舊五代史卷七十二 列傳二十四 張承業・張居翰・馬紹宏・孟漢瓊
張承業(字は継元、本姓は康、?-922年享年77)は同州の人。宦官として武皇・荘宗に仕え、河東監軍として三十年近く財政・軍事を支え後唐建国の基盤を築いた忠臣で、荘宗の帝位纂奪を諫めたが容れられず失意のうちに没した。張居翰(字は徳卿、?-928年享年71)は宦官として幽州監軍・後唐枢密使を歴任し、王衍一族誅殺の詔勅の「行」の字を「家」に改めて千余人を救ったことで知られる仁者。
年表(7件)
- 14年917年張承業が開府儀同三司・左衛上将軍・燕国公を授かるも固辞した
- 18年921年張承業が荘宗の帝位纂奪の勧進に反対し諫言した
- 19年11月2日922年張承業が病により晋陽の邸で没した。享年77
- 天祐3年906年張居翰が劉仁恭の命で武皇の潞州攻めを助けた
- 同光元年夏4月923年張居翰が召されて枢密使となり郭崇韜と機務を対掌した
- 4年3月926年張居翰が王衍一族誅殺の詔書の「行」の字を「家」に改め多くを救った
- 天成3年4月928年張居翰が病により長安で没した。享年71
張承業――出自と河東での立身
- 張承業、字は継元。本姓は康。同州の人。咸通中、内常侍張泰が仮子として畜った。光啓中、郃陽軍事を主り紫を賜り内供奉として入った。武皇が王行瑜を討った際、承業はしばしば渭北に使いを奉じ、そのまま留まって武皇の軍事を監した。賊が平らげられると酒坊使に改まった。
- 光啓3年、昭宗が太原に幸そうとしたとき、承業が武皇と親しいことから河東監軍に除せられ、密かに駕を迎えさせた。まもなく昭宗が華州に幸すると左監門衛将軍を加えられた。駕が鳳翔にあったとき、承業はしばしば晋・絳に出師し岐人と犄角することを請うた。
- 崔魏公が宦官を誅した際、武皇は罪人を偽って戮しその首級をもって詔に応じ、承業を解律寺に匿った。昭宗が弑されると再び監軍となることを請うた。夾城の役で承業を遣わし鳳翔に援けを求めさせたが、当時河中は阻絶しており、離石から河を渡ろうとしたところ、春氷がまさに融け凌凘(流氷)が奔り舟を寄せても渡れなかった。そこで河神に祈ると、この夜夢に神人が「お前はただ流氷を渡っても患いはない」と告げた。目覚めると津吏が「河氷が結んだ」と報せた。凌晨、氷を踏んで渡り、渡り終わるとまもなく氷は解けた。使いは還った。
- 武皇が病篤くなったとき、命を終える夕べに承業を召してこれを託し「吾が子は孤弱で群臣は縦横だ、後事は公がよく籌ってくれ」と言った。承業は遺顧を奉じ嗣王を立てるにあたり策略が多くを占めた。喪の易月の制がすでに終わると、すぐに出師して潞を救い夾城の賊を破ることを請うた。荘宗はその意を深く感じ、兄弟の親しみをもって承業の私第に幸し堂に登り母に拝し、賜り物を優厚にした。
- 当時、荘宗が初めて墨制を行うにあたり、およそ除拝の命はみな盧汝弼の手から成っていた。汝弼は自ら戸部侍郎になろうとし、承業に官を改め邑を開くことを勧めたが、承業はこれを拒んで受けず、その後もただ本朝の旧官と称するのみであった。
- 天祐中、幽州の劉守光が敗れ、その府掾馮道が太原に帰ると、承業は本院の巡官に辟した。承業はその文章と履行を重んじ、たいそうよく待遇した。当時、周玄豹という人相を見るのに巧みな者がいたが道と合わず、承業に「馮生には前程がない、公は過分に用いてはならない」と言った。書記の盧質はこれを聞いて「私はかつて杜黄裳司空の写真図を見たが、道の状貌はそれによく似ている、将来必ず大用に応じるだろう。玄豹の言葉は信じるに足りない」と言った。承業は道を推薦し霸府の従事とした。
- 柏郷の役で、王師がすでに汴営に迫っていたとき、周徳威はその奔衝を慮り舎(滞留)を過ごすことを堅く請うたが、荘宗はその臆病を怒り聴かず帳を垂れて寝てしまった。諸将は敢えて言えず、みな監軍に詣でて白すことを請うた。承業はすぐに牙門に至り帳をかかげて入り、荘宗を撫でて「これは王が安眠する時ではありません。周徳威は老将で兵勢を洞見しております、しばらく万全を務めるべし、その言葉を軽んじてはなりません」と言った。荘宗は蹶然として起き「子はまさにこれを思っている」と言った。その夕、軍を収めて鄗邑を保った。
