契丹國志卷二十七 帝紀 世宗皇帝
世宗(諱阮、契丹名兀欲、太祖の孫、東丹王突欲の子)。太宗の崩御後、恆州で擁立され述律太后の抵抗を退けて即位、天禄と改元。酒色に溺れ諸部の離反を招き、應曆元年に燕王述軋の乱で弑された。在位五年、廟号世宗。
出自と即位の経緯
- 世宗は諱を阮、契丹名を兀欲といい、太祖の孫で、東丹王突欲の子である。東丹王が後唐に帰順したのち、滑州で没した。太宗が南下して大梁に入った際、兀欲は駕に従って出征し、そのまま父の遺骸を捜し求めていた。折しも太宗は会同十一年四月に北帰する途上、欒城で崩じた。燕王趙延壽は、太宗が「中国の代主とする」との約束を違えたことを恨んでおり、その日のうちに兵を率いて恆州に入った。
- 世宗は兵を率いてそれに続いて入城し、遼の諸将は密かに協議して世宗を主に擁立し、世宗は鼓角楼に登って叔父・兄にあたる者たちの拝礼を受けた。ところが趙延壽はそれを知らず、自ら太宗の遺詔を受けたと称して南朝の軍国事務を代行すると宣言し、各道に布告を発した。供給の扱いは世宗も諸将と同等とされたため、世宗はこれを恨んだ。鎮州の諸門の鍵や倉庫の出納は、すべて世宗が自ら掌握した。
- ある者が延壽に「遼の大人たちが数日にわたり密談している、必ず変事があるでしょう。今、漢兵は一万人を下らない、先手を打つべきです」と勧めたが、延壽は決断できず、来月朔日に待賢館で受賀の儀を行うと命令を下した。しかし大臣の李崧らは遼帝側の意図が測りがたいとして、これを止めさせた。
会同十一年(947年)
- 夏五月、世宗は趙延壽・張礪・李崧・馮道を館に召して酒を飲んだ。世宗の妻はふだん延壽を兄のように扱っていたが、酒がまわったところで世宗はさりげなく延壽に「妹が上国から来ている、会いたくないか」と言い、延壽は共に中へ入った。しばらくして世宗が出てきて座り、笑いながら張礪らに「燕王は謀反した、すでに捕らえて鎖につないだ。諸君はもう心配無用だ」と言った。さらに「先帝は汴州で私に算籌一本を与え、南朝の軍国事務を任せると約束された。昨日崩ずる際にも他の遺詔はなかった、燕王がどうして勝手に即位できようか」と述べた。
- ある日、世宗は待賢館に至り、蕃・漢の官の拝賀を受け、笑って張礪らに「燕王がもし本当にここで即位していれば、私は鉄騎で包囲していただろう、諸公も無事では済まなかったはずだ」と言った。数日後、世宗は蕃・漢の諸臣を府署に集め、太宗の遺制を宣した。「永康王(世宗)は大聖皇帝の嫡孫、人皇王(突欲)の長子であり、太后も鍾愛し衆望も帰するところである。中京において皇帝の位に即くがよい」という内容であった。そこで挙哀・成服の礼が行われた。まもなく吉服に改めて群臣の朝賀を受け、以後は喪礼を行わず、宮中では歌舞の声が絶えなかった。この年はなお「会同」の年号を用いた。
- 世宗は、太宗にはなお国内に子があるにもかかわらず自分は甥の身で位を継ぎ、しかも述律太后の命を得ていなかったため、内心不安であった。
- そもそも太祖が夫餘城で崩じたときには、述律太后が酋長や諸将数百人を殺していた。今回太宗も境外で崩じたため、酋長・諸将は死を恐れて世宗を擁立しようと謀り、軍を率いて北へ帰ろうとした。麻荅を中京留守とし、もとの武州刺史高奉明を安国節度使とした。晋の文武官や兵卒はすべて留め置き、ただ翰林学士の徐台符・李澣および後宮の宦者・教坊の者だけを連れて随った。
- 述律太后は世宗の即位を聞いて怒り、「わが子(太宗)は南征北討して大功業を立てた。私のそばにいた子の血筋の者こそ立つべきだ。お前の父(突欲)は私を捨てて外国に走った大逆の人間である、その逆賊の子を帝に立ててよいものか」と述べ、兵を発して抵抗した。世宗は偉王を先鋒として遣わし、両軍は石橋で遭遇した。太后は李彥韜を排陣使としたが、彥韜は偉王に迎え降ってしまい、太后軍は敗れた。世宗は太后を太祖の墓の傍らに幽閉し、自ら「天授皇帝」と称し、高勳を樞密使とした。
- 世宗は中華の風俗を慕い後晋の旧臣を多く用いたが、酒色に溺れ諸宰執を侮ったため、国人は心服せず諸部はしばしば叛いた。世宗は兵を興してこれを追討し続けたため、数年にわたり南征する余裕がなかった。
