • 契丹入汴時、偽命の李従益政権下で明宗の旧臣として枢密使に署せられたが、漢祖入汴後は左領衛大将軍、乾祐初め右金吾衛大将軍充街使・検校太保。太祖即位後は宣徽使・左千牛衛上将軍兼枢密副使、後に永興の李洪信と交代で京兆府を知る。広順二年十月、長安で卒す。享年四十六。器量があり慎密敦厚で、継母にも孝を尽くし兄弟仲睦まじく、蓄財がなく質素な暮らしぶりであった。京兆知事として寛静な統治を敷き民に慕われ、臨終には「洛陽へ帰し軍府を煩わせるな」と遺言、太子少師を追贈された。天文学者趙延乂が「翟君は外見は厚いが内は薄く、貴くとも長寿はない」と予言し、実際その通りになったという。

曹英(字徳秀、旧名は今上の御名に触れるため改名)

  • 常山鎮定の人。父曹全武は趙王王鎔に仕えた列校。張文礼の乱後、荘宗に散指揮使として登用され、明宗に旧臣と認められ重用された。晋天福中、張従賔討伐で功を立て本軍都校、漢初め奉国軍主・検校司徒兼康州刺史。乾祐初め李守貞討伐の行営歩軍都校、河中平定後は本軍廂主兼岳州防禦使。太祖の鄴での北面行営歩軍都校を経て内乱平定に従い、周建国後は昭武節度使検校太傅・侍衛歩軍都指揮使。広順二年、慕容彦超討伐に功をあげ、太祖親征での攻城戦にも加わり、彰信軍節度使。
  • 世宗代に同平章事・成徳軍節度使、太原還御後に侍中を兼ねる。顕徳元年冬、鎮所で卒す。享年四十九。中書令を追贈。沈厚謙恭で私生活でも礼を欠かさず、その死は縉紳の士にも惜しまれたという。

李彦頵(字徳循)

  • 太原の人。もとは商人であったが太祖の鄴鎮守時に側近となり、即位後は綾錦副使・榷易使。世宗代に内客省使に抜擢され、知相州軍府事、延州兵馬留後。赴任先で殖貨に励み蕃漢の民を苦しめ不評を買い、世宗の南征時に蕃部の州城包囲を招いたが援軍で解かれた。世宗の不興を買い京師に召還されたが咎めは免れ、西京水南巡検使、権知泗州軍州事、滄州両使留後を歴任するも処置がまずく評判が悪化。顕徳六年秋、交代して帰朝の途上、病により卒す。享年五十二。

李暉(字順光)

  • 瀛州束城の人。弱冠で龍驤軍に応募、漢祖の河東赴任に従い牙将となる。漢建国後は検校司徒・大内皇城使、宣徽南院使、乾祐初め河陽節度使・検校太傅。太祖即位後に同平章事、滄州に移鎮、顕徳元年に侍中を兼ね、邠州・鳳州と移鎮し在職のまま卒す。中書令を追贈。容貌は凡庸であったが位は将相に極まり、貪欲で小恵を施し虚誉を求める人柄であったため、河陽・滄州の民から徳政碑建立の請願が出た際も識者はこれを認めなかったという。

李建崇

  • 潞州の人。若くして従軍し騎射に長け、唐武皇に鉄林都将として仕える。荘宗の常山討伐で契丹の来援に遭った際、少数の親軍とともに包囲されるも李嗣昭の援軍で救われた。同光中、龍武捧聖都指揮使から諸州都指揮使を歴任、純厚で世渡り下手なため長く偏裨に留まった。明宗にはかつての同僚として重んじられ磁州・沁州の刺史、晋代に申州刺史。天福七年冬、安従進の南陽侵攻に際し葉県で対峙、湖陽県花山で従進軍を大敗させた功で亳州団練使、後に安州防禦使、河陽・邢州の兵馬留後。
  • 漢初め右衛大将軍。七十を過ぎても壮健で、代北から武皇に仕えて以来四十余年、かつての部下の多くが節度使に出世する中、自身は藩鎮に至らずとも健やかに老後を過ごした。太祖即位後は左監門衛上将軍。広順三年春卒す。黔南節度使を追贈された。

