舊五代史 御製詩・奏摺・凡例

御製題舊五代史八韻

  • 上は唐室を承け、下は宋を開いた五代の興亡の記録を、詳しく伝えたいと思う。もとこの「舊史」を監修したのは薛居正である。
  • のちに歐陽脩が別に「新書」(五代史記)を撰した。金の泰和年間にはこの新書だけが専ら用いられるようになり、旧史はしだいに散逸していった。
  • 永樂大典にはその文が分かれて収められたが、割裂・錯乱していて、居正らが編んだもとの姿はついに明らかにならなかった。
  • 今、四庫全書の校訂にあたり、詞臣たちが新たな編纂の体制を創り、群儒が条を排纂して、失われた旧編を償い直した。
  • 残った断簡・零縑を丹念に磨き合わせ、璧を合わせ珠を連ねるように体裁よく仕上げた。
  • こうして、すでに埋もれていたものが再び世に顕れることになった。果たして遠い昔の遺産が、広く捜し求めることによって継がれたのである。
  • 二つの史書(舊史・新史)を並び存させる先例は、劉昫の舊唐書に倣うことができる。書が成って御覧に供されたとき、館臣は劉昫舊唐書の例に倣い二十三史に列して学官に刊布するよう請い、許された。
  • 事実の叙述に注力した点では、かつて司馬光にも頼られた。薛史は文筆こそ歐史の謹厳さに及ばないが、叙事はかなり詳細で正確であり、是非の判断も正道を外れておらず、司馬光の資治通鑑も多くこれを採用している。
  • この詩を序として本書の刊行に代え、殷(前代)を鑑とする戒めの思いを、いよいよ長く懐くものである。

刊行を請う奏摺

  • 永樂大典の散らばった片々の中に、薛居正らの五代史の一書があることを謹んで調べた。宋の開寶年間に詔を奉じて撰述されたもので、歐陽脩の五代史より先に成り、文筆は歐陽脩に及ばないものの叙事はかなり詳細で正確であり、是非の判断も正道を外れず、司馬光の資治通鑑も多くこれを採用している。当時は「舊五代史」と称され、歐陽脩の本と並び行われていたが、金の章宗の泰和年間以後、もっぱら歐陽脩の史書だけが学官に列せられ、薛史はしだいに埋もれてしまった。
  • 今、聖主が古を稽え文を右び、散逸した書を網羅されるにあたり、断簡零縑の中からこの書を得て、蒐集・輯録することができた。紀伝の記載は詳備で、史を読む者に大いに裨益するところがある。ぜひ劉昫の舊唐書と並び伝えるべきであり、旧の呼称のまま「舊五代史」と標し、二十三史の列に附して永く伝えるべきである。全書五十八冊・校勘発凡を装訂して謹んで進呈する。
  • 御覧の後、殿版の各史の例に倣って刊刻・頒行するようにとの旨を蒙り、武英殿に交して遵照・辦理させることとなった。あわせて、諸史には元来「原進表文」が付されているところ、この書はその原表がすでに失われているため、別に奏摺一通を擬して書とともに進呈し、旨を得て正式に録し、奏摺とともに巻首に刊すことで体裁を整えたいと申し出た。
  • また、進呈用の繕本には、採輯にあたって各段の下に原書の巻目を注記していたが、これは他の諸史に例のない体裁であるため、刊刻に際してはその注をすべて削除して諸史と体裁を揃え、必ず校訂すべきものだけは案語を加え、各史の例に倣って各巻の後に攷證として附すこととした。
  • これらの次第を併せて上奏したところ、「知道了(承知した)」との旨を得た。

永瑢等の進呈奏摺(乾隆四十年七月初三日)