- 徳威が劉守光を討った際、承業を遣わして賊勢を視させ、荘宗自ら行くことを請わせ、果たして大捷を成した。承業は武皇の厚遇に感じ、荘宗が魏州にあった時から十年近く、太原の軍国政事はひとえに承業に委ねられ、余帑を積聚し兵を収め馬を市い、流散を招攘し農桑を勧課して、この霸業の基を成したのは承業の忠力によるものであった。
- 当時、貞簡太后・韓徳妃・伊淑妃の諸宅、王の貴族や介弟が晋陽宮にあり、あるいはその道に従わず承業に取り入ろうとする者があったが、すべて聴かず、法禁を踰えた者は必ず懲らした。これにより貴戚は手を斂め民俗は大いに変わった。ある者が承業を荘宗に中傷し「権柄を専ら弄び広く賂遺を納れている」と言った。
- 荘宗が歳時に晋陽宮に還り太后を省みたとき、賭博の費用や伶官への給与に銭を必要とし、かつて泉府に酒を置いた。荘宗は酣飲し興聖宮使の李継岌に承業のために舞を舞わせた。舞が終わると承業は宝帯・幣馬を出してこれを奉じた。荘宗は銭の積みを指して承業に「和哥(李継岌)には銭がない、七哥(承業)はこの一積の宝馬を与えるがいい、たいした恩恵ではないだろう」と言った。承業は謝して「郎君の労は承業自ら己の俸銭から出しております。この銭は大王の庫の物、三軍を支贍するためのものです、敢えて公物を私礼にはできません」と言った。
- 荘宗は不機嫌になり酒に乗じて承業を侵し、承業は「臣がもし勅使であればともかく、子孫のためではなく銭を惜しむのは大王の基業のためです。王がもしご自身で散施を望むのなら何を妨げましょうか、しかし老夫は財が尽き兵が散じては一事も成らないのです」と言った。荘宗は怒り元行欽を顧みて「剣を取ってこい」と言った。承業は荘宗の衣を引いて泣きながら「僕は先王の遺顧を荷い本朝のために汴賊を誅すことを誓っております、王のために庫物を惜しんだことで承業の首を斬られるなら、死んでも先王に恥じることはありません、今日死を請います」と言った。
- 閻宝が承業の手を解いて退かせようとすると、承業は宝を詬り「朱温の逆賊に党したことのある者が、いまだかつて一言も忠を効したこともないくせに、敢えて諂い附くとは」と拳を揮って倒した。太后は荘宗の酒失を聞いて急ぎ召し入れた。荘宗は性が至孝であり、太后の召を聞くと叩頭して承業に謝り「私が杯酒の間で七哥(承業)に忤ったこと、太后は必ず私を咎めるだろう。七哥、私のために痛飲を二盃してくれ、それで謗りを分けてくれないか」と言った。荘宗は続けて四鍾を飲んだが、承業に勧めてもついに飲まなかった。
- 荘宗が宮に帰ると、太后は人を遣わして承業に「小児が特進(承業)に忤ったこと、すでに笞たせた、邸に帰るがよい」と言わせた。翌日、太后は荘宗とともにその邸に幸し慰労した。これより私謁はほとんど絶えた。14年(917年)、制を承け開府儀同三司・左衛上将軍・燕国公を授かったが、固く辞して受けなかった。
- 当時、盧質が荘宗の幕下にあり酒を嗜み軽傲で、かつて荘宗の諸弟を「豚犬」と呼んだことがあり、荘宗はこれを深く恨んでいた。承業は盧質が禍を被ろうとしているのを見て、機に乗じて荘宗に「盧質は無礼な振る舞いが多うございます、臣が大王のためにこれを殺しましょうか」と言うと、荘宗は「予はまさに賢士を招き礼をもって霸業を開こうとしているのに、七哥はどうしてこれほどの誤りを言うのか」と言った。承業はそのまま身を聳やかして「大王がもしこのようであられれば、天下を得られないことなど何も憂えることはありません」と言った。その後、盧質はなお縦誕を成すことがあったが、荘宗はついによく容れた。おそらく承業がこれを取り成したためである。