王重裔

  • 陳州宛丘の人。父王逹は安・均・洺三州刺史を歴任し洺州に居を構えた。重裔は沈厚で勇があり騎射に長け、荘宗に庁直として仕え禁軍指揮使を歴任。晋天福中、安重榮の叛乱で杜重威軍が宗城で膠着した際、「退けば士気が崩れる、両翼から攻めるべき」と献策し勝利に導いた功で護聖右廂都指揮使・費州刺史。漢初め禁軍を統率し深州刺史、李守貞の乱に伴う淮夷の侵攻に対し亳州防禦使・徐州巡検を兼任、検校太傅。太祖即位後は加爵、広順元年夏、病により卒す。

孫漢英

  • 太原の人。父孫重進は唐武皇・荘宗に大将として仕え「存進」の姓名を賜った(唐書に伝あり)。漢英は軍伍から都将、東面馬軍都指揮使。清泰初め興元節度使張虔釗が岐下で失策し蜀に降った際、兄の孫漢韶(洋州節度使)も蜀に款を通じたため漢英・弟漢筠は久しく不遇であった。漢乾祐中、太祖の蒲雍西征に戚里の縁で従軍、平定後に隠帝から絳州刺史・検校司徒。広順元年冬、都で卒す。

許遷

  • 鄆州の人。もとは州の牙将で剛褊な性格。漢乾祐初め左屯衛将軍として漢祖の山陵造営を少府監馬従斌と共同監督し節約に努めた。左監門大将軍・検校司空を経て、漢末に隰州を権知。太祖即位後、劉崇の子劉鈞が隰州を攻めた際、寡兵を鼓舞して撃退し正式に隰州刺史となる。盗賊への処罰が過酷(磔刑・臠割)で誤って死罪でない者を処刑し家族が訴訟を起こしたが、太祖は事情を酌量し免官に留めた。復職後、対立していた開封知府陳観を激しく罵倒した逸話が伝わり、病を得て致仕、汶上で卒した。

趙鳯

  • 冀州棗強県の人。幼くして童子挙に応じたが成長後は殺人・暴掠を働く無頼となり、安重榮の下に身を投じ、法を犯して死罪となるも脱獄して逃れた。天福中、契丹の先導を務めた趙延寿を頼り、契丹主に才を認められ羽林軍使から羽林都指揮使に累進、辺境で貝冀の民を苦しめた。契丹入洛後は宿州防禦使、漢祖代に河陽行軍司馬、乾祐初め龍武将軍、父の喪を経て右千牛衛大将軍。漢末の都城の変では、他の兵が略奪する中、鳳の里閭だけは兵に犯されず、その胆勇に人々は服したという。
  • 広順初め宋亳宿三州巡検使として、盗賊の隠れ家に通じ盗魁を懐柔して手先とし多くの捕縛実績を上げたが、その過程で無実の平民が家を破られることも多かった。使者への贈賄で評判を保ち、太祖にも幹事を評価されて単州刺史となったが、剛忿不仁の性格が強まり、刑獄で不当な処断を重ね、人妻を奪い、南郊への進奉を名目に民の財貨を強奪して訴えられた。広順三年十二月、官爵を削奪され賜死となった。

齊藏珍

  • 内職から諸衛将軍を経て、しばしば外征の監軍を務め幹事家と評されたが、険しく無行、残忍で弁舌に長けその毒舌を人々は恐れた。広順中、滑州の河堤巡護で職務を怠り決壊を招き除名・沙門島配流となったが、世宗が西班にあった頃の議論を評価し即位後に召還した。秦鳳の役、淮上の戦いでも監護を務め光州の攻略に加わったが、官物の着服が発覚しても「沙門島にはまだ部屋がある、また行けばいい」と法を恐れぬ態度を示した。
  • 揚州の湿地の食物が腐りやすいことを世宗に大げさに語ったり、唐景思の刺史昇進を引き合いに自らの不遇を訴えたりと、その奏上は誇張が多かった。濠州が未落の折には濠州行州刺史に任じられたが、張永徳と李重進の不和に乗じて重進に讒言を弄した疑いで召還され、顕徳四年夏、検校官の詐称を理由に処罰され獄死した(実際には讒言の悪行を公にしないための措置であったという)。

