舊五代史卷二十三 列傳十三 劉鄩・賀瓌・康懷英・王景仁
太祖朱全忠(後梁)に仕えた四将軍の合伝。劉鄩(?–920年)は密州安丘の人。王師範配下から兖州を密かに占拠し、師範の降伏に従って太祖に帰順、以後は各地で軍を率いたが河朔喪失の責を負い、最後は讒言により洛陽で毒殺された。賀瓌(字は光遠、?–919年)は濮陽の人。朱瑄配下から太祖に捕らえられ助命されて忠誠を誓い、慶州平定や胡柳陂の戦いなどで軍功を重ねたが、徳勝攻防の後に病没した。康懷英(本名懐貞、兖州の人)は朱瑾配下から太祖に降り、鳳翔討伐・美原の戦いなどで武功を立て陝州節度使に至った。王景仁(もと名は茂章、廬州合肥の人)は楊行密・呉越銭鏐を経て太祖に仕え、柏郷の戦いで大敗するも後に赦されて再用された。
年表(19件)
- 天復3年11月903年兖州を占拠していたが王師範の降伏に従い、城を出て太祖の命に服す
- 天祐2年2月905年右金吾衛大将軍・街使を授かる
- 開平元年907年右金吾上将軍・諸軍馬歩都指揮使を授かる
- 貞明元年春915年徐州で叛いた蔣殷を平定し、検校太尉を加えられる
- 貞明2年3月916年魏州で晋王と元城で戦い王師は敗れる
- 貞明3年2月917年晋王の黎陽攻めを防ぎ退ける
- 貞明6年920年河中討伐で敗れ、讒言により洛陽へ召還され鴆殺される。享年64
- 乾寧2年11月895年太祖に捕らえられるが助命され麾下に置かれる
- 天祐2年905年楊師厚とともに荊州・襄州を平定し、荊南両使留後を授かる
- 貞明2年916年張筠とともに涇州・鳳翔の軍を破り寧州・衍州を落とす
- 貞明3年12月917年滑州宣義軍節度使を授かり同平章事を加えられる
- 貞明4年12月918年讒言に遭い謝彦章らを殺害。同月、胡柳陂で晋軍と戦い周陽五を斬るも自軍も敗れる
- 貞明5年4月919年徳勝の南柵を攻めるが退き、まもなく病没。享年62
- 乾寧4年春897年鄆州陥落を聞き太祖に降伏する
- 天復元年冬901年先鋒として李茂貞の軍を武功で大破する
- 天復2年4月902年符道昭の軍を漢谷で夜襲し大破する
- 天祐3年冬906年劉知俊を佐け美原で邠州・鳳翔の軍を破り鄜州を攻略。陝州節度使を授かる
- 開平元年夏907年潞州討伐に赴くが晋軍に敗れ、行営都虞候に降格される
- 開平2年正月908年北面行営都招討使として晋軍と柏郷で戦い大敗する
劉鄩
- 密州安丘県の人。祖父綬は密州戸掾で左散騎常侍を追贈され、父融は安丘令で工部尚書を追贈された。鄩は幼くして大志を抱き兵略を好み史伝を広く読んだ。唐の中和年間、青州節度使王敬武に仕え小校となった。敬武が没すると三軍はその子師範を留後に推した。朝廷は崔安潜を青州の帥に任じたが州の人々はこれを拒み、棣州刺史張蟾が師範を襲おうとし、師範は都指揮使盧弘に棣州を攻めさせたが、弘はかえって蟾と通じ偽って軍を返して師範を襲おうとした。師範はこれを察知し伏兵を置いて弘を迎え饗応した際、あらかじめ鄩に「弘が来たらすぐに斬れ」と命じていた。鄩は約束通り座上で弘を斬り、共謀者も皆誅した。師範は鄩を馬歩軍副都指揮使とし棣州を攻め落とし張蟾を殺した。朝廷はこれにより師範を平盧軍節度使に任じた。
- 光化初年(898年頃)、師範は鄩を登州刺史に表し、一年余りで淄州刺史に転じ行軍司馬を兼ねた。天復元年(901年)、昭宗が鳳翔に幸すると太祖は四鎮の軍を率いてこれを岐の下に迎えた。李茂貞と宦官韓全誨が詔を偽り天下の兵に太祖への攻撃を促すと、師範はこの詔を見て感慨し涙を流し、腹心を送って太祖の管内の州郡を虚を突いて同日に襲おうとしたが、多くが露見した。ただ鄩だけが別働隊で兖州を陥落させその郡を占拠することに成功した。
