舊五代史卷二十二 列傳十二 楊師厚・牛存節・王檀

太祖朱全忠(後梁)に仕えた三将軍の合伝。楊師厚(?–915年)は潁州斤溝の人。李罕之の部将から太祖に帰順し、趙匡凝討伐や潞州・鎮州方面での軍功により魏博節度使・鄴王にまで昇ったが、晩年は驕慢となり銀槍效節軍を私兵化し、その死後の混乱が河朔喪失の一因となった。牛存節(字は賛貞、青州博昌の人)は諸葛爽配下から太祖に帰順し、鄆州攻略・淮南攻防・沢州守備などで武功を重ね、忠厚な将として重んじられた。王檀(字は衆美、京兆の人)は太祖の小将から身を起こし、時溥・孫儒討伐や柏郷敗戦後の邢州守備、貞明年間の河北出兵・晋陽奇襲などで功を立てたが、後に麾下の反乱により害された。

年表(19件)

楊師厚

  • 潁州斤溝の人。李罕之の歩将として猛烈果断で知られ、特に騎射に優れた。罕之が敗れて澤州に退いた際、師厚は李鐸・何絪らとともに来降した。太祖は忠武軍牙将とし、以後軍職を歴任し検校右僕射に累進し曹州刺史に表された。
  • 唐の天復3年(903年)、太祖に従い岐(鳳翔)の下で昭宗を迎えた際、李茂貞が精鋭で出撃したが師厚に敗れた。王師範が青州で叛くと太祖は師厚に兵を率いて東討させた。当時、淮南の賊王景仁が二万の兵で師範を援けに来ると、師厚はこれを迎撃し破って輔唐県まで追撃し数百級を斬った。斉州刺史を授かり赴任の途中、太祖は鄆州の西境で急ぎ師厚を召し、歩騎を率いて臨朐に屯させ、密州を東援すると触れ回らせつつ密かに輜重を臨朐に留めた。師範は果たして出兵して来襲したが、師厚は野に伏兵を設け聖王山まで追撃し一万余人を殺し都将八十人を捕らえた。まもなく莱州刺史王師誨が師範を救援に来たが、これも大破した。以後、師範は再び戦を挑まなくなった。
  • 師厚は軍を移して城下に迫り、師範は力尽きてついに降った。天復4年(904年)3月、検校司徒・徐州節度使を加えられた。天祐元年(904年)、諸軍行営馬歩都指揮使を加えられ、同2年8月、太祖が趙匡凝を襄陽で討つと、師厚に前軍を統率させ進軍させた。趙匡凝は厳戒して備えたが、師厚は榖城西の童山に至り材木を伐って浮橋を造り軍を率いて漢水を渡ると、一戦で趙匡凝は敗れ散り妻子を連れて漢水沿いに逃走した。翌日、師厚は山南東道節度留後に表された。直ちに南下して荊州を討つと、留後趙匡明もまた軍を捨てて三峡を遡り逃れ、十日足らずで両鎮をともに落とし、正式に襄州節度使を授かった。以前、漢南に羅城(外郭)がなかったが、師厚は初めて築造し周囲十余里の郭を完成させ堅固にした。
  • 開平元年(907年)検校太保・同平章事を加えられ、翌年さらに検校太傅を加えられ、同3年3月入朝し詔で潞州行営都招討使を兼ねた。まもなく劉知俊が同州で叛くと、師厚は劉鄩とともに軍を率い西討し潼関に至って知俊の弟知浣を捕らえて献じた。知俊は師厚が至ったと聞くとすぐに鳳翔へ逃げた。師厚は進んで長安に至ると、当時知俊はすでに岐の賊を引き入れ城を占拠していたが、師厚は奇兵で終南山沿いを急行し西門から入城した。賊将王建は驚愕してなす術もなく即座に降った。詔で師厚に検校太尉を加えられた。
