契丹國志卷九 族姓原始

族姓原始

  • 契丹の部族はもともと姓氏を持たず、居住する土地の名で呼び合っていた。婚姻も地縁に縛られなかった。阿保機が家を国へと変えて以降、王族を「横帳」と称し、その居住地の名にちなんで「世里」を著姓とした。世里とは上京の東二百里にある地名である。さらに后の一族には「蕭」の姓を賜った。蕃の法では、王族は后族としか通婚できず、身分の高下は問わない。王族・后族以外の部族の者は、北主の許可なくして王族・后族の家と通婚することはできないが、それ以外の諸部族同士の婚姻にはこの制限がない。そのため北蕃の姓は耶律・蕭の二姓のみとなっている。

國土風俗

  • 契丹国は庫莫奚の東、唐でいう黒水靺鞨の地に当たる。七十二の部落があり互いに統属せず、寇盗を好んだ。父母が死んでも激しく泣くことは弱いとされ、遺体を山の樹上に置き、三年を経てから骨を収めて焼く。その際に酒を注いで「冬は日向で食べ、夏は日陰で食べさせたまえ。私が狩りをするときには猪や鹿を多く獲らせたまえ」と祝う。無礼で頑迷な風は諸夷の中でも最も甚だしく、風俗は奚・靺鞨に近い。阿保機に至り諸小国を次第に併呑し、多く漢人を用いるようになった。漢人に隷書の一部を増減させた数千の文字を作らせ、刻木による契約に代えた。婚姻の制度を定め、官の称号を置き、皇帝を称した。漢代には匈奴に破られ鮮卑山に拠っていたが、魏の青龍年間に部酋が王雄に殺され、衆は潢水の南、黄龍の北へ逃れた。北魏の頃、自ら契丹と号するようになった。唐の開元・天宝の間には二十回近く朝貢の使者を送った。慣例として范陽節度使が奚・契丹への押使を兼ねていたが、唐末に至り契丹はようやく強盛となった。

併合部落

  • 当初契丹は八部に分かれ、その中で最大の一族を大賀氏といった。のち八部に分かれ、各部の長を「大人」と呼び、常にその中の一人を王に推して旗鼓を建て八部を統べさせた。三年ごとに交代する定めで、ある部が災害や疫病で家畜が衰えれば、八部が集まって議論し旗鼓を次の者に立てて代えた。代えられた者もそれが元来の約束だとして争わなかった。阿保機の代になると「中国の主に代立の例はない」と主張し、その威勢で諸国を制し交代を拒んだ。在位九年に及ぶと諸部から責められ、やむを得ず旗鼓を譲ったが、諸部に「私は九年の間に多くの漢人を得た。別に一部を自らのために立て漢城を治めたい、よいか」と申し出て諸部は許そうとした。漢城は炭山の東南、灤河の畔にあり塩鉄の利があり、もとの後魏の滑塩県であった。この地は五穀を育てるのに適し、阿保機は漢人を率いて耕作させ、幽州の制度に倣って城郭・邑屋・市場を整え、漢人は安んじて帰ろうとしなくなった。阿保機はこの民を利用できると見て、妻の述律氏の策を用い、人を遣わして諸部の大人に「私には塩池の利がある、諸部の食料はここから出ている。だが諸部は塩を食する利を知りながら、その塩に主人がいることを知らぬのはいかがなものか。私を犒(ねぎら)うべきである」と告げさせた。諸部はもっともだとして牛と酒を持って塩池に集まったが、阿保機は伏兵を配しており酒宴が酣となったところで一斉に諸部の大人を皆殺しにし、再び一つの国へと併合した。東北の諸夷は皆これを畏れ服した。

