滄州から兖州への転変
- 張萬進は雲州の人。幽州の劉守光に仕え、劉守光の子繼威を輔佐した。繼威が張萬進の家で乱行に及んだため萬進はこれを殺した。
- 太祖方に降って義昌軍節度使・のち兖州節度使に任じられ守進と改名したが、貞明四年(918年)冬、晋に款を通じて叛き、末帝の命で劉鄩に討たれた。貞明五年(919年)冬、部下の邢師遇が内応して王師を城に引き入れ、萬進は一族もろとも誅された。
史論
- 史臣曰く、雲雷が乱を醸し龍蛇が地に起こるとき、勢力の均衡は必ず争いを生み、力尽きた者から滅びるのが道理である。朱瑄・朱瑾・時溥の輩はいずれも梁に呑まれた者たちで、これも理の常というべきである。ただ朱瑾は謀反によって土地を得て、謀反によって身を滅ぼした点で「始めをもって終わる」の言のとおりである。王師範は衰季の世に生まれて興復を志し、事は成らずとも忠義は尚ぶべく、一族滅亡の禍を招いたとはいえ、地下の臧洪と肩を並べうる。劉知俊は驍勇であったが逃亡の末、天下広しといえど身を容れる地がなかった。まことに義によって勇を為す者にはとても及ばない。楊崇本以下は、いずれも叛逆によって滅んだにすぎず、論ずるにも足りない。