  • 多羅質郡王・永瑢らが謹んで奏上する。薛居正らが撰した五代史は、もと官撰により宋初に成ったもので、百五十巻の書をもって八姓十三主の事跡を括り、本末が具わり鑑戒とするに足る。一時の文運の衰えを反映してその体格はなお冘弱(軟弱)であるが、千古の興廃の跡を異同あわせて備え、参考に資するに足る。楊大年(楊億)の博識、司馬光の精確さも、みなこれに拠って編纂している。
  • 唐の事を徴する者は、いまなお天福年間に成った旧唐書に頼り、五代を考える者はもっぱら歐陽脩の史書のみを用いるようになったため、この書の逸文はしだいに埋もれてしまった。それがいま皇上が前聞を紹(つ)ぎ群典を網羅され、秘書を発いて讐校し、四庫全書の蒐蔵を広げられたことにより、散佚した篇帙が首尾おおむね備わったまま遺編として遘(あ)うことができた。呵護されて偶然存し得たことは、まさに聖世に表章される時を待っていたと知るべきである。
  • 臣らは総纂官の右春坊右庶子・陸錫熊、翰林院侍讀・紀昀、纂修官の編修・邵晉涵らを率い、代ごとに分けて排列し、文に従って勘訂し、諸家の説を集めてその放失を捜し、衆説を臚(つら)ねてその闕を補い、また完全な書に復した。五代は閏朝(正統でない王朝)に属するとはいえ、その文献は治乱を徴するに足り、鑑とすべきものである。薛史があって事跡の備わりを綜べ、歐史があって筆削の厳しさを昭らかにしており、両者は相輔って行われるべきで、どちらか一方を廃してはならない。
  • 盛世に遭遇して幽光を煥発できたことは裨益がまことに多く、先んじて読める喜びに堪えない。臣らはすでに永樂大典に録された舊五代史を目に依って編輯し、一百五十巻に勒(まと)め、五十八冊に分装し、それぞれ攷證を加えて標簽を粘り進呈する。宮中の秘殿に刊し、学官に頒つことを敬しく請う。七百余年にわたり散佚していたものを捜し出し、二十三史の体裁を広げ、名山の録に著すことは、まさに人間に伝播するにふさわしい。乙夜(夜間の御覧)の観に供し、叡鑒による折衷を仰ぎたい。
  • 乾隆四十年(1775年)七月初三日、謹んで奏上する。

校刻に携わった諸臣の職名

  • 總裁:多羅質郡王・永瑢、経筵講官起居注官武英殿大學士・舒赫德、経筵日講起居注官文華殿大學士・于敏中、工部尚書和碩額駙一等忠勇公・福隆安、経筵講官協辦大學士吏部尚書教習庶吉士・程景伊、経筵講官太子少傅户部尚書・王際華、経筵講官禮部尚書兼管國子監事務・蔡新、経筵講官兵部尚書・嵇璜、経筵講官議政大臣刑部尚書仍兼辦户部侍郎事務管理三庫事務正黄旗滿洲都統總管内務府大臣・英廉、都察院左都御史・張若溎、経筵講官吏部左侍郎・曹秀先、户部右侍郎署正紅旗蒙古副都統總管内務府大臣・金簡。
  • 總纂:右春坊右庶子(後に翰林院侍讀學士に陞任)・陸錫熊、翰林院侍讀・紀昀。
  • 纂修:翰林院編修・邵晉涵。
  • 提調:司經局洗馬・夢吉、翰林院編修・劉錫嘏、翰林院編修・百齡、翰林院檢討・王仲愚、翰林院編修・張燾、翰林院編修・宋銑、翰林院編修・蕭際韶、吏部考功司郎中(後に福建道監察御史に陞任)・章寶傳、吏部文選司員外郎(後に考功司郎中に陞任)・馮應榴。

