國語周の言行録(下)(周語下)

單襄公論晉將有亂

  • 柯陵の会に際し、単襄公は晋の厲公が遠くを見つめ足を高く上げて歩くのを見た。晋の郤錡は物言いが人を犯すようで、郤犫は物言いが迂遠で人を誣いるようで、郤至は物言いが自らの功を誇るようで、斉の国佐は物言いに歯に衣着せぬところがあった。魯の成公は晋の内紛や郤犫の讒言について語った(魯の成公が会に遅参したのは、母穆姜の企てで公子偃・公子鉏を排除しようとする混乱に巻き込まれたためだが、郤犫はこれを讒言し、晋侯は成公に会おうとしなかった)。
  • 単子は魯侯に「憂うることはありません。晋には乱が起こり、その君主と三郤(郤錡・郤犫・郤至)がその報いを受けるでしょう」と告げる。魯侯が「天道によるものか、人事によるものか」と問うと、単子は「私は瞽・史ではないので天道は分からないが、晋侯の姿と三郤の言葉を見聞きするに、禍が近いと思われる」と答える。
  • 君子は目で体の在り方を定め、足がそれに従うものであり、姿を見ればその心が分かる。義(宜しさ)は目に、徳の道は足の歩みに表れるのに、晋侯は目が遠くを見て足だけが高く上がり、目と体が一致していない。心が定まっていないということであり、これでは長く保てない。諸侯の会は国の大事であり、そこでの立ち居振る舞い・言葉・視線・聴聞のすべてに過ちがなければ徳が備わっているとわかるが、晋侯は視線と歩みの二つを既に失っている(=「爽」=過っている)。これらのうち二つを失えば咎めがあり、四つすべてを失えば国が滅ぶ、と単子は説く。
  • さらに郤氏一族は晋で寵愛され、三卿・五大夫を出す名門であり、これほどの高位はかえって危うい。犯し・誣い・誇るという三様の言葉遣いは、それぞれ人を陵ぎ、人を欺き、人の美を覆い隠す行為であり、寵愛に加えてこの三つの怨みを買えば誰も耐えられまい、と述べる。斉の国佐も、乱れた国で歯に衣着せず人の過ちを指摘するので、いずれ禍に巻き込まれるだろうという。
  • 一方、国の徳が修まっていない隣国(斉)と隣り合っていれば、いずれ福を受けることになる、として、魯にとって晋・斉の禍は覇権を得る機会になり得るが、無徳であることの憂いだけは別問題であるとも述べる。また魯の叔孫僑如(母の情人)については、利を貪って義を欠く者であり、放逐すべきだと示唆した。
  • 魯侯は帰国後、僑如を追放した。簡王十二年、晋は三郤を殺し、十三年には晋侯自身が殺され、翼の東門外に車一乗のみの簡素な葬儀で葬られた(本来七乗が礼だが不十分な葬儀にとどめられた)。同じ頃、斉でも国佐(国武子)が殺された(斉の慶尅が霊公の母声孟子と密通し、それを国佐が問い質したことから讒言されて殺された)。