  • まもなく晋王が周徳威・丁会・符存審らとともに大軍で晋州を急襲すると、太祖は師厚に兵を率いて援けさせ、軍が絳州に至ると晋軍は蒙坑の険を扼していたが、師厚は軍を整えて前進し晋の人々は包囲を解いて逃げた。同4年2月、陝州節度使に転じ、同5年正月、王景仁が柏郷で敗れ晋人は勝ちに乗じて邢州を包囲し魏博を掠め南は黎陽に及んだ。師厚は詔を受けて衛州に兵を屯し、晋軍が魏州を攻めるも落とせず退くと、師厚は追撃して漳河を越え邢州の包囲を解いた。滑州節度使に転じ、翌年、太祖の北征に際し師厚に大軍を率いて棗強を攻めさせたが十日を超えても落とせず、太祖はしばしば督責し、師厚は昼夜奮戦してついにこれを破りその城を屠り尽くした。
  • 車駕が還ると師厚は魏州に屯した。庶人友珪の簒位に際し、魏州衙内都指揮使潘晏が大将臧延範・趙訓とともに変を謀ったが密告する者があり、師厚は兵を布いて捕らえ斬った。二日後、指揮使趙賓が夜に歩兵を率いて甲をまとい夜明けに乱を起こそうとしたが、師厚は衙兵で囲んで捕らえようとすると、賓は起き上がれず城を越えて逃げた。師厚は騎兵を送って追撃させ肥郷で党百余人を捕らえ府門で斬った。友珪はそのまま師厚を魏博節度使・検校侍中に任じた。まもなく鎮州・晋州の人々が魏の北辺を侵すと、師厚は軍を率いて唐店に至りこれを破り五千級を斬り都将三千余人を捕らえた。
  • 当時、師厚は河朔の兵権を掌握し、その威望は君主を凌ぐほどであった。友珪はこれを憂い師厚を朝廷へ召したが、師厚は精兵一万を率いて洛陽に至り都の外に厳重に布陣させ、自らは十余人だけで謁見に赴いた。友珪は恐れて厚礼をもって彼を遣した。末帝が友珪打倒を図った際、使者を送って師厚に謀り、師厚は深く忠誠を示し侍衛軍使袁象先および主軍の大将に急ぎ書を送り、また都指揮使朱漢賓に兵を率いて滑州へ赴かせ禁旅に呼応させた。友珪誅殺後、末帝が東京で即位すると、まず師厚を鄴王に封じ検校太師・中書令を加えた。詔にはその名を呼ばず官名で呼び、事の大小を問わずまず師厚に相談した。師厚もまた次第に驕慢になった。
  • 以前、鎮州の人々は我が軍が柏郷で不利になった後、しばしば辺境を騒がせていた。師厚は大軍を統率し直接鎮州の城下まで至り閭舎を焼き払い、軍を移して藁城・束鹿を掠め深州に至って戻った。乾化5年(915年)3月、鎮で没した。朝が三日休止され太師を追贈された。師厚は純朴誠実で明敏有能であり、太祖から重んじられ重兵と要地の鎮を委ねられたことは他の誰も及ばなかった。しかし晩年は功を誇り衆を恃んで謀反の意が芽生え、財賦を専断で割いて銀槍效節軍を数千人置き、皆驍勇な者を選び、放縦に養い旧来の牙軍の悪習を復活させたため、当時の人々はこれを患いとした。
  • 河朔の旧習では上元の夜(正月十五夜)に軒を連ねて夜遊びする風があったが、師厚が鎮に就くと魏の人々に課して灯竿を千も立てさせ万もの灯火で城を照らし、士女を自由に遊ばせ、彩色の舟を飾らせて御河で女妓に船歌を歌わせ、日を跨いで酒を放縦に飲ませた。また黎陽で巨石を採らせ自らの徳政を記す碑を建てようとし、鉄の車に載せて数百頭の牛でこれを牽かせたが、通る所の墓や家屋がことごとく壊された。百姓はこれを見て皆「碑が来る」と噂したが、碑石がようやく到着した頃、師厚は没した。魏の人々はこれを「悲しみが来る」との予兆であったと言った。
  • 末帝はその死を聞くと私邸で祝賀を受け、魏州を割いて二鎮とすることを議した。まもなく師厚が育てた親軍が果たして反乱を起こし外敵を招き入れることになり、河朔の陥落・宗社の滅亡を招くに至った。これは師厚がその兆しを開いたものである。

