皇清開國方略太祖髙皇帝 按語(戊午年の清河攻略と辺事に関する考証)

史論(臣等謹案)

  • 明臣黄道周の『博物典彙』は次のように伝える。太祖が清河を破る前日、両貝勒が張総兵と夜通し酒宴を交わし、酔った張が国の威徳を誇ったところ、両貝勒は微笑んで別れた。翌日、貂参の荷車数十台を城内に入れると、貂参の荷が尽きたところで軍容が露見し、城門を制圧して騎兵を引き入れた。ゆえに清河の陥落は撫順よりも速く、その後の遼陽・広寧の陥落も、根本には中国側の自壊があり、建州の善戦のみによるものではないという。
  • 臣等が謹んで『実録』を読むに、清河の戦いでは城上の礟手千余が一斉に矢石を浴びせたが、我が兵は刃を恐れず飛び越えて登城したとあり、黄道周の言う「荷車が尽きて軍容が露見し城門を制圧した」という記述とは事情も難易も大きく異なる。おそらく伝聞の違いによるものであろう。また「張総兵」とあるのは張承蔭かと考えられるが、承蔭は四月庚戌にすでに撫順の戦いで戦死しており、清河の陥落はその三月余り後であるから、前夜に酒宴を共にしたのは承蔭ではあり得ない。当時、承蔭と同姓同官の者も他になく、道周の記述の典拠は確認しがたい。
  • ただし「いかなる策で防ぐか」との一問や、「必ずしも善戦善攻のみで得たのではない」という一節は、かえって太祖髙皇帝の軍が水火の民を救う「時雨の師」として各地に招徠されたことを示すものであり、漢唐の創業のように武力のみで勝ったのではないという事実が、道周自身気づかぬままにその言葉ににじみ出ている。おおむね明人は議論を好み実際を精査しない傾向があり、辺事や我が朝についての言説は道聴塗説によることが多い。長白山の地勢を全く誤認した顔季亨の「九十九籌」のような妄説も数多い。『博物典彙』も明臣鄭曉らの記録と同様、必ずしも事実に合致しないが、時事を論じた部分は明側の言葉でありながら、髙皇帝が天に順い人に応じた顕謨・春秋の大義をかえって裏付ける証左となるため、ここに採録し、異説の紛れをもって千古の是非の真を明らかにするものである。