舊五代史卷十五 列傳五 韓建・李罕之・馮行襲・孫德昭・趙克裕・張慎思

韓建は許州長社の人。潼関を拠点に勢力を築き昭宗を華州に迎えて長く擁したが、宗室諸王を虐殺するなど専横も見せ、太祖に降った後は許州・青州節度使を歴任した。李罕之は陳州項城の人。僧から盗賊、諸葛爽配下を経て河陽・澤州の節度使を歴任した猛将で、太原の李克用に「呂布のようだ」と評された。馮行襲は武当の人。賊討伐や李茂貞配下の侵攻阻止の功により金州(戎昭軍)節度使となり、太祖にも厚く用いられた。

年表(16件)

韓建

  • 字は佐時。許州長社の人。父叔豊は代々牙校であった。秦宗権が蔡州に拠り亡命者を集めた際、建はその軍に属し小校に累進した。唐の中和初年(881年頃)、忠武監軍楊復光が蔡州で挙兵すると、宗権は将鹿晏弘を赴かせ、建は同郷の王建とともに晏弘の軍に属し京師の救援に赴いた。賊平定後、復光が急死すると、当時僖宗は蜀にあり、晏弘は部隊を率いて行在に向かう途中、南山を経て郡邑を略奪し興元を占拠した。晏弘は自ら留後を称し、建を蜀郡刺史とした。
  • 唐の軍容使田令孜が密かに人を送って建を厚利で誘うと、建は晏弘に併呑されることを恐れ、部隊を率いて行在に帰順した。令孜は建を神策都校・金吾将軍とし、潼関防禦使・華州刺史として出させた。河・潼の地は大乱の後、戸口が流散していたが、建は荒れ地を開墾させ農事を勧め野菜果樹を植えさせ、自ら村里を巡って民の苦しみを問うた。数年せずして流民は皆戻り軍民は充実した。
  • 建はもと文字を知らなかったが、郡政の合間に学問を課し、器皿や寝台に名を書かせて覚えるようにし、次第に文字に通じた。まもなく華州・商州節度、潼関守捉等使に遷り、検校太尉・平章事を加えられた。
  • 乾寧2年(895年)、建は鳳翔の李茂貞・邠州の王行瑜とともに兵を挙げて朝廷に迫り、昭宗に王珙を河中の帥とするよう強要し、大臣を都下で殺害した。河中の王珂は晋の軍を招いて援けとし、晋軍が黄河を渡ると昭宗は石門へ避難した。同3年4月、昭宗は延王・通王に禁兵を率いさせ李茂貞を討たせたが茂貞に敗れ、車駕は渭橋に幸し、翌日富平に留まり河中へ幸そうとしたところ、建は上表して駕を迎え、自ら渭北まで来て東幸を懇願し、これが許された。7月15日、昭宗は華州の下に至り、百官・士庶も相次いで至った。
  • 建はまもなく兼中書令・京畿安撫制置等使を加えられ、さらに京兆尹・京城把截使を兼ねた。昭宗は長く華州にとどまり宮殿への還御を思い、花朝月夕には西谿で遊宴し群臣とともに詩を詠み涙を流した。建は常に「臣は陛下のために大内を修営し、諸侯と信を結び、一、二年のうちに必ず興復を実現します」と奏上し、建に修創京城使を兼領させた。建は自ら華州から督役し輦運や工作を進め、大明宮も再興した。
  • 同4年(897年)2月、睦王ら八王が建を殺そうと謀っているとの密告があり、建は八王を別宅に幽閉し、随駕殿後軍二万人を解散させ、捧日都頭李筠を殺した。これより天子はますます勢いを失い、宿衛の兵は尽きた。8月、建は兵で十六宅を包囲し、通王ら十一王を石堤谷でことごとく殺害し、謀逆の疑いをもって朝廷に報告した。また太子詹事馬道殷・将作監許厳士を殺し、宰相朱朴を貶した。彼らは皆昭宗が寵愛していた者たちであった。建はまもなく同州節度使を兼ねた。
  • 光化元年(898年)、華州を興徳府に昇格し、建はその尹となった。8月、車駕は京師に還り、9月建は太傅を拝命し許国公に進封され鉄券を賜った。
  • 天復元年(901年)11月、宦官韓全誨が天子を鳳翔へ脅し移す際、建もその謀に加わった。太祖はこれを聞くと河中から兵を率いて西進し、前鋒が同州に至ると建の判官司馬鄴が城を挙げて降った。太祖が軍を進めて華州に迫ると、建は恐れて降伏を乞うた。太祖が「君主を脅した罪」を責めると、建は拝伏し「従事李巨川の謀によるものです」と答え、太祖はただちに巨川を誅した。
  • 太祖と建はもともと軍中で兄弟の契りを結んだ間柄であり、その激しい怒りもすぐに収まり、まもなく建を許州節度使に表した。昭宗の東遷に際し建は祐国軍節度使・京兆尹となった。車駕が陝州に至ると太祖と建を召して宴に侍らせ、宮妓が楽を奏で何皇后が太祖に杯を賜った際、建が太祖の足を踏んで注意を促したため、太祖はすぐに立ち上がり「臣は酔いに耐えられません、もし倒れるようならば退出します」と述べた。建は太祖に密かに「陛下が宮人に耳打ちしておられ、幕の下に兵器の音がした。王を図ろうとしているのではないか」と告げた。
  • 天祐3年(906年)、青州節度使に改められ、太祖の受禅後は司空・平章事・諸道塩鉄転運使に召された。開平2年(908年)侍中を加え建昌宮使を兼ね、同3年、洛陽での郊祀に大礼使を務めた。建は宰相の首座にあり、拝謁のたびに直言することがあった。太祖は性格が剛厳で臣下たちが機嫌を伺うのに忙しい中、建だけが違う態度を取ったため、太祖はこれを優遇した。9月、太保を拝命し知政事を罷めた。同4年3月、匡国軍節度使・陳許蔡観使に任じられ、中書に人事異動の議を禁じられた。
  • 乾化2年(912年)6月、朝廷に内難(友珪の弑逆)が起こり人心が動揺する中、部将張厚が乱を起こし建を衙署で殺害した。享年58。子の従訓は昭宗が華州にあった頃太子侍学に任じられ「文礼」の名を賜り、まもなく屯田員外郎を拝命した。建国当初は都官郎中となり紫綬を賜ったが、まだ二十歳前であった。従訓が朝廷の命で陳州・許州への国哀の通知に赴いた翌々日、軍乱が起こり建とともに命を落とした。乾化3年(913年)、太師を追贈された。