兵馬制度

  • 晋末、契丹主直属の兵を「大帳」と呼び、皮室兵と称する精鋭の騎兵約三万人がその爪牙であった。国母(述律氏)直属の兵は「属珊」と呼ばれ二万の衆を擁した。かつて戎主阿保機の牙将は多くが老齢化しており、南征のたびに三、五千騎ほどを借り集める程度で、述律氏が数百の兵を部族の根本として常に留めていた。太子偉王・永康・南北王・于越・麻荅・五押などの大首領はそれぞれ私兵を有し、多いもので千余騎、少ないもので数百人であった。別族としては奚・霫があり、勝兵はやはり千余、人は少なく馬は多かった。また渤海の首領大舎利高模翰の兵は歩騎あわせて一万余、髪型と衣の合わせを契丹風に倣っていた。近隣の韃靼・于厥里・室韋・女真・党項なども脅されて属し、各部一千騎ほどに過ぎなかった。吐渾・沙陀の三部落と、幽州管内の雁門以北十余の軍・州の漢兵をあわせて三万余、これらは石晋が契丹に割譲した地の兵である。蕃漢諸族の兵力はおよそこの通りである。契丹が南侵する際にはその軍勢は十万を下らなかった。国主が国境に入る際は歩騎・車帳が阡陌の道筋によらず東西一斉に進んだ。大帳の前と東西面にはそれぞれ大首領三人を配し各々一万騎を率いて散開し、百里・十里離れた外側で互いに偵察させる「欄子馬」を置いた。戎主が角笛を吹いて合図すると全軍が停止し、穹廬(テント)を近くから遠くへと環状に配置する。折った木を撓めて弓形の「弓子鋪」とし、槍の柵や堀は設けない。行軍の際は太鼓三度を合図に昼夜問わず一斉に動く。大敵に遭遇するまでは戦馬に乗らず、敵が近づいて初めて馬に乗るため、新しい戦馬にも余力があった。用兵の術は、陣を敷いても戦わず退くのを待って乗じ、伏兵を多く用い糧道を断ち、夜には火を焚いて敵を欺き、風上から柴を曳いて煙を上げ、糧食は自ら携行し、敗退しても恥じず散っては再び集まり、寒さに向かってますます堅く結束することを長所とした。

建官制度

  • 他姓を賤しみ耶律・蕭の二姓を貴んだ。官制には契丹枢密院・行宮都総管司があり「北面」と呼ばれ牙帳の北にあって蕃事を司る。また漢人枢密院・中書省・行宮都総管司があり「南面」と呼ばれ牙帳の南にあって漢事を司る。惕隠は中国の宗正寺、夷離畢は参知政事、林牙は翰林学士、夷離巾は刺史に相当し、内外の官はおおむね中国に倣った。その下の佐吏には敞史・木古思奴古・都奴古・徒奴古などがある。兵馬を分掌する官には統軍・侍衛・控鶴司、南王・北王・奚王府の五帳分、提失哥東西都省太師の兵がある。さらに国舅・鈐轄・遙輦・常袞などの諸司、南北皮室、二十部族節度、頻必里・九克・漢人・渤海・女真の五節度、五冶大師の下に百・六百・九百家の奚がある。おおむね十五歳以上五十歳以下の民は皆兵籍に入れられた。出兵に際しては必ず灰牛・白馬を殺し天地・日および木葉山の神を祭る。金魚符を鋳造して兵馬を徴発し、伝令・伝命には銀牌二百枚が用いられた。軍の宿営地には遠く偵察する欄子馬を置き、夜には人馬の音を聞き取らせた。国主が即位するたびに得た人戸・馬牛・金帛や臣下から献上された生口、罪により没収された者などをまとめて別に行宮を設け治め、州県を建て官属を置いた。国主が没すると大穹廬を設け金で像を鋳造し、朔日・望日・節句・忌日ごとに祭祀を行い、一丈余りの高台を築いて盆で食物を焼く「焼飯」を行った。

宮室制度

  • 十の宮にはそれぞれ民戸を配し兵馬を出させた。阿保機の宮は洪義宮、徳光は永興宮、兀欲は積慶宮、述律は延昌宮、明記は章敏宮、突欲は長寧宮、燕燕は崇徳宮、隆緒は興聖宮、隆慶は敦睦宮、隆運は文忠王府と称した。また四楼があり、上京にあるものを西楼、木葉山を南楼、龍化州を東楼、唐州を北楼と呼んだ。冊立の儀では薪を積んでその上に登り、蕃夷を大いにその下に集め、儀式が終わると薪を焼いて天に告げるが、漢人はこれに参与できなかった。「諢子部」という百人の集団がおり、夜には五十人ずつ交代で当直し、四鼓(夜明け前)に帳の前で歌う「聒帳」という儀礼があった。木葉山に参拝するたびに柳の枝を射る儀礼を行い、諢子が蕃歌を歌いながら先導し胡琴を弾いて合わせ、儀式が終わると解散した。

