皇清開國方略 巻一編者按語(建州考証)

明側史料との照合

  • 編者(阿桂ら)は、明の黄道周『博物典彙』「建州攷」を引用し、建州(後の満洲)が金の別部・元代の軍民万戸府に遡り、永楽年間に建州衛が設置されて以来の明・建州関係の推移を紹介する。
  • 正統年間の建州衛内紛(也先の乱による都督の被害、印章紛失、左右衛分立)、成化年間の明軍による建州襲撃(撫寧侯朱永・都御史李秉らの遠征)、その後の朝貢関係の断続、大璫汪直による再度の討伐(巡撫陳鉞の献策)などの経緯を紹介する。
  • 明臣鄭暁『今言』も引用し、遼東巡撫於敖の減賞策や胡宗明による殺戮事件が建州の明への恨みを深めた背景として記される。

顕祖の死をめぐる異説の検討

  • 黄道周は、建州都指揮王杲が明将裴承祖らを誘殺した後、李成梁が討伐を図るも制しきれず、顕祖宣皇帝に討伐を依頼したこと、その際、李成梁が顕祖の風貌を怪しみ火攻めの計略で顕祖を陥れて殺害したことを記している。当時太祖はわずか四歳で、李成梁は顕祖の功を隠しきれずこれを厚く弔い、太祖兄弟を養育したとする。
  • 編者は、この明側の記録(黄道周・鄭暁)が清側の実録と符合し、太祖が父祖の讐を明が引き起こしたことを一日も忘れなかった事情を裏付けるとし、太祖が三十二年もの間、明との和好を保ちながら反省を待ち、ついに己を得ずして「七大恨」を布告するに至った経緯の正当性を強調して結ぶ。