李罕之

  • 陳州項城の人。父文は代々農家であった。罕之は腕力に優れ敏捷で、数人分の力があった。若くして儒学を学んだが成就せず、髪を落として僧となったが、その無頼ぶりでどこへ行っても受け入れられなかった。かつて酸棗県で朝から夕まで托鉢して何も得られず、鉢を地に投げつけ僧衣を捨てて亡命し、盗賊となった。
  • 黄巣が曹州・濮州で挙兵すると、罕之は徒党を集めて略奪を働き、次第に頭目となった。巣の賊が長江を渡ると、罕之は兵を率いて賊に背き唐の高駢に帰順し、その功を記録されて光州刺史に表された。一年余りで蔡の賊秦宗権に攻められ守りきれず、郡を捨てて項城に帰り、残兵を集めて河陽の諸葛爽を頼った。爽は懐州刺史に任じた。光啓初年、僖宗は爽を東南面招討使に任じ宗権を討たせようとし、爽は罕之を副使として表し、軍を率いて宋州に屯させたが、蔡の賊は勢いを増し兵で対抗できなかった。
  • 中和4年(884年)、爽は罕之を河南尹・東都留守に表した。この年、李克用が上源の難を脱して軍を収めて西帰する途中、洛陽を通った際、罕之は出迎え供応を手厚く行い、これにより克用と厚く結んだ。当時罕之には三千の兵があり、聖善寺を府としていた。光啓元年、蔡の賊秦宗権が将孫儒を送って罕之を攻めさせ、数ヶ月対峙したが兵が少なく備えも尽き、城を捨てて澠池へ西走した。蔡の賊は京城を占拠すること一月余り、宮殿を焼き民を略奪し、退去後は灰燼と化し鶏犬の声もなくなった。罕之は再び軍を率いて市の西に塁を築いた。
  • 翌年冬、諸葛爽が没すると、その将劉経は爽の子仲方を帥に推した。経は罕之を制しきれないことを恐れ、自ら兵を率いて洛陽に鎮した。罕之の部曲に李塘・郭璆という者があり折り合いが悪く互いに図ろうとしたため、罕之は怒って璆を誅し、軍情は不和となった。劉経はこの隙をついて澠池で罕之を襲撃し、罕之軍は乱れて乾壕に籠もったが、経は急襲した末に罕之に敗れ、罕之は勝ちに乗じて洛陽まで追った。経は敬愛寺に籠もり罕之は苑中の飛龍廐に籠もったが、罕之は衆を励まし敬愛寺を攻め、数日後に風に乗じて火を放ちすべて焼き払った。経の軍は逃げ惑い、追撃してほぼ全滅させた。
  • 罕之は進んで河陽に迫り鞏県に陣を布き、汜水に舟を並べて渡ろうとしたところ、諸葛仲方は将張言に黄河上でこれを防がせた。当時仲方は年少で政は劉経に握られ、諸将の多くは心服していなかった。張言は密かに罕之と好を通じ、経がその謀略を知ると、言は恐れて軍を率いて黄河を渡り罕之に帰した。罕之は勢力を合わせて河陽を攻めたが経に敗れ、罕之と言は懐州に退いた。冬、蔡の将孫儒が河陽を陥落させると、仲方は軽舟で逃走し、孫儒は自ら節度使を称した。まもなく蔡の賊は我が軍(梁軍)に敗れ、孫儒は河陽を捨てて蔡州に帰った。
  • 罕之と言は残兵を集め太原の李克用に援けを求め、克用は澤州刺史安金俊に騎兵を率いさせて援け、河陽を収復した。克用は罕之を節度使・同平章事に表し、また言を河南尹・東都留守に表した。罕之と言は患難をともにし腕を刻んで盟を結び、張耳・陳余の義に倣って永く休戚を共にすることを誓った。
  • 罕之は胆力果断であったが猜疑心が強く裏切りやすく、民を撫し軍を統率するのに方略がなく、しばしば苛酷で、性格も貪欲で士心を得られなかった。河陽を得ると晋州・絳州を攻めたが、大乱の後で田野に耕作する者もなく、罕之の部下は略奪した人を捕食して糧とした。絳州刺史王友遇は城をもって降ったため、罕之は進んで晋州を攻めた。河中の王重盈は太祖に救援を求めた。