王環

  • 真定の人。唐天成初め孟知祥の西川鎮守に従い、知祥の建国後は軍衛を歴任、孟昶代も宿衛を務めた。顕徳二年秋、周の西征で鳳州節度使として抵抗し、初戦で周の偏師を破り裨将胡立を捕えたが、その冬、周軍が総力で攻城し蜀の援軍も相次いで敗れる中、環はなお守りを固め数か月抗戦の末に城が陥落し捕虜となった。入朝後、世宗はその忠節を評価し罪を許し右驍衛大将軍とした。顕徳四年冬、世宗の南征に従い泗州まで至ったが病により卒す。

張彦超

  • 沙陀部の人。持病で足を引きずり「跛子」と呼ばれた。荘宗に騎射で仕え馬直軍使、荘宗入汴後は神武指揮使、明宗の養子となる。天成中に蔚州刺史。晋高祖と不和であったため、晋祖の太原統軍時に城ごと契丹に投じ雲州節度使となる。契丹の南侵に際し鎮魏の民を苦しめたが、契丹入汴後は侍衛馬軍都校、晋昌軍節度使。漢高祖入洛時に款を通じ保大軍節度使、乾祐初め帰京して閑職。太祖の鄴からの内乱平定時にはいち早く謁見。広順中に神武統軍、顕徳三年冬、病により卒す。太子太師を追贈。

張頴

  • 太原の人。駙馬都尉張永徳の父(宋史によれば并州陽曲の富家で、曽祖張丕が代官の蓄財管理で一族の急を救った義挙が伝わる)。藩郡の列校から内職、諸衛将軍を経て、周建国後は戚里の縁で華州行軍司馬から郢・懐二州刺史、安州防禦使。性格は急峻厳酷で人の些細な過失も許さず、部下曹澄の娘を強引に娶ったことから恨みを買い、澄が仲間と共謀して夜中に頴を殺害し金陵へ逃亡した。世宗の淮南征討の際、永徳(頴の子)の縁で江南の李景に澄らの引き渡しを求め、捕えられた澄らは永徳に引き渡され処刑された。

劉仁贍

  • 儒学と兵書に通じ淮南で名声があり、呉主に用いられて偽右監門衛将軍から黄州・袁州刺史を歴任し善政で知られた。李景の代には親軍を掌り鄂州節度使、後に寿州節度使として兵権を再び任された。周の渡淮の際も寿州を堅く守り抜き、世宗が城下に駐蹕して数道から総攻撃を昼夜続けても遜辞で応じるのみで屈しなかった。世宗帰京後は李重進が包囲を継続、南砦を落とされてからは包囲が一層厳しくなり城内で餓死者が続出した。
  • 顕徳三年冬、淮南の援軍が紫金山に連なる砦を築いて呼応し李重進の軍が支えきれなくなったため、世宗は再び親征。今上(趙匡胤)が紫金山の敵を破り応援使陳承昭を捕えると、仁贍は援軍壊滅を知り嘆くばかりとなった。世宗の勝報の詔を受けた仁贍は病篤い中で投降を決意、城内の軍も静粛にその命に従った。行在で謁見した際、世宗は厚く遇し入城して療養させ、天平軍節度使兼中書令に任じたが、その制書が出た日に自邸で薨去。享年五十八。世宗は使者を遣わし弔祭し内臣に喪を監護させ、彭城郡王を追封、子の崇讃を懐州刺史とした。
  • 仁贍は財を軽んじ士を重んじ、法令は厳格で、包囲下でも軍禁を犯した子の崇諫を斬らせるほどであった。それゆえ一城の衆を率いて連年拒守しながらも部下に不満を生じさせなかったのはこの厳格さに由来するという。崇讃は周で郡守を歴任、末子崇諒は後に江南から本朝(宋)に帰り省郎に至った。