図倫城討伐の発端
- 蘇克素護河部図倫城の尼堪外蘭が明の寧遠伯李成梁と結び、古哷城主阿太章京・沙済城主阿亥章京を攻めさせた。阿太章京の妻は景祖の長子禮敦の娘であったため、景祖は顕祖と共に孫娘を救おうと古哷城に赴いた。
- 明軍は古哷城を包囲したが落とせず、尼堪外蘭に責任を押し付けようとしたところ、尼堪外蘭は城内へ偽りの降伏を呼びかけ、城兵に阿太章京を殺させて開城させた。しかし李成梁は降伏した城民を皆殺しにし、この混乱で景祖・顕祖も命を落とした。
太祖の挙兵と明との交渉
- 太祖は祖父・父の死を知って激怒し、明の辺吏に尼堪外蘭の引き渡しを要求した。明は「誤って殺した」として敕書・馬匹・都督敕書を与えたが、尼堪外蘭を引き渡さず、逆に嘉班に築城させて満洲国主に立てようとした。
- 国人はこれを信じて太祖を恐れ離反しかけ、尼堪外蘭からの勧誘にも太祖は「わが父を殺させた仇敵に従えるか」と拒絶した。
- 薩爾滸城主諾密納の兄卦喇が尼堪外蘭に讒言されて明に処罰された事件を機に、諾密納・噶哈善哈斯瑚・常書・揚書らが太祖に通款した。太祖は牛を祭って天に盟い、祖父・父の恨みを晴らすべく遺された十三副の甲で挙兵を決意した。
- 癸未年五月、太祖二十五歳、諾密納との合流の約束は和洛噶善城索長阿の子龍敦の妨害で破られたが、太祖は単独で図倫城を攻め、尼堪外蘭は嘉班へ逃亡した後、太祖はこれを落として帰還した。
薩爾滸城諾密納・鼐喀達の誅殺
- 尼堪外蘭は再び嘉班から撫順所方面の河口台へ逃げたが、明の辺吏に阻まれて入境できず、太祖はこれを明の助勢と誤解して兵を退いた。
- 後に、諾密納・鼐喀達が事前に密告して尼堪外蘭を逃がしたこと、さらに彼らが渾河部の土地割譲を条件に太祖の通行を妨げようとしたことが発覚。太祖は激怒し、噶哈善哈斯瑚・常書・揚書と諮り、諾密納に偽って合流を約束し、巴爾達城攻めの際に武器を騙し取って諾密納・鼐喀達を捕らえ処刑した。逃散した部衆の多くは後に帰順した。