單襄公論晉周將得晉國

  • 晋の孫談の子・周(後の晋悼公)は周に来て単襄公に仕えていた。彼は立てば偏らず、視線はきょろきょろせず、耳は落ち着き、言葉は遠くまで及ばない。話す時は必ず天を敬い、心の誠を尽くし、身をもって信を示し、人を愛する仁を旨とし、利をもたらす義を重んじ、事を成す智を働かせ、節度ある勇を持ち、道理を分ける教えを行い、鬼神を敬う孝を尽くし、和睦をもたらす恵みを施し、対等の相手にも譲る、という徳を備えていた。晋に憂いがあれば必ず憂え、慶事があれば必ず喜んだ。
  • 単襄公は病に倒れた際、子の頃公に「必ず晋周を善く遇せよ、彼は晋国を得るだろう」と言い遺した。彼の行いは「文(徳の総称)」を体現しており、敬・忠・信・仁・義・智・勇・教・孝・惠・讓の十一の徳目はすべて「文」の異なる現れであり、晋周はこれらすべてを備えている、と説く。
  • 天には六気、地には五行があり、これを経緯として万物の調和が成り立つ。かつて文王は質朴と文徳を兼ね備えていたからこそ天下を得た。晋周にもこの徳が備わっており、しかも彼の昭穆(世代の位置)は晋の宗室に近い。立ち姿・視線・聴き方・言葉の慎み深さは、それぞれ徳の道・信・終わり・守りを表しており、これらが揃えば善き徳が明らかになる、と述べる。
  • さらに晋の成公(黑臀)が周から晋に帰った際の占い「乾の否に遇う」の卦を引き、「配偶しても終わりを全うできず、君主が周から三度出る」という卦辞、そして成公誕生時の母の夢(神が墨で臀を印し「晋を治めるのは三代を経て驩(襄公)の孫に至る」との予言)を紹介し、成公・その後継者を経て、まさに晋周(襄公の孫)がこの予言に当たると論じる。武王が殷を討った際も、夢と占いと瑞祥の三つが一致して成功したように、晋周についても徳・夢・卦の三つが一致しており、必ず国を得るだろう、と結論する。晋は近年無道が続き公族の後継も少なくなっているので、早くから晋周を善く遇するべきだ、と説いた。
  • 頃公はこれを承諾し、後に晋の厲公が殺される内乱の際、晋周(周子)を晋に迎えて立てた。これが晋の悼公である。

太子晉諫靈王壅穀水

  • 靈王二十二年、穀水と洛水が氾濫してぶつかり合い、王宮を壊しかねない勢いとなった。王は穀水を堰き止めようとしたが、太子晉(後に早世し即位しなかった)が諫めて言う。
  • 古の民の長たる者は、山を崩さず、沢を高くせず、川を塞がず、沢地を決壊させなかった。これらは天の性を損なうことになるからである。山は土の集まり、沢は万物の帰する所、川は気の通り道、沢は水の集まる所であり、天地が高い所に物を集め低い所に物を配することで、気の滞りも散逸もなく、民は財用を得て死後は葬られる場所を持ち、天変地異や飢寒の憂いもなくなる、という道理を説く。
  • かつて共工がこの道理を捨て、遊興に耽り百川を塞ごうとして天下を害し、ついに滅んだ。その後、鮌(禹の父)も共工の過ちを受け継ぎ洪水を鎮められず、堯によって羽山で誅殺された。禹はこれを教訓に、天地の理に従い、山を高くし沢を整え、川を通し、九州の山川沢藪を秩序立てて治め、天も地も陰陽の乱れがなくなり、万物が調和した。禹とその功臣四嶽(共工の子孫でありながら禹を助けた)は、その功績によって「姒」「有夏」、そして「姜」「有呂」の姓氏を与えられた。
  • 禹や四嶽は、実は滅んだ王(鮌・共工)の子孫でありながら、善行によって新たな名誉を得た。逆に、嘉功を失えば、姓氏も滅び、後継も絶える。これは黄帝・炎帝の子孫であっても、天地の理に従わなければ滅び、忠信の心があれば栄えるという普遍の法則であることを示す。
  • 今、王が穀水・洛水の神々の働きを乱し、川を争わせて王宮を脅かす事態を放置し、あるいはこれを飾り立てて塞ごうとするのは、この理に反するのではないか、と太子は問う。
  • 「乱れた人の門をくぐるな」「料理を手伝う者はその味を味わい、争いを手伝う者は傷を負う」という諺、また『詩経』桑柔篇の「乱は絶えず、滅びぬ国はない」「民は貪って禍乱を好み、苦しみを招く」という句を引き、禍を見ても恐れず、かえって取り繕えば、禍は必ず表面化すると警告する。厲王・宣王・幽王・平王と続いた四代の失政による天の禍がいまだ止んでいないのに、これに輪をかければ、王室はますます衰えるだろう、と諫める。
  • 后稷以来、十五代を経て文王がようやく民を安んじ、十八代を経て康王がようやく国を安定させた。それほど困難な道のりであったのに、厲王が制度を改めてから今の靈王まで既に十四代を経ている。徳を積んで国を安んじるには十五代を要するのに、禍を積めば十五代ももたないかもしれない。黎・苗・夏・商末期の滅亡の例(天地を敬わず、民を和せず、四時に順わず、神を敬わず、五則を捨てたために宗廟を滅ぼされた)を鑑とすべきだ、と太子は説く。
  • 高貴な身分に生まれても畎畝(田野)に落ちぶれる者もいれば、逆に畎畝から社稷(高位)に昇る者もある。それはひとえに行い次第である。『詩経』の「殷の鑑遠からず、夏后の世にあり」の句も引き、王宮を飾ることは天神・地の理・民の道・時の動き・古の教え・詩書の教訓のいずれにも合致しない、亡国の王のなすことである、と結論する。
  • 事の大小にかかわらず天象・詩書の教えに従わなければ、天の罰・地の利・民の則・時の動きのいずれにも背き、必ず節度を失う。それは害を招く道である、と太子は最後に諫めたが、王はついに穀水を塞いだ。景王(靈王の子、太子晉の弟)の代になると寵臣(子朝やその臣賓孟)が現れ、王室の混乱が始まった。定王(正しくは貞王)の代には王室はますます衰えた。

