出自と学風
- 法真は字を高卿といい、扶風都の人である。学問に定まった師系を持たず、内外の典籍広くに通じ、関西では大儒と称された。弟子は遠方から負笈して集まり、常に数百人に及んだ。
- 真は性質恬静で欲少なく、世間のことに関わろうとしなかった。
太守との応答
- 太守が真に会おうとしたとき、真は幅巾姿で謁見に赴いた。太守は言った。「昔、魯の哀公は不肖であったが、孔子はなお臣を称した。太守は徳の薄い身ながら功曹の職で貴殿を煩わせ、本朝を輝かせたいと思うが、いかがか。」
- 真は答えた。「明府が礼をもって遇してくださるゆえ、あえて賓客の末席に連なる次第です。もし吏として用いようとされるなら、私は北山の北、南山の南へ去るまでです。」太守は恐れ入り、二度と言い出せなかった。
- その後、公府や賢良への招聘が幾度もあったが、いずれにも応じなかった。
田羽の推薦と四度の徴召
- 同郡の田羽は真を推薦して言った。「処士法真は四業を兼ね備え、学問は経典の奥義を極め、幽居して恬淡とし、道を楽しんで憂いを忘れています。老子の高い足跡を踏もうとし、玄纁の礼をもってしても屈しません。陛下が官職を授ければ、必ずや清廟の歌を唱え、鳳凰を招き寄せるでしょう。」
- 順帝が西巡した際、田羽は再び真を推薦した。帝は虚心に招こうとし、前後四度徴召したが、真は「私は既に俗世を離れて隠れることができずにいるが、どうして許由が耳を洗った水を飲むような真似をしようか」と述べ、深く自らを隠し通し、最後まで屈しなかった。
評価と晩年
- 友人の郭正は真を称えて言った。「法真の名は聞くことができても、その人に会うことは難しい。名を逃れようとすればするほど名が付きまとい、名を避けようとすればするほど名が追ってくる。まさに百代の師と言うべきだ。」人々は共に石碑を刻んでその徳を頌え、玄徳先生と号した。
- 八十九歳、中平五年(188年)に天寿を全うして没した。