  • 当時、張言は軍を規律正しく治め蓄えを善くし播種に勤めて軍糧に不足がなかった。言は罕之に穀を輸送してその軍に供給したが、罕之は際限なく求めるため言は苦しみ、力が及ばないと河南府の役人を捕らえて笞責を加えた。東方の諸侯が行在に貢を送る際も罕之にしばしば奪われ、王重盈もその侵略に苦しみ、密かに張言と結んで罕之打倒を謀った。文徳元年(888年)春、罕之が全軍を挙げて平陽を攻めた隙に、言は夜に兵を出して河陽を急襲し、罕之は無防備で単身徒歩で辛うじて逃れ、一族はことごとく言に捕らえられた。
  • 罕之は太原に逃れ、李克用は澤州刺史に表し、なお河陽節度使を領させた。3月、克用は将李存孝に三万の兵を率いさせ罕之を援けさせ懐州・孟州を攻めたが、城中の食糧・備蓄が尽きたため、張言は妻子を人質として差し出し太祖に救援を求めた。太祖は葛従周・牛存節を派遣し流河店で迎撃したが、晋の将安休休が一軍を率いて蔡州へ逃げたため、存孝も軍を引いて退いた。罕之は澤州に籠もった。
  • 以後、罕之は日々懐州・孟州、晋州・絳州の数百里を侵略し、郡邑には長吏なく、村里には住民もなくなり、河内の百姓は寨を結んで身を守り、樵採や水汲みに出れば捕らえられ、険しい峰や危うい桟道でも罕之の部隊に攻略された。以前、蒲州・絳州の間に摩雲という山があり、邑人は上に棚を築いて乱を避けていたが、罕之は百余人でこれを攻略し、軍中では罕之を「李摩雲」と呼ぶようになった。以後、数州の民はほぼ食い尽くされ、荒野に草木が生い茂り煙火が絶えること十余年に及んだ。
  • 乾寧2年(895年)、李克用は邠州・鳳翔を防ぐため渭北に陣を構え、天子は克用を邠州行営四面都統とし、克用は罕之を副使に表した。王行瑜誅伐の功により罕之は検校太尉・食邑千戸を授かった。罕之は自らの功が多いことを恃み、密かに晋の将葢寓に「私は河陽を失って以来、大恩を頼りに年月を経たが、功を立てられずにいる。近年は戦に倦み、老いを自覚している。晋王の仁慈と太傅(克用)の哀れみをいただき、小さな鎮を賜って兵を休め病を養い、一、二年のうちに菟裘に帰り老いを養いたい」と語った。寓はこれを取り次いだが、克用は答えなかった。藩鎮に欠員が出るたびに議論に上らず、罕之は内心鬱々としていた。寓は罕之が他の謀を抱くことを恐れ、しばしば克用に取り成したが、克用は「私が罕之を惜しんで一鎮を与えないわけではない。私にとっての罕之は、董卓にとっての呂布のようなものだ。雄々しいことは雄々しいが、鷹の性のように腹が満てば飛び去ってしまう。翻して私を害するのを恐れているのだ」と答えた。
  • 光化元年(898年)12月、晋の潞州帥薛志勤が没すると、罕之はその喪に乗じて澤州から兵を率いて潞州に直入し自ら留後を称し、克用に「志勤の喪を聞き、新帥が至らないため他の盗賊に狙われることを恐れ、命を待たずすでに潞州に屯した」と報告した。克用は怒って李昭嗣に討伐させ、罕之は守将馬渓・伊鐸・何万友、沁州刺史傅瑶らを捕らえ、子の顥に太祖のもとへ送って救援を求めさせた。折しも罕之は急病で政務を執れなくなり、翌年6月病が重くなると、太祖は丁会に代わらせ罕之を河陽節度使に移したが、懐州に至る途中、駅舎で没した。享年58。子の顥は舟に柩を載せて帰り河陰県に葬った。開平2年(908年)春、中書令を追贈された。

