皇清開國方略太祖髙皇帝 甲申年 1584年

兆嘉城攻略と理岱の捕縛

  • 当時、満洲各部(蘇克素護河部・渾河部・完顔部・棟鄂部・哲陳部など)は互いに攻伐を繰り返していた。
  • 癸未年六月、覚爾察城など四城の族人が太祖の武勇を妬み夜襲を企てたが、犬の警戒で難を逃れた。
  • その後、渾河部兆嘉城の理岱が哈達万汗の兵を借りて瑚済寨を襲撃したが、太祖の部将安費揚古がこれを撃退した。
  • さらに賊が夜間に太祖の居所を襲おうとしたが、犬が吠えて知らせ、太祖自身が刀で威嚇して撃退した(近侍帕海がこの夜に落命)。
  • 太祖は大雪の中、周囲の反対を押し切って兆嘉城を攻め、理岱を捕らえたが、殺さず養った。

瑪爾墩寨攻略

  • 太祖の妹婿噶哈善哈斯瑚が龍敦の一族に殺害された報復として、太祖は自ら遺骸を収め、単身で敵地に赴いて骨を回収する胆力を示した。
  • その後、瑪爾墩寨(哲陳部)を攻め、盾を用いた強襲戦術で城主納申の顔面を射抜き、四日間の包囲の末に落城させた(納申・完済翰は界藩へ逃亡)。

棟鄂部翁鄂洛城攻略

  • 縁組を巡る誤解から章嘉城の阿哈納家と棟鄂部克徹巴延家が対立し、周辺勢力の讒言も絡んで棟鄂部が寧古塔貝勒の東南二路を侵掠する事態となった。太祖の一族はやむなく哈達万汗に助勢を頼み、勢力が弱まっていた。
  • 完顔部からの援軍要請を機に、太祖は棟鄂部の内紛に乗じて自ら五百の兵を率い出撃。翁鄂洛城を攻めた際、城中の鄂爾果尼・洛科の矢を受けて頭部・首を負傷しながらも戦い続け、ついに落城させた。
  • 太祖は自分を射た鄂爾果尼・洛科を「各々その主のために戦っただけ」として殺さず、逆に牛录を与えて厚遇した。