西夏書事卷四十二 宋理宗(金正大八年・蒙古太宗四年) 紹定四年 1231年

王立之の隠棲

  • 夏四月、夏の旧臣王立之が申州に隠れ住んだ。もと夏の精方匭匣使であった立之は金への使者の任にあったまま夏国が滅び、金主は彼を京兆に安置し夏国降戸の管理にあたらせた。妻子が金の環州に至ると金主は金帛を賜い立之に帰した。立之は先祖の地である申州への隠退を願い出て許され、以後自ら耕作して生涯を終えた。

史論

  • 「歳寒くして松柏を知り、風疾くして勁草を知る」との古言を引き、忠義の士がいてこそ国の命脈は保たれると説く。晋・隋・唐・宋の滅亡に際しても陶潜・李君素・張承業・文天祥のような節義の士があってこそ王朝の名が残ったとし、西夏の滅亡に際しても李楨・甘卜・高智耀ら多くが蒙古に帰順する中、独り王立之のみが節を守り田を耕して生涯を終えたことを、乾順・仁孝が学問を重んじ儒を尊んだ遺風によるものと讃える。

史論(総括)

  • 西夏の建国は思恭の定難節度授与に始まり漢の隠帝から軍名を賜り、子孫は五代を通じ臣従し夏綏を百年余り保った。継捧の入朝で西平の系譜は絶えたが、継遷が窮地から旧地を回復し新たな基業を開き、徳明は表面上恭順ながら国内で帝を称するなど純臣とは言えなかった。元昊は英邁ながら逆謀を重ね、誅を免れがたい行いをしたが天寿を全うした。諒祚は弱冠から自立し、秉常は権を失いながら復した。乾順は在位最長で領土も最も広げたが宋・遼・金の三国に仕えた。仁孝は文治に優れたが武備を欠き、純祐は忠厚だが優柔で権臣・宗室に脅かされ国運は衰え始めた。安全は大逆を犯し私怨から兵を構え、遵頊はその禍を継いで民力・財力を尽くし二代にわたる窮兵の報いを受けた。徳旺は時勢に恵まれず衰運を挽回できず、晛は即位一年余りで捕らわれた。建国以来三百四十余年、詐虞を事としながらも五代・遼・金の間を生き延びたことは瞬時の栄光ではなく一国の興亡の記録として後世の鑑戒となりうると結ぶ。