皇清開國方略太祖髙皇帝 己亥年 1599年

呼爾哈路の来朝

  • 東海窩集部の呼爾哈路長旺格・彰格が百人を率いて来朝し、黒白紅三色の狐皮・黒白二色の貂皮を献じた。以後、呼爾哈部は定期的に朝貢するようになり、路長博濟哩は婚姻を願い出て太祖の大臣の娘六人が六人の路長に嫁いだ。

満洲文字(国書)の創制

  • それまで満洲では公文書に蒙古文字・蒙古語を用いていたが、太祖は巴克什額爾徳尼・噶蓋に命じ、蒙古字を借りて満洲語の文章を綴れるようにした満文を創制させ、国中に頒布した。

哈達国の平定

  • 哈達貝勒蒙格布禄は葉赫貝勒納林布禄との抗争に敗れ、三子を人質として太祖に援軍を求めた。太祖は費英東・噶蓋に二千の兵を与えて哈達に駐防させたが、納林布禄は明の開原の通事を通じて蒙格布禄を誘惑し、清の二将を捕らえて二千の援軍を殲滅するよう仕向けた。この謀計が発覚し、太祖は自ら親征。婿の舒爾哈斉が先鋒を志願するも渋る場面もあったが、太祖自ら攻めて城を落とし、大将揚古利が蒙格布禄を生け捕った。太祖は殺さず貂帽・豹裘を賜り、哈達の民を編入して哈達国を平定した。蒙格布禄は後に謀反が発覚して誅されている。
  • 太祖は明の要求により蒙格布禄の子武爾古岱に哈達を統べさせたが、葉赫の侵掠と飢饉により哈達の民が困窮したため、太祖は再び哈達の民を引き取り養い、武爾古岱には公主(太祖の娘)を娶らせた。
  • 哈達国の淵源(呼倫国姓納喇、始祖納齊布禄からの系譜、万汗の代の強盛と暴政、その後の内紛による衰亡)についても詳しく記される。