舊五代史卷一百二十 周書第十一 恭帝紀

後周最後の帝、恭帝(柴宗訓)の記事。世宗の子として広順三年(953年)に生まれ、世宗の崩御に伴い顯德六年(959年)に幼くして即位したが、翌顯德七年(960年)正月、契丹侵寇の報を機に北征に出た趙匡胤が陳橋の変で将士に推戴され、恭帝は禅譲を余儀なくされて鄭王に封じられた。のち房州に移され、皇朝(宋)開宝六年(973年)に崩じた。

年表(12件)

顯德六年(959年)

  • 恭帝、諱は宗訓、世宗の子。広順三年癸丑八月四日、澶州の府邸で生まれる。顯徳六年六月癸未、特進左衛上将軍梁王に封じられ、食邑三千戸実封五百戸を得る。癸巳、世宗が崩ず。甲午、遺制により柩前で皇帝位に即く。丁酉、北面兵馬都部署韓令坤が霸州北で契丹五百騎を破ったと奏す。
  • 文武百寮・宰臣范質らが聴政を三度上表し許される。八月四日を天寿節とする表が許される。范質を山陵使、竇儼を礼儀使、張昭を鹵簿使、辺帰讜を儀仗使、昝居潤を橋道頓逓使とする。州郡十六が大雨連旬の被害を奏す。
  • 秋七月、李濤を山陵副使、盧億を山陵判官とする。左散騎常侍申文炳が卒す。右拾遺徐雄が雷沢県令の虚偽の破戸奏上を誣告した罪で三任官を奪われる。百寮が服喪を終える。尚輦奉御金彦英が、高麗使いの折に夷王へ臣と称したことで罪に問われる。
  • 王彦鎬を襄州節度使、袁彦を陝州節度使、李継勲を邢州節度使、陳思讓を滄州節度使、韓令坤を侍衛馬歩都虞候兼陳州節度使、高懐徳を夔州節度使兼侍衛馬軍都指揮使、張鐸(改名令鐸)を遂州節度使兼侍衛歩軍都指揮使とするなど大規模な人事を行う。
  • 李重進を淮南節度使、向拱(向訓、恭帝の諱を避けて改名)を河南尹兼西京留守とする。韓通を鄆州節度使、張永徳を許州節度使、今上を宋州節度使兼殿前都点検、慕容延釗を澶州節度使、石守信を滑州節度使とする。天下に大赦する詔。竇儼が世宗の太廟歌辞「定功之舞」を撰進。この月、諸道が大雨・川渠氾濫の被害を相次いで奏す。
  • 八月、柴守礼を太子太保致仕とする。竇儼が大行皇帝(世宗)の尊諡「睿武孝文皇帝」廟号「世宗」を撰進。天下兵馬都元帥銭俶、天雄軍節度使符彦卿、夏州節度使李彛興、荊南節度使高保融ら諸藩に加官・加封が続く。范質が世宗陵の名を「慶陵」と撰進。秦州節度使王景、徐州節度使郭従義、鄜州節度使武行徳、永興軍節度使李洪義、鳳翔節度使郭崇、潞州節度使李筠、朗州節度使周行逢らにも加官。
  • 壽州節度使楊信を魯国公、邠州節度使劉重進・廬州節度使宋延渥を開府儀同三司に、涇州節度使趙贊・鄧州節度使白重贊・河中節度使張鐸に加階爵。易定節度使孫行友・霊州節度使馮継業・府州節度使折徳扆にも加階。李万全を延州節度使とする。皇弟宗讓を曹王に改名熙讓、熙謹を紀王、熙誨を蘄王に封ずる。晋国長公主柴氏を晋国大長公主とする。藥元福を曹州節度使とする。
  • 范質・王溥・魏仁浦・呉延祚ら宰臣・枢密使に加官・進封。史佺が左金吾上将軍致仕。王全斌を相州留後とする。昝居潤・張美に検校太傅を加える。李穀を開府儀同三司趙国公とする。朱渭を太僕卿致仕とする。史佺が卒す。高麗国が朝貢し『別序孝経』『越王孝経新義』『皇霊孝経』『孝経雌図』を進める(内容は孔子門人の伝や吉凶を占う書であるという)。
  • 九月、李彦郡が卒す。高麗王王昭に検校太師を加える。王贊を内客省使兼北面諸州水陸転運使とする。開封県令路延規が命令拒否の罪で除名・沙門島配流。竇儀を兵部侍郎とする。杜華・王著・李昉・扈蒙・趙逢らに加官。張昭を舒国公、李濤を莒国公に進封する。劉温叟を工部侍郎兼判国子祭酒事とする。この月、京師・諸州で長雨による水害が続く。
  • 冬十月、李鍇・姚遂が致仕。薛懐讓を杞国公とする。竇儼が貞恵皇后の廟歌辞を撰進。丁酉、世宗皇帝の霊駕が発引。戊戌、王暉を右神武統軍とする。辛丑、江南国主李景が世子李弘冀の卒去を告げ、周は張延範を弔祭使として遣わす。
  • 十一月壬寅朔、世宗皇帝を慶陵に葬り、貞恵皇后劉氏を祔せる。西京の太子太師致仕白文珂が卒す。日南至、百寮が表を奉じ祝賀。兖州広利軍を廃し萊蕪監に戻す。鳳州固鎮を昇格させ雄勝軍とする。左羽林統軍馬希崇(底本にこの箇所、文の脱漏があるとの校勘注あり)。十二月、史館が世宗実録の編修を請い許される。万歳殿を紫宸殿と改める。西京の李蕚が卒す。大霖により四日間昼も暗く、諸州の水害民に賑給を命ずる。