- 初め鄩は密かに油売りを装った偵察を送って兖州城内の実情を調べ、出入りの経路を探らせたところ、羅城の下に一つの水路があり衆を引き入れられることが分かり、これを記憶させた。鄩は師範に告げて歩兵五百人を求め、夜に水路から枚を銜んで入城させ、一夜で軍城を平定し、市の民に混乱はなかった。太祖は大将葛従周にこれを攻めさせたが、当時従周は節度使として兵を率いて外にあり、州城は鄩に占拠され家族は皆城中に取り残されていた。鄩はその家族を丁重に扱い外の邸へ移させ供給も礼を尽くし、堂に上らせて従周の母を拝礼させた。
- 従周が城を攻めた際、鄩は板輿で母を城壁に登らせ拝謁させると、母は従周に「劉将軍は私を我が子のように大切に扱ってくれ、新婦以下も皆不自由なく過ごしている。劉将軍とお前はそれぞれ自分の主に仕える身、よく考えるがよい」と告げ、従周は涙して退いた。鄩は城中の老病者や婦人、遊食の徒で守備に役立たない者を選び出して城外へ出し、将士とともに甘苦を分かち衣食を分け合って外の軍に抗い、兵を治め暴を禁じたので住民は安んじていた。従周の包囲は長く続き鄩に外援はなく、人心には次第に去就に迷う気配が出てきた。
- ある日、節度副使王彦温が城を越えて逃げようとし、城壁を守る者もこれに従って逃げようとした。鄩の守備兵はこれを止められなかったが、鄩は静かに人を送って彦温に「副使が少数の兵を率いて出るのは構わないが、自ら遣わした者以外は連れて行かないように」と告げ、また衆に「私が副使に付いていくよう命じた者は止めるな、しかし勝手に逃げる者は一族処罰する」と触れ回らせた。守る民はこれを聞いて感動し、逃亡しようとする者は止まった。外の軍はこれを聞いて彦温に何か企みがあると疑い、城下でこれを殺した。以来、軍城はいっそう固まった。
- 王師範の兵力が次第に窮まると、従周は禍福を説いて鄩に翻意を促した。鄩は「青州の本使(師範)が降伏すれば、直ちに城池を返還する」と応じた。天復3年(903年)11月、師範が降伏を告げ、あわせて「先に行軍司馬劉鄩を兖州に派遣して守らせている、その罪を許してほしい」と述べ、これを鄩にも伝えた。鄩はただちに城を出て命に従った。太祖はその節操を嘉し、李英公(李勣)の風格があると評した。鄩が降伏すると、従周は装束と乗馬を整えて鄩を大梁へ帰らせようとしたが、鄩は「まだ梁王(太祖)の赦免の意を受けていない、肥馬・裘衣を身につけるのは分不相応だ」と述べ、素服で驢馬に乗って出発した。
- 太祖に謁見しようとした際、太祖は冠帯を賜るよう命じたが、鄩は「囚われの罪人ですから、縛られたまま入ります」と述べた。太祖はこれを許さず、会見すると長く慰撫し、酒を勧めた。鄩が「酒量が少ない」と告げると、太祖は「兖州を取るほどの器量なのに、酒量がどうしてそう小さいのか」と笑った。まもなく元従都押牙を授かった。太祖の麾下の諸将は皆四鎮以来の旧臣であったが、鄩は一朝にして異郷からの臣として突然その上位に置かれ、諸将と会っても対等の礼が用いられた。太祖は特にこれを重んじ、まもなく鄜州留後に表した。
- 当時、邠州・岐州の軍がしばしばその境を侵していたが、鄩は防御を尽くした。太祖はその地が遠いことを懸念し鄩を失うことを恐れ、郡を捨てて軍を同州に移させた。天祐2年(905年)2月、右金吾衛大将軍・街使を授かり、3月、太祖が元帥の任を授かると、鄩は元帥府都押牙となり執金吾はそのままとされた。開平元年(907年)、右金吾上将軍・諸軍馬歩都指揮使を授かった。その年秋、諸将とともに潞州を征討し検校司徒に遷った。同3年2月、右威衛上将軍に転じ前と同じく諸軍馬歩都虞候を務め、5月左龍武統軍・侍衛親軍馬歩軍都指揮使に改められた。