- 18年(921年)、荘宗が諸道の勧進を受け帝位を纂ぐことにしたとき、承業は「晋王は三代にわたり国に功があり、先人は朱氏の弑逆を怒り旧邦を復すことを願っておられた。讐がまだ平らげられていないのに軽々しく推戴を受けるべきではない」と考え、まさに病が発する中、輿に乗って鄴宮に至り荘宗に見え「王父子は血戦すること三十余年、思うに国仇に報い唐の宗社を復すことを言うためでした。いま元凶がまだ滅んでいないのに民の賦はすでに尽きています、それなのに急いで大号を先んずれば財力を蠧耗する、臣はこれを不可の一とします。臣は咸通以来宮掖に伏事し、国家の冊命大礼・儀仗法物・百司庶務がすべて経年して草定されるのをいつも見てきました、事に臨んでもなお不可なところがあります。王がもし家を化して国となし新たに廟朝を立てるなら制度に乖くべきではありませんが、制礼作楽(礼楽を制作すること)にはその人がまだいません、臣はこれを不可の二とします。事を挙げるには力を量って行うべきで、遊説の言を信じてはなりません」と言った(『通鑑』攷異が引く秦再思『洛中記異』によれば、承業は帝を諫めて「大王はどうして梁の孽を誅し克ってから、さらに呉・蜀を平らげ、天下を一家にしてからではないのですか。かつ唐氏の子孫を求めてこれを立て、再び天下を有功者に譲れば、誰が敢えてこれを当たりましょう。譲ること一月なら一月牢く、譲ること一年なら一年牢いのです。仮に高祖が再び生まれ太原がまた出たとしても、何のためになりましょう。いま大王が一旦自立すれば、たちまち従前の義に仗って征代した旨を失い、人情は怠るでしょう。老夫は宦官であり、大王の官職富貴を惜しむのではなく、ただ先王の付属の重きを受けたことをもって、大王のために万年の基を立てたいだけなのです」と言ったという)。
- 荘宗は「諸将をどうすればよいか」と言った。承業は荘宗が従わないことを知り号泣してこれを言い立てた。19年(922年)11月2日、病により晋陽の邸で没した。享年77。貞簡太后は喪を聞き急ぎその邸に至り、哀を尽くして子姪の礼のように服喪した。同光初、左武衛上将軍を追贈され諡は貞憲(『五代史闕文』によれば、荘宗が魏州で即位しようとしたとき、承業は太原から至り莊宗に「わが王は代々唐家に奉仕し最も忠孝でありました、貞観以来王室に難があればいつも従わなかったことはありません、老奴が三十余年、わが王のために財賦を捃拾し軍馬を召補してきたのは、逆賊朱温を滅ぼし本朝の宗社を復すことを誓ったからにほかなりません。いま河朔がようやく定まったばかりで朱氏はなお存しているのに、わが王が急に大位に即かれるのはよろしいのでしょうか」云々と言った。荘宗は「諸将の意をどうすればよいか」と言った。承業はこれが諫めても止められないことを知ると慟哭し「諸侯が血戦したのはもと李家のためであった、いまわが王がこれを自ら取るのは、老奴を誤らせたことになる」と言い、そのまま太原に帰り食を断って死んだという。臣が謹んで案ずるに、『荘宗実録』が承業が即位を諫めた事を叙べるのは甚だ詳細であるが、「わが王がこれを自ら取る」という言葉だけは記されていない、史官がこれを避諱して敢えて書かなかったのである)。
張居翰――出自と後唐での立身
- 張居翰、字は徳卿。咸通初、掖庭令の張従玫が養って子とした。廕をもって仕官し、中和3年、容管監軍判官から入って学士院判官となり、枢密承旨・内府令に遷り緋を賜った。昭宗が華下にあったとき内常侍に超授され、出でて幽州軍事を監した。任期満了で詔で帰されたが、節度使の劉仁恭が表してこれを留めた。
- 天復中、詔で宦官を誅せと命じられると、仁恭は詐って殺したと奏し、大安山の北谷に匿った。天祐3年(906年)、汴人が滄州を攻めると、仁恭は武皇に援けを求め、居翰と書記の馬郁らを遣わして兵を率いて武皇を助け、ともに潞州を攻めさせた。武皇はこれによりこれを留めて帰さず、李嗣昭が昭義を節制するにあたり居翰にその軍を監させ、燕軍三千を部下とした。まもなく汴将の李思安が夾城を築いて潞州を囲むと、居翰は嗣昭とともに城に登って保守し、囲みが解けるまで続けた。
- これより嗣昭が出征するたびに居翰に留後事を知らせた。同光元年(923年)夏4月、召されて枢密使となり特進を加えられ、郭崇韜と機務を対掌した。10月、荘宗が河を渡ろうとし、居翰と李紹宏を留めともに魏州を守らせた。荘宗が汴に入ると驃騎大将軍・知内侍省事を加え、もとのまま枢密使を充てた。
- 同光の時、宦官が政に干渉し邦家の事務はすべて郭崇韜から出ていた。居翰は自ら羈旅の身で時に乗じて重地に擢用されたことを考え、いつも宣授にあたって敢えて是非をすることなく、顔色を承け過ちを免れるだけであった。これにより晩年の禍を脱した。