馮行襲

  • 字は正臣。武当の人。本郡の都校を歴任した。中和年間(881-885年)、僖宗が蜀にあった頃、賊首孫喜という者が数十人の徒党を集めて武当に入ろうとし、刺史呂曄は恐れて策を持たなかった。行襲は勇士を江南に伏せ、小舟で喜を出迎えて「郡の人々は良き牧を得て衆心はすでに帰服しています。ただ兵が多いため民は略奪を恐れています。もし江北に軍を留め腹心だけを率いて来られれば、私が先導して士民を安んじましょう」と告げた。喜はこれを承知した。喜が渡江すると軍吏が迎えるふりをして伏兵を起こし、行襲は喜を撃ち倒し剣で斬った。その党もことごとく殺され、江北にいた賊衆も潰走した。山南節度使劉巨容はこの功を上奏し、行襲はまもなく均州刺史に任じられた。
  • 州の西には長山があり襄漢・蜀への道に当たっていたが、群盗が拠って貢物を略奪していたため、行襲はこれを破った。洋州節度使葛佐は行襲を行軍司馬に招き、谷口に兵を鎮めて秦・蜀の道を通じるよう命じ、これにより行襲の名はますます知られた。李茂貞が養子継臻を送って金州を密かに占拠すると、行襲はこれを攻略し、金州防禦使に任じられた。当時、興元の楊守亮が京師を襲おうとして金州・商州を経由すると、行襲はこれを迎撃して大破し、詔で金州を昇格させ戎昭軍と号し、行襲を節度使とした。
  • 太祖が義旗を掲げて西征した際、行襲は副使魯崇矩を遣って命令を受けさせた。折しも唐の昭宗が鳳翔へ幸し、太祖が軍を率いて迎えようとしたが久しく出発できなかった。中尉韓全誨は宦官郄文晏ら二十余人を分遣して詔を偽り、江淮の兵を徴して金州に屯させ太祖の軍を脅そうとしたが、行襲は策を定めてことごとくこれを殺し、詔勅を回収して太祖に送った。
  • 天祐元年(904年)、洋州節度使を兼領した。太祖が荊州・襄州を討った際、行襲は子の朂に舟師を率いさせ均州・房州で合流させ、回復の功に与った。匡国軍節度使に遷任し、着任すると大吏張澄を誅してその罪を明らかにし、州の人々は皆恐れ服した。許州にあること3年、上供の外に別途二十万石の軍糧を献じた。太祖の郊祀に際し、行襲は入朝し巨万の貢献を行い恩礼はことに厚かった。まもなく詔で翰林学士杜暁に徳政碑を撰させ賜った。官は兼中書令に累進し司空を拝命したが、開平年間に没した。朝が一日休止され太傅を追贈され、諡は忠敬とされた。
  • 行襲は性格が厳烈で政治は厳しかったが、赴任先ではいつも天の助けがあり、境内で大蝗害があった際も群烏が食い尽くして被害を及ぼさず、民が食糧に困ると必ず田畑から穭穀(自生の穀物)が出たという。威福を自らに帰さず常に王室のために力を尽くしたため、その功名を保つことができた。行襲は体格が魁偉で、顔にあざがあり、当時「馮青面」と呼ばれた。長子朂は蘄州・沁州の刺史を歴任し、次子徳晏は金吾将軍に至った。

