舊五代史卷六十七 列傳十九 豆盧革・韋説・盧程・趙鳳・李愚・任圜

豆盧革は祖籍同州、鄜延に難を避けたのち王処直の幕下から荘宗に仕え、後唐初代の宰相の一人となったが、韋説との阿党や修錬への耽溺で政務を怠り、天成2年に自尽を命じられた。趙鳳は幽州の人。劉守光の徴兵を避けて太原に至り荘宗・明宗に仕えた文人宰相で、端明殿学士・中書侍郎平章事を歴任した。李愚(字は子晦)は趙郡の出を称する儒者。梁末に翰林学士から後唐に仕え、剛直な性格で知られ、蜀平定の軍謀に参画し、のち中書侍郎平章事・門下侍郎を歴任した。任圜は京兆三原の人。李嗣昭の下で軍務・政務に功を立て、康延孝の乱平定後に宰相となり財政再建に尽力したが、安重誨に忌まれ天成2年に自尽を命じられた。

年表(8件)
  • 天成初豆盧革が荘宗の山陵使となったが数日出仕せず安重誨に辱められた
  • 天成2年夏927年豆盧革は逐処の刺史に監視させ自尽を賜り、骨肉はみな放逐された
  • 天成初趙鳳が端明殿学士に任じられた
  • 清泰2年3月935年趙鳳が没した
  • 3年925年李愚が魏王継岌の蜀征伐に都統判官として従軍した
  • 清泰2年秋935年李愚は病により累って辞を請うも許されず、位のまま没した
  • 同光3年925年任圜が朝に帰り工部尚書を守った
  • 天成2年927年任圜は太子少保をもって致仕し磁州に出居したのち、安重誨の誣告により自尽を賜った

豆盧革――出自と後唐初の宰相就任

  • 豆盧革、祖籍は同州刺史、父の瓚は舒州刺史であった(『宣和書譜』はその世系を伝えていないという)。革は若くして乱難に遭い鄜延に難を避け、のち中山の王処直の下に転じ入ると、処直はこれを礼遇し幕下に招いた。奏記の誉れがあり、牡丹会で詩を賦して処直を桑柘(農桑)の意で諷し、言葉が古雅であったことから徐々に器量を仰がれ、節度判官に転じた。
  • しかし家を治めるのに法がなく、独り謁見を請うので、処直は布政に欠けるところがあり規諫があるのだろうと版を斂めて出迎えたが、実は寵臣のために軍職を祈るためであった。
  • 天祐末、荘宗が即位しようとし輔相を求めていたとき、盧質が名家の子として革を挙げ、行台左丞相に徴拝された。同光初、平章事を拝したが、廊廟の事に多くの誤りがあり、官階の擬議は前後が転倒し、しばしば省郎の蕭希甫に糾正されたが、革はこれを改めるのに難色を示さなかった。
  • 荘宗が汴洛を定めた初め、革は韋説を引き薦め、事の体を熟知した自分と同じような者を期待した。説が登用されると流品の事務を執り、挙止は軽脱であったので、恨みは革に帰した。また説の子とともに拾遺を授かったが、父子同官であることを人に刺され、改めて員外郎を授けられた。
  • 革は説の子の濤に弘文館学士を求め、説は革の子の㫒に集賢学士を求め、互いに阿私を交わすことは市井のようであり、識者はこれを醜んだ。革は宰相となって以来、賢を進め能を勧めることを務めず、ただ修錬に事えて長生の術を求め、かつて丹砂を服して数日嘔血し死に瀕したがのちに癒えた。