- その年夏、同州の劉知俊が反乱を起こし岐の人々を引き入れて長安を占拠し、兵を分けて黄河・潼関を扼した。太祖は陝州に幸し鄩に西討を命じると、鄩は奮って潼関を取り知俊の弟知浣を捕らえて献じ、兵を引いて長安を回復した。知俊は郡を捨てて鳳翔へ逃げた。太祖は鄩を佑国同州軍両使留後とし、まもなく佑国軍を永平軍に改め鄩を節度使・検校司徒・行大安尹・金州管内観察使とした。当時、西境はまだ平穏でなく敵境に近かったが、鄩は兵を訓練し民を撫し独りで一方面を担った。同4年、検校太保・同平章事を加えられ、庶人友珪の簒位後は検校太傅を加えられた。
- 乾化3年(913年)正月、母の喪に服したが、友珪の命で起復し職務を執らせられた。末帝の即位後はいっそう重んじられ、翌年夏、詔で朝廷に召され開封尹・遥領鎮南軍節度使を授かった。まもなく晋人が河朔を侵すと、鄩は詔を奉じ魏博節度使楊師厚とともにこれを防ぎ退けた。9月、徐州節度使蔣殷が城に拠って叛いた。朝廷が福王友璋を徐方に鎮させようとしたところ、殷は代わりを受け入れなかった。末帝は鄩と鄆の帥牛存節に兵を率いてこれを攻めさせ、殷は淮南に救援を求めると偽の呉の楊溥は大将朱瑾に軍を率いて援けに行かせたが、鄩はこれを迎撃し破った。
- 貞明元年(915年)春、城が陥落すると殷は一族もろとも火に身を投じ、その屍は梟首されて献じられた。詔で検校太尉を加えられた。3月、魏博の楊師厚が没すると朝廷は相州を魏州から分けて二鎮としようとし、鄩に大軍を率いて南楽に屯させ王鎔討伐を名目とした。しかしまもなく魏の軍が果たして乱を起こし節度使賀徳倫を幽閉して太原に款を送った。6月、晋王が魏州に入ると、鄩は精兵一万人を率いて洹水から魏県へ軍を移した。晋王が偵察に来ると、鄩は河の曲がり目の茂みに伏兵を置き、晋王が至ると大声を上げて包囲を数重にし多くを殺獲したが、晋王はわずかに身をもって逃れた。
- この月、鄩は密かに軍を黄沢から西へ太原へ向かわせようとしたが、晋軍に追われることを懸念し、藁で人形を作り旗を結んで驢馬に負わせ城壁に沿って行進させた。数日経ってようやく晋の人々はこれに気づいた。軍が楽平に至ると長雨が旬日にわたり続き進軍できなかったため、鄩は軍を整えて引き返した。魏の臨清は穀物の蓄積地であり、鄩は軍を率いてこれを占拠しようとしたが、幽州から兵を率いて至った晋の将周陽五に遭遇し、鄩は貝州を取り晋の軍と堂邑で遭遇すると迎撃してこれを退け五十余里追撃した。そのまま莘県に駐屯し城壁を築き濠を深く掘り、莘県から黄河まで甬道を築いて糧道を通じさせた。
- 8月、末帝は鄩に詔を賜り「軍事の全権を将軍に委ねているのに、河朔の諸州は一朝にして陥落し、軍を疲弊させながら患難は日々増している。近ごろ河のほとりに退いて久しく闘志が感じられない。先日、東面の諸侯の上奏が届いたが、皆倉庫の蓄えはすでに尽き輸送も追いつかず、出征した者はしばしば捕らえられていると言う。朝夕胸を痛め懸念で満ちている。将軍は国と休戚を共にする身、良策を考えてほしい。聞くところでは敵の兵数はさほど多くないという。機を見て速やかに討伐すれば、私の重責も先人に恥じないものになるだろう」と告げた。
