世祖(順治帝)の誕生
- 春正月甲午、後の世祖章皇帝が誕生。太宗の第九子で、母は永福宮荘妃(後の孝荘文皇后)であった。
喀爾喀親征
- 二月丁酉、太宗は喀爾喀を親征。先に帰化城駐守の土黙特左翼部長古禄格が、喀爾喀部の扎薩克図汗(賚瑚爾)が兵と家口を率いて城周辺に駐営し侵犯の恐れがあると報告していた。
- 太宗は篤恭殿で諸王大臣に出征準備を命じ、豫親王多鐸・武英郡王阿済格・郡王阿達礼・貝勒岳託らを率いて出発。礼親王代善・鄭親王済爾哈朗・睿親王多爾衮・安平貝勒杜度・饒余貝勒阿巴泰らが瀋陽留守を務めた。
- 途上、科爾沁・扎賚特・奈曼・敖漢・扎嚕特・阿嚕科爾沁・四子・茂明安・巴林・翁牛特など多数の部長が兵を率いて来会し駝馬を献じたが、太宗はこれを辞退して行軍を続けた。
- 癸丑、拜賽が帰化城から戻り、扎薩克図汗が大軍来襲を聞き正月三十日に慌てて逃走したと報告。太宗はなお近隣に潜伏する可能性を疑い、さらに捜索を命じた。
- 壬戌、勞薩・錫特庫らを遣わし、明の宣府官員に対し書を送った。かつて察哈爾親征時に和議を結び互市を認めたにもかかわらず、以後音信が絶えたため甲戌の役(1634年の侵攻)に及んだ経緯を述べ、今回喀爾喀の地に進軍しているが、和を望むなら市を開き、逆らうなら朝鮮・モンゴル諸軍と共に略奪する旨を通告した。
- 三月、扎薩克図汗が遠方へ逃走したことを確認し、王貝勒以下に帰化城での貿易を許した。勞薩らが途中でモンゴルの碩雷の使者と遭遇し馬・駝を得たが、清への服属者を安易に釈放したことを太宗に咎められた。
新附の烏珠穆沁部の饗宴
- 辛酉、新たに帰属した烏珠穆沁部車臣済農(多爾済)らを饗宴。太宗の恩恵を慕い一族を率いて帰順し、多原で来会。太宗は自ら黄幄に出て拝天の礼を行い、大宴と較射・角觝を催し、甲冑・雕鞍・弓矢・銀幣を賜って帰らせた。同時に来会した阿巴噶部・蘇尼特部・浩斉特部の首長らも朝見し駝馬を献じた。
卦勒察征討の捷報
- 夏四月甲午朔、卦勒察征討の諸将が捷報を奏した。先に太宗は大草灘で狩猟中、葉克舒・星訥を左右翼大臣として兵600を卦勒察征討に派遣、薩哈勒察で男640・家口1720・馬156・牛104を獲得したと奏した。太宗は両翼大臣・従征将士に衣服・銀両を賞した。
都爾弼城の修築と屏城への改称
- 庚子、都爾弼城を屏城と改称。先に太宗は睿親王多爾衮に築城地の選定を、饒余貝勒阿巴泰に八旗の工兵動員を命じていた。後に城が小さすぎることを案じ、遼陽城とあわせ規模を拡張するよう指示し、完成後「屏城」と改め安辺門・広辺門の額を賜った。
瀋陽への帰還
- 乙巳、瀋陽へ帰還。三月に多原から班師し、途中で科爾沁・奈曼・敖漢・扎嚕特・四子・翁牛特・巴林・茂明安など諸部の王貝勒に貂裘・鞍馬・衣服を賜り宴を催した。会議での勤労を評価された翁牛特部の塞内琿津には扎爾固斉の号と豹裘・緞布を賜った。遼河・盛京付近の新築城壁を巡視し、外攘門から還宮した。
戸部の年終考核制度と汚職事件
- 丁未、戸部の年終考核制度を定めた。先に都察院承政祖可法・張存仁らが戸部承政韓大勲の官庫金銀横領を弾劾、実証されて処刑された。両人はさらに戸部に定期的な帳簿検査制度がなく監督責任も不明確であることが不正の温床になっていると指摘し、年終ごとの四柱清冊による考核制度を建議、太宗はこれを嘉納した。あわせて吏部・刑部が贓吏を再任用していた問題も弾劾された。