  • 天成初、荘宗を葬る際、革を山陵使とした。木主が廟に帰ってからも私第から出ず、もっぱら旄鉞を待つばかりで数日音沙汰がなかったので、親友のために促されて入朝した。安重誨は衆の前で彼を辱め「山陵使の名銜がまだあるのに、新命を待たずに公朝を歩むとは、辺人を欺けると思っているのか」と言った。側目する者はこれを聞き、彼を陥れる機会を狙った。
  • 当初、蕭希甫は正諫の望みがあったが、革はかつてこれを阻んだので、希甫は上疏して革と説が茍且に自らを容れ、君に仕えるのに功績がないと論じ、さらに田客を放って人を殺させ元亨の上第を冒したと誣告した。ついに辰州刺史に貶され、所在で駅馬をもって発遣させられることになった。
  • のち鄭珏・任圜らが連ねて三章を上奏し、行われないよう請うたのちに命が下り、制で「豆盧革・韋説らは身は輔相でありながら、あるいは端座して臣を称し、あるいは半笑いで君に事を奏す無礼を働き、世を挙げてどうして容認しよう。革は暫く利権を委ねられ、私に俸禄を使い、文武百官がみな五月から支給されるようになったにもかかわらず、父子二人はひとり正初から給わり始め、説は重位に居りながら大綱を全く紊し、蔭を叙して栄を貪り児孫の昭穆を乱し、官を売り家を潤し令録を換えるなど、身の醜行が重ね重ね現れ、群情はともに怒った。牧守にあったといえどもその咎めを塞ぐことはできない」として、革を費州司戸参軍に、説を夷州司戸参軍に責め授け、いずれも員外に置き司正の員は据え置き、ともに所在で駅馬をもって発遣させた。
  • まもなく陵州に長流させられ、百姓を委ねて長吏が常にその所在を知るようにした。天成2年(927年)夏、詔で逐処の刺史に監視させ自尽を賜り、その骨肉はみな放逐された。子の㫒は官が検校正郎に至り金紫を服したが、まもなくこれも削奪された(『宝晋斎法書賛』所収の豆盧革の田園帖によれば、「大徳は畿甸の間に居処を要するも、旧来田園がなく、鄜州にはわずか二三の荘子があるが、百姓に租佃されて多年に及ぶ。累々と令公大王の書があり、返還を請い人戸に給い返すのは、疲弊した民を侵奪したくないためであり、また無知の輩が妄りに影庇(不当な庇護)をなし役を包み込むことを慮ってのことである」云々とある。岳珂は「この帖は僧との往復書であり、その強藩を畏れ罪罟を避ける様は戦々兢々として深淵に臨み薄氷を踏むかのようだが、その後ついに故意に田客を放ったことで夜郎に貶められた。まさに畏れていたことに正しく座したのであり、乱邦に居るべからずというのは信であるといえる」と言う。当時鄜に拠っていたのは高万興で、官は検校太師中書令に北平王を封ぜられていた、すなわち革の言う令公大王である。梁より受けた官が唐の命により維新となったのに、面を専らにして正朝を乱す者に鞶(帯)を褫ぐ誅を加えることができず、かえって旄を秉る佞を貢がせるようになったのは、唐が振るわなかった所以が由来するところである)。