- 鄩は上奏して「臣は国の深い恩を受け、この軍事の要職を汚しております。あえて枕を戈にして眠り忠節を尽くさぬわけがありません。先には西へ太原を取りその帰路を断ち、その後に東の鎮州・冀州を収め、連携する敵をまとめて旬日のうちに片付け河朔を再び清めるつもりでした。しかし天が乱を助長し国難がまだ収まらず、出師してわずかの間に長雨が旬を重ね、軍糧が尽き軍士も病に苦しみ、慌てて統率を失うことを深く懸念しました。そこで部下に諮ると皆帰還を望みました。宿営地の移動のたびに互いに挟撃の形を取り、また敵の糧道を絶ち臨清を占拠しようとしましたが、宗城に至ったところで周陽五が突然到着し、その騎兵の動きは神のように変幻でした。臣はそのまま大軍を率いて莘県を守り、濠を深く堡を高くして士を養い兵を訓練し、日夜警戒を怠らず敵の進取をうかがっております。敵の陣営を偵察したところ、兵数は非常に多く、婁煩の人々は皆騎射に長け最も手強い敵です。軽々に謀ることはできません。臣がもし機宜を得ることができれば、どうして座して患難を放置しましょうか。臣の心は国を体する誠に基づくものであり、天の鑒(かがみ)は明らかにこれをご存じでしょう」と述べた。
- 末帝はさらに使者を送って鄩に決勝の策を尋ねさせると、鄩は「臣に奇謀はございません。ただ兵一人に糧十斛を与え、それが尽きれば敵を破ります」と答えた。末帝は大いに怒り「将軍は米を蓄えて飢えを癒すつもりか、それとも賊を破るつもりか」と鄩を責め、中使を送って督戦させた。鄩は諸校を集めて「主上は宮禁深くにあって兵機を理解されず、若い側近たちと謀を共にすれば必ず失敗する。大将が出征する際は君命でも受けない場合がある。機に臨んで変に対処するのに、どうして前もって謀れようか。今、敵情を推し量るに軽々に動くべきではない。諸君はさらに考えよ」と述べた。当時、諸将は皆戦を望んだが、鄩は黙して答えなかった。
- 後日、再び諸将を軍門に召して座らせ、それぞれに黄河の水一器を与えて飲ませた。衆はその意図を測りかねながらも、飲む者、断る者があった。鄩は「一器の水でさえこれほど難しいのに、滔滔たる黄河の流れを飲み尽くせようか」と述べると、衆は皆顔色を失った。数日後、鄩は一万余人を率いて鎮州・定州の陣営に迫った。鄩の軍が突然至ったため陣営は大いに乱れ多くを殺獲したが、まもなく晋軍が続いて至ったため退いた。
- 貞明2年(916年)3月、鄩は莘県から軍を率いて魏州を襲い、晋王と故元城で戦い王師は敗れた。鄩は身を脱して南へ逃げ、黎陽から黄河を渡って滑州に至り、まもなく滑州節度使を授かり、詔で黎陽に屯するよう命じられた。同3年2月、晋王が全軍で黎陽を攻めると、鄩はこれを防いで退けた。鄩が朝廷に戻ると、再び開封尹・鎮南軍節度使を授かったが、その年河朔を失い、朝廷はその責を鄩に帰した。鄩も自ら安んじられず上表して辞任を願い出た。9月、平章事を落とされ亳州団練使に任じられた。折しも淮南の人々が蔡州・潁州・亳州の三郡を侵すと、鄩は命を奉じ淮水を渡り霍丘に至って賊党を大いに殲滅した。
- 同5年、兖州節度使張万進が反乱を起こし北の晋人と結んだため、末帝は鄩に討伐させ、鄩は兖州安撫制置使とされた。この冬、万進が窮地に陥ると小将邢師遇が密かに王師に呼応し、ついにその城を落とし万進を梟首して献じた。11月、泰寧軍節度使・検校太尉・同平章事を授かった。同6年6月、河東道招討使を授かり、華州の尹皓とともに同州を攻め取った。以前、河中の朱友謙が同州を襲い取りその子令徳を留後とし節鉞を求める上表をしたが、末帝は怒って鄩に討伐を命じた。この年9月、晋の将李嗣昭が軍を率いて援けに来て城下で戦い、王師は不利になり敗兵が河南の橋梁で殺到し陥落・溺死する者が多かった。鄩は残兵を率いて華州の羅文寨に退いた。