孫徳昭

  • 塩州五原県の人。代々州の校を務めた。父惟晸は唐朝に功があり荊南節度を遥領し、右神策軍事の分判を務めた。徳昭は父の蔭により職を重ね右神策軍都指揮使となった。光化3年(900年)、昭宗が宦官によって廃され偽って徳王が擁立された際、朝廷内外は権力が宦官の手にあることから討伐できず、近隣の藩鎮もこれに追従する上表を続けた。丞相崔胤は外に太祖と結び助けを求め、内には腹心を送って忠義を説き、事情を徳昭に伝える者もあった。
  • 徳昭は感慨を覚え、配下の孫承誨・董従実の二人とともに奮起し正義の回復を誓った。崔胤はさらに自らの衣を割いて手筆を書き志を伝えた。天復元年(901年)正月一日、夜明け前に逆臣左軍容劉季述が早くに参内する際、徳昭は伏兵を要路に置いて待ち、その先導を捕らえて斬った。孫承誨らは分かれて右軍容王仲先の一党を捕らえた。昭宗は東内に幽閉されていたが外の喧噪を聞いて大いに恐れた。徳昭は駆けつけて閤を叩き「逆賊劉季述は誅されました、上皇(昭宗)には鎖を開けて皇帝の位にお戻りください」と告げると、皇后何氏が「逆人の首をここへ持ってくれば門を開けよう」と叫んだ。まもなく承誨・従実が首級を献じ、昭宗はこれを悲しみつつ嘉した。
  • 丞相崔胤は丹鳳楼に迎え百官を率いて罪を待ち、涙ながらに「臣は高位にありながら奸賊を討つことができませんでした。東平王(太祖)が最初に忠貞を奮い邸吏を誅殺したことで、徳昭らが逆賊を捕らえ処刑し、再び禁中を清めることができました」と奏上した。その日のうちに功が議され、徳昭は検校太保・静海軍節度使、承誨は邕州節度使、従実は容州節度使にそれぞれ任じられ、皆同平章事を加えられ李姓を賜り「扶傾済難忠烈功臣」の号を賜り、凌煙閣に肖像が描かれ、皆京師に留まった。恩賞・寵遇の厚さは近代に類を見ないほどであった。
  • その年11月、宦官韓全誨は火を放って昭宗を鳳翔へ脅し移した際、承誨・従実は節を変えて宦官に誘われ、当初は百官を追い立てて命令を発しようとしたが、徳昭だけは兵を動かさず、太祖の親吏婁敬思と力を合わせて丞相・文武百官と長安の吏民を街の東で守り、脅されることを免れた。太祖は従事を遣って労いを続け、龍鳳剣・闘鶏紗を贈り取り仕切りを委ねた。これにより百官は華州に次いで太祖の迎奉を請う連名の上奏を行った。
  • 太祖の大軍が関に入ると、徳昭は軍礼をもって道の左に立って謁見し、太祖は左右に命じて彼を騎に扶け長安まで至らせ、手厚い恩賞を与えた。同州節度留後を権知するよう命じられたが、赴任しようとしたところ民の請願により留任し両街制置使を兼ね、銭百万を賜った。徳昭は本部の兵八千人を太祖に献じ、これによりますます重んじられた。また邸宅一区を賜られ、先に洛陽へ帰らされた。
  • 昭宗の東遷に際し左威衛上将軍に任じられたが、病により免ぜられ別荘に帰った。太祖の受禅後、左領衛上将軍として朝廷に召し出され、開平4年(910年)左金吾大将軍・街使を拝命した。末帝の即位後、両浙への使命を命じられたが対面の礼を失し行けなかった。まもなく右武衛上将軍に改められ、また左金吾大将軍に復し在官のまま没した。太傅を追贈され、朝が一日休止された。
  • 天復初年、徳昭は孫承誨・董従実とともに正統回復の功により「三使相」と呼ばれ恩沢は世に冠絶したが、承誨は鳳翔に至って名を継誨と改め、従実も名を彦弼と改め、いずれも李茂貞の養子となった。後に宦官の勢力が敗れると二人とも京師で誅殺され、ただ徳昭だけが終始を全うすることができた。