韋説――出自と後唐初の宰相就任

  • 韋説、福建観察使岫の子である(案:これ以下に欠文がある)。荘宗が汴洛を定めると、説は趙光允とともに制で平章事を拝した。説は性が謹重で職を奉じいつも事端を起こさず、当時郭崇韜が政を秉り、説らは承順するのみで政事の得失には何も口を挟まなかった。
  • 初め、崇韜に選挙の銓選が濫れており、選人の中には他人の出身の銜を取ったり父兄の資緒を取り令史と結託して不正を働く者があると言う者があり、崇韜はその事を条奏した。その後、郊天の行事官数十人にも告勅の偽濫が多くあり、これに基づいて去留を定めたところ告身を塗り消される者が甚だ多く、選人は都門の外で号泣した。議者もまた積弊は年々積もったものであるのに一旦に澄汰するのはあまりに細かすぎ、維新の含垢の意を失うことを懼れたが、当時説は郭崇韜と同列でありながらこれを執ってやめさせることができず、大いに物議を招いた。説の親戚がこれを告げると、説は「これは郭の男の考えだ」と言った。
  • 崇韜が罪を得ると、説は流言が自分に及ぶことを懼れ、門人の左拾遺王松・吏部員外郎李慎儀らに上疏させ「崇韜は往日専権し旧例に従わず、仕進の門を塞いだのは善を奨める道ではない」と言わせた。疏が中書に下ると、説らは覆奏して崇韜を深く詆り、識者はこれを非とした。
  • また王傪という者がおり、多岐に取り入って事に対処するのが巧みで、説に賂を納めた。説はその名が祖の諱に触れるため「操」と改めさせ、近甸の官に擬した。明宗が即位すると、説は常に身の危うさを慮り、いつも任圜に庇護を求め、圜は常にこれを保護した。
  • 説の邸には井戸があり、昔隣家と共有していたが、雑然としているのを嫌って外に垣を築いたところ、隣人がこれを訴え、蕭希甫がこれを疏に論じて井には財貨があると言った。これを按じたところ、本人はただ壊れた斧が一つあるだけだと言い、かえって虚妄を招いた。初め溆州刺史に貶され、まもなく夷州司戸参軍に責め授けられた。
  • 初め説は江陵にあり高季興と互いに知り合い、中書に入ってからも常に信幣を通わせていた。西蜀を討つにあたり、季興は峡内を攻めることを請い、荘宗はこれを許し、もし三州を得られれば属郡とするとした。西川が平定されると季興には尺寸の功もなかったが、明宗が纘承するにおよび、季興は頻りに三郡を請い、朝廷はやむを得ずこれを与えた。革・説はちょうど中書にあってこの議に与かっていたが、季興が占拠するに及ぶと独りその罪を負わされ、合州に流された。
  • 翌年夏、詔に「陵州・合州の長流百姓豆盧革・韋説は、先朝にあって重任に抜擢されながら、公を欺き物を害し、貨を黷し官を売るなど、静かに考えれば乱を発端した所業であり、さらに容認しがたい事もある。かつ夔・忠・万三州は地が巴蜀に連なり路は荊蛮を扼して皇都に接するもので、難を弭める功があった一方、逆帥が僭かに求める勢いに対し予の視聴を顧みず、勝手に制移して千里の土疆を将って狡穴を開き通じさせ、両川の兵賦を動かし禦捍すること経年、朕をして遂に戈を偃せられず、なお策を煩わせるに至った。近ごろ西方の鄴は要害を復したとはいえ、高季興はなお巣窟を固め、我が旴食(憂食)の憂いを増している。まさにこれ朋姦の計であり、しかも貶所に自ら居りながら流言を出し続け、刑戮を稽すのは、忠良をどこに置くことになろうか。よろしく逐処の刺史に監視させ自尽を賜るべし」とあった(『欧陽史』によれば、説の子の濤は晋の天福初、尚書膳部員外郎で没したという)。

