皇清開國方略太宗文皇帝 天聰六年 1632年(正月〜三月)
春正月己亥朔 朝儀の改定
- これまで大貝勒代善・三貝勒莽古爾泰は太宗と並んで南面に座していたが、莽古爾泰が大凌河従軍中に酔って貝勒徳格類を刀で威嚇した罪で降格されて以降、並座の扱いが問題となった。礼部参政李伯龍が朝賀の際の序列の乱れを正すよう上奏したのを機に、代善は「我らが上に居て並び座るのは心安からず、以後は上のみ南面中座とし、我らは側に侍座する」と提案し、衆議一致でこれを定めた。
- 以後の朝賀では、八旗諸貝勒を一班とし、外藩蒙古諸貝勒、満洲・蒙古・漢軍大臣以下文武百官、管旗大臣・領纛大臣・副将以下が旗分・品級に従って序列した。元旦の儀では、太宗が代善以下諸貝勒を率いて天と神に拝礼した後、代善・莽古爾泰の座を両脇に設け、諸貝勒・外藩蒙古貝勒・総兵官額駙佟養性・八旗大臣・大凌河降将・阿嚕科爾沁部台吉・朝鮮貢使らが順に朝賀の礼を行った。
癸丑 陣亡将士への恤賞例の制定
- 陣亡者への恤銀を等級ごとに細かく定めた(一等副将八百二十両から旗校什長二百両、無職百五十両など)。臨陣で退縮した部隊の陣亡者は恤銀を半減し、退縮後に再び進んで戦死した者は三分の一減とするなど、退縮の状況に応じた差も設けた。負傷者への賞銀も等級ごとに定めた。
- 大凌河で陣亡した副将穆克坦・遊撃綽和諾・備禦阿爾岱らはそれぞれ一等副将・一等参将・三等参将を追贈され、子や兄弟が職を襲った。
演砲の褒賞と六部大臣への訓諭
- 癸亥、総兵佟養性が督造した紅衣砲の演習を太宗が親閲し、軍容の整粛と大凌河での戦功を賞して雕鞍・良馬・銀両を副将石廷柱・石国柱ら諸将に、また相撲に秀でた侍衛蒙古人三人にも布庫の号と豹裘・虎裘を賜った。
- 太宗は六部大臣に対し、官を設けるのは政を治め太平を佐けるためであると説き、自らや諸貝勒が民の婦女・財貨・良馬を強取するような事があれば直ちに諫言するよう命じた。
二月戊子 城守官考察例と儀仗の制
- 前年十二月に定めた各屯堡の兵の強弱査察に続き、海州・耀州・東京・薩爾滸など諸城の守将は三年の任期満了ごとに瀋陽で功罪を考察し、賞罰を行った上で原任地へ戻す制を定めた。
- 礼部が定めた行幸儀仗の制(大貝勒は繖一柄まで、諸貝勒は繖一柄・校尉二人など)に反し、太宗自身が儀仗なしで出行したことが発覚すると、太宗は自ら羊を礼部に納めて過失を認め、痘瘡を避けるための外出には以後儀仗を用いないと定めた。
- 太宗は文館の諸臣に、副将高鴻中が古人の過失を引いて上奏したことを戒め、元太祖の第二子察罕岱が檉柳の鞭を自らの創意と誇った故事(実は先帝の刀があってこそ削れたものだと臣下に諫められた話)を引き、国の諸制度は先帝の創業によるものであり、安易に前人を非難せず現在の過失を正すべきだと諭した。あわせて刑部の諸臣に、賭博が財を耗し盗賊の温床となるとして、飲食を賭す以外の金銭・物品の賭博を禁じた。
三月戊戌朔 大凌河降将への婚姻・恩賞
- 兵部を管掌する貝勒岳託は、大凌河の漢人を厚遇して天下に清の徳を示すべきだとし、一品官には諸貝勒の娘を、二品官には諸大臣の娘を娶らせて公帑で婚資を賄うこと、明の兵士の多くは無業の流民であるから漢人の寡婦を娶らせ、あるいは八貝勒配下の荘頭・商賈の娘を娶らせて生業を立てさせるべきだと上奏し、太宗はこれを容れた。
- 戸部には、大凌河の漢人を副将下各五十名・参将下各十五名・遊撃下各十名の割合で瀋陽へ移住させ、国中の婦女千人を分配し、残りは諸貝勒大臣が数人ずつ引き取って妻を配するよう命じた。副将張洪謨・祖可法・祖澤洪・曹恭誠・劉天禄・張存仁ら多数の降将に縀疋・銀両・雕鞍・器具などを賜った。