- 4年(926年)3月、偽蜀の王衍がすでに降ると、詔でその一族を洛陽に遷すことになり、行程は秦川に及んだ。当時関東はすでに乱れ、荘宗は衍が変を為すことを慮り、中官の向延嗣に馬を馳せて詔を持たせ殺させた。詔には「王衍一行はみな殺戮すべし」とあった。その詔はすでに印画を経ていたが、当時居翰は密地(枢密院)にあってその詔を覆視し、すぐに殿柱で「行」の字を揩き消し「家」の字に改め書いた。衍が秦川駅で誅されるに及んでもその近属を族するに止まった。その偽官及び従行者なお千余人はみなその枉濫を免れたのは、居翰の力であった。
- 明宗が洛に入ると、居翰は至徳宮に謁見し罪を待ち、涙を流して田里に帰ることを乞い、詔でこれを許した。そこで長安に辞して帰り、なおその子の延貴を西京の職事として侍養させた。天成3年(928年)4月、病により長安で没した。享年71。居翰は性が和やかで静かで、旧事をよく知っていた。潞州にあること累年、いつも春に人に蔬菜を育て木を植えさせることを課し、本を敦くし農を恵む、仁者の心があった。
馬紹宏――出自と後唐での立身
- 馬紹宏、宦官である。初め孟知祥とともに中門使であった。周徳威が薨じると荘宗は幽州を兼領し、紹宏に州事を権知させた。即位の初め、郭崇韜は勲望が高く、もとは紹宏の下にあった。当時、潞州監軍の張居翰を徴し崇韜とともに枢密使とすると、紹宏は失望し、そこで宣徽使とした。紹宏は自らが枢密の任に当たるべきだと思い常に鬱々として崇韜に側目していた。
- 崇韜はその不満を知り、内勾の目(監査項目)を置き天下の銭穀簿書をことごとく裁遣させた。まもなく州郡の供報はますます煩費を増し、議者は「十羊九牧(監督者が多すぎる)」であり深く不可とした。内勾の目は人々に妖言とされた(以下に欠文がある。『通鑑』によれば、李嗣源は謡言によって危殆に瀕すること数度あったが、宣徽使李昭宏〔紹宏〕が左右で営護したことによってこれを全うできた。天成元年2月己丑、宣徽南院使李紹宏を枢密使とすることが期されたという)。
孟漢瓊――出自と後唐での立身
- 孟漢瓊、もと鎮州王鎔の小竪(小僕)である。明宗が常山に鎮していたとき左右に侍ることができた。明宗が即位すると諸司使から累って宣徽南院使に遷った。漢瓊は性が通黠で交構を善くし、初め秦王の権が重いのを見ると、王淑妃の勢いを挟んでこれに傾心して事えた。朱弘昭・馮贇が用事するに及んでも、またこれと締結した。
- 秦王が兵を領して大津橋に至ったとき、漢瓊は朱弘昭・馮贇及び康義誠とともに内庭で会議していたが謀はまだ決していなかった。漢瓊だけが死力を出し先に殿門に入って明宗に奏した(詳しくは秦王伝にある)。漢瓊はすぐに自ら馬に鎧を着けて禁軍を召した。秦王が誅されると、翌日、漢瓊に馬を馳せて鄴で閔帝を召させた(『通鑑』によれば、漢瓊を遣わし従厚〔閔帝〕を徴し、あわせて天雄府軍事を権知させたという)。
- 閔帝が即位すると恩寵をとりわけ恃み、一ヶ月の内に累って開府儀同三司・驃騎大将軍を加えられた。西軍がすでに叛くと、閔帝は急ぎ漢瓊を召し先に鄴に入らせようとしたが、漢瓊は隠れて行かなかった。潞王が陝州に至ると、すべての妓妾を召して訣別し自らこれを手にかけて刃で殺そうとしたので、衆はその心を知りみな逃げ隠れた。
- 初め、潞王が河中で失守した際、清化里の邸に帰るよう強いられたが、当時王淑妃はいつも漢瓊に教旨を潞王に伝えさせ、王はこれを厚遇した。ゆえに漢瓊は自ら潞王に恩があると思い、ここに至って単騎で澠池に至り潞王に謁見し、自ら慟哭して何かを述べようとした。潞王は「もろもろの事は言わずとも知れる」と言った。漢瓊はすぐに従臣の列に加わったが、まもなく路傍で戮された。
史論
- 史臣曰く、承業は武皇の大恩に感じ荘宗の中興を佐けたが、義でありまた忠でもあった、どうしてこれ以上のことがあろうか。このようであれば、晋の勃貂(勃鞮)や秦の景監とは去ることはるかに遠い。居翰が詔書の一字を改めて千人の枉死を救ったのは、仁人と言わずして何と言おうか。紹宏の権を争ったこと、漢瓊の禍を構えたことのごときは、宦者の常態にすぎない、これ以上何を言うことがあろうか。