舊五代史編定凡例

  • 薛史の原書の体例はいま知りがたいが、諸臣列傳の多くが「事は某書に見える」「某書に伝あり」と記していることから、梁・唐・晉・漢・周ごとに断代して書を分けていたことが分かる。陳壽の三國志の体に似ており、晁公武の讀書志も「詔修梁唐晉漢周書」と直称している。今も代ごとに分けて編み直し、旧に復した。
  • 薛史の本紀は舊唐書の帝紀の体に沿い、除授・沿革の大小をみな書き記す。ただ巻の区切りは永樂大典によって割裂されており詳しく考えがたい。原文を精査すると、一年のうちに二度紀年する例(同光元年春正月の下に、また同光元年秋七月と書く類)があり、七月以後を別の一巻とすべきだと分かった。これは舊唐書・資治通鑑もなお沿う体裁である。今、本紀六十一巻に編み定め、玉海に載る巻数と符合させた。
  • 薛史の本紀はほぼ全て備わっているが、梁太祖紀だけは原帙がすでに闕けており、諸書に散見するものはわずか六十八条にすぎない。今、冊府元龜など諸書が薛史を引く箇所を条ごとに採り集め、魏澹の書や高氏小史で北魏書を補った前人の例に倣い、年月に従って条を繋ね、七巻に釐定して補った。
  • 五代の諸臣は多くが数朝に歴事しており、首尾が牽連して分析しがたい。歐陽脩の新史は始終一朝に従った者を梁・唐・晉・漢・周の各臣傳に入れ、数代にまたがる者は別に雑傳を立てて褒貶を明らかにしており、史法として最も理に適う。薛史はただ代ごとに分けて立傳するのみで、一朝に専事した者と数姓に事えた者とを錯雑させて列べており、賢否が混淆し、体裁として乖っている。これは薛史が歐史に及ばない一端であるが、篇に論賛が付いて諸人を総叙している場合は割裂し難く、いまも旧のままにして参考に備えた。
  • 后妃列傳は永樂大典の中で周の后妃傳だけが全帙具存し、他は多く残闕している。今、五代會要・資治通鑑・契丹國志・北夢瑣言などの諸書によって闕を補い、双行の分注として本文と混同しないようにした。
  • 宗室列傳も永樂大典の所載に脱闕が多く、今すべて冊府元龜・資治通鑑注などの諸書によって采補した。諸臣列傳中に偶々闕文がある場合もこの例に倣った。
  • 諸臣列傳のうち史臣の原論があるものは、その論の中の次第に依って排比した。原論がすでに失われている場合は、その人の事跡を考えて類によって分編した。
  • 薛史の標目には、李茂貞らを「世襲傳」と称するものが永樂大典の原文に見え、楊行密らを「僭偽傳」と称するものは資治通鑑攷異に見える。今はすべてこれに依り、その旧に復して編類した。
  • 薛史の諸志は永樂大典の中に若干の残闕があるため、太平御覽が引く薛史によって増補し、なお五代會要などの諸書を分注して参考に備えた。
  • 紀傳中に載る遼代の人名・官名は、すべて遼史の索倫語解に従って改正した。
  • 永樂大典に載る薛史の原文には字句の脱落や音義の錯誤が多い。今、通鑑攷異・通鑑注・太平御覽・太平廣記・冊府元龜・玉海・筆談・容齋五筆・青緗雜記・職官分紀・錦繡萬花谷・藝文類聚・記纂淵海などの、薛史を先代に引いた諸書によって参互校訂し、詳備を期した。
  • 史家の記す事跡は伝わるうちに互いに異なり、それぞれに錯誤がある。今、新舊唐書・東都事略・宋史・遼史・續通鑑長編・五代春秋・九國志・十國春秋、および宋人の説部・文集、なお現存する五代の碑碣によって詳しく考核し、それぞれ案語を加えて弁証の資とした。
  • 陶岳の五代史補、王禹偁の五代史闕文は、もと薛史の闕を補うために作られたもので、事は瑣砕でも史学に裨益するところがあり、資治通鑑や歐陽脩の史書も多くこれを取っている。今も裴松之の三國志注の体例に倣い、附して後に見せた。
  • 薛史と歐史とではしばしば内容が合わない。例えば唐閔帝紀では薛史は「明宗の第三子」とし歐史は「第五子」とするが、五代會要と資治通鑑を考えるといずれも薛史と同じである。また歐史唐家人傳は太祖の弟四人(克讓・克修・恭・克寧)についてその父母の名号を知らないと言うが、薛史宗室傳によれば克讓は仲弟、克寧は季弟、克修は従父弟で父は徳成、克恭も諸弟の一人であって、父母不明とは言えない。晉家人傳も出帝が皇后馮氏を立てたとだけ記すが、薛史紀傳によれば馮氏が立てられる前に張氏を追冊して皇后としており、歐史はこれを載せていない。また張萬進は「守進」の名を賜ったため薛史本紀は先に萬進、後に守進と書くが、歐史は賜名の一事を削ったため、前後があたかも別人のようになっている。ほかにも年月の先後・官爵の遷授に食い違いが多く、今すべて弁証し詳しく案語を加えて折衷を示した。
  • 歐史の改修はもと薛史を本としているが、改易にあたって筆が誤ったところもある。章如愚の山堂攷索が指摘するように、梁が使者を京師に遣わした記事について紀では朱友謙、伝では朱友諒とするなど食い違いがあり、楊涉が梁で三度相となり三度罷めたことも歳月の記載が実際と異なる。末年に相となったことも、罷めたことだけを書いてその後の入朝の歳月を記さず、唐明宗の在位七年余りを論賛では十年とする類がこれにあたる。一方、呉縝の五代史纂誤が指摘するように、歐史杜曉傳の「幅巾自廢」を十余年とすべきでないのに十余年とし、羅紹威傳の「牙軍相繼」を二百年とすべきでないのに二百年とする類は、薛史の旧に沿ったまま改められなかった例である。今もそれぞれに弁訂を各巻の後に加え、二史の異同・得失の由来を読者が考見できるようにした。