晉羊舌肸聘周論單靖公敬儉讓咨

  • 晋の羊舌肸(叔向)が周に聘問し、周の大夫たちと単靖公(単襄公の孫、頃公の子)に礼幣を配った。靖公は倹しくも敬意ある饗応をし、贈答の礼は自分の地位に応じた程度にとどめ、送別も私的な贈物なしに郊外まででとどめ、宴では『詩経』周頌「昊天有成命」を語り合った。
  • 単氏の家老が叔向を見送った際、叔向は「不思議なことだ。『一つの家系は二度栄えない』というが、周はまた興るかもしれない。それは単子(靖公)がいるからだ」と語る。史佚の言葉「動くには敬にまさるものはなく、居るには倹にまさるものはなく、徳には譲にまさるものはなく、事には咨にまさるものはない」を引き、単子の贈答にはこれらすべてが備わっていると評する。
  • 宮室が高くなく、器に飾りがなく(倹)、身を慎み事を整え、外も内もきちんとしており(敬)、宴の贈答が自分の立場を超えず(譲)、賓客への礼が上に倣って行われる(咨)。これに加えて偏りのない公平さと、他の賓客と違って雑事に紛れない配慮があり、これでは怨みを買うことがない。倹・敬・譲・咨を備えて怨みを避けられる者は、卿佐として必ず興隆するだろう、と述べる。
  • 「昊天有成命」の詩は、成王が文王・武王の受命の功を成し遂げたことを讃える詩で、「昊天は成った命を持ち、文王・武王がこれを受け、成王は安んじることを敢えてしなかった」との句から始まる。二后(文武)は天命を受けても、それを自分の功と誇らず、常に百姓を敬う姿勢を持ち続けた。詩の始めは謙譲と敬い、中ほどは恭・倹・信・寛の実践、終わりは心を厚く広げて和を固めることを詠じており、この「始・中・終」の一貫性が「成」(成し遂げる)という語の意味である、と叔向は詩を解釈する。
  • 単子の倹・敬・譲・咨は、まさにこの「成徳」に応じるものであり、単氏がもし今すぐ興らずとも、その子孫は必ず繁栄し、後世まで名声を残すだろう、と結ぶ。『詩経』大雅「既醉」の「その類(一族)は何か、家をよく治めることだ。君子は万年、永く子孫に福を賜る」との句も引き、類(一族への配慮)・壼(民を広く豊かにすること)・万年(名声が忘れられぬこと)・胤(子孫の繁栄)のすべてが単子の徳に当てはまり、単氏の家系は必ずこの君主(靖公)の子孫が受け継ぐだろう、と予言した。

