西夏書事卷四十 宋寧宗(金主大安三年・蒙古太祖六年) 嘉定四年(夏皇建二年→光定元年) 1211年

対金の通常の遣使

  • 春正月、金へ正旦を賀う使者を送った。金主が貂裘等の賜物を削ったが礼臣の請いも許されなかった。

黒塔坦への服属

  • 三月、北方に黒気が現れた。
  • 夏五月、黒塔坦国が河西を攻め、これを禦いたが敗れた。安全は自ら兵を率いて戦い大敗し、公主を失い、塔坦に臣礼を取ることを願い出てようやく退かせた。国勢はこれより衰えた。

史論(史臣曰)

  • 秋七月、斉王遵頊が立ち、光定と改元した。遵頊はこの月三日に立ち、時に四十九歳、皇建二年を光定元年と改めた。史臣は、遵頊の即位が安全の死の一月前であり、安全には子承禎がいながら嗣げなかった事情について、金の衛紹王期の実録がなく詳らかにできないと述べる。

安全の死

  • 八月、安全が死んだ。享年四十二、この月五日に卒した。在位六年、改元二度、諡は敬穆皇帝、廟号は襄宗、墓号は康陵。

史論(論曰)

  • 安全は支庶の身でありながら妄りに簒奪の志を抱き君位を奪った罪は誅に値するとし、在位六年に善政の記すべきものがなく、蒙古の強さを見て娘を差し出し、金の恩義に背いて兵を加えるなど恥知らずであったが、その身一代に留まり世に伝わらなかったのも天意であろうと評する。

対金軍事

  • 遣兵で金の東勝城を犯した。遵頊が万騎を送って包囲し、金の紇石烈鶴寿の来援でようやく解けた。
  • 冬十一月、金の涇州・邠州を侵し、平涼府を包囲した。金の韓玉が援軍を率いて対峙し、遵頊は蒙古兵が金の中都に迫ったとの報を受け包囲を解いた。