盧程――出自と後唐初の宰相就任

  • 盧程、唐朝の名族の出。祖の懿、父の蘊はともに顕職を歴任した。程は天復末に進士第に登り、崔魏公が塩鉄署を領した際巡官となった。昭宗が洛陽に遷ると、柳璨が名族を陥れたため、程は難を避けて河朔に赴き、燕趙の地を客遊し、時に道士の服を着て藩伯に取り入ろうとしたが、人には知られなかった。
  • 豆盧革が中山を客遊し王処直に依っていたとき、盧汝弼が太原に来た。程と革・汝弼はみな朝族の旧知であり、往来を通じて革に依ったが、処直の礼遇が優れなかったので、太原に投じることにした。汝弼はこのため彼を推挙し、荘宗は推官に署し、まもなく支使に改めた。
  • 程は褊狭浅薄で他に才がなく、ただ門地に恃み口には是非が多く、篤厚な君子はとりわけこれを軽んじた。初め、判官の王緘が従軍して文翰を掌り、胡柳の役で緘は軍中で没した。荘宗が太原に帰省し公宴を開いた際、酒を挙げて張承業に「予はいまここで一人の書記を取ろう、まず杯酒をもってこれを招こう」と言い、酒を挙げて巡官の馮道に勧めたが、道はこの抜擢が順序に違うとして酒を辞退した。
  • 荘宗は「謙譲するな、卿に及ぶ者はいない」と言ったが、当時職の序列で遷るのであれば程が書記に当たるはずで、汝弼もまたこれを助けようとした。程は職を失ったことに私かに憤惋し、人に「主上は人物を重んじず、田里の子を私の上に置いた」と言った。これより先、荘宗はかつて帳中で程を召して奏を草させたところ、程は「かたじけなくも成名しましたが筆硯には慣れておりません」と言った。これにより文翰の選には程が入らなかったのである。
  • 当時張承業が河東留守の事を専制しており、人はみなこれを敬憚した。旧例として支使は諸廩の出納を監することになっており、程は承業に「これは僕の得意とするところではありません、能ある者を選んでください」と訢えた。承業は叱って「公は文士を称しながら、文を飛ばし筆を染めて覇国を済うべきだろう。かつて命じて辞を草させたとき、自ら短拙だと言い、留めて職務を任せると今度はこれも公の得意ではないというのは何事か」と言った。程は涙を垂らして謝った。
  • のち観察判官を歴任し、荘宗が即位しようとしたとき四鎮判官で宰輔になれる者を求めた。当時盧汝弼・蘇循が相次いで没していたので、判官の盧質を用いるべきであったが、質は性が疎放で重位を願わず太原に留まることを求め、定州判官の豆盧革を推挙し、次いで程を推挙したので、詔でこれを徴し、ともに平章事に任じた。
  • 程はもと重器ではなく、にわかに顕位を歴るに至り、挙止が常軌を逸した。当時朝廷は草創で庶事はまだ整わず、班列は蕭然として寺署に欠員が多かったが、程は革とともに命を受けた日に、肩輿に乗り騶導が喧しく騒がしかった。荘宗は呵導の声を聞いて左右に「宰相の担子が門に入ってきたのか」と尋ね、驚異して楼に登って見て笑い「いわゆる似て非なる者とはこれのことか」と言った。
  • しばらくして程を晋陽宮に遣わし皇太后を冊立させたが、山路は険阻で往復は遠く、程は肩輿に安坐したまま所至の州県で丁夫を駆り立て、長吏が迎謁し輿の前に拝伏したが、少しでも意に忤うと笞をもって辱めた。
  • 汴将王彦章が徳勝南城を陥れ楊劉を急攻したとき、荘宗が軍を御して苦戦し臣下がこれを憂え、みな宰臣に連章して規諫し身を躬に士伍に投じないよう請うべきだと言ったところ、豆盧革は漢の高祖が広武に臨み矢が胸に当たっても足に中ったと欺いた故事に及んだが、程は「これは劉季(漢高祖)の失策だ」と言い、みな首をすくめた。
  • かつて近世の士族を論じたことがあり、ある者が「員外郎の孔明亀は善和宰相の後継であり、宣聖(孔子)の系孫でもある、盛んではないか」と言うと、程は「孔子の後裔にすぎない、盛んかどうかは私は知らない」と言った。
  • 親戚に程に驢夫を借りようとする者があり、程は府に帖を出しこれを給させようとしたが、府吏が「そのような前例はありません」と訢えると、程は怒って吏の背を鞭打った。当時、任圜は興唐少尹で荘宗の従姉の壻であったが、その寵戚を頼み程を訪ねた。程はまさに鶴氅を着て華陽巾を被り、几に凭れて事を決していたが、圜を見ると怒って「これは何の虫けらだ、妻の力を恃むのか。宰相が府県から給を取るとは、旧体を識らないのではないか」と罵った。圜は何も言わずに退き、その夜馳せて博平に至り荘宗に訢えた。
  • 荘宗は怒って郭崇韜に「朕はこの痴物を誤って相にしてしまった、敢えて予が九卿を辱めるとは」と言い、自尽を促した。崇韜もまた怒り、事はほとんど測りがたい事態になったが、盧質が身を横たえて解いたため、右庶子に降格された。
  • 荘宗が河南を定めると、程は百官に随って洛陽に幸に従ったが、道中で馬から落ち風病になって没した。礼部尚書を追贈された。