單穆公諫景王鑄大錢

  • 景王二十一年、王は大銭を鋳造しようとした。単穆公(靖公の曾孫)が諫める。
  • 古は天災が起きた際、財貨の軽重を測って民を救済した。民が軽い貨幣(価値が低すぎる)に困れば重い貨幣を作って流通させ(母が子を制する)、逆に重い貨幣に耐えられなければ軽い貨幣を作って併用した(子が母を制する)。いずれにせよ軽重の貨幣が互いに融通しあうことで民の利益になった。
  • 今、王は軽い貨幣を廃して重い貨幣のみを作ろうとしているが、これでは民の財源が絶たれる。財が乏しくなれば王の費用も不足し、そうなれば民からの過重な取り立てに走らざるを得ず、民は離反するだろう。備えは事が起こる前にすべきであり、事が起きてから初めて対処するのとは別のことである。備えられるのに備えないのを怠りといい、後にすべきことを先んじて行うのを「災いを招く」という。民がまだ軽貨に困っていないのに重貨を作るのは、まさに災いを自ら招くことになる、と説く。
  • 周はもとより弱っている国であり、天の禍もまだ止んでいないのに、民を離反させ災いを助長するのは避けるべきではないか。君主が善政という経糸を、臣下がそれを完成させる緯糸を担うことで国の秩序が保たれる。国に経(善政)がなければ命令は行われず、命令が行われなければ君主の患いとなる、と単穆公は述べる。
  • 『夏書』の逸文「関所の税と量目とを調和させれば、王の府庫は自然と満ちる」、また『詩経』大雅「旱麓」の「旱山の麓に榛や楛が茂り盛んなように、麗しい君子は安らかに禄を求める」という句を引き、山林・沢藪が豊かであれば民は安んじて禄を求めるが、逆に山林が枯れ、民力が尽き、田畑が荒れれば、君子でさえ安らかさを得られない、と説く。
  • 民の財を絶って王の府庫を満たすのは、川の水源を塞いで水たまりを作るようなもので、すぐに涸れてしまう。民が離反し財が窮乏すれば、災害への備えもできなくなる。周の官職にはもともと災害への備えが不十分な点が多いのに、さらに民の財源を奪って災いを増やすのは、いわば善政の蓄えを捨てて民を見捨てることに等しい、と単穆公は結んだ。
  • 王は聞き入れず、大銭を鋳造した。

單穆公諫景王鑄大鐘

  • 景王二十三年、王は「無射」という鐘を鋳造し、さらにこれを覆う「大林」を作ろうとした。単穆公が諫める。
  • 重い貨幣で民の財源を絶ったうえに、さらに大鐘を鋳造して財の再生を妨げれば、民の生活の基盤が失われる。鐘は本来、耳に届く音を奏でるためのものだが、無射に大林を重ねれば、細い音(無射)が大きい音(大林)に埋もれて耳に届かなくなる。耳に届かない音は、もはや鐘の音とは言えない。
  • 人の目や耳には自ずと限界があり、見える範囲・区別できる色・聞き分けられる清濁にはそれぞれ節度がある。それゆえ先王は鐘の大きさや重さに一定の基準を設け、そこから律・度・量・衡の制度が生まれた。今、王が作ろうとしている鐘は、聞いても清濁の区別がつかず、基準の枠を超えており、和を知ることも制度の規範とすることもできない。無益なだけでなく民の財を損なうものである、と説く。
  • 音楽は耳のため、美観は目のためにあるが、聞いて驚き見て眩むようでは害の方が大きい。耳目は心の働きを引き出す窓口であり、和した音を聞き正しい色を見てこそ、聡明さが保たれ、言葉が聞き入れられ徳が明らかになる。乱れた音や色は、狂った言葉・惑わされた判断・軽々しい号令・度を過ぎた政治を生む。これらはすべて気の乱れから生じるものであり、今まさに王室に見られる混乱(子朝・賓孟への寵愛、嫡子の廃立、大臣の殺害)と重なる。三年のうちに大銭と大鐘という、民を離反させる二つの企てが行われれば、国は危うい、と警告した。
  • 王は聞き入れず、楽官の伶州鳩に意見を求めた。伶州鳩は「私の職掌ではお答えできませんが」と前置きしつつ、琴瑟は宮音を、鐘は羽音を、磬は角音を尚ぶという楽器ごとの音の使い分けの原則、大きい楽器は細い音を、小さい楽器は大きい音を尚ぶという調和の理を説き、政治は音楽に似て、和は平(大小の音が互いに侵さないこと)から生まれると述べる。声と律が調和し、金石・絃管・詩歌がこれを助け発揚してこそ、四方の風が調い、陰陽の気が滞らず、民は豊かに和合する。今、無射が大林に覆われて正しい音が乱され、財も浪費され、これは楽官の管掌にふさわしからぬ事態である、と述べた。
  • 王は聞き入れず、大鐘を鋳造した。二十四年、鐘が完成し、伶人は「調和が取れました」と報告したが、伶州鳩は「まだ分かりません」と答えた。理由を問われ、「上が楽器を作れば民がそれを楽しんでこそ調和したと言えるが、今は財が失われ民が疲弊し、皆が怨んでいる。これでは調和しているとは思えません」と答えた。「衆心が一つになれば城のように固く、衆口の非難は金属をも溶かす」という諺を引き、三年のうちに民を害する二つの事業(大銭と大鐘)が行われた、そのどちらかは必ず廃されるだろう、と述べた。王は「お前は年老いて耄碌したのか」と一蹴した。景王二十五年、王は崩じ、鐘の音の不調和は結局改まらなかった。