衣服制度

  • 国母と蕃官はいずれも胡服を、国主と漢官は漢服を着用した。蕃官は氈冠をかぶり金の花を飾りとし、あるいは珠玉・翡翠の羽を用いた。これは漢・魏の時代の遼人の歩揺冠の名残とされる。額の後ろには金花で織った垂れ帯を垂らし、その中に髪を束ねて収めた。紫の窄袍を着て義襴を加え、黄紅色の絛で革を包んだ鞢帯を締め、金・玉・水晶・碧石で飾りをつけた。烏紗帽に似た形の紗冠もあり、鍔がなく両耳を覆わず、額前に金花を綴じ上部に紫の帯を結び、帯の端に珠を綴じる。紫皂の幅巾に紫の窄袍で帯を締める者もあり、大夫は緑の巾に緑花の窄袍を用い、中単には紅緑色が多かった。身分の高い者は貂裘を着用し、紫黒色の貂を最上とし青色を次とした。銀鼠の裘も特に白く清らかで珍重された。身分の低い者は貂毛・羊・鼠・沙狐の裘を着た。弓は皮で弦を張り、矢は樺の木を削って軸とし、鞍や靴は軽快で騎乗に便利な作りであった。貂鼠や鵝の首・鴨の頭の毛皮を腰当てに用いた。宋の真宗景徳年間、太常博士王曙・戸部員外郎李維が国主の誕生日を賀しに赴いた際、国主は漢の使者の前では無理に衣冠を整えていたが、儀式が終わると幅巾姿で蕃騎に混じって狩猟に出たと伝えられている。

漁獵時候

  • 毎年正月上旬から六十日間、狩猟に出る。その後、撻魯河で氷を割って魚を釣り、氷が解けると鷹や隼を放って鵝・雁を捕らえる。夏は炭山に居るか、山の高所に上り避暑する。七月上旬には再び山に入り鹿狩りを行い、夜半に猟師に角笛で鹿の鳴き声を真似させ、鹿が集まったところを射る。宋の真宗の代、晁迥が誕生日を賀しに赴いた際、長泊(湖沼)には野の鵝・鴨が多く、国主が狩猟をする際には帳下の騎兵を率い扁鼓を打ち鳴らして湖沼を巡り、驚いて飛び立った鵝・鴨めがけて海東青(鷹)を放ち、あるいは自ら射たと伝える。国主は金玉製の錐を帯び「殺鵝錐」「殺鴨錐」と呼んだ。獲物を得るたびにその羽を抜いて錐に挿し、太鼓を座として盛んに酒を飲み、これを最大の楽しみとした。また銅や石の槌で兎を打つことも好んだ。秋には褐色の裘を着て鹿の鳴き声を真似て鹿を呼び寄せ射た。夏には布の帳に氈を替え、草を敷いて囲碁・双六に興じたり、深い谷間で鷹を張り込ませたりした。

試士科制

  • 太祖が朔漠の地に興った当初は戦乱が続き科挙の制度はなかったが、数代を経て太平の世が長く続くと初めて科挙が開かれた。三年に一度を限りとし、郷・府・省の三段階の試験を設けた。郷での試験を郷薦、府での試験を府解、省での試験を及第と呼んだ。まだ志望していない秀才がいれば州県が必ず選び出して送った。試験の科目は詩賦・経義の二科に分かれ、それぞれに首席が出た。三年に一度の進士試験では、貢院が二寸の紙に及第者の姓名を書いて渡し、これを「喜帖」と呼んだ。翌日、これを掲げて行進し楽を奏で、門に至ると十二面の太鼓を打ち鳴らして雷鳴を象った。殿試は時期に応じて聖旨を仰ぎ、首席の者には特に一官を加え奉直大夫・翰林応奉文字を授けた。二位・三位の者は従事郎に留め、その他も皆従事郎を授けられた。聖宗の代には詞賦・法律のみで人材を選び、詞賦を正科、法律を雑科とした。任子の制(蔭位)については文武を問わず奏請することができ、蔭位にも定員があった。