兖州での自立から淮南への亡命
- 朱瑾は瑄の従弟。武勇に優れるが性は残忍であった。光啓年間、兖州節度使斉克譲の婚礼に乗じて甲士に襲わせ克譲を捕らえて自ら留後となった。
- 秦宗権討伐では太祖と連携して戦功を挙げ、兖州節度使に正式に任じられたが、天下併呑の志を抱いて太祖の軍士を金で誘い間諜としたため、太祖に忌まれるようになった。
- 太祖の鄆州攻めの際には瑄に呼応して援軍を送ったが、乾寧二年(895年)、太祖配下の朱友恭に包囲され、救援に来た瑄の将賀瓌・何懐宝も捕らえられた。瑾の従兄の斉州刺史瓊が降伏を持ちかけたが、太祖側の計略で瓊は殺害され、太祖は兵を退いた。
- 鄆州陥落後、龐師古が兖州を攻めると、瑾の二子や部将は降伏したが、瑾自身は李承嗣とともに海州・徐州を経て淮水を渡り、楊行密のもとに身を寄せた。行密の下で徐州節度使を領し、龐師古の南下を防いだ清口の戦いで功を挙げた。
- 行密の死後、子の楊渭が立ち、徐温の子知訓が実権を握ると、瑾は同平章事に任じられたが徐氏父子に警戒された。貞明四年(918年)、瑾は淮寧軍節度使に転出させられ、送別の宴の席で知訓を謀殺したが、衙兵との戦いに敗れて自刎した。屍は市に晒されたが、徐温はのちに瑾の祟りを恐れて礼を尽くして葬り祠を建てた。