高士傳卷三 姜岐

出自と学問

  • 姜岐は字を子平といい、漢陽上邽の人である。若くして父を失い、母と兄とともに暮らし、『書』『易』『春秋』を修めた。恬淡として道を守り、その名は西州に重んじられた。

橋玄との対立

  • 延熹年間、沛国の橋玄が漢陽太守となり、岐を召して功曹にしようとした。岐は病と称して応じなかった。玄は怒り、督郵の尹益に命じて岐を捕らえさせ、「もし起たなければその母を嫁がせてから岐を殺せ」と命じた。益がこれを諫めると、玄は益に怒り、これを鞭打った。
  • 益は杖を受けながらもなお諫めて言った。「岐は若くして孝義を修め、庵に身を寄せて隠棲し、郷里の人望は仁に帰しています。その名は州里に知られ、実に罪はありません。私は死をもってこれを守ります。」玄は怒りを収め、事は止んだ。岐の高名はこれによってますます広まった。

隠居後の暮らし

  • 母が死に喪礼を終えると、平水の田をことごとく兄の岑に譲り、隠居して養蜂と養豚を業とした。教えを受ける者は天下に満ち、業を営む者は三百余人に及んだ。
  • 州の従事に招かれても赴かず、岐に従ってその地に居住する民は数千家に及んだ。後に賢良に推挙され、公府から茂才として辟召され、蒲阪の令ともされたが、いずれも応じず、自宅で天寿を全うして没した。