趙鳳――出自と後唐での立身

  • 趙鳳、幽州の人。若くして儒学を修めた。唐の天祐中、燕帥劉守光は部内の丁夫をことごとく率いて軍伍とし、その顔に黥をしたので、儒者たちはこれを憂い、多くが僧になって避けた。鳳もまた髪を落として太原に至り、しばらくして劉守奇に従い梁に奔った。梁は守奇を博州刺史に用い、鳳を判官に表した(案:これ以下に欠文がある)。鄆州節度判官となり、唐の荘宗はその名を聞いて彼を得て大いに喜び、護鑾学士とした。
  • のち荘宗が即位すると鳳は中書舎人を拝し、汴に入るに及んで礼部員外郎に改め授けられた。荘宗と劉皇后が張全義の邸に行幸した際、后は「妾は五六歳で父母を失い、いつも老人を見ては尊親を思念して涙を流します。全義の年徳をもって父として仕え孤女の心を慰めたいと存じます」と奏し、荘宗はこれを許して鳳に牋を作らせ全義に上らせ、往来の儀注を定めさせた。鳳は上書して極諫したが納れられなかった。
  • 天成初、端明殿学士が置かれ、鳳は馮道とともにその職に任じた。当時任圜が宰相であったが、安重誨に傾けられ罷相され磁州に帰った。朱守殷が汴州で叛くに及び、駅馬をもって圜に自尽を賜った。鳳は哭して安重誨に「任圜は義士である、どうして逆謀を造して君父を讐にすることがあろうか。このような濫刑でどうして国が安んじられようか」と言ったが、重誨は笑って責めなかった。
  • この冬、貢挙を権知した。翌年春、西国から経典を取りに行った僧が帰り拳ほどの大きさの仏牙を得て、褐色に漬み皴裂したものを明宗に献じた。鳳は「かつて仏牙は鎚で鍛えても壊れないと聞いた、試してみよう」と揚言し、斧に従って砕けた。当時宮中からの施しはすでに数千緡を超えていたが、砕けたと聞いてようやく止んだ。
  • 車駕が洛に還るに及び汴州の事を留知した。まもなく中書侍郎平章事を授かった(李之儀『姑溪居士集』によれば、趙鳳は荘宗の実録を編纂する際、何挺が論じたことを劉昫の疏には載せず、昫が宰相となるとかえって鳳を引いて政事を共にしたという)。長興中、安重誨が河中に出鎮したとき、誰も敢えて言う者がなかったが、鳳だけは上前で極言し「重誨は陛下の家臣であり、その心は終始君主に背かない。五年権を秉り賢豪を服させたが、ただ周防に及ばなかったために讒言浸潤を自ら招いた」と言った。明宗は朋党だと思いその奏を悦ばず、重誨が罪を得ると鳳は邢州節度使に出された。
  • 閔帝が衛州で蒙塵したとき、鳳は賓佐・軍校を集め涙を流して「主上が播遷して河を渡り北へ行かれた、我らは安坐したままで、奔って安否を問うのが礼にかなうだろうか」と言った。軍校は「ただ公の使われるままに」と言い、まさに出発しようとしたところ、閔帝が弑されたと聞いて止まった。
  • 清泰初、召還されて太保を授かった。まもなく足を病み朝謁できなくなり、病が篤くなるとみずから蓍策で占い、卦が成ると蓍を投げて嘆じ「我が家は代々五十歳を超える者がなく、しかも窮賤だった。私はすでに五十歳、しかも将相となった、どうして長寿でいられようか」と言った。
  • 清泰2年(935年)3月、没した。鳳は性が豁達で財を軽んじ義を重んじ、士友で窮厄を告げる者があれば必ずその資財を傾けて施したので、人々はこれを多とした。