趙克裕

  • 河陽の人。祖父・父ともに軍吏であった。克裕は若くして牙将となり読書を好み、礼儀作法も謹厳であったため、牧伯たちは皆彼を優れた者として遇し、要職を歴任して虎牢関使に抜擢された。光啓年間(885-888年)、蔡の賊が河陽を陥落させると、克裕は部下を率いて太祖に帰し、宣義軍に属した。太祖が徐州・鄆州を東征する際、克裕はしばしば命を受け意に適わないことがなかった。数年のうちに亳州・鄭州の刺史を歴任した。当時、関東の藩鎮は蔡の賊の害を受け民は流散し互いに保つことができなかったが、克裕は農耕と軍事の備えに優れ、また民を安んじることにも巧みで、その恩恵によって安んじられた者が多かった。太祖は克裕を河陽節度使・検校右僕射に表し、まもなく許州・田州に転じ、朝廷では金吾衛大将軍・検校司空となった。太祖が元帥になると克裕は元帥府左都押衙となり六軍を統率し、兖州平定後は泰寧軍留後を権知したが、数ヶ月で急病により没した。開平初年、太保を追贈された。

張慎思

  • 清河の人。黄巣の軍から帰順し、軍職を重ね諸軍都指揮使を歴任した。黄巣・秦宗権・兖州・鄆州の平定に功があり、検校工部尚書兼宋州長史に表された。光化年間、検校右僕射を加え亳州を権知した。天復3年(903年)、昭宗の長安還御に際し太祖の迎駕に従った功で「迎鑾毅勇功臣」の号を賜った。まもなく汝州防禦使に任じられ、天祐元年(904年)左龍武統軍に任じられ、その冬許州匡国軍節度使に任じられた。翌年11月、徐州武寧軍両使留後を権知し、太祖の受禅後は左金吾大将軍として召し出された。開平2年(908年)宋州刺史に任じられ、まもなく再び左金吾大将軍に任じられた。開平年間の冬、蔡州刺史に任じられたが貪欲な行いで民情を大いに失い、詔で朝廷に呼び戻された。まもなく北征に扈従したが、病を得て洛陽の私邸に伏せ、家人を統制できず子に弑された。

史論

  • 史臣曰く、韓建は唐朝の衰運に乗じて潼関という要地に拠りながら王室の藩屏となることができず、かえって宗族の枝葉を斬り滅ぼすことに努めた。民を治める能があったとはいえ、臣下としての罪をどう補えようか。李罕之は驍勇の気を負い、離反の謀を蓄えていた。武皇(李克用)が彼を呂布に例えたのは、まさに人を見抜いていたと言えよう。馮行襲は忠節に励み、孫徳昭は正統回復の功を立て、いずれも善き最期を遂げたのは当然のことである。趙克裕以下については論評するまでもない。