景王問鍾律於伶州鳩

  • 王が無射の鐘を鋳造するにあたり、伶州鳩に音律について尋ねた。州鳩は答える。律とは音の基準を立て度を定めるものであり、古の神瞽(楽の始祖とされる盲目の楽師)は中正な音を測って楽を制した。律を度り鐘を調えることで、百官の規範も定まる。
  • 音楽の理は「三(天・地・人)」に基づいて紀られ、「六(六律)」で調和が図られ、「十二(六律・六呂)」で完成する。これは天の道理に基づくもので、六は天地の中の数である。黄鍾(十一月)を筆頭に、太蔟(正月)・姑洗(三月)・蕤賓(五月)・夷則(七月)・無射(九月)の六律と、林鍾(六月)・南呂(八月)・應鍾(十月)・大呂(十二月)・夾鍾(二月)・仲呂(四月)の六呂が交互に配され、それぞれの月の陰陽の消長に応じた役割(陽気を発する、神人を安んじる、民の疑いを解く、哲人の徳を示す等)を持つ、と詳細に説明する。
  • 律呂が乱れなければ、神も物も害されることがない。音の調和においては、細い音(角・徴・羽)には大きな鐘だけで小さな鐘を用いず、大きい音(宮・商)には小さな鐘だけで大きな鐘を用いず、両方が同じ大きさの音の場合はさらに細い音のみを響かせる、というように大小のバランスを取ることで初めて調和が生まれ、その調和が久しく保たれることで安定し、安定してこそ純粋になり、純粋であればこそ物事は成就する、と州鳩は音楽の道理を政治の理に重ねて説いた。
  • 王が「七律とは何か」と問うと、州鳩は武王の殷討伐の際の天文(歳星・月・日・辰・星の位置)が周の分野やその祖先(后稷、姜姓の先祖伯陵)の由来と重なり合ったことを詳しく述べ、この五つの天象と三つの由緒が「鶉火より天駟まで七宿」を成し、南北の度数も「七」で揃っていたことから、人と神の調和を「七」の数と音律で表現し、これが「七律」となった、と説明する。
  • 出陣に際して雨が降ったこと、夷則の上宮を用いて陣を整えたこと(これを「羽」と名付け、民を守る意を込めた)、黄鍾の下宮を用いて牧野に布陣したこと(これを「厲」と名付け、六軍を励ます意を込めた)、太蔟の下宮を用いて商都で徳を布告したこと(これを「宣」と名付け、三王の徳を宣べる意を込めた)、無射の上宮を用いて嬴内で恩赦を布いたこと(これを「嬴亂」=乱を治めるの意と名付けた)など、武王の各段階の行動にそれぞれ相応しい律と楽名が配されていたことを述べた。