牛存節

  • 字は賛貞。青州博昌の人。本名は礼。太祖がこれを改めて字とした。若くして雄勇を自任した。唐の乾符末年、同郷の人諸葛爽が河陽節度使となると、存節はこれに従った。爽が没すると存節は同輩に「天下は騒然としている、英主を選んでこれに仕え富貴を図るべきだ」と語り、太祖のもとへ帰した。初め宣義軍の小将に任じられ、蔡の賊が金堤駅に至り酸棗・霊昌を犯した際、存節は日々これと戦い二十余度に及び、行くたびに必ず捕虜を得て戻り、前後して二十余級を斬り家畜も多く得た。太祖が蔡の賊を板橋・赤堈・酸棗門・封禅寺・枯河の北で撃った戦にはすべて従い、諸将とともに濮州南の劉橋・范県で鄆州の軍を大破した。以来、太祖から深く重んじられた。
  • 文徳元年(888年)夏、李罕之が并州の軍とともに張宗奭を河陽で包囲すると、太祖は存節に軍を率いて赴かせた。折しも凶作で軍糧が届かず、村民に乾椹(干した桑の実か)を蓄える者があったので、存節は器物や銭帛でこれを交換して軍食に充て、賊を浿河で大破した。罕之は衆を率いて北へ逃げた。また徐州・宿州討伐にも功があり、河北討伐では存節が先鋒として黎陽を落とし臨河を収め内黄の西に至って千余人の兵で魏の人々一万二千の軍と戦いこれを大破し、屍が野を覆った。太祖は深く感嘆し神兵の助けがあったと語った。
  • 大順元年(890年)、滑州左右廂牢城使に改められ、諸将とともに時溥を討ちしばしば賊軍を破った。景福元年(892年)秋、遏後都指揮使に改められ、濮州攻めでは軍を率いて先登しその塁を落とした。同2年4月、徐州を落とし時溥を梟首した際、存節は力戦しその功が最も大きかった。乾寧2年(895年)検校工部尚書を授かった。同3年夏、太祖が鄆州を東討すると、存節は軍を率いて故楽亭に進み要路を扼した。都指揮使龐師古が馬頬に屯すると、存節は密かに都将王言と鄆州の城壁に入る策を謀った。
  • 同年12月、存節は王言に夜に勇士を城の西北に伏せさせ、舟で濠を越え梯子をかけて城壁に登らせようとしたが、王言は入城できなかった。存節は自ら伏兵を率いて梯子を担ぎ西の甕城を破り濠橋を奪い、諸軍がこれに続いた。同4年4月、鄆州の城を陥落させ、まもなく葛従周とともに兖州を落とし、検校右僕射を加えられた。その年秋、大挙して淮南を討ち濠州の東に至った際、前軍が清口で不利になったと聞き、諸軍は淠河まで退き隊列を乱していたが、存節は殿を務め、諸将は馬を捨てて徒歩で戦い諸軍はしだいに退くことができ、敗兵を合わせて八千余人を収め淮のほとりに至った。この時、すでに四日食事を取っていなかったが、存節は部下を励まし配置を整えて追撃する賊を防ぎ、軍を無事に返すことができた。
  • 同5年(898年)亳州刺史に任じられ、まもなく宣武軍都指揮使に遷り宿州刺史に改められた。翌年、淮南の賊が彭城に大挙して来ると、存節は歩兵を率いて夜に発ち彭門へ直行し、淮南の人々はその神速さに驚き震え退いた。諸将はその智略に感服した。光化2年(899年)任を解かれ帰った後、再び左衙都将兼馬歩教練使となった。天復元年(901年)潞州馬歩都指揮使を授かり、法令が厳正で士庶は安んじた。行在への追撃に赴く際、士卒が涙を流して見送る者が道に絶えなかった。金紫光禄大夫・検校司空に加えられ、滑州左衙歩軍指揮使に改められ邢州の軍州事を知った。