- 以前、鄩は河中の朱友謙と婚姻を結んでいた。王師が西討し陝州に至った際、鄩は使者を送って檄文を友謙に伝え禍福と大計を説いて帰順するよう誘ったが、友謙は従わなかった。このため一ヶ月余り滞留する事態となった。尹皓・段凝の輩はもとより鄩を忌んでおり、その罪を構えて「鄩は逗留し敵を養い援軍を待とうとしている」と讒言した。末帝はこれを信じ、兵が敗れると詔で洛陽へ召還した。河南尹張宗奭が朝廷の密旨を受けて鴆酒を強要させ、鄩は毒殺された。享年64。中書令を追贈された。子の遂凝・遂雍には別に伝がある。
賀瓌
- 字は光遠。濮陽の人。曽祖延は瓌の貴顕により左監門上将軍を追贈され、祖華は左散騎常侍を追贈され、父仲元は刑部尚書を追贈された。瓌は若くして颯爽として雄勇の志を抱き、世が乱れると軍に投じ朱瑄に仕えた。瑄が濮州刺史兼鄆州馬歩軍都指揮使であった頃、瓌を小将に抜擢した。唐の光啓初年、鄆州の三軍が瑄を留後に推すと、瓌は馬歩軍都指揮使とされ検校工部尚書に表された。瑄と太祖が対立すると、瓌は瑄の命でしばしば軍を境に率いた。
- 乾寧2年(895年)10月、太祖が自ら兖州・鄆州を親征すると、11月、瑄は瓌と太原の将何懐宝に一万余の兵を率いさせ朱瑾を援けさせ、待賓館に陣を構えて我が軍の糧道を断とうとした。太祖はこれを偵知し、中都から軍を率いて夜のうちに百余里を馳せ、明け方に鉅野の東に至り瓌らと交戦し兖州の人々は大敗した。瓌は棘の生えた塚の上に逃げ込み「私は鄆州都将賀瓌です、捕らえられます、どうか傷つけないでください」と大声で叫んだ。太祖はこれを聞くと騎馬で塚の前まで駆けつけ捕らえた。ともに何懐宝と将吏数十人を捕らえ兖州の城壁の下で見せしめとし、瓌一人を除いてすべて処刑した。瓌だけは縄を解かれ麾下に置かれ、まもなく教練使に任じられ検校左僕射に表された。瓌は太祖の助命の恩に感じ、自ら身をもって国に報いることを誓った。
- 天復年間、王師範の青州平定に従い、その功で曹州刺史兼先鋒都指揮使に任じられ検校司空を加えられた。天祐2年(905年)、楊師厚とともに太祖に従い荊州・襄州を平定し、荊南両使留後を授かった。まもなく召還され行営左廂歩軍都指揮使となった。開平2年(908年)10月、左龍虎軍馬歩都指揮使を授かり、12月左衛上将軍・六軍馬歩都虞候に改められた。同3年5月、右龍虎統軍に転じ、まもなく検校司徒・邢州団練使を加えられた。同4年2月、澤州刺史に改められ昭義軍節度留後・検校太保を兼ね開国侯に進封された。
- 乾化2年(912年)7月、相州刺史を授かり、まもなく検校太傅を加えられ、しばらくして左龍虎統軍に転じた。貞明2年(916年)、慶州が李彧・李陟に占拠されると、瓌は本官のまま西面行営馬歩軍都指揮使兼諸軍都虞候として張筠とともに涇州・鳳翔の軍三万を破り寧州・衍州の二州を落とした。同3年秋、慶州が平定されると、12月、瓌はこの功で滑州宣義軍節度使を授かり前と同じく検校太傅を兼ね同平章事を加えられ、まもなく北面行営招討使を授かった。
- 同4年春、晋の人々が楊劉城を取り占拠すると、8月、瓌は許州節度使謝彦章とともに大軍を率い濮州の行台村に陣を構え数ヶ月にわたり対峙した。ある日、晋王が軽騎で挑戦すると、瓌と彦章は伏兵を発して奮撃し、晋王はわずかに身をもって逃れた。以前、瓌と彦章は不仲であったが、この年冬12月、諸軍都虞候朱珪の讒言に遭い、瓌は伏兵を放って彦章と濮州刺史孟審澄、別将侯温裕らを軍中で殺害し、謀反の疑いとして朝廷に報告した。
- この月、瓌は晋人と胡柳陂で大戦し、晋の人々は敗れ、陣中で晋の将周陽五を斬ったが、夕方には瓌の軍もまた敗れた。同5年春正月、晋の人々は徳勝で川を挟んで柵を築いて城とすると、4月、瓌は大軍を率いてその南柵を攻め艨艟(軍艦)で川の中流を扼した。晋の人々は我が艨艟を断って軍を渡し南柵を援けたため、瓌は行台に軍を退いた。まもなく病を得て没した。享年62。侍中を追贈する詔が下された。長子光図は後唐で供奉官となった。