- これより先、述律太后は後晋の主・晋侯(石重貴)とその后を懷密州に遷していた。黄龍府の西北一千五百里の地である。太后が世宗に囚われたのは、遼陽まで二百里の地点に至った時のことで、晋侯と后は再び遼陽に戻ることができ、いくらかの供給を得た。
- 蕭翰は遼の意向を偽って、後唐の許王李從益に南朝の軍国事務を執らせようとし、恆州へ呼び寄せた。当時許王と王淑妃はともに徽陵の下宮に匿われていたが、やむを得ず出てきたところ、蕭翰は許王を帝に立て、諸酋長を率いて拝礼させた。王淑妃は泣いて「私たち母子はこのように弱い身であるのに、皆さまに推し立てられるとは、我が家に禍をもたらすことになります。どうか皆さまは早く新しい主を迎え、ご自身の幸いを求めてください。私たち母子のことはお気になさらずに」と言い、衆はその言葉に心を動かされた。許王は使者を遣わして表を奉じ臣を称し、北漢主(後漢の高祖)劉知遠を迎え、自らは私邸に退いた。
- 劉知遠が洛陽に入ると、汴州の百官は表を奉じて迎え、遼から任命を受けた者は疑心を抱かなくてよいと諭し、任命の告牒を集めて焼き捨てさせた。鄭州防禦使郭從義に命じて先に大梁に入り宮中を整えさせ、密かに許王と王淑妃を殺させた。淑妃は死に臨んで「我が子に何の罪があって死なねばならないのか。せめて生かしておいて、毎年寒食の日に一杯の麦飯を明宗の陵に注がせてくれればよかったものを」と言い、聞く者は涙した。
- 劉知遠は大梁に至り、後晋の各藩鎮が相次いで降った。汴州を東京とし、国号を「漢」と改めたが、なお「天福」の年号を用い、「私はいまだ後晋を忘れるに忍びない」と言った。
- 翌年、遼国は「天禄」と改元した。
天禄元年(947年)
- 春正月、漢主劉知遠は名を暠と改めた。
- 蘇逢吉・楊邠・史弘肇・郭威を召して顧命を受けさせ、「承祐はまだ幼い、後事は卿らに託す」と言い、また「杜重威を厳しく警戒せよ」と言った。この日に崩じた。逢吉らは秘して喪を発さず、詔を下して「重威父子は、朕の軽い病に乗じて誹謗を広め人心を動揺させた、皆斬れ」と称した。その屍は市で磔にされ、市の人々が争ってその肉を食らった。
- 二月、漢主の第二子で周王の劉承祐が即位した。時に十八歳であった。
- はじめ遼帝が北帰する途中、定州で孫方簡を大同節度使とした。方簡はこれを恨んで受命せず、その党三千人を率いて狼山の古い砦を守り、遼軍はこれを攻めても落とせなかった。まもなく方簡は使者を遣わして漢に降り、漢主は旧官に復してこれに遼への防備を任せた。その頃、麻荅らは定州で焼き討ちを行い、住民を追い立てて城を捨て北へ去らせた。方簡は狼山から数百の部衆を率いて還り、定州を再び占拠した。かくして後晋末に遼に陥った州県は、みな漢の所有に復した。麻荅は帰国後、遼帝から城を失った責を問われ、麻荅は服さず「朝廷が漢人官吏を徴用したから乱が起きたのだ」と言った。帝はこれを鴆殺した。
- 夏四月、遼帝は遼陽に至った。晋侯は白衣・紗帽の姿で太后・皇后とともに帳中に謁見に来たが、帝は晋侯に常服で会うよう命じた。晋侯は地に伏して涙を流し、自ら過ちを陳べた。帝は人を遣って晋侯を立たせ、同座させて酒を飲み楽を奏させた。帳下の伶人や従者たちは旧主を望み見て皆涙を流し悲しみに耐えられず、争って衣服や薬を贈った。
- 五月、帝は陘へ上り、晋侯に従っていた宦者十五人・東西班十五人および皇子延煦を連れ去った。
- 帝には妻の兄禪奴利がおり、晋侯に未婚の娘がいると聞いて求婚したが、晋侯は幼いことを理由に断った。数日後、帝は騎兵を遣わしてその娘を連れ去り、禪奴利に賜った。
- 六月朔、日食があった。
- 陘は北方の地で、格別に涼しく、北方の人々は常に五月に陘へ上って避暑し、八月に下る。八月になり帝は陘を下った。太后は自ら馬を馳せて霸州に至り帝に謁し、漢兒城のそばに土地を賜って耕作・牧畜を営みたいと願い出て、許された。帝は太后が自分に従っていたので、十数日行を共にした後、延煦とともに遼陽へ帰らせた。
天禄二年(948年)