李愚――出自と後唐・後梁での立身

  • 李愚、字は子晦。自ら趙郡平棘西祖の後裔と称した。家は代々儒を業とし、父の瞻は進士に応じたが及第せず、乱に遭い家を渤海の無棣に徙し、詩書をもって子孫を教えた。
  • 愚は幼くして謹重で並みの児童と異なり、成長して学問に志し経史を遍く閲し、晏嬰の人となりを慕った。初め晏平(晏嬰)のように文を作るのに気格を尚び韓愈・柳宗元の体があり、志を励まし端正荘重で、風神は峻整、礼にあらざれば言わず行いも苟且でなかった。
  • 愚は初め艱難貧困のため仮官を求め、滄州の盧彦威が安陵簿に署した。丁憂の服を終えると計吏に随って長安に行こうとしたが、関輔の乱離に遭って頻年挙を罷め、蒲・華の間を客遊した。
  • 光化中、軍容の劉季述・王仲先が昭宗を廃し裕王を立てたが、五月余り諸侯で奔問する者がなかった。愚はそのとき華州にあり、密かに華帥韓建に書を送り、その大略に「僕は関東の一布衣にすぎませんが、幸い書を読み文を作り、いつも君臣父子の間で教えを傷つけ義を害する事があるのを見ると、常に痛心切歯し、腸を抽き血を蹀んで市朝にこれを晒したいと恨みます。明公は要重鎮に近く居り、君父が幽辱されて月余りになるのに、坐視して凶逆を眺め勤王の挙を忘れているのは、僕の理解できないところです。僕がひそかに思うに、中朝の輔弼は志があっても権がなく、外鎮の諸侯は権があっても志がありません。ただ公のみが忠義明らかで社稷に依っています。往年、車駕が播遷したとき号泣して奉迎し、累年供饋を尽くし再び朝廟を復したことは義が人心を感じさせ、いまなおこの時のことが歌われています。今の時勢はさらに前と異なり、明公は要衝の地に居り将相を兼ねる位にあります。宮闈の変故からすでに旬時が過ぎましたが、もし号令して率先し反正を図らず、遅疑して決しなければ、一朝山東の侯伯が義を倡えて連衡し鼓を鳴らして西へ進めば、明公が自らの安寧を求めても、どうして決策できましょう。これは必然の勢いです。四方に檄を馳せて逆順を諭すにしくはありません、軍声が一たび振るえば元凶は肝を潰し、旬日の内に二豎(凶逆の首謀者ら)の首を天下に伝えられます、これに勝る策はありません」と述べた。建はこれを深く礼遇したが、愚は堅く辞して山に還った。
  • 天福初(この時点ではまだ唐の天復年間の誤記か、原文のまま)、駕が鳳翔にあったとき汴軍が蒲・華を攻め、愚は難を避け東の洛陽に帰った。当時、衛公李徳裕の孫道古が平泉の旧荘にあり、愚は往ってこれに依った。子弟は自ら梠(山菜)を採り薪を負って朝夕を給し、人に頼ることはなかった。
  • のち少師の薛廷珪が貢籍を掌る年に進士第に登り、さらに宏詞科に登り、河南府参軍を授かり、洛の南、白沙の別荘に居を定めた。
  • 梁に禅代の謀があったとき、柳璨が上意を迎えて朝士を害し、愚は衣冠が互いに残害し合うのを避けて河朔に難を避け、宗人の李延光とともに山東に客遊した。梁の末帝が即位すると儒士を好み、延光は元来懇意にしていたので、禁中で講義に侍ることができ、しばしば愚の行いが高く学が贍く史魚・蘧瑗の風があると語った。召見して久しく嗟賞し、左拾遺に抜擢され、まもなく崇政院直学士を充て、時に諮謀に預りながらも儼然として正色をなし強圉を畏れなかった。
  • 衡王が入朝した際、重臣の李振らはみな拝を致したが、愚だけは長揖するのみで、末帝はこれを責めて「衡王は朕の兄だ、朕でさえ拝を致す。崇政使李振らはみな拝しているのに、お前はどうして傲慢なのか」と言った。愚は「陛下は家人の礼で兄に接せられますが、振らは私臣にすぎません。臣は朝列にあって王とは縁がなく、どうして敢えて諂事しましょうか」と答えた。その剛毅なることこのようであった。
  • 晋州節度使の華温琪が任にあって法に違い民家の財産を籍し取ったところ、その家が朝廷に訴え、制使がこれを劾じ罪に伏させたが、梁の末帝は先朝の草創の功臣であるとして刑を加えるに忍びなかった。愚は堅くその罪を糾したところ、梁の末帝は詔で「朕がもし糺明を与えなければ予が赤子を思わないと言われ、もし典憲を遂行すれば予が功臣を思わないと言われよう、お前たちの君となるのもまた難しいことではないか。華温琪が受けた贓(不正財)は官が代わりに給い、訴えた家に還すべきである」と言った。
