長白山と三江の由来
- 長白山は高さ二百余里、周囲千余里に及び、山頂の闥門潭を源として鴨緑江(南西へ流れ遼東の南海に至る)・混同江(北へ流れ北海に至る)・愛滹江(東へ流れ東海に至る)の三大河が発する。山は真珠や奇木霊薬を産する霊地とされる。
天女朱果伝説と始祖の誕生
- 長白山東方の布庫哩山下、布勒瑚里池に天女三姉妹(恩古倫・正古倫・佛庫倫)が沐浴した際、神鵲が朱い果実を運んで末女佛庫倫の衣に置き、それを口に含んだところ腹中に入って懐妊したとする。
- 佛庫倫は姉たちに先立たれて一人地上に残り、男児を産む。生まれながらに言葉を話し、容貌が尋常でなかったこの子に、母は朱果懐妊の由来を告げ、「愛新覚羅」の姓と「布庫哩雍順」の名を与えて天命により乱を治めるよう命じ、天に還った。
三姓の争乱平定と俄朶里城建国
- 布庫哩雍順は舟で川を下り、柳と蒿で座を作って上陸する。当時、争って首長の座を巡り殺し合っていた三姓の民が、水汲みに来た者の目撃談を聞いて彼を天が遣わした人物と信じ、迎えて貝勒に推戴した。乱はこれによって鎮まり、長白山北方の俄朶里城を都とし、国号を「満洲」と称したのが建国の始まりとする。
磬棲の危難と徳鵲の言い伝え
- 数世の後、民を撫することの拙い首長が国人に叛かれ殺害され、その幼子が荒野に逃れた際、追手が及んだところに神鵲が首に止まって枯木と見誤らせ難を逃れさせたという逸話があり、これ以降子孫は鵲に害を加えぬよう戒めたとする。
肇祖以降の系譜
- 数伝を経て肇祖原皇帝(智略に富み、恢復を志とした人物)が、先祖の讐敵の子孫四千余人を蘇克素護河の呼蘭哈達で討ち、半数を誅して恨みを雪ぎ、残り半数を捕らえて旧業を取り戻した後に釈放したとする。
- 肇祖は俄朶里城の西一千五百余里にある赫図阿拉(後の興京)に居を移す。肇祖の子が興祖直皇帝、興祖の三子の一人が景祖翼皇帝の父、興祖には六子(徳世庫・瑠闡・索長阿・景祖翼皇帝・寶朗阿・寶実)があり、それぞれ赫図阿拉近隣に五城を分築して「寧古塔貝勒」と呼ばれたとする。
- 景祖には五子(禮敦・額爾衮・齋堪・顕祖宣皇帝・塔察)があり、当時強盛を誇った近隣の碩色納・嘉呼両氏族を、景祖と長子禮敦が率いる軍勢で討滅し、蘇克素護河西方一帯を服属させて国勢を広げたとする。
- 顕祖の嫡妃喜塔喇氏(宣皇后、阿古都督の女)が三子(長男が太祖高皇帝、次男舒爾哈斉、三男雅爾哈斉)を生み、太祖は己未年(明嘉靖三十八年、1559年)、母の十三カ月の懐妊を経て誕生したとする。顕祖には他に継妃納喇氏の子巴雅喇、庶妃の子穆爾哈斉がいる。
太祖の幼少期と人物評
- 太祖十歳で生母宣皇后を失い、継妃納喇氏の薄い扱いを受けて十九歳で分家、独り薄い産しか与えられなかったが、顕祖は太祖の才徳を見込み厚遇し、諸弟にもそれを譲らせたとする。
- かねてより「満洲に聖人が出て乱を平定し帝位に就く」との人相見の予言があったことに触れる。
- 太祖は龍顔鳳目、体格雄偉、声は洪鐘のごとく、威儀重く、騎射に抜群であったため、国人はこぞって彼を「聰睿貝勒」と称したとする。