- 春二月、晋侯・太后を建州に遷した。途中で安太妃が没し、晋侯に「私の骨を焼いて灰とし、南へ向けて撒いてほしい。魂魄がそれで中原へ帰れるかもしれない」と遺言した。遼陽から東南へ千二百里を行って建州に至り、節度使趙延暉は自らの正寝を避けてそこに晋侯を館させた。建州から数十里離れた所に五十余頃の土地を得て、晋侯は従者に耕作させ食を賄った。まもなく、太宗の子・述律王が騎兵を遣わして晋侯の寵姫の趙氏・聶氏を連れ去った。
- 夏四月、太白星が昼に見えた。
- 六月朔、日食があった。
- 冬十月、遼は河北を攻め、漢は郭威を遣わして諸将を督しこれを防がせた。
天禄三年(949年)
- 秋八月、亡き後晋の李太后は病んでいたが医薬もなく、常に天を仰いで泣き号び、杜重威・李守貞を指して罵り「私が死んでもお前たちを許さない」と言った。病が重くなると晋侯に「私が死んだら骨を焼いて范陽の仏寺に送ってほしい、異域の鬼にはなりたくない」と言い、この月に没した。周の顕德年間、遼から来た中国の人によれば、晋主(石重貴)とその皇后・諸子はまだ無事であったが、随行の者で死んだり逃げ帰ったりした者は既に半数を超えていたという。
- 十一月朔、日食があった。
- 漢の郭威が反乱を起こし、隠帝(劉承祐)は逃げ出した。趙村に至ったとき追手が迫り、隠帝は馬を下りて民家に隠れたが、郭允明に殺された。時は冬十一月であった。
- 郭威らは百官を率いて武寧節度使劉贇を主に迎えた。
- 十二月、郭威は遼を攻めようと澶州に至り、出発しようとしたとき、数千人の将士が突然大きく騒ぎ、「天子は侍中(郭威)ご自身がなるべきだ、将士はすでに劉氏と仇敵となった、劉氏を立ててはならぬ」と言った。ある者は黄旗を裂いて郭威の身にまとわせ、皆で抱き支え万歳と叫んで彼を帝に推し立てた。郭威は太后に上表し、漢の宗廟を奉じることと、太后を母として仕えることを願い出た。また大梁の士民に安心するよう布告した。もとの主・劉贇は外館に移され、太后の詔で劉贇は湘陰公に降された。
天禄四年(950年)
- 春正月、漢の太后は詔を下し、郭威に監国の符宝を授け、皇帝の位に即かせた。国号を「周」とし、「廣順」と建元した。
- この月、宋州で漢の湘陰公劉贇が弑された。漢の高祖の弟劉崇は晉陽で帝を称し、なお「乾祐」の年号を用いた。その支配地は並・汾・忻・代・嵐・憲・隆・蔚・沁・遼・麟・石の十二州であった。
- 二月、遼帝は北漢主の即位を聞き、招討使潘聿撚を遣わして劉崇の子劉承鈞に書を送った。北漢主は承鈞に返書させ、「本朝はすでに滅び、後晋の故事にならい援助を求めたい」と述べた。遼帝は大いに喜んだ。ここに北漢主は使者を遼に遣わして援兵を乞うた。
- 夏四月、遼帝は使者を北漢に遣わし、周の使者田敏が来訪したことを告げ、毎年銭十万緡を送ることを約した。北漢主は鄭珙を遣わして厚い贈り物で遼に謝し、書を送って「姪」と自称し、冊封の礼を行うよう請うた。遼帝は大いに喜び、燕王述軋に命じて北漢主を「大漢神武皇帝」に冊封させ、また劉崇の妃を皇后とさせた。まもなく翰林学士衞融らを遼へ遣わして謝礼を述べ、あわせて援兵を求めた。
- 九月、北漢主は團柏から周を攻め、遼帝は兵を率いて合流しようとし、酋長たちと九十九泉で協議したが、諸部はみな南征を望まなかった。帝はこれを強いた。行軍が新州の火神淀に至ったとき、燕王述軋および偉王の子・太寧王漚僧らが兵を率いて乱を起こし、帝を弑し、述軋が自立した。齊王述律は南山に逃れ、諸大臣は述律を奉じて述軋・漚僧を攻め、二人とその一族を誅殺した。述律を帝に立て、「應曆」と改元した。
- 世宗は在位五年で崩じ、廟号を世宗とし、醫巫閭山に葬られた。
史論
- 前代の史家はかつて「創業は易く守成は難し」と述べたが、私は世宗のことから一層その言葉を信ずるに至った。世宗は正統の嫡嗣の地位にあり、また衆望の帰する時運に恵まれながら、兵威を収めることなく用い続け、関河一帯に兵禍の毒を流し続けた。自らは荒淫にふけっても差し支えないと思い込み、諸部の心が離れていくことに気づかず、自らの専断が必ず成功すると思い込み、内部に禍の兆しが芽生えていることにも気づかなかった。三十余年の血戦によって築かれた基業を継いだ者が、このような有様に至ったとは、守成の難しさをこれほどまでに信じさせるものはない。