顯德七年(960年)

  • 春正月辛丑朔、文武百寮が朝賀を奉る。鎮州・定州が契丹の侵寇を馳せ奏し、河東の賊軍も土門から東下して合勢したと報じられた。詔して今上に北征させる。癸卯、京師を発ち、その夕、陳橋駅に宿営。夜明け前に軍変が起こり、将士は皆呼ばわって万歳を唱え、甲を着せ刃を推して今上を推戴、南へ引き返させた。
  • この日、天生の民に司牧を樹てる古の道理を説き、堯舜の禅譲・三王の革命と等しく、周の命運が既に去り人心も帰したことを述べる詔(宗の言葉として、帝位を帰徳軍節度使前都点検趙某=底本に二字欠字ありに譲る旨)が発せられた。趙氏はその上聖の姿と神武の略をもって、高祖・世宗に仕え功績著しく、天地鬼神・謳謡獄訟がみな帰服するに至ったとされ、堯舜禅譲になぞらえて「重荷を釈く」と結ばれる。
  • 今上(趙匡胤)はこの日、崇元殿で命を受け、百官が朝賀して退く。周帝(恭帝)は鄭王に封じられ、周の祭祀を奉じ正朔・服色は旧制のまま存続。皇太后は周太后とされた。後の建隆三年、周鄭王は房州へ出居することとなる。
  • 皇朝(宋)開宝六年春、鄭王が房陵で崩じた。今上(太祖)はこれを聞いて震え悲しみ、便殿で発哀・成服し、百寮が慰問を奉じ、中使を遣わして喪を監護させた。その年十月、世宗の慶陵の側に改葬され、有司に諡を定めさせ「恭皇帝」、陵を「順陵」とした。

史論

  • 史臣は評す。四季の気は寒暑相往来し、五行の数は金が消えれば火が盛んになるように、堯舜の揖譲や漢魏の伝禅もまた運命の数を知って人の心に順ったものである。まして恭帝は幼い年齢で笙鏞の代替わりの時に会い、謳歌の帰す所と天命の在り処を知って、その位を遜ったのは善というべきである。終わりに「恭」と諡されたのも、まことに宜しいことであった。