西夏書事卷四十一 宋寧宗(金興定四年・蒙古太祖十五年) 嘉定十三年(夏光定十年) 1220年
対金攻勢の継続と挫折
- 春正月、再び四川に書を送り金を討つ会師を求めたが、丁焴の応答はあっても兵は出なかった。甯子寕が重ねて申し入れ、約束不履行を責めた。
- 二月、金の鎮戎軍を攻めた。金主の詰責に遵頊が不遜な返答をしたため金主が更に詞臣に牒を書かせて折檻し、遵頊は怒って数日間鎮戎軍を包囲したのち解いた。
- 三月、歳星が輿鬼に入り積尸気を犯した。
- 夏四月、金の新泉城を攻めて敗れた。遵頊は鹿児原に兵を駐めたが金の提控烏古論世顕に逐われ、さらに新泉を攻めたが都統王定に敗れた。
- 金兵が宥州に入り神堆府を囲んだ。金の慶山奴が宥州を侵し、夏の守将は敗れて神堆府に退いた。金兵が城壁に穴を穿ち攻め上がったところへ夏の援軍が至り交戦したが勝てず二千余級を斬られ、金兵は家畜三千余を奪って去った。
- 五月、四川宣撫使安丙の使者が書を送ってきた。金への挟撃を定めた内容であった。
- 秋八月、金の会州を破り将の烏古論世顕を降した。夏が万衆で会州を囲み、金の同知平涼府事郭祿大を射殺すなどして城を落とし、烏古論世顕は降伏、関右は大いに震撼した。金主は陝西行省に和議を命じたが遵頊は応じなかった。
史論
- 金がこの局面で名城を次々失いながらも和議を怠り、追い詰められてようやく修好を思い立ったことを恥辱と評す。夏が応じなかったとはいえ、たとえ応じたとしても春秋の「城下の盟」に等しいものであったろうと論じる。
定西・鞏州方面の攻防
- 定西州を包囲し節度使烏古論長寿と戦ったが勝てなかった。遵頊は三万の兵で龕谷を再び侵したが夾谷瑞に退けられ、高峰鎮から定西を囲み城を柵で環したが、長寿は屈せず戦い夏兵は退却し馬・武具を多く失った。
- 九月、西寧州を破り再び定西を囲んだ。夏兵は綏平砦・安定堡を掠め西寧に迫ったが金の援軍到着前に落とし、定西へ転じたところ烏古論長寿の伏兵に阻まれ、西寧陥落後合わせて定西を攻めたが長寿の防戦で夏兵は数千の死者を出し解いた。
- 金の鞏州を侵したが敗れ、四川の都統程信の軍と合わせて攻めたが落とせなかった。大将你思丁・兀名の献策により樞密使甯子寕・嵬名公輔が二十万で鞏州を攻めたが、金の赤盞石喜の防戦で退き、四川の程信軍とも合流して攻めたが落ちず、多数の死傷者を出して撤退した。
- 冬十月、程信が秦州への合同攻撃を約したが、夏はこれに従わなかった。
史論
- 鞏州・秦州の戦役を評し、夏の判断は巧みで宋は愚かであったと嘆く。鞏州は隴右の要衝であり、夏はこれを取っても保持できないと知りながら宋を誘って戦わせ、結果は功なく終わったことを幸いとしつつ、もし両州が陥ちていれば夏と宋の間で新たな争いが生じ西方の憂いはさらに大きかったろうと論じる。
郭祿大の死と綏德州侵攻
- 十一月、金の会州刺史郭祿大を殺し、弟の蝦蟆を逃がして帰した。祿大兄弟は捕らえられても屈せず、金へ帰参を図って自ら髭を剃り人相を変えたが露見し、祿大は殺され蝦蟆のみ逃れた。
- 十二月、金の綏德州を攻めた。大軍を拄天山に駐めたところ、金の完顏合達が来援し先鋒諸隊が山頂で合流、夏の騎兵数万と対陣したが合達の分撃で夏軍は左右とも敗れた。