  • 天祐元年(904年)邢州団練使を授かった。当時、州にはわずか二百人しかいなかったが、晋の人々はこれを知って大軍で来攻した。太祖は鄴にあって長直兵二千人を援軍として発し、存節は壮健な兵を率いて出撃し自らの家財を賞として戦士に与え士気を鼓舞した。并州の軍が急攻すること七日、落とせずに去った。太祖は彼を召して長く労い、金帛・鞍馬を厚く賜り検校司徒を加えた。冬、軍を解かれ元帥府左都押衙となった。同4年、太祖の受禅後は右千牛衛上将軍に任じられ、その秋の潞州攻めでは存節を行営馬歩軍都排陣使とした。
  • 開平2年(908年)2月、右監門衛上将軍から右龍虎統軍に転じ洛陽に駐留した。この年、王師が上党で敗れ、晋人は勝ちに乗じて沢州に迫り城が陥落しかけると、河南留守張全義は存節を召して謀り、本軍と右龍武・羽林などの軍を率いて上党を援けに向かわせた。師が天井関に至ると、存節は諸将に「この行は詔を奉じたものではないが、要害の地を失うわけにはいかない」と述べた。当時晋の人々は勝ったばかりで勢いが盛んであったが、存節は衆を率いて前進し、枚を銜んで夜のうちに沢州に至った。城の守備兵はすでに火を放って鼓噪し外の軍に呼応していたが、刺史は衙城を守るだけでなす術もなかった。存節が城に入ったところにはすでに晋軍が到達していたため、部隊を分けて守禦にあたらせた。晋軍は四方から攻め立て地下道を掘って侵入しようとしたが、存節も坑道でこれに応じ地中で迎え撃ち晋軍を進ませなかった。さらに強弩で射ると、当たった者は人馬ともに貫かれ、十三日にわたる戦いで晋軍は死傷者を多く出し、営を焼いて退いた。郡は無事に保たれ、太祖はしばしばこれを称賛した。
  • 5月、左龍虎統軍に遷り六軍馬歩都指揮使を兼ね、10月絳州刺史を授かった。同3年4月鄜州留後に任じられ、6月劉知俊が同州で叛くと、まもなく同州留後を授かり、まもなく検校太保・同州節度使を加えられた。乾化2年(912年)検校太傅を加えられ開国公に進封された。存節は軍を厳重に戒めることを常とし、常に敵が迫っているかのように振る舞った。以前、州中の井戸水は塩辛く苦く飲めなかったが、并州・岐州の人々が城に迫り兵士が渇きに苦しみ陥落は時間の問題と見られると、存節は敬虔に祈って地を選び八十余の井戸を掘らせたところ、その水はすべて甘くまろやかであった。これにより人馬の飲用水は十分に足り、衆はこれを至誠の感応と考えた。8月から翌年(乾化3年、913年)春まで、人馬は甲を脱ぐことがなかったが、賊が退くまでこれを続けた。まもなく同平章事を加えられ詔で朝廷に呼ばれ、末帝が慰労し賞賜は厚かった。11月開府儀同三司・食邑千戸を加えられ鄆州節度使を授かった。
  • 同4年、淮南西北面行営招討使を加えられ淮のほとりの辺境を扼して安んじた。その冬、蔣殷が徐州に拠って命に背くと、存節はちょうど大軍で潁州を守っていたが、殷の逆謀を密かに聞き知り上聞すると、直ちに詔を奉じ劉鄩とともにこれを討伐した。埇上に駐屯すると、淮南の賊朱瑾が兵を率いて殷を救援に来たが宿州まで二舎(六十里)の距離にあった際、存節の軍が大挙して至ったと聞くと糧を捨て甲を脱ぎ捨てて逃げた。ついに徐州は平定され、詔で太尉を加えられた。
  • 夏の頃、渇病(糖尿病か)と痺れの症状を患ったが、折しも河北で用兵が続いていたため、末帝は存節に軍を率いて陽劉に屯させ劉鄩の勢いを助けさせた。存節の忠憤はますます篤く、病を口にすることなく敵情を測り軍を治め、朝夕にわたり努めた。病が重くなると詔で汶陽に帰され、翌日没した。臨終に際し子の知業・知譲らに忠孝を戒め、他のことは何も語らなかった。太師を追贈された。存節は武勇果断で慷慨の気性があり大節を守り、野戦・城壁の守備いずれにも長じ、その威名は境外にまで及び末帝から深く重んじられた。木訥で剛毅、忠厚な性格は賈復(後漢の名将)の風があったという。