賓孟見雄雞自斷其尾

  • 景王はすでに下門子(王子猛の傅)を殺していた(王子朝を立てようとする布石)。賓孟(王子朝の傅)が郊外で雄鶏が自らその尾を噛み切るのを見て、従者に理由を尋ねると「犠牲にされることを恐れているのです、純美な鶏は祭祀の犠牲に用いられるため」と答えた。
  • 賓孟は急いで王のもとへ戻り、「雄鶏は犠牲にされるのを恐れて自ら尾を断つ、これはまことに動物の道理だと思いました。人の犠牲は本当に苦しいことでしょうが、自分(王子朝)自身が犠牲となるなら何の害がありましょう。鶏は人に使われるのを嫌って尾を断つが、人は違う。人の美点は人の上に立ち宗廟に仕えることにこそある。人が『犠牲』となるとは、まさに人を治める者となることを意味するのです」と、王子朝を立てるよう暗に促した。王は返答しなかった(大臣たちを憚ってのことだった)。
  • 王は鞏で狩りを行い、公卿を皆従わせて単子(単穆公)を殺そうとしたが、果たせぬまま崩じた。

劉文公與萇弘欲城周

  • 敬王十年、劉文公(王卿士)と萇弘(周の大夫)は成周に城壁を築こうとし、そのために晋に協力を求めた。かつて王子朝の乱により敬王は成周に難を避け、乱の残党が王城に残っていたため、晋が諸侯に周の守備を命じていたが、その負担が重かったことから、萇弘は成周の城壁を整備しようと考えたのである。晋の正卿魏獻子はこれに賛同し、諸侯を集めようとした。
  • 衞の彪傒がこれを聞き、単穆公に「萇・劉の二人は天寿を全うできないだろう」と告げる。周の詩に「天が支えるものは崩れず、天が崩すものは支えられない」とあり、これは武王が殷に勝った折の飫(宴礼)の歌で、後世への戒めとして残されたものである。今、萇・劉が天の崩そうとするもの(衰えゆく周室)を支えようとするのは、無理な試みではないか、と評する。
  • 幽王以来、天は周から明知を奪い、迷乱させて徳を失わせ続けてきた。その衰えは長く、今さら補おうとしても手遅れである。水火の害でさえ救い難いのに、まして天の定めた衰運をどうして覆せようか。「善に従うのは登るように難しく、悪に従うのは崩れるように易い」という諺も引き、夏の孔甲の乱から四世で滅び、殷は契(玄王)の勤めから十四世で興ったが帝甲の乱から七世で滅び、周は后稷の勤めから十五世で興ったが幽王の乱から数えて今や十四世に至っている、と歴代の興亡の周期を挙げる。
  • 周はもと高山・広川・大藪のように豊かな徳の土壌を持ち、良い人材を育んできたが、幽王がこれを荒れ地や溝に変えてしまった。その荒廃を今さら止められるだろうか、と彪傒は疑問を呈した。
  • 単子が「萇と劉、どちらの咎が重いか」と問うと、彪傒は「萇叔(萇弘)の方が速やかに禍を受けるだろう。天道をもって人事を補おうとしているからだ。天道は可能なことを導き、不可能なことは省くものだが、萇叔はこれに反して劉子を惑わせている。これは天に背き、道に反し、人を惑わすという三つの過ちであり、周に咎がなくとも萇叔は必ず処刑され、晋の魏子(魏獻子)にも累が及ぶだろう。もし天の福を得られたとしても、それは萇叔自身の代にとどまるだろう。しかし劉氏については、その子孫にまで禍が及ぶに違いない。常法を捨てて私欲に従い、姑息な策略で天災を助長し、百姓を疲弊させて自らの功名を求める、その報いは大きいだろう」と答えた。
  • その年、魏獻子は諸侯の大夫を狄泉に集め、火を用いた狩りを行った際、火事で死んだ。後に范氏・中行氏の乱に萇弘が与したため、晋人はこれを咎め、二十八年、萇弘は殺された(劉氏と范氏は代々姻戚関係にあり、萇弘は劉文公に仕えていたため范氏側についていた)。定王(正しくは貞王)の代に至り、劉氏は滅んだ。