  • 貞明中、通事舎人李霄の傭夫が僦舎人を殴り死なせ、法司はこの律の罪を李霄に当てようとした。愚は「李霄は自ら手で闘殴していない、傭夫が人を殴り死なせたことでどうしてその主に罪を当てられよう」と言ったが、これにより旨に忤い、愚は拾遺から再遷して膳部員外郎となり緋を賜り、さらに司勲員外郎に改め紫を賜ったが、ここに至って職を罷められ許・鄧の観察判官を歴任した。
  • 初め内職にあったとき、慈州の挙子張礪がこれに依っていたが、貞明中、礪は河陽から北に帰り、荘宗は太原府掾に補せられ崇闥の間を出入りして愚の節概を揄揚し、愚の作った文「仲尼遇顔回」「寿夷斉非餓人」等の篇を語り、北人はその風を望んでこれを称えた。荘宗が洛陽に都するに及び、鄧帥は奏章を入朝させ、諸貴は彼を見て旧知のように礼接した。まもなく主客郎中となり、数月ののち翰林学士に召された。
  • 3年(925年)、魏王継岌が蜀を征する際、都統判官として本職を帯びたまま従軍することを請われた。当時物議では蜀は険阻で長駆できないとされていたが、郭崇韜が愚に計を問うと、愚は「蜀人がその主の荒淫を厭っていると聞く、事が急変すればきっと用いられまい。彼らの人心が二三である機に乗じて風のように電のように撃てば、彼らは必ず肝を潰し、どうして険を守れよう」と答えた。前軍が固鎮に至り軍食十五万斛を得ると、崇韜は喜んで愚に「公は事をよく料った、我が軍は成るだろう」と言った。
  • 招討判官の陳乂が宝雞に至り病と称して後に留まることを乞うたとき、愚は声を厲しくして「陳乂は利を見れば進み難を懼れれば止まる、いま大軍が険を渉り人心が惑いやすいときに、まさにこれを斬って見せしめとすべきだ」と言った。これにより軍人で遅留する者はなくなった。当時軍書・羽檄はみな愚の手から出た。蜀が平定されると中書舎人を拝した。師が還り明宗が即位すると、西征副招討使の任圜が宰相となり、愚を大いに欽重し、しばしば安重誨に言って同列に引くよう請うたが、孔循が用事し崔協を援引してその請いを塞いだ。
  • まもなく本職をもって貢挙を権知し、兵部侍郎に改め翰林承旨を充てた。長興初、太常卿を除せられ、趙鳳が邢台に出鎮するに及んで中書侍郎平章事を拝し、集賢殿大学士に転じた。長興末年、秦王が恣横を極め、権要の臣は禍を避けるのに暇なく、邦の存亡を敢えて言う者がなかった。愚は性が剛介でしばしば言葉に表したが、唱和する者はいなかった。
  • のち門下侍郎に転じ監修国史・兼吏部尚書となり、諸儒とともに『創業功臣伝』三十巻を修めた。愚は初め邸宅を治めず、宰相に任じられてから官が延賓館を借りて住まわせた。かつて病になったとき詔で近臣が宣諭し中堂に案内すると、席はただ莞(草むしろ)と藁だけで、人が言うと明宗の時に帷帳・茵褥を賜った(『職官分紀』によれば、長興4年、愚が病んだとき明宗は中使を遣わして宣問させたが、愚の居る寝室は蕭然として四壁と病床、敝れた氈があるだけであった。中使がその事を詳しく言うと帝は「宰相の俸銭はいくらでこれほど困窮しているのか」と言い、詔で絹百疋・銭百千・帷帳什物二十三事を賜ったという)。
  • 閔帝が即位すると徳政を修めることを志し、易月の制がわずかに除かれると、すぐに学士を延訪して『貞観政要』『太宗実録』を読ませ、郅理(善政)を意図した。愚は私かに同列に「わが君が延訪すること少ないのに、我らの位は高く責は重い、事もまた憂うるに堪える、宗社をどうすればよいのか」と言い、みな恐れ慎んで敢えて言わなかった。恩例により位を左僕射に進められた。
  • 清泰初、徽陵の礼が終わり馮道が同州に出鎮すると、愚は特進・太微宮使・弘文館大学士を加えられた。宰相の劉昫は馮道と婚家であったが、道が出鎮したのちも二人は中書にあり、旧事で不便を改めるべきものがあると対論が定まらず、愚は性がひどく峻烈で「これは賢家翁のなさったことだ、改めてよいのではないか」と言ったところ、昫はその言葉が切ることを憾み、これより言うたびに互いに折難し、時には喧嘩に至った。まもなく二人はともに罷相され本官を守った。
  • 清泰2年(935年)秋、愚はすでに病に嬰り、しばしば告を請い、累って表して骸骨を乞うたが許されず、その位のまま没した。