王檀

  • 字は衆美。京兆の人。曽祖泚は唐の左金吾衛将軍・隴州防禦使、祖曜は定難功臣・渭橋鎮遏使、父環は鴻臚卿で、檀の貴顕により累々と左僕射を追贈された。檀は若くして聡明果断で容姿に優れ、兵書を好み韜略に通じていた。唐の中和年間、太祖が大梁に鎮すると檀は小将となった。同4年(884年)、汴の将楊彦洪が巣の将尚讓・李讜を尉氏門外で破った際、檀はその戦の中で先鋒として陣を陥落させ、太祖に知られ次第に登用された。
  • 蔡の賊を斤溝・淝河・八角で破る戦にも従い踏白都副将に遷った。光啓2年(886年)、胡真に従って淮西の軍を撃ち河陽の包囲を解いた。蔡の賊張存敢が乱に乗じて洛陽を占拠すると、檀は勇士数十人とともに賊の柵に潜入しその輜重を奪い、存敢は逃走した。胡真が陝州に至り貢路を開通させると、檀に玉山寨を攻めさせ賊帥石令殷を降した。秦宗賢を鄭州西北の河灘で撃った際、太祖の馬前で賊将孫安を射て仕留めた。
  • 同3年、都指揮使朱珍を佐けて徐州の軍を孫師陂で破り将孫用和・束詡を捕らえて献じた。蔡の賊を板橋で撃った際、偏将李重裔が賊を追う途中馬が躓き蔡の人々に捕らえられかけたが、檀はこれを奪い返し賊将薛注を捕らえた。太祖が朱瑾を劉橋で破ると、檀はその軍需物資をすべて収めた。文徳元年(888年)3月、羅弘信を討ち魏の人々を内黄で破り、檀は将周儒・邵神剣を捕らえて帰り、衝山都虞候に補された。この年、諸軍とともに蔡州を平定し、翌年朱珍を佐けて時溥の軍を大破し檀は賊将何肱を捕らえた。左踏白馬軍副将に改められ、兖州・鄆州討伐に従い戦功を重ねた。
  • 大順元年(890年)、龐師古に従い淮水を渡って孫儒の乱を深く討ち、邵伯堰を奪い高陲の軍を破った。檀は命を賭して戦い賊の刃で左腕を負傷したが、まもなく順義都将に遷った。天復年間、太祖に従い四鎮の軍を率いて鳳翔を包囲し昭宗を迎えた際、しばしば軍功を立て左踏白指揮使に遷り、王師範を青丘で討つ戦に従い別働隊で密州を回復した。そのまま軍州事を権知し本州馬歩軍都指揮使を兼ね、まもなく検校右僕射・守密州刺史に表された。郡は淮の敵に接し従来城壁がなかったが、人夫を率いて羅城を修築し六十日で完成させ、住民はこれに頼った。検校司空を加えられた。
  • 開平2年(908年)6月、邢州保義軍節度使・検校司徒を授かった。同3年、検校太保を加え潞州東北面行営招討使を兼ねた。乾化元年(911年)正月、王景仁が晋人と柏郷で戦い王師は大敗し、河朔は大いに動揺した。景仁の軍は敵騎に追われたが、檀は厳重に備えを設け敗軍を援け物資を給し、多くの兵を救うことができた。まもなく晋軍が大挙して至り重囲が四方から迫り、土山を築き地下道を掘って昼夜攻撃した。太祖はこれを憂いたが、檀は密かに上表して天子自らの親征は不要と請い、力を尽くして防戦し城を保ち抜いた。3月、この功で検校太傅・同平章事を加えられ、7月には開府儀同三司・検校太尉を加えられ瑯琊郡王に進封された。宣徽使趙殷衡に詔を持たせ慰諭させ絹千疋・銀千両を賜ったのは、邢州守備の功に対する賞であった。
  • 庶人友珪の僭位後、鄧州宣化軍節度使・検校太尉兼侍中を授かった。末帝の即位後、許州匡国軍節度使に移り検校太師を加えられた。同5年、蔡州刺史王彦温が乱を起こすと、檀は詔を受けてこれを討伐平定し兼中書令を加えられた。貞明元年(915年)3月、魏博の軍が乱れ、6月晋王が魏州に入り兵を分けて属郡を収めると、河北は大いに乱れた。檀は詔を受け開封尹劉鄩と挟撃の形で河北を援けるため進軍し、澶州・魏県を攻略し賊将李巌・王開の関を落とし献じた。まもなく檀は密かに上表して奇兵を西へ河中方面へ進め陰地関から晋陽を奇襲することを請い、末帝はこれを許した。檀は直ちに軍を馳せ出発した。
  • 同2年(916年)2月、晋陽に至り昼夜急攻すると并州の城壁は陥落寸前になったが、折しも蕃将石家才が潞州から援軍で至ったため、檀は軍を引き大いに掠奪して戻った。まもなく天平軍副大使・知節度使事・鄆斉曹等州観察等使を授かった。以前から檀は群盗を招き集め勁悍な者を選んで帳下に置いて爪牙としていたが、この頃その中の数人が密かに反乱を企て邸に突入した。檀はもとより備えをしていなかったため害された。享年51。節度副使裴彦は変事を聞き府兵を率いて賊をすべて捕らえ、州城は静まった。まもなく詔で太師を追贈され、諡は忠毅とされた。開封県の皐門原に葬られ、子六人はいずれも朝廷の官位に就いた。

史論

  • 史臣曰く、大都は国に匹敵する存在となることを『春秋』は非とする。師厚が鄴城に拠っていた頃、数万の甲兵を統率し六州の租賦を専断していたが、その名声はすでに主君を凌ぎ勢いも天を衝くほどであった。彼の死に及んで議は分割に至り、これによって河朔を失い晋人を招き入れることになった。『詩経』に「誰が禍のきっかけを生んだのか」とあるが、まさに師厚を指すのではないか。牛存節・王檀はいずれも身を挺して主君に仕え力を尽くして功を図り、その方略を見ればいずれも将帥の良材であったと言えよう。