康懷英
- 兖州の人。本名は懐貞。太祖の御名を避けて改名した。初め驍勇をもって朱瑾に仕え列校となった。唐の乾寧4年(897年)春、太祖が鄆州を平定すると、葛従周に勝ちに乗じて兖州を急攻させた。当時、朱瑾は豊県・沛県の間で糧秣を求めており、懐英を留めて城を守らせていたが、従周の軍が至ると懐英は鄆州が陥落したと聞き降伏した。太祖はもとよりその名を聞いており、これを得て大いに喜び、まもなく軍校に任じた。光化元年(898年)秋、氏叔琮に従い襄漢を討ち、懐英は一軍で鄧州を攻め落とした。同3年、河朔征討に従い張存敬を佐けて燕の軍を易水のほとりで破った。
- 天復元年(901年)冬、太祖が軍を率いて昭宗を鳳翔に迎える際、李茂貞は大将符道昭に一万余の兵を率いさせ武功に屯して太祖を防ごうとした。太祖は諸軍にこれを撃たせ、懐英を先鋒として先登させると、一鼓のうちに大破し甲士六千余人を捕らえ馬二千匹を奪った。翌日、太祖が到着すると左右に「邑の名は武功だが、今まさに逆党を一掃したのは真の武功だ」と述べ懐英を召して大いに褒め称え、駿馬・珍器を賜った。
- 天復2年(902年)4月、符道昭が再び大軍を虢県の漢谷に屯した。その寨は前に大きな渓流を望み後ろは険しい丘に倚っており容易に登れなかった。太祖は懐英に騎兵数千を率いてこれを急撃させたが、道昭は懐英の兵が少ないことから見下ろす態度を取り、甲士一万を率いて渓流を越えて挑戦してきた。懐英は初め千騎で夜襲を仕掛け、戦闘が酣となったところで伏兵を出して撃つと、岐の軍は大敗した。秋8月、鄜州の帥李周彛が三原に屯して鳳翔を援けようとすると、太祖は懐英に討伐させ、周彛は軍を撤いて逃走した。梨園まで追撃し、翟州を攻略しその守将を捕らえて献じた。
- まもなく岐の軍が奉天に屯すると、太祖は懐英に岐軍の東北に寨を構えさせ敵に備えさせたが、ある夜、岐の軍が大挙して至り急攻した。懐英は夜間に諸軍を驚かせるべきではないと考え、独り二千余人で数万の兵に抗い、夜二更から四更まで戦い自ら十余の傷を負ったが、岐の軍は勝てずに退いた。昭宗の京師還御に際し「迎鑾毅勇功臣」を賜った。この年、淮南の人々が青州・兖州の叛乱を聞き数万の兵を送って宿州を侵すと、太祖は懐英に馳せ赴かせ救援させ、淮南の人々は逃走した。懐英は権知宿州刺史とされた。天祐3年(906年)冬、劉知俊を佐けて邠州・鳳翔の軍五万を美原で破り五十余の寨を収め、勝ちに乗じて鄜州を攻略し、この功で陝州節度使を授かった。
- 太祖の受禅後、検校太保を加えられた。開平元年(907年)夏、大軍を率いて潞州を討つよう命じられた際、出発に際し太祖は懐英に「あなたは上将の位にあり勇は三軍に冠絶し、これまで敵を破り鋭鋒を摧いても後悔することがなかった。高位・重禄についても私はあなたに対して負うところはない。忠臣が主君に仕えるのに死をもって二心を持たないというのは、韓信の言う『漢王は私を車に乗せ衣を着せ食を与えてくれた、人の禄を食む者は人の憂いを分かつべきだ』ということだ。私は常にこの韓信の言葉を思い、まさに忠烈の丈夫の言葉だと感じる。丁会のような者は私の厚遇を受けながら、黄金を懐に紫綬を帯び領地を分与されるまでの厚遇を受け、たとえ木石や人形であっても恩義に感じるはずなのに、一朝にして裏切って矛を返し人に降った。もし天道と明神があるなら、どうしてこれを許すだろうか。総じて恩を裏切り理に背く者は忠良ではない。今、境内をすべて掃討する任をあなたに委ねる。あなたはよく努め尽力すべきだ。まして晋人は新たに上党を得たばかりで衆心はまだ和していない、十万の軍をもって一挙にこれを克服できるだろう。私は酒を用意して大宴を開き、あなたの凱旋を歌舞で待とう」と告げた。懐英は恐縮して退いた。