任圜――出自と後唐での立身

  • 任圜、京兆三原の人。祖の清は成都少尹、父の茂弘は太原に難を避け、奏で西河令を授かった。子五人あり、図・回・圜・団と、風彩がみな異なり武皇に愛された。宗女を娶らせ圜は代・憲二郡の刺史を歴任した。李嗣昭が晋陽で兵を典っていたとき、圜と遊処すること甚だ睦まじく、澤潞に鎮するに及んで観察支使に請われ、褐を解いて朱紱を賜った。
  • 圜は姿容が美しく口弁があった。嗣昭は人の間諜により荘宗とわずかに隙が生じたが、圜は使いを奉じて往来し常にこれを申理し、友于の道を成し遂げたのは圜の力であった。母の喪に丁ると、荘宗は制を承けて潞州観察判官に起復させた。
  • 常山の役で嗣昭が軍の帥であったが、圜がその事務を代わって総べ、号令が一様であったので敵人も気づかなかった。荘宗はこれを聞いて倍して奨賞した。この秋、再び上党の兵で常山を攻めたとき、城中の万人が突出し、大将孫文進がこれに死し、賊が我が軍に迫ると、圜は騎士を麾いてこれを撃ち、多くの殺獲があった。かつて禍福をもって城中を諭したので、鎮人はこれを信じ降を乞い、城が潰えると元悪以外の官吏はみなその家族を保つことができたのも圜が庇護したためであった。
  • 荘宗が鎮州を改めて北京としたとき、圜を工部尚書兼真定尹・北京副留守知留守事とした。翌年、郭崇韜が鎮を兼ねると行軍司馬に改まり北面水陸転運使を充て、なお府事を知った。同光3年(925年)、朝に帰り工部尚書を守った。崇韜が蜀を伐つにあたり従征を奏請し、西蜀が平定されると圜を黔南節度使に署したが、懇ろに辞退しそのまま止まった。
  • 魏王が班師し利州に至ったとき、康延孝が叛き精兵八千で西川を劫掠しようとした。継岌はこれを聞き夜半に中使李延安に命じて圜を召させたが、圜はまさに寝ていて延安がその牀に登って告げると、圜は衣の帯を結ぶ間もなく急いで継岌に見えた。継岌は泣いて「紹琛(董璋か。原文のまま)は恩に背いた、尚書でなければ制することはできない」と言い、すぐに圜を招討副使とし、都指揮使梁漢顒らとともに漢州で延孝を攻めさせ、これを捕らえた。渭南に至ると継岌が害され、圜は代わって全軍を総べ洛陽に朝じた。
  • 明宗はその功を嘉して平章事を拝し三司を判させた。圜は賢俊を抜擢し倖進の門を杜絶し、百官の俸入を孔謙が減折していたのを、圜は廷内は国家の羽儀であるとしてこれを優遇し虚估を禁じたところ、一ヶ月の内に府事は充実し朝廷は修葺され軍民はみな満足した。
  • 国を憂えることは家を思うがごとくであったが、功名に切であったため、安重誨に忌まれた。かつて重誨と私第で会したとき、歌の巧みな妓がおり、重誨がこれを求めたが得られず、嫌隙はこれより深まった。これより先、使人の食券はみな戸部から出ていたが、重誨はこれを止め内から出すべきだとし、御前で争うこと数度、ついに阻まれた(『通鑑』によれば、安重誨と圜が上前で争うこと数度、声色ともに厲しく、上が退朝すると宮人が「陛下がいまさっき重誨と論じていたのは誰のことですか」と問うと、上は「宰相のことだ」と言った。宮人は「妾は長安の宮中にいて、宰相が枢密に事を奏するのにこのようなことがあるのを見たことがありません、これは大家(陛下)を軽んじているのではないでしょうか」と言い、上はますます不悦であったという)。これにより三司を罷めることを求めた。
  • 天成2年(927年)、太子少保をもって致仕し、磁州に出居した。朱守殷が叛くに及び、重誨は機に乗じてその結搆を誣告し、密かに人を遣わし制を称して害させた。そこで詔が下り「太子少保致仕任圜は早くから勲旧に推され、かつて重難を委ねられたが、退いて劇権を免れたのちは外地で優閑にすべきところを、礼分を遵わず密かに守殷に附し書簡を交わして嫌疑を避けなかった。情旨は怨望に彰れている。汴の塁を収めてより見せているところ、もし含弘に務めれば典憲を孤にし、なお大体を全うするなら罪を一身に止め、よろしく本州で私第において自尽を賜るべし」とあった。圜は命を受けた日、一族を集めて酣飲し神情は動じなかった。
  • 清泰中、制で太傅を追贈された。子の徹は皇朝(宋)に仕え位が度支郎中に至って没した。

史論

  • 史臣曰く、韋説は旧族の血筋を承け新たに造られた邦を佐けたが、その功業は財を成すには及ばず、罪もまた著しく知られたわけではないのに、権臣に忌まれ後命を逃れられなかった。静かに考えれば、これもまた憐むべきことである。盧程は器が狭くこのようであったから、辱められる形もまた宜であった。趙鳳・李愚はともに文学の名をもってともに巌廊の位を践んだが、その貞節を較べれば愚のほうがなお優れている。任圜は縦横に物を済う才があったが、明哲保身の道がなく、退いてもなお免れなかった。ああ、悲しいことである。