道路の修治
- 五月癸酉、睿親王多爾衮・饒余貝勒阿巴泰に瀋陽から遼河に至る大路の修治を命じ、両側に濠を掘り土を盛り上げる工事を八旗・八家の甲兵に課し、羊600頭を犒労とした。
理藩院の設置
- 六月庚申、モンゴル衙門を改めて理藩院とし、モンゴル諸部の事務を専管させた。土黙特部の古禄格ら22人にそれぞれ品級に応じた世職を授け、理藩院の印信を鋳造した。
諸王大臣への訓戒
- 秋七月壬戌朔、太宗は希福・剛林らを通じて、親王・郡王・貝勒等の名号・等級の定制が守られていない現状を指摘し、金の太祖・太宗兄弟が一致協力して大業を成した故事を引き、体制遵守を厳しく求めた。諸王は謹んで奉行すると誓った。
喀爾喀使臣の帰還
- 丁夘、喀爾喀扎薩克図汗の使臣達爾漢囊蘇喇嘛らを帰還させた。太宗は「兵を以て有罪を討ち、徳を以て無罪を撫する」との方針を述べ、察哈爾汗の子を厚遇している例を挙げつつ、喀爾喀が帰化城への侵犯を企てたことを戒め、金・遼・元三朝の版図の広大さに触れて清の実力を誇示、なお使者には害を加えないと告げた。
沈志祥の帰順
- 壬申、新たに帰順した明の総兵官沈志祥を召見。先に崇徳二年九月、太宗は瑚球・蔡永年らを遣わし沈志祥に招降の書を送っていた。志祥は皮島の乱を脱して残兵を集め、明の監軍・副将を殺害し陳洪範の兵を奪った経緯があり、太宗は明への帰路がないことを説いて投降を促していた。
- 崇徳三年二月、志祥は部将を遣わし瀋陽に投降を申し出、副将以下将士・家属あわせて4千余人を率いて安山城で出迎えを受け、鉄嶺・撫順のいずれかへの居住を許され撫順を選んだ。逃亡が相次いだため太宗は重ねて手厚く諭し慰撫、崇政殿で朝見・宴を賜り、蟒衣・玉帯・鞍馬などを下賜した。
礼部への禁令の申明
- 丁丑、太宗は礼部に対し等威を明らかにする制度の厳格な運用を命じ、王貝勒・官員・庶民それぞれの違反に応じた処罰基準を定めた。他国の衣冠・婦人装束を模倣する者は重罪とした。
- 都察院承政張存仁・祖可法に対しては、礼部承政祝世昌の上奏(陣獲した良民婦女を楽戸に売ることを禁じる建議)が既に禁止済みの事項の蒸し返しであったことを指摘し、満洲・モンゴル・漢人が互いを庇い合うことなく公正であるべきと諭した。
- 親王郡王貝勒貝子には、下位者の困窮や冤罪を積極的に上申するよう求め、賞罰の公正を強調した。
- 大学士希福・剛林・羅碩らには、漢文帝が費用を惜しみ台の建設を止めた故事を引きつつ、それも虚名を求める空言にすぎないとし、財を惜しまず困窮者を養うことこそ肝要だと説いた。
- 侍臣らには、大臣として国事に直言すべきを怠り、罪を得た者を後から非難するだけの姿勢を戒めた。
- あわせて新旧満洲・モンゴル・漢人に対し、妻を娶れない者・馬を買えない者は本管の章京から順を追って訴え出るよう命じ、隠匿した官には罪を科すとした。
六部・院の官制改定
- 丙戌、六部・都察院・理藩院の官制を改定。それまで承政が各衙門3、4員置かれていたのを、范文程・希福・剛林らの建議により各衙門満洲承政1員とし、以下左右参政・理事官・副理事官・啓心郎・主事の五等に整理した。
- 睿親王多爾衮の主導で、吏部承政に阿拜、戸部承政に英固爾岱、礼部承政に満達爾漢、兵部承政に伊遜、刑部承政に郎球、工部承政に薩木什喀、都察院承政に阿什達爾漢、理藩院承政に貝子博洛をそれぞれ任じ、多数の左右参政・理事官以下を配置した。