- 6月、懐英は大軍を率いて潞州に至り昼夜城を攻めたが、半月の間に敵の機略は百変し、懐英は太祖の言葉を思い必ず勝とうと堡塁を築いて城を囲み濠を深く掘ったが、しばしば戦将周徳威の騎兵に悩まされ、すぐに戦うことができなかった。太祖はそこで李思安に代えさせ、懐英は行営都虞候に降格された。夏5月、晋王が蕃漢の大軍を率いて夾城を攻め落とすと、懐英は逃げ帰り銀台門で罪を待った。太祖はこれを許し右衛上将軍に改めた。同3年夏、侍衛諸軍都指揮使に任じられ、まもなく陝州節度使兼西路行営副招討使として外任した。
- 劉知俊が鳳翔に逃れ岐の軍を引き入れ霊武を図ると、太祖は懐英に兵を率いて救援させたが、軍が長城嶺に至ると知俊に迎撃され懐英は敗れて帰った。同4年春、華州節度使に転じた。乾化2年(912年)秋、河中行営都招討使に任じられ晋の軍と白徑嶺で戦い敗れて陝州に帰った。末帝の即位後、岐の軍がしばしば秦州・雍州を侵すことから懐英を永平軍節度使・大安尹に任じ、官は中書令に累進した。貞明年間、鎮で没した。
王景仁
- 廬州合肥の人。体格は魁偉で性格は激しく威儀がなく、槍の扱いに優れ驍勇で知られた。淮南で職を重ね都指揮使となった。楊行密は偽って宣州節度使に任じたが、行密が没すると子の渥が自立し、景仁の勇猛さを忌み私怨も抱いていたため害そうとした。景仁は宛陵を捨て腹心百人とともに呉越王銭鏐のもとへ帰した。鏐は両府行軍司馬に招き、その事情を詳しく太祖に上奏すると、太祖は再び宣州節度使・検校太傅・同平章事を遥領させた。
- 鏐は淮南の賊がついに大きな禍となることを見て速やかに平定しようと考え、景仁に表を太祖のもとへ届けさせ水陸両面の計を面陳させ禁軍との合流を請わせた。太祖は破格の礼で遇し賜り物も特に厚く「代北の敵(晋)を平定した暁には、必ず王師をすべてあなたに委ね南討させよう」と告げた。これにより京師に留まり、しばしば丞相の列に加わった。劉知俊の叛乱に際しては駕に従い陝州に至り、楊師厚を佐けて西の関に入り、まだ交戦しないうちに知俊は馮翊を捨てて逃げ、雍州・華州を落とし王建・張君練を降し、戦にしばしば功があったため太祖はこれを嘉した。
- 当時鎮州・定州が反乱を起こし蛮族と結んだため、景仁を上将に抜擢し歩騎十万を与えて北面行営都招討使に任じた。開平2年(908年)正月2日、晋軍と柏郷で戦い王師は大敗した。太祖は激怒しこれを私邸に拘留したが、両浙の元勲(銭鏐)の推薦により、また後日の効を期待して平章事を落とし兵権を解くにとどめた。数ヶ月後、官爵を回復した。末帝の即位後、再び南面北面行営招討応接使として用いられ、一万余の兵で寿州を討ち霍丘に至って交戦し賊将袁叢・王彦威・王璠らを捕らえて京師に送った。まもなく朱瑾が大軍で至ると、景仁は力戦して屈せず、常に数騎で自ら奮って先頭に立って撃ち、賊は迫ることができなかった。
- 淮水を渡って戻る際も殿を務めたため大きな損害はなく、瑾もまた北へ渡ることはなかった。帰還後、疽を患い没した。太尉を追贈する詔が下された。
史論
- 史臣曰く、劉鄩は機略を自負し、賀瓌は忠毅で知られ、懐英は驍勇で時を佐け、景仁は貞純で国に尽くした。その器量と業績を較べれば、いずれも名将と言えよう。しかし善戦の功があっても敗軍の咎もあり、兵に常勝はないという道理は決して虚言ではないことが知れる。鄩が兖州に拠った際、師範に誠を尽くしたその姿は李英公(李勣)に比すべきものであり、これらの